卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」中国・曹操陵の発掘責任者が見解
1/3(金) 14:48配信 佐賀新聞
「三国志の英雄」として知られる曹操(155~220年)の墓「曹操高陵」を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」を、邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。佐賀新聞社の取材に応じた。
卑弥呼がもらった鏡は、邪馬台国の謎を解明する重要な鍵とされており、今回の指摘は邪馬台国論争に一石を投じそうだ。
ダンワラ古墳の鉄鏡は直径21・1センチ。鉄の鏡体の背面に金や銀を埋め込む象眼「金銀錯」が施され、朱色のうるしで彩色した珠がはめ込まれている。手足の長い龍のような怪獣が多数描かれ、銘文は「長冝■孫」(欠落部分の■は「子」と推測される)の四文字が刻んである。九州国立博物館が管理している。
潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。
===== 後略 =====
全文は下記URLで
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200103-03472520-saga-l41
>>1の続き
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200103-03472520-saga-l41
潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で
「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。
この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。
「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。
ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。
そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。
「魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。
潘氏は、九州国立博物館で開催中の特別展「三国志」のために来日し、
九州大学、東京国立博物館、九州国立博物館の研究者らとともに、
ダンワラ古墳出土鉄鏡と、曹操墓出土鉄鏡の共通点などを議論した。
二つの鉄鏡も直径が21センチと同一で、曹操墓の鉄鏡もX線調査の結果、金錯が確認できた。
研究者らは「いずれも2~3世紀の中国において『御物』など最高級に位置付けられる
貴重な鏡である」という見方で一致した。
用語解説
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)
1933(昭和8)年に鉄道の線路工事で見つかったとされ、出土状況の確実な情報はない。
考古学者の梅原末治氏が63年に発表、64年に国重文に指定された。
これ、邪馬台国は近畿にあって、海外への出先機関が北九州にあったってことじゃないの?
ヤマト=日本は当時から九州~南東北までが統治域
せめて滋賀・東海地方くらいまでみたいだよ
しかし今回の発見が邪馬台国九州説をもれだけ裏付けることになるのか
桃の種が大量に出土した所って
大分だった?
>>38
奈良の纒向遺跡だよ
バ○学者が、卑弥呼の宮殿の跡とか言ってたけど、
日本で、東向き(あるいは西向き)の家を建てるやつなんかいるのか?って話し
大国主命の御神体とされる三輪山に正対してるので、出雲族の神殿なんだけどね
ちな、箸墓古墳は、大国主命の奥さんの墓って何かに明記されてたハズ
いや、日本書紀を読めば当時は既に九州~北関東南東北あたりまで日本だろ
勝手に1つの国だと誤解したんだろ
あれ、つい最近、近畿優勢って言ってたような?
シーソーゲームやな
近畿は別政権か乗っ取られた
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。
西都原含む宮崎平野とか
大分の宇佐神宮のあたりなら違和感無いな
北九州の福岡、寒いよ。
邪馬台国もヤマトのクニだから
九州にあったヤマト政権がどう全国政権になったかは永遠の謎だろう
そうなんだよね。
邪馬台って音読みだと「ヤマト」って発音するのに、
なんで「ヤマタイ」って言うのか謎。
博多弁じゃないの?
そうですたい
ヤマトたい
邪馬台
まさか東征を知らないのか?
冊封史?は本当に倭国に来たのかな?帯方楽浪郡の役人だろうけど
本当は来てないで適当に描いたんじゃない?
魏も対立している国の手前、朝貢してくる国は大げさに描くだろうし。
真実の姿やいかに
クマソ被害者の視点でなかった?
考えにくいし(文献にあるのも格下の銅鏡)、出土したとされるダンワラ古墳は
卑弥呼の時代より数百年後のもの(6世紀頃)と推定されるから、その頃には
既に成立していた大和政権が何らかの方法で得た鉄鏡(日本に移住した曹操の
子孫の安貴公が持ってきたとか)をこの地域の豪族に下賜したものと考える方が
自然かな。
その時代には日本でも製鉄始まっていて、政権が独占する宝物としての
鉄そのものの価値は下がってるし。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が発見されたのは、昭和8年(1933)のことだ。
北部九州を東西に横断する久大本線建設工事の最中、ダンワラ古墳の
封土の中から数点の遺物が出現したのであった。土地の所有者がこの中の
鉄のサビ固まりを近くの小学校に寄付した。
「土瓶の蓋のようににぎるところがあった」
ことから、何か参考になれば、ということだったらしい。
ところが、戦後のどさくさの中で、この鏡は行方不明となる。
ややあって、昭和35年、意外な場所で、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は「発見」される。
ひとりの京都大学の名物考古学教授U氏が、この「伝日田出土」のサビの固まりを、
奈良の古物商から買い取っている。中国の鉄鏡特有の象嵌に目を止めたのだった。
昭和37年、くだんの教授が天理大学に依頼し、研ぎだしてみると、後漢鏡であること、
鋳鉄製で、直径21.3cm、厚さ2.53mm、鏡の裏側には八匹の龍が金と銀で描かれ、
目の部分には緑色の石英がちりばめられるという至宝であった。
だが、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は不運な鏡だった。
考古学者が土中から掘り起こしたわけではなく、まして一度古物商に渡り、「伝日田出土」
と記されていたにしても、それを証明する科学的材料がそろっていなかった。
唯一の証拠は、古物商でU教授が鏡を発見したとき、石灰が付着していたこと。
鏡を譲り受けた学校では、鉄鏡を腐食防止の目的で石灰に入れていたという事実である。
つづく
>>35のつづき
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の悲劇は、二世紀、あるいは三世紀という「邪馬台国の時代」の
遺跡から出土したわけではない、というところにもある。
鏡は持ち歩くことが可能で、また、意味のある宝物ならば、首長から首長の手に引き継
がれることも考えられる。いわゆる「伝世」していくものであり、実際金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
の場合、遺跡の年代は五世紀から七世紀という幅がある。
(じつをいうと、鏡は、例の鉄道工事で取り除かれた封土から出土したのではなく、封土を
取り除いた奥の横穴墓から出土したのではないかと考えれられてもいるからだ)。
つまり、三世紀に日本にもたらされていたとしても、それ以後人びとの手を転々と渡り歩き、
五世紀から七世紀の間に日田の有力者の手に渡り、副葬されたことも十分考えられるわけ
である。
つづく
単に魏志倭人伝の記述と時代が同じなだけで、単なる願望的なものだった、ということになるね。
無論、当時の機内の有力国、有力者ではあったろうし、大和政権の前身であった可能性もあったろうけど
ま、確定的な証拠は何一つなかったんだから仕方がないが、何というのか、歴史学者や考古学者ってのは
願望によらず、もっと確定的な証拠があった場合にだけ、こうである、と言うべきだと思うね
これでは通説とされてる説でも、確定的な証拠がない、或いはどうとでも取れるものは、かなりが怪しいと言わざるを得ないね
韓国の対岸、ソウルに降り立った朝鮮人が神とされた
そしてそれはヒミコ
まぁ、倭国大乱で邪馬台(奈良)に移る前は大分・・・というより
伊都(今の福岡県糸島市)が倭国の中心だったんだろ?
その後も一大卒(後の大宰府)が置かれてたし、卑弥呼の時代以降もずっと
外交の中心と言うのは変わらなかったんだろ
倭人伝通りなら九州中部または南部だよ
整備されたフラットな道路が張り巡らされた現代と違うんだから陸路で一月ってそんな遠くまで行けない
>>104
国内のどこに行くのも一月も掛からないよwまぁ一日の誤記だろうね
当時、重要な航路だった瀬戸内海を伝って大阪平野に上陸、
陸路一日で大和にいけるからな
「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、
「棺あって槨なし。」
と、明記しているのだ。木槨のなかに木棺があったのでは、「魏志倭人伝」の記述に合っていない。
「三国志」の著者は、葬式には、関心をもっていた。 たとえば、
「韓伝」「夫余伝」では、それぞれ、「槨あって棺なし」、
「高句麗伝」では、「石を積みて封となす」、
「東沃沮伝」では、「大木の槨を作る、長さ十余丈」
などと、いちいち書きわけている。
畿内の「木槨木棺墓」も「竪穴式石室墓」も、「棺あって槨なし」にあわない。
邪馬台国が、かりに大和にあったとすれば、魏の使は、それらの葬式を見ききせずに記したのであろうか。
>>63
そもそも魏の使者は大和まで行ってないよ。九州北部に留まって口伝により各地の風習を収集した。
ポイントはいつ伊都国からヤマトに政権が移ったのか、それだけだ
魏志倭人伝の記載がある頃には伊都は「一大卒がある重要な地域」でしかなくなっている
あとはその半世紀以上前、2世紀後半に九州北部~瀬戸内海沿岸で
多くの戦闘痕が多く残されていることな。
ちなみに同時期の吉野ヶ里遺跡では大量虐○を受けた人骨が大量に発掘されている
コレはなにを意味すると思う?
>>67
それ、日本古代史でもっとも重要なポイント
高地性集落遺跡については、倭国大乱の時期とほぼ同じ時期(弥生後期の第二期)のものが顕著な形で
近畿地方に残っており、これは神武の近畿侵入に対応する可能性がある。
森浩一氏は、その争乱の深刻さは自身で遺跡を踏破した人しか理解できないほどで
>集落の分布状況から、弥生中期~後期にかけて、北部九州~瀬戸内沿岸~畿内の地域間で軍事衝突を伴う
>政治的紛争が絶えなかったとの推測もなされている。
>豊中市勝部遺跡の木棺から石槍が背に刺さった遺体や石鏃を数本打ち込まれたらしい遺体も発見されている。
>これらの遺体は争乱の犠牲者とみられる。
実際は100年くらいかかってる(畿内を制圧するまで)
神武もおれは、九州勢力のバガボンド(放浪者・はぐれ者)だと思ってる
『香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡』
http://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/0d4526b0139cfe8d47b520326d6862b9
>本年度の調査で、長方形で2本柱という九州地方で一般的な構造とよく似た竪穴住居跡を新たに発掘した。
>九州地方の特徴を持つ壺も出土しており、九州地方から移り住んだ人が同遺跡に住居を建て、生活していたこと
を示しているという。
@香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡
@紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡
↑直線距離で、8キロから10キロ ゲリラ戦を展開するにはいい距離じゃないか?
↑これこそ、「神武」のひとりだったかもしれない…
銅鏡でなく鉄鏡ならそう書くよなあ絶対 と思う
銅鏡百枚は同じ様式の鏡だと思うし
鉄鏡は日本じゃ作れないと思うので渡来物だろう
魏でなく呉からの鏡の可能性もある
日本で他にこの地名ないやん
>中国・曹操陵の発掘責任者が見解
逆に胡散臭いわwww
歴史学者は科学のことなどどうでも良いのか
まるで隣国の歴史教科書だな
千年以上前の現代製鉄技術もない鉄の製品が
どんな形であれ風化しないで原型がわかる程度に残っているわけ無いでしょ
高温多湿の日本で日田市などという台風直撃の山の中に・・・
常識なさすぎて怖いわ
別にどっちが正しいとかどうでも良いんだが、そこまで断定的に言うとさ、
お前の方が科学のことなどどうでも良いのか、になるんだがw化石よりはあることを絶対ないみたいに言うなよw
むしろ、お前みたいなのが考古学という学問を極めて怪しげなインチキ学問にしてるんだと思うね
中国人が書いてるからこそ信頼できるだろw
国内の権力争いや思惑から遠い場所から「東に野蛮人が住んでて大した興味もないが
皇帝の命令だから」と中国の役人が記述してるんだから。
琉球王朝が起源なの?
中国の学者は
学術的な見解を与えてくれるが
政治的に返還をもとめたりはしない
さすがどこかの国の人とは違う
引用元: http://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1578047020/
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