【戦国時代】もし大阪夏の陣で豊臣秀吉の親衛隊・七手組が出撃していれば歴史は変わっていた???
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/photos/kassenzu/oosakanatunozinfuzinnzu.jpg
上記の布陣ですが。各部隊の戦力は豊臣方
真田信繁本隊三千五百、与力二千、計五千五百。毛利勝永六千五百。
大野治房四千六百。速水守久隷下七手組一万四千六百。
徳川方
松平忠輝九千、松平忠直1万五千、井伊直孝三千。藤堂高虎四千五百、
本多忠朝五千五百、榊原康勝五千四百、酒井家次五千三百、
前田利常以下二万。徳川家康一万五千、徳川秀忠二万三千、徳川義直一万五千。
史実に沿った戦闘経過。
天王寺口では五月七日正午毛利勝永隊と本多忠朝隊と戦闘、毛利隊は本多隊撃破、
ついで第二陣榊原康勝隊、第三陣酒井家次隊をも撃破、家康本陣に突入。
真田信繁隊は松平忠直隊と激戦の末これを突破、家康本陣に突入。
岡山口では大野治房隊と前田利常隊が戦闘、井伊直孝、
藤堂高虎両隊は家康救援のため戦線離脱。大野治房は自軍の一部を秀忠本陣に突入させた。
七手組は秀頼の参陣をまって出撃予定であったが秀頼は来ず待機のままであった。
信繁家康本陣突入時、速水守久久が自己の判断で家康本陣に突入していれば家康は
討ち取られ、その後、速水守久隊、毛利勝永隊、真田信繁隊、大野治房隊が
秀忠本陣に突入すれば、家康討ちタヒにで志気の低下した徳川軍は撃破可能だったろう。
その後は徳川軍は一旦退き体制の立て直しを策したろう。
豊臣恩顧の外様集は秀頼に帰参したろう。
おしまい
秀頼に武将の素質が少しでもあれば勝利の可能性高かったろう。
天下人になれなくても、近畿一帯を領有する富裕な大大名位は可能だったと思う。
じゃあ仮に秀頼がそこそこの名将で1.1倍程度の兵力差なら押し返せるとしよう
どこにどう攻めて幕府軍を追い返すのか、追い返した後どうするのかを妄想してみてくれ
論じるのは仮定を出してからだ
妥当な線で素質に関しては常真レベルと仮定しろ
歴史の教えるところは常真レベルなんだよなー。
速水守久にもう少し戦略眼と決断力があればと思う。
毛利勝永、真田信繁、長宗我部盛親、明石全登もそう思ったろうね。
側面攻撃を行うという作戦だとすると大成功に終わっている
天王寺・岡山の戦の布陣をみれば家康本陣の前面は相当分厚く、第一陣本多忠朝五千五百
第二陣榊原康勝隊五千四百、第三陣酒井家次隊五千三百。毛利隊はこの三陣を蹴散らし
家康本陣一万五千に襲い掛かっている。真田隊は松平忠直1万五千を蹴散らして
家康本陣に突入している。家康は囮にはなるだろうが、主将討ち取られれば徳川軍敗退に
なってしまう。自軍が絶望的に劣勢なら主将が囮もありえるが、自軍が優勢な時には
ありえない。
中央は戦闘正面が他と比べて広い
本来なら数を生かした戦いをしたいが、戦域が狭いのでそれも出来ない
となると、相手をのめり込ませて釣り上げるしかなくなる
幕府軍の配置は左翼は大和路勢35,000と浅野長晟勢5,000、松平忠直勢15,000の合計55,000
中央は五5,000強が三手に家康本陣15,000で31,200
右翼が先鋒20,000、中備7,500、本陣23,000の5,0500
総予備が1,5000で戦闘正面が広いにも関わらず中央が一番少ない
後、総予備というのは動かないというか動けないもの
基本的に後ろにまだ兵がいるというのは重要で、それがないとあっさり
裏崩れすることが多い
それに仮に投入するにしても最後の切り札なので大抵は時期を見誤り、
失敗している
悪いけどよくある机上の空論の1つかと
「相手をのめり込ませて釣り上げる」と言ったて、家康が討ちタヒにしちゃえば
おしまい。現実に家康が助かったのは単に運がよかっただけ。総予備
一万五千の半数だけでも突っ込んでれば、家康の首は無く、徳川軍総崩れ。
家康は逃げるのが得意ですから
腹を切るというのも桶狭間、三方ヶ原、本能寺と何回も言っているけどタヒんでませんし
もう、タヒぬタヒぬ詐欺かいなという感じで
本来なら討ちタヒの局面で生き延びたって事でしょう。
運が良くなきゃ天下は取れない。
どうでしょう、家康は戦場ではかなり気がはやる人物のようですから
思ったことをそのまま口に出しているだけな気がします
まぁ、総大将がそんなこと言っても冷静に突っ込める人物が多いのが徳川家ですが
三方ヶ原、本能寺では討ちタヒにの可能性高かったと思います。
生き延びたのは運が良かったため、だけでしょう。
あー、そうですね運が良かっただけですね(棒
ただでさえ豊臣軍に押されてるんだから
惜しむらくは毛利も真田もいいところまで押してるんだが予備隊が投入されなかったこと
あくまで毛利や真田は前線指揮官であって総大将の戦略眼で予備隊の投入が望まれたわけだが
大野修理とかまで前線に出たのは間違いじゃないか?
勝手バラバラにタヒに場所探しの旅になっちまってさ
の部隊三千残存していた。秀頼はこの内三千を率いて七手組と合流、
計一万八千の内七千を押さえとして残し、残り一万一千を率いて家康本陣に切り込む。
家康の首級は簡単に取れたろう、秀頼の救援があれば真田隊、毛利隊の消耗も少なく、
二万程度は戦闘力保持可能、家康救援にはせつけた藤堂隊は前日の戦で長宗我部勢に痛めつけられ
戦力はかなり低下、井伊勢も木村重成との激戦で戦力低下、秀頼本隊の攻勢に立ち向かえないだろう。
かくして秀忠本陣に二万の部隊が、大野治房も千五百の兵で合流秀忠本陣と決戦。
秀忠本陣前面の加藤嘉明、黒田長政は豊臣恩顧でもあり又家康討ちタヒにとあればあえて
秀頼に刃向かわんでしょう。秀忠本陣後方の徳川義直1万は救援に駆けつけるでしょう。
結局秀頼軍2万一千と秀忠軍三万三千の戦ですが、数的には劣勢とはいえ家康を討ち取り
意気あがる豊臣軍と、意気消沈の徳川軍では秀頼の圧勝と考えます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%E7%B0%E5%A9%E5%B8%B8
又天王寺の戦いで家康劣勢となったとき、「大坂夏の陣に際しては、
城方が巻き返した折前田軍中から城方に味方するようにとの声が起こったが
取り合わなかったという逸話が伝わる。」との説があるくらいだから徳川方は
寝返りの恐怖のため怯えて敗走の可能性も高い。
所説はあるけどホント何で出無かったんだろうなあ
本人は出る着まんまんだったらしいけどね
それにとりあえず幕府軍を追い返す手だてはどうなのかね
家康を○す以外ないってのならかなり厳しいと思うが
この戦いで、秀忠は踏みとどまって戦おうとしましたが、家康は現に逃走しています。
それでも真田隊にもう少し余力があればしとめられたと思います。
豊臣の生き残り手段は戦場で家康仕留める以外なかったと思います。
>>27
豊臣方は戦線中央を正面と割り切って真田隊、毛利隊で攻め込み
徳川の陣形を完全に突き崩しています。その結果七手組から家康本陣まで
完全にがらあきになり、七手組は進撃さえすれば家康本陣攻撃可能でした。
家康が討ちタヒにすれば、戦場には豊臣恩顧の武将がうようよしており、
彼等の向背量りがたいので、秀忠は危なくて戦闘継続できんでしょう、
とりあえず兵をまとめて引き上げるしかなかったでしょう。
結局豊臣が滅亡してたとは思うけどあの時点で家康が討ち取られたら天王寺口は壊走だろうし京と大和方面に撤退でしょうね
まぁ豊臣側は手練れが多いので当然徹底的に追撃するでしょうけど第一線の毛利や真田も戦力的には限界ですしね
ただ家康のタヒで伊達とかまた馬○な事考えそうな気はするねぇw
「真田はあと一歩で家康を討ち取れた」というのは願望です
http://sanadasandai.gozaru.jp/itsuwa/yukimura/yukimura-07.htm
同時代資料の記述からみても、家康相当やばかったと思いますよ。
徳川に2度勝ってる上に三方原でも参戦してるし作戦全般取り仕切れただろうに
あっさり冬の陣で滅亡してたかもしれんがw
直接戦いたかったとか思ってたらタヒぬけど
予備隊投入すれば一気に突き崩せたんじゃないかなぁ
冬の陣以降の戦いだけでも毛利や信繁が幕府軍に恐れられるような名声獲得したんだから
昌幸なら最初から幕府軍も及び腰になりそう
家康ならそれを口実に黒田とか加藤とか伊達すり潰す口実にして先鋒に使いそうだけど
また幕府軍が苦戦したのも事実だし、家康・秀忠の旗本も戦闘に加入したのも事実
しかし家康が危機だったという話はない
混乱し損害を追いつつも撃退したというのが適当だと思う
『大日本史料』を読んだ感想だけど
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html
片倉の息子が又兵衛討ち取ったぐらいしか
伊達に限らず藤堂とかも酷いねw
黒田、加藤、上杉とか一応戦国末期に生き残りも大したことないし
まー領土貰えるわけでもなく嫌々出陣してる部分もあるんだろうけどさ
一等酷いのは前田だろう、その気になれば大野治房隊など一撃で壊滅できたはず
なんとなく戦闘したふりしてただけで、治房に秀忠本陣突っ込ませても平気な顔してる。
隙があれば寝返る気満々。
http://sanadamaru.syuriken.jp/s-yukimura.html
「幸村十文字の槍を以って大御所を目掛け戦はんと心懸けたり。
大御所とても叶はずと思し召し植松の方へ引き給う」(『本多家記録』)
ともある。さらに、「家康の本陣総崩れとなり家康は身代わりとして
本多正純を将座に残し自分は身をもって玉造方面さして落ち延び
その到底のがるべからずとして二度まで自害せんとす」と『朝野旧聞哀稿』
一応資料はあるみたい。
これらの資料は江戸時代成立だから家康に有利な脚色はしてもこのような
大敗したとする脚色はしないでしょう。事実だったと思いますよ。
http://www.samurai-journal.com/db/sengokubusyo.html
このサイトでは『朝野旧聞哀稿』は徳川家の記録となってますよ。
徳川家が家康が自害寸前だったとする作り話記録しないでしょう。
後は『耶蘇会年録』にも似たような話がある
前者は服装を白い小袖としているが『慶長見聞集』では茶色としている
実際問題、白い小袖は遠目に映えて危険なのでそのような格好をするとは思えない
また、後者も家康敵視の記述なので問題がある(家康タヒ亡時に暗○説を載せているし)
ちなみに『老将談話』の当該箇所には編纂者の「変更の要ありか」という注釈文がある
どちらかというと噂話のレベルかと
逆の解釈も可能と思いますが、家康が自害寸前追い込まれた、と言う
話は側近から伝わり広く知られていたが、記録に残すのは皆躊躇した。
『耶蘇会年録』は幕府に遠慮せずそのまま記録した、『老将談話』
は徳川の実戦経験豊富な武将の話、当時の歴戦の武将は苦境に追い込まれて
自害寸前にいたったとしても武将として不名誉と考えていなかった。
しかし編纂者はこの事実をそのまま記録するのはやや危険と判断した。
家康の旗印が打ち捨てられて敗走した時点で生命の危機に陥ってると
考えるのが普通だと思う。
『耶蘇会年録』はキリシタンを弾圧しているこの時期の家康についてはバイアスをかけた表記なのは事実
それに『老将談話』という題名に惑わされてはいけない、後世の軍記物がスゴそうに見えるような題名を
付けることはよくあること
それに勝敗相反すとか東軍の醜態を記した手紙を載せた「細川家記」や、勝利は家康の運とか家康の旗本を
三里に渡り追い散らしたとする「薩摩旧記」にもそのような話は無い
ちなみに「薩摩旧記」には同じ文中に家康・秀忠の旗本で逃げたものはいないとも書いている
「逃げたもの」でなく、「逃げないもの」だったわ
「家康の本陣総崩れとなり家康は身代わりとして
本多正純を将座に残し自分は身をもって玉造方面さして落ち延び
その到底のがるべからずとして二度まで自害せんとす」
朝野旧聞哀稿のこの記述はかなり具体的で実際に現場に居た武将の
談話と思うよ、自害寸前の事実は広く知れ渡っていて隠しようがなかったんじゃない。
「細川家記」や「薩摩旧記」の記述者は現場に居なかったので詳細は
記述出来なかったと思うよ、それに外様だから、伝聞だけで余計な記述
しないほうが無事と思ったんじゃない。
床几に正純を置き、家康が玉造方面の谷間にいたのは戦闘前から
しかもこの組み合わせ、関ヶ原合戦でもやっていたりする
ちなみに「大日本史料」ではこの部分の記述は除かれている
東大のエライさんは載せるに値しないと判断したということ
切腹しようとするたびに家臣に止められてるけど。
三方が原以来倒れることのなかった家康の馬印が倒れるほど本陣が
混乱していたのは確かで、家康が危機に陥ってたのは確かでしょう。
ただ、あと一押しがあれば家康を討ち取れたかっていうと疑問符がつく。
ケツまくって逃げ始めたときの家康の逃げ上手さは史実が示すとおり。
家康を討ち取れなければ、大坂方はすぐにジリ貧に陥るだろうね。
仮に真田信繁が適当な白髪首を槍先に掲げて、「江戸内府討ち取ったり」
て喚き叫んで突っ込んでいったらどうなっただろう。加藤嘉明、黒田長政、
前田利常あたりは動揺して戦闘中止したんじゃないかな。そうすると
秀忠隊が戦線離脱、一時的かもしれないが幕府軍大和に撤収、になったかも知れない。
しかも自分に都合のよい「仮に」しか考えてない。
日本史上、相手の大将を討ち取ったという虚報を流して勝ったという例が
どれだけあるのか、まずそれを検証しろよ。
で、こうこうこういう理由でこの作戦は非常に有効だから勝てるって証明してみせてよ。
つーか、このとき家康は内府じゃありません。
本営を真田兵に蹂躙され、馬印倒されて「討ち取ったり」って喚かれりゃ、
討ちタヒにしたって思うのが当然。大軍であっても動揺が広がれば総崩れ
って珍しくないよ。淝水の戦い、厳島の戦い。
後者は慶長17年に既に亡くなっているので、この逸話は論外なのです
まずは目先の事を片付けるだろうし真田が家康討ちとれるとこまで来てるなら包囲されて殲滅されあぼん
つーか現将軍たる秀忠がいるしそこまで動揺しないだろうし秀忠もむやみに退いたりしないでしょ
将軍も秀忠だし
実際天王寺口はあの状況で本陣突かれても崩壊してないんだからさ
家康が討ち取られても案外整然と退却できたかも
外様の武将は徳川家に忠節心持ってるわけじゃなく、家康怖さに参陣
してるだけ。秀忠の命令に素直に従うかどうか?
真田信繁もそのあたり狙って家康付けねらったんだから。
「家康が討ち取られても案外整然と退却できたかも」
古来退き戦が一等難しい、兵に退却の指令だした時、追撃されれば
総崩れが相場。
真田や大野は消耗してるし親衛隊様は動く気ないし
なんてのはご都合的な展開
IFものってみんなそうだけど。ことさらあげつらいのは野暮でしょう。
外様でも黒田、藤堂、池田、浅野、京極なんかは
純粋に徳川への忠誠心で動いてると思うよ
後は豊臣への積もりにつもった恨み
毛利とか島津とか伊達あたりは忠誠心なんてかけらもないと思うけど
戦国大名そんな甘い連中じゃないでしょう。
幕末の諸藩は譜代、親藩さえ新政府に忠節誓ったんだよ。
長州の恨み買った会津は抗戦しましたがね。
「純粋に徳川への忠誠心」そんな武将居る訳ないっしょう。
三百年余りたった幕府と各藩の関係と出来たばっかの頃の関係を同列に語られても困る
戦国大名は利害以外では動かない、その点は幕末よりもっと徹底してる
一歩間違えれば一族滅亡が現実に起こっていた時代。忠節心など持ち合わせてない。
それはそうだな
そうするとだ家康を討ち取ろうが秀頼が出陣しようが寝返る奴は出よう筈も無い
滅亡寸前の豊臣に付き危ない橋を渡るより家康がタヒんでも揺るぎそうもない強大な徳川家に尽くし政権内の地位を高めた方が安全だしな
NHK「名将の采配」で取り上げてたが、状況をかなりはしょって伝えてる。
信繁の幻の秘策は、真田隊、毛利隊で天王寺口の徳川諸隊を吊り上げ、
家康本隊ががらあきになった時、明石隊が奇襲をかけて家康を討ち取る
と言うシナリオだが、この策に現実性帯させるには、秀頼を茶臼山まで出陣させ、
徳川諸隊を吊り上げ、浅野を寝返らせて明石隊と共に奇襲することが
必要だったと思う。信繁は長く紀州九度山に居住していたので、浅野と
気脈通じていた可能性なかったとは言えないと思う。
あの番組は酷かったね
知らない人は見てて全く流れが分からないだろう
浅野と言っても監視の役人がいただけで大名自体は直接接触してないでしょ
浅野は信繁が紀州九度山脱出するのを黙認してたようだが。信繁、昌幸
幸長は旧知の間柄だし、浅野長晟や浅野家重臣と接触はしてたろう。
これだけ尽くしましたよっていうスタンスを見せることが大事なの。
下手に戦わなかったりしたら幕府から咎められて改易になるかもだし
例え戦況が不利でも寝返る奴戦わない奴なんかいんのか
大阪城周辺以外全部幕府側だぞ 忠誠だの戦況以前に幕府にマイナス行為をする利益がない
秀忠家康が二人タヒんだら話は別だけどさぁ
この時代の戦では、戦況が不利になれば寝返る武将履いて捨てるほどいたよ。
家康が討ちタヒにすれば幕府が存続するか否か不透明。
秀忠は無類の戦下手、徳川譜代衆、旗本は合わせて五万くらいは居たようだが
真田隊5500、毛利隊6500、大野治房の別働隊1500に引っ掻き回され
敗退重ねる弱兵、戦国武将はその点を良く見てるよ。
別に大御所がタヒんだって将軍健在なら不安定にはならなくないか?
将軍あっての幕府だけど大御所は別に必要ないし
仮に頭おかしい奴が一人寝返ったらそいつの国元に周りの幕府の諸将が攻め込むでしょ
国元が落とされたら付き従う兵士は霧散するしどうすんの
仮に家康を討ててもその時点でほぼ無力化する部隊の方が多いし
ヘッド家康を失っても副ヘッド秀忠が無事で翻弄されててもまだまだ元気で数の居る徳川と疲れはて数も少ない豊臣どっちに付いたら得かなんて子供にも分かる
江戸幕府に抵抗した大名がいたか?いなかっただろ。
よって、夏の陣で家康が討ち取られようと普通に秀忠に従うわな
幕閣の政治外交手腕に対抗できる人物が豊臣家には皆無。
真珠湾で米国海軍に大打撃を与えた旧日本軍が、最後にはアメリカに
物量や政治力で押し切られたのと同じように、豊臣家が最終的に敗北する
結末が目に見えてる。
家康秀忠の二人を討ち取った後ならまだしも二人が健在な状況でそんな日本全部を敵に廻すような危険すぎる賭をやるとは思えない
結局オタクさんの言うような事は家康秀忠両方を討ち取らないと無理でしょう
例え秀忠が戦場では無能でも将軍という立場がある限り諸将はそう簡単に離反しない
「あれは誰かな?」「あれは毛利勝永だよ」とか見物してたエピソードは笑うな
こんな戦で無理に兵力失う気は全くないってのがよく出てて
傍観はしていません、しっかり戦っています
取りあえず『大日本史料』を読んでみたらいかがでしょうか
まぁ2、3日は余裕で潰れますが
黒田と加藤は秀忠隊二万三千が大野治房別働隊千四百に切りたてられたのを
みて、しょうがねーなって感じで秀忠救援に向かったんだよ。百戦錬磨の黒田長政
加藤嘉明あたりは何こいつらって思ったでしょうな。山っ気あったら秀忠ぶっ○してたろうね。
もっとも山っ気があったろう政宗すら密かに真田の子女を匿う程度しかしなかったんだしその二人が寝返るなんてまず無いわな
徳川って1584年の小牧長久手以後30年間まともな戦闘経験無し。一方
豊臣浪人衆は朝鮮の役、関ヶ原で戦闘経験豊富、まともに戦闘やれば勝負にならない。
加藤、黒田、伊達の助勢でなんとか勝てただけ。外様がそっぽむけば逃げ回るしか
能ないポンコツ兵団。
司馬の受け売りなんだと思うが
小田原攻めでは結構活躍してるし
関ヶ原でも島津と戦っている
小田原攻めではまともな戦闘なし。関ヶ原では300名程度の島津隊
をよせばいいのに井伊直政、本多忠勝、松平忠吉三隊で追っかけて、反撃
食らって井伊直政は重傷(後にタヒ亡)、松平忠吉負傷とポンコツぶり丸出し。
ああ島津は3000で、最初から井伊の旗本と松平忠吉と○り合っていますよ
秀頼が七手組率いて家康本陣に殴りこみかけてりゃ如何動いたか解らない。
この時点でも徳川、浅野、黒田の主君は秀頼、徳川を誅するのは主君の
命により逆臣を討つで正当性確保でき、なんら精神的抵抗無かっただろう。
局地戦で勝ったからと言って大局が変わるとは思えんな
家康秀忠両方がタヒなない限り幕府は健在で地元が不安になるから寝返るに寝返れないっての
そんぐらい家臣の身を預かる大名ならわかるだろ
二万三千もの兵力にも係らず千四百程度の部隊に追っかけまわされるポンコツ兵団
敵に回したって痛くも痒くもないって思ったんじゃない。このポンコツ
に攻められたって落城ありえない、国許の留守部隊で楽勝でしょう。
そのポンコツの集まりじゃん
何だそのおめでたい思考は 例え国元の城が小田原城より堅固でもそんな安心はできんわw
万に一つ城が落ちたら兵士の家族も皆○しになるのにそんなお気楽な思考する奴は流石にいないと思うが
この時点においても秀頼が徳川の主だとか……。
征夷大将軍就任によって形式的に家康が上位に。
二条城会見によって実質的にも立場が逆転してる。
結局のところ、家康がスタコラ逃げまくって馬印が倒れて、
秀忠本陣も柳生宗矩が刀を抜いて戦わねばならなかったほど混乱しても、
外様大名は誰一人として鉾先を変えようとしなかった。
なぜなら大名達は将軍家に本領安堵を受けており、その御恩に報いるために
参陣しているのだから。将軍家の御恩を放り出して寝返るには、家康と秀忠の
両者が揃って討ちタヒにするくらいの事態にならないといけないが、
夏の陣の大坂方の力ではまず無理。
侍クラスは変わらないが、兵員は関東兵になり、弱体化した。
また本能寺以降、急激な領土拡大のため、新規召し抱えの侍が増え、
精鋭では無くなってしまった。
下手に裏切ると朝敵にもなる
外様大名的には家康、秀忠本陣が蹂躙されるのは恩を売るチャンスとしてオイシイ状況だったんだろう
家康が本陣捨てて逃走してるのに崩れずに逆に真田が討ち取られて毛利が撤退してるのがその証拠
歴代の征夷大将軍みりゃわかるじゃん?
鎌倉将軍も室町将軍も大半が実権を取り上げられ、裏切られ、追放され、○されてるからな。
将軍という存在の権威を過小評価しすぎ。
幼い将軍を擁立しても、その将軍(九条父子や宗尊親王)は成長するにつけて、独自の主従関係を
構築するなどして、執権(得宗)の脅威になりうるような存在になり、そのつど混乱が起こり将軍が
追放されるなどしているけど、結局北条氏は最期まで将軍の存在を必要とし続けていたわけだ。
後年の細川氏、三好氏、それから信長なんかも、将軍の権威や独自性には悩まされ続けたわけで、
「くその役にも立たない」というのはあまりにもイメージありきすぎる
ごめん。確かに君の言うとおりだ。
前言撤回するよ。俺が不勉強すぎた。
×ウ○コの役にも立たない
○ウ○コの役くらいには立つ可能性は否定できない
出来星の将軍家なんて誰も敬意払わない、家康の出自も怪しいし。
外様衆はいやいや従ってただけ。浅野が寝返りってうわさ飛べば全員信じたし。
前田は状況によっちゃ寝返るつもりだったようだし。七手組の進撃あれば
家康も秀忠も首飛んでたろうね。ポンコツ徳川兵団なんて軽蔑の対象
だったんじゃない。
それ~が寝返るとか侮蔑の対象とか完全な妄想じゃん
仮に徳川に不満があったとして一回勝てそうな状況だからって豊臣に寝返る利益あんの?
大阪城は冬のような堅固さは無いし主力が大阪に来てるから国元は不安、自国以外の全国全てが敵に回る、将軍に刃向かった武家として悪名が高まる
状況だけでこれだけ言えるのに事前に計ってるならまだしもそんな動きはカケラも見えない
浅野が寝返ったとして果たして続く奴、信じる奴がいるかどうか
「豊臣に寝返る利益」めちゃくちゃあるんじゃない。徳川の領地取り放題。
「自国以外の全国全てが敵に回る」当時の徳川家の勢力範囲は関東甲信越と
遠三駿の三カ国と北陸の一部のみ。西国は外様衆がほとんど。それにこの
どうにもならん弱兵部隊じゃ一万も兵があれば充分制圧可能。関ヶ原も大阪の陣も
外様衆の力で勝っている、徳川本隊は手のつけられない惰弱集団。
よくそんなお目出度い思考によくなれるな
じゃあ寝返って負けたらどうすんだ?築き上げたもの全て失うんだぞ 今で言えば全財産投資するようなもんだ
必ず幕府に勝てるなんて保証は豊臣が出来るわけないし豊臣に寝返ったからと言って自分の領地を加増してくれる保証もない
幕府は今の土地財産を保証してくれてるし戦功をあげれば覚えめでたきものとなって幕府内での地位があがるかもしれない
博打で全財産・自分家臣家族の命を賭けて戦うのと確実な安全を保証されて戦うの
どちらがいいかなんて基地外でもなきゃわかるよな
家康秀忠がタヒねば話は別だが普通はタヒぬ危険のある不安定な近道よりタヒぬ危険の少ない安全な道を選ぶわな
武士の主従関係の原則は御恩と奉公。こんなこと中学生でもわかる。
将軍である秀忠が自分の領土を保証してくれるから、秀忠のために
働くんだよ。史実で徳川方が乱れても外様大名が誰も裏切らなかったのは、
お先真っ暗な秀頼よりも秀忠に味方した方が御家存続に繋がると判断したからだ。
今までいろんなIFスレ見てきたが、史実の検証もろくにせずに
自分の願望で書き込むとこういう恥ずかしいことになる。
「領土の保証」ってのは武力の裏付けあって始めて有効。
豊臣の寄せ集めの少数の部隊にボコボコされる程度の武力じゃ
誰も相手にしない。秀頼が出陣してれば外様衆の寝返り続出。
なんせ二万三千で千四百に切り崩されるような武力じゃどうせいってのよ。
だから、自分の願望を垂れ流すのはやめなさいって。
言ってることが稚拙すぎるw
御恩云々というならば、そもそも徳川はじめ諸大名は、豊臣のために奉公を尽くさねばならないw
ところが諸大名は秀頼が幼少なのをいいことに、秀頼領をほとんど分け取りにしちゃうという
すばらしい奉公をした挙句、お手盛りで領地を増やしまくった腹黒の徳川に尻尾振って
ついて行っちゃったわけだ。
わかるかなー?そもそも御恩と奉公が全然成立してないんだよ。
御恩と奉公などというカビの生えた言葉を持ち出しても頓珍漢なだけで全然説得力ないんだよw
諸大名は武家の棟梁となった家康と秀忠から本領を安堵されている。
その御恩に報いるために大坂で奉公した。
もっと言えば、大坂で奉公することによって、さらなる安全を保障されることが
期待できたから、徳川方についたわけ。
室町期の将軍が御恩を施そうとしても意味を成さなかったのは、権力が弱かったから。
権力のない輩が手形を切っても信用されないが、当時の徳川家には信用があった。
時代が下ろうとも、武家政権の原則は御恩と奉公であり、それを担保するのが武力です。
おわかり?
持久戦したら敗北街道まっしぐらの大坂より
全国の諸大名を味方にしてる徳川に味方するわ。
寝返った瞬間に留守にした城攻撃されたらたまらんし
関ヶ原の戦いも家康が秀吉の遺訓を破ったりしてたけどそんなのはっきりいってどうでもいいんだよ。
いざ戦争が始まれば強そうな方につく。家康に味方した連中は家康が勝ちそうだったから味方した。
「家康は秀吉公の遺言をやぶっておる」などいくら奇麗事いっても、立花みたいに敗軍の将となり浪人になってしまえばア○なんだよ(立花は大名に復帰できたけど)
幼稚園児でもわかる簡単な理屈だ
幕末をみれば彦根藩は率先して江戸攻めに加わってるしw
大阪城が裸城
大坂方の兵力は枯渇寸前
淀君と秀頼の体制は腐ってる
ことじゃね
淀君には外様もうんざりしてるんだろうし最後までそのわがままに付き合った加藤と福島はあんな状態だし
大阪の陣に参戦してる外様も十分な所領を経営してる訳で関ヶ原以降15年かけて築き上げた地位を投げ出すわけにはいかんでしょ
間に朝鮮出兵や関ヶ原の戦いこそあるけど、もう地方同士の争いは終結してずいぶん時間が過ぎてるわけで
「今の地位や領土を保ちたい」と安泰願う大名たちばかりになっていると思うよ
「豊臣に寝返ってあわよくば今より多くの領土を得る」なんてギャンブル思考なんておらんでしょ。そんなの考えてたのは行き場のない浪人だけだよ
実際2世大名が多いし江戸には妻子居るわけだしね
いまさら戦国時代に戻られても困るって大名も多いだろうな
特に東北の諸藩は政宗なんかが居るから幕府による統制が無くなると非常に困る
徳川家康はそう思ってないから天下取ったんだろうね
家康が討たれれば野心たくましい伊達や
関ヶ原の雪辱をしたい上杉・毛利が動きそうだ
江戸に蟄居中の福島正則も張り切って出てきそう
というのが第一の疑問
撤退したとしてそこから伊達だの上杉が勝手に戦線離脱出来るのか?
というのが第二の疑問
特に伊達とか上杉は幕府からは目を付けられてる訳で戦線離脱するならここぞとばかりに追撃食らうだけでしょ
もうこの段階で豊臣側について一発逆転なんて時代じゃないんだよ
「伊達とか上杉は幕府からは目を付けられてる訳で戦線離脱するならここぞとばかりに追撃食らうだけでしょ 」
以前はそう思ってたが、夏の陣調べていくうちに徳川軍にそんな能力無いと確信した。
戦国生き残りの武将はそれくらい見抜いたと思う。追撃なぞ屁とも思わないだろう。
夏の陣はギリギリだったので事態を動かせなかったが、冬の陣で真田、毛利、
後藤当たりが直接家康、秀忠の陣に攻撃加えその弱体ぶりを曝していれば手の打ち様あったと思う。
まさかここまで弱いとは想像出来なかったんだろう。
仮に徳川が倒れたところで無政府状態になるだけで豊臣政権が復活するわけではない
軍事力よりも文治力の問題の方が遥かに深刻な問題だよ
この種のスレは家康がタヒねば全員が秀頼に忠誠を尽くすという間抜けな考えが基準になっているから困る
それ以降、兵力が肥大化してただの肉壁集団と化す。
おそらく軍制に致命的な欠陥があったのだろう。
のみならず、家康・秀忠ともに大軍の将としての資質はなかった。
庄屋仕立ての徳川家には大軍を動かすのは難しかったんだよ。
逆だ逆、当時でもっとも軍制が整備されていたのが徳川家
というより双方あわせて20万近い兵が一箇所で野戦をするなんていう戦い
しかもこれが最初となれば混乱しない方がおかしい
整備とかどうでもいいよ。機能しない軍制に何の意味もない。
そんなもんは有害なだけ。
だいたいだだっ広い大阪平野にたった20万程度の兵がいたくらいで
混乱するわけないだろ。
混乱するくらい密集してたっつーんならそれはそれで
指揮官の無能さの証明になるだけの話。
あなたの地図では平野は黄緑色にしか描かれていないんでしょうねw
本営が敵兵に蹂躙され、総大将や兵が12キロ以上逃走したり、兵力
二十分の一の敵に追っかけまわされるんじゃ軍の体裁なしてないよ。
混乱で済ませられる事態じゃないよ。
あれはバンザイ突撃ですから
平和な時代に大名としてはこんな馬○げた戦争で兵士失いたくないだろうし
それは後の島原の乱も同じような構図な訳で
浅野、伊達、藤堂あたりは普通に渡り合ってるんだから、徳川の
弱兵ぶりは異様でしょう。
島原の乱は大名たちが命令を聞かず、暴走しまくっていたが
鍋島、黒田、細川、榊原、水野など
藤堂も戦国の生き残りの割には大坂方に一方的に押されてるよね
確かに徳川は強くはないだろうけど元々徳川勢が力見せたのって姉川くらいじゃないの?
武田には滅亡寸前までボコられてたし小牧長久手も徳川の強さを見せつけた戦いでもない
関ヶ原ではひこにゃん重傷とか恥さらしてるし
徳川の強さは家康の根回しのうまさであって野戦能力じゃないんだろうね
幕府軍は基本家康の指示通りに出撃してたんだろうし指揮系統は確立されてたんだろうけど伝令によるタイムラグは避けられないわな
その点豊臣側は毛利正面での予期せぬ戦闘勃発で作戦が台無しになり「もう華々しくやろうぜ」みたいな感じで
指揮官の裁量で(といっても真田と毛利はお互いの動きをフォローしながらだろうけど)戦える分動きが速い
結局幕府軍が苦戦した理由ってそんな所じゃないの?
作戦の問題じゃなく、将、兵の質の問題。
外様衆の助勢が無いタイマン勝負だったら家康、秀忠首ぶっ飛んで、
京の町で見世物にされたんだろうな。
それはあなたの願望、妄想
結論が最初からできている人と話すのは苦痛だね
作戦じゃなくて意思決定の速さを言ってるわけ
幕府軍は大所帯で統制第一にならざるを得ない
そこを真田、毛利が突いたのがあの本陣突撃
でも結局統制された幕府側が総崩れになることはなく真田は壊滅、毛利は撤退
総大将が命からがら逃げ出して統制もへちゃまくれもなかろうが。
加藤、黒田、藤堂、井伊、伊達あたりが動いて収容できたんだろう。
豊臣の親衛隊様が動いてれば間違いなく家康、秀忠の首は三条川原。
徳川の旗本がしっかり撃退していますよ、混乱したり逃げたものもいるようですが
親衛隊というが実態は徳川の旗本以下だろw
親衛隊様は実戦経験ないんで、確かに戦力としては当てになりませんが、
真田隊が追い散らした松平忠直隊が二度と戦場に出現出来ないようにしたり、
前日痛めつけられた藤堂、井伊隊の防波堤位にはなったと思いますよ。
真田や毛利の善戦はその指揮能力によるところが大な訳で
七手組を投入するならそれなりの実戦経験豊富な指揮官付けないと
秀頼直卒で突っ込むならそれはそれで面白いけど
松平忠直隊に対しては追い散らしたのではなく、陣が崩れた瞬間にすり抜けた
というのが実際のところ
真田隊が突破した後に親衛隊様が突っ込んでいけば、忠直隊は壊滅だろう。
中央突破された部隊が引き続きの攻撃受ければ簡単に崩壊する。
前線の部隊が好機を得て突撃し、それに後詰が瞬時に応じる
よく言われるが、実際は不可能な理想論
幕府側が手加減する理由もないしましてや寝返ったり戦わない理由なんかあるわけない
まず家康秀忠がタヒぬ仮定でもたてたら?
大坂夏の陣だけ見てれば、家康は世紀の大愚将のレッテル貼られても仕方がないレベルだな。
おそらくもともと家康は8000程度の兵くらいしか統率する才能はなかったんだろう。
もっとも秀頼や七手組は家康やその旗本以下であった可能性が高いと思うが。
徳川に恩を売りたい諸大名が群がってきて瞬○だろ。
精強だった徳川勢は弱兵化した
豊臣秀吉が行った、石川引き抜きと徳川の関東移封は
効果的に徳川を弱体化させた
しかし豊臣にとっては何の益もなかった。真田一族は利益蒙ったようだが。
いや、あれは必要な事
あの当時、徳川家は駿河・甲斐・信濃を立て続けに領有したので
それまで意思疎通に問題が生じていた(第一次上田合戦がその象徴)
そこで、軍制を統一する必要があり、それを行ったということ
数正出奔はそのきっかけに過ぎない
「それまで」と「意思疎通」の間に「領有していた三河、遠江との」
後藤隊が天王寺口の2段目にいればそういう好機を逃すことはなかっただろうに
徳川が崩れた時点で自身が出陣して総攻撃を指令しなかったということは、
つまり秀頼の指揮官としての能力が低かったということの証左では。
そんな将に率いられた部隊がまともな行動を取れるとは思えないなあ。
岐阜中納言が健在で指揮取ってればなー。
冗談よせよw
関ヶ原の敗因の一翼を担ってるのはあいつだろw
そうかもしれないが、出自的に秀頼に代わって全軍の指揮執れそうなのは
岐阜中納言、いくらなんでも秀頼よりはまし、取り合えず出陣は可能、
明石全登をつけとけば勝機は見逃さないだろう。
確かに岐阜を早々と陥落させちゃったが
信長の嫡孫だから、全権は無理だとしてもある程度の権利は与えられそうだし
岐阜を出撃して戦った事からも、冬の陣の時点で出兵策を講じそうなもんだが
>>156の言うとおり、秀頼の身代りとして最前線送りもできるんじゃないだろうか。
そんな状態で浅野とかの裏切り期待するのが間違い
酒樽に入って徳側方の監視をゴマ化すのかな
瀬田の橋を落としてというが古来あそこでの防衛ってことごとく失敗してるが
供御瀬という、徒歩で渡れる箇所があるのを知らず、防備していないので、
攻撃側に廻りこまれてしまうから。供御瀬を知っていて、堅田の水軍衆を
味方につけて琵琶湖の水上交通を押さえれば防衛できる。
ただ、あの時代に、大坂方が堅田衆を味方につけられるかは疑問。
元々明智光秀配下で、山崎の戦いでは本陣の勝龍寺城の防衛にあたり、
多くの犠牲を出しているので、豊臣のことを良く思っていない可能性がある。
八丈島から大阪まで泳げるような武将なら、単騎で家康、秀忠の首もぎ取っただろう。
戦闘における実績と、旧大名っていう経歴はあるだろうが
豊臣政権の中枢に居たわけでも、豊臣家と血縁がある訳でもないからな
秀頼の名代になりえる宇喜多か織田の方が、本人の実力が昌幸に劣っていても価値があるな
誰か側近が淀殿を軟禁して、その間に秀頼連れ出せば万事OKだったんだろうな。
関ヶ原で豊臣の味方をして秀忠を足止めしただけでも居並ぶ浪人衆の中では最上位だと思うが
武田信玄の眼と呼ばれたほどの某将な訳だし
雇われている側で最上位でも意味ねーんだよ
雇ってる側で発言力ないと
例えて言えば冬の陣の時点で講和にNOと言える首脳陣がいる必要性がある
それは雇われている浪人側では無理
大野治長は関ヶ原戦で福島正則隊に加わっていたくらいだから、
当然、福島に頭が上がらないだろうし、大坂陣へ出征する浅野は
福島傷心を気遣って、平野長泰に依頼して訪問してもらっているし、
秀吉の従兄弟で豊臣性だし、大坂夏の陣の二年後は従三位参議だし、
血筋実績経歴でだれも異論の付けようがなく大坂方をまとめるのに
最適な人物だった。
それだからこそ家康も厳重に警戒し、阻止したわけだから、無理といってしまえば
無理なのだが。
家康が老獪すぎるのがいけない。秀吉みたいに年相応に耄碌してもらう必要がある。。
秀頼と家康の会見時のヘタレっぷり見るととても豊臣側に付くとは思えないが
家康が加藤のタヒを待っていたかのように動き出したのもそういうことでしょ
秀頼、家康の会見時、正則は1万の兵を率いて伏見街道から京までを
警備し、自身は大阪城にいて変事に備えてましたが。
昌幸がいたって一浪人でしかなかっただろ。
秀吉から寵愛され大老宇喜多秀家なら指揮させてもらえるだろうけどな
格も経験も不足過ぎて大軍の将なんてありえない。
三方原~勝頼時代にかけて主要な戦いにも参戦してるし
上州では北条相手に切り取ってるんだし
大坂方の諸将の中では大名格も相まってまとめ役としては最適だと思うが
徳川に二度完勝してるなんてのはこの時代比類無き実績でしょ
やる事も同じ、九度山幽閉時に親子で戦略練ってたんだろうし
まあ一番総大将に近かったのは織田信雄だろうね、逃げたけど
昌幸の下でしか徳川と戦っていない信繁とじゃ、少しは待遇違うだろ。
昌幸は強い方に付くという蝙蝠を生き延びるためとはいえやっちまったから信用はほぼ0だろ
徳川が相手にしてくれないんだから豊臣に付くしかないだろう。
徳川について武功挙げたって徳川には与える領地なんて無いんだから。
昌幸じゃなくて秀頼やその周りが信用しないって話
色々とやった宇喜多直家なんかは弟にすら信用無かったもんな。
秀康生きてたら、信康生きてたら、
直政生きてたら、忠勝生きてたら、
とか徳川にだってそんなタラレバ
沢山あるよ。
それまでに討ち取られて首チョンパでしょ
40年前にタヒんだ見たこともないやつのこといわれてもかえって当時はよく分からんよ。特に淀や秀頼やその若い側近達はさ
大筒でタヒねば良かったのにな淀
反大阪の陣って奴
内容は架空に相応しいお粗末なものだったけど
かつての天下の主豊臣が全国の浪人かき集めても江戸幕府軍には勝てなかった
これで徳川氏には誰も敵わないことを世に知らしめたわけだ
関ヶ原以降潜伏してた浪人衆が一カ所に集まるんだから笑いが止まらんねw
二万の前田利常隊がその六分の一以下の大野治房隊三千と交戦中に、前田隊背後
に隠れていた徳川直属軍が大活躍し、多くの旗本衆が名誉の戦タヒを遂げられたと
言う戦国の最後を飾る洟ともいうべき武勇の誉れ高い逸話ですか。
武士の屈みとも言うべき武勲端ですね!
二万とか三千なんて根拠薄弱なんだが
どうなんだろ?
無能だと言うつもりは無いが活躍したかと言うとそれはそれで?じゃね?
昔、ボードゲーム(っていうのかな?)であったよ。夏の陣だけど。下記
http://blog.golfdigest.co.jp/user/takashipro/archive/880
これシリーズに壇ノ浦もあったんだよ
幸昌の実力とか見たかったわ。
楠木正行と同じ残念さを感じる。
てか信繁と正成って結構被らないか?
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の後、和議交渉の一環として家康のもとへ赴い
た帰りに京で板倉勝重に捕らえられ、「大坂に戻れば弟可直を処断する」という
事を告げられたために大坂には戻らず、元和元年(1615年)の大坂夏の陣には参
加出来なかった。その後、剃髪して隠棲していたが、家康に家臣として召し出さ
れ、摂津国豊嶋郡をはじめとする地域に1万2,000石の所領を与えられた。この
後、幕府への配慮からか夏の陣で一重の代理で指揮を執っていた養子の正重を廃
嫡し、代わりに弟の可直の子である青木重兼を養子に迎え嫡子とした。後に弟・可直に2,000石を分与する。
討ち取れても大坂側も勝永隊以外は戦闘力失ってそうだし
一発の打撃を与えるポテンシャルはあっても、徳川幕府体制への移行を止めたりひっくり返す可能性はなかっただろうな。
家康だけでなく秀忠も討ち取ってとなれば、跡目争いから多少足踏みさせるかも知れんが全国的な再配置が発生するような状況はまぁ想像できん。
秀忠は将軍だけど、絶対権力者の家康が認めたから就任できたわけで
この時点だと、嫡孫意識の強い松平忠直と伊達の持駒とも言うべき忠輝が健在だから
ここらへんを祭り上げて引っ掻き回せば・・・
でもそんなことできそうな野心的な戦国武将がみんなタヒんでるんだよなあ
伊達以外では現役なのは3代目3代目ばかり、毛利輝元や島津家久じゃ・・・・
「タヒんだのは影武者だ!大御所様は御健在であられる!」と喧伝して
収めたんじゃないかな?
実際に大阪に家康の影武者の墓とされてるが本当は本物の家康の墓だと
伝わってる墓があるよね。その墓には秀忠ばかりか後に家光まで訪れてるとか。
しかも内通者ばかりで何の役にもたたん
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1283761431/
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戦術で戦略をひっくり返すのは無理