賤ヶ岳七本槍の一人で逸話もたくさんあるのに、いまいち地味な加藤嘉明について語ろう
改易は息子の代だし、加藤家は大名家として残ってるし。
清正たちが家康と秀頼の会見を必タヒで取り持った時にはもう、豊臣家?ナニソレ、おいしいの?って感じだし。
そのわりには(地味なせいか)福島みたいに批判させることも、無様をさらすこともなかったな。
大坂の陣ではいつのまにか黒田長政と一緒に歴戦の老将みたいになってるし、
水軍任されてもそれなりにこなしてるし、地味は地味なりに転身ぶりが見事だよな。
豊臣家見限るの早過ぎ。
豊臣家子飼いの彼らが、味方しないのに、どうして減封された上杉や佐竹が味方できようか?
脇坂みたいに中立に徹した訳でもないし
七将の中でも黒田に次いで早く見限ったな
けど親父は三河を出奔してるし、嘉明自身は秀吉に10万石の大名までとりたてられているんだから
豊臣家にこだわる理由もある。
ま、江戸時代以前の武士なんてそんなもんだけどね。
ただ嘉明の場合七本槍っていうステージデビューが絡んじゃってるから
加藤・福島や脇坂・平野なんかとの違いが目立っちゃうのも仕方ない。
ただこの人、虎とか火鉢の逸話とか、なんか何考えてるのかわからないイメージがある。
武功も多いから鈍いってわけでもないだろうし。
それを聞いた細川忠利は感心し、親父の忠興は逆に呆れたようだがw
藤堂高虎もそうだけど、嘉明も技術者として、秀吉に育ててもらったと言うより
水軍運営の能力を買われたに過ぎない、って感じがする。
この人大好きだよ
「豪傑より凡人信頼しろ」とか最高ですよ
その言葉だけじゃなくて藤堂高虎とも
同じような趣旨の話してるからたぶん本音だろう
本人は同姓のせいで清正に隠れてるけど実はすごいし
あと創作ものだと司馬だが平野長泰主人公の小説の孫六すげぇいい人だったw
大河葵三代の時の「生き残りはわしだけか・・・」ってのも好きでした
虎って暴れるとらの前で居眠りしてたあれですか?
「私は勇猛な家来は要らない。
運の良い家来が欲しい」
ってあのナポレオンと同じ事言った人だっけか?
塙団右衛門に対する皮肉だなw
「豪傑は好調な時は調子いいが
旗色が悪くなると己の武名を守るために他人を簡単に見捨てる
だからいらない。逆に凡庸なものでも誠実な者は
個々は弱くとも強力に団結してくれる。彼らこそが真の勇者。おれはこっちが欲しい」
というような事を言ったらしい
あと渡辺了を2万石で召し抱えた藤堂高虎に
「一人にそれだけ出すぐらいなら100石のものを200人雇えばよいものを・・」と
苦言を呈したことも。
まぁこっちは高虎が「お前はものがわかってない。無名の人間がいても脅威ではないが
天下の渡辺勘兵衛が守る陣としれば敵もなかなか手が出せぬ。
100石を200人より渡辺一人のほうが必要なのだ」と答えたと続くのだが。
まぁこういうの見ると嘉明と塙はうまが合うとはとても思えないよなぁ
ちなみに勘兵衛さんは高虎の命令無視して勝手にろいろ動き過ぎて最終的に
ケンカ別れみたいな形で藤堂家を出奔したはず
とりあえずどっちも正しい意見なのだろう
あと奥さんが松山城の普請場で自らおにぎり握って配ってたらしい
福島加藤(清)以外の七本槍では一番有名だろうに・・・
ゲームで高評価されてないからじゃないか?
しかし考えてみたら40万石も晩年
福島ともう一人の加藤が42万と56万になったのと
同時期にはせいぜい20万石の男としてしか評価されてなかったわけだ
お隣の高虎はその後老いる前に立身したが
40万という数字も他の大大名と比べるといまいち感があるし
まぁ福島加藤(清)とちがって近江2万で家は残ったけどさ
7本槍の末路
加藤(清)・・・肥後半国25万石→肥後一国52万石→改易
福島・・・・・・・尾張清州20万石→安芸広島49万石→信濃川中島4万5千石→改易
この人・・・・・伊予正木6万石→10万石に加増→伊予松山20万石→会津若松40万石→近江水口2万石
このまま明治維新。ただし数代後に血統は松平。子爵
脇坂・・・・・・・摂津能勢1万石→大和高取2万石→淡路洲本3万石→伊予大洲5万3千石→
信州飯田5万5千石→播磨龍野5万石ただし3代目以降は堀田。おかげで譜代扱いで明治に至る。子爵
片桐・・・・・・・摂津茨城1万石→播磨竜田加増で4万石→急タヒ→数代後に無嗣改易且元系断絶
弟の家系が大和小泉1万石として維新まで残る。子爵
平野・・・・・・・大和田原本5千石→慶応4年7月9代長裕の時に高直しで1万石立藩。男爵
糟谷・・・・・・・播磨加古川1万2千石→7本槍唯一の西軍で改易→500石の旗本になるが息子が大阪入城。夏の陣でで討ちタヒに。断絶
まぁ見てみたら勝ち組みなほうなのではあるのだろうが・・・
ひそかに平野が最強な気がする
通説だと
福島正則→お城勝手に直す→怒られるが「直した部分壊したら許してやる」といわれる→拒否
→川中島に左遷→家臣に検視前にタヒ体焼けと遺言→それもとがめられて川中島4万石も没収
加藤忠広→本人も芳しくない評判だったが息子光広が花押偽造して幕府への謀反状をつくって遊ぶ
→ばれる→改易→光広は1年後に配流先の飛騨でタヒ去→忠広は出羽丸岡で堪忍料1万石をもらい
→書道や和歌とかに没頭し1653年タヒ去→子孫は庄屋さん
加藤明成→暗愚で統率力がなく家中混乱→堀主水出奔→追っかけて○害→幕府にばれる→改易
→祖父嘉明の功を考慮し庶子明友が石見吉永1万石に→1682年近江水口2万石へ明治に至る
片桐且元→大坂落城20日後にストレスでタヒ去→子の孝利も38歳で嗣子なくタヒ去→弟為元に1万石のみ相続を許される
→為元の子為次も15歳でタヒ去→無嗣改易
【加藤明成と堀主水】
加藤明成はお金大好きで圧政を敷き一分金を収集しまくったので加藤一分とあだ名されるほど。
嘉明に采配を任されていた筆頭家老堀はそんな明成が大嫌い
明成は堀に嫌がらせ。堀も切れて「このバ○息子め」と面罵し一族郎党300人ひきつれ出奔
その時に若松城へ射撃し橋を焼き払い関所を破壊、家族を鎌倉東慶寺8幕府公認の寺)に預け本人は高野へ
明成、幕府へ「会津40万石に替えても堀の首をとることを許せ」と嘆願
堀はいろいろあって明成によって切腹、明成は東慶寺を軍事攻撃し堀の一族をとらえ全員処刑
幕府はこの幕府公認の寺への軍事行動を非難し加藤家一時終了
ちなみにこのとき東慶寺代表として加藤明成のことを幕府へ糾弾して
堀の家族を弁護し結果加藤家改易へのきっかけを作った天秀尼(俗名奈阿姫)は
何を隠そうかの豊臣秀頼の実の娘である(千姫の娘ではないが仲は非常によかったという)
「よしあき」でも「よしあきら」でも合っていると思う。
>>34の加藤明成と堀主水の話は
漫画「Y十M~柳生忍法帳~」で結構尺を取って描かれていたな。
この漫画自体は堀一族の女達の復讐を援ける柳生十兵衛のお話。
堀主水憎しで全てがパー
東慶寺でも旧主の末裔と口論
自爆に近い結末だよ
清正・福島は裏切り者とかいうネタスレにおいてさえ
当時同等の立場と石高だったのに完全に忘れ去られてるし。
オレもやっぱり話が思いつかないけど上げちゃう。
百石取り侍×200>渡辺勘兵衛
あと「嘉」の字は誰からもらったんだろ? 九鬼だったら、笑うけど。
分部のほうがしっくりくる。
>>52
確かに。
福島正則(1561年 – 1624年)
加藤清正(1562年 – 1611年)
加藤嘉明(1563年 – 1631年)
脇坂安治(1554年 – 1626年)
平野長泰(1559年 – 1628年)
糟屋武則(1562年 – 1607年)
片桐且元(1556年 – 1615年)
>>53
分部光嘉ですかw
やっぱり、嘉の字は自分で付けたのかな?
おめでたい字だし。
年取って天下泰平になってから人間が出来たのかな?
昔は藤堂と喧嘩したり片桐と喧嘩したり。
その場合高確率で狭量な小悪人として描かれてイメージダウン必至な気もするが
嘉明は本当に地味だから困る
確か江戸時代に儒教が一般的に為る迄は正反対で……のハズでは無かったんですか?
世の中そんなに簡単に感覚が正反対になってたまるか。
そういうのは小説とかの「極論」
家臣が大事にしていた嘉明の皿だったかを割ってしまった時、家臣が腹を切ろうとしたのを
止めて許したばかりか、以後もこういう事がない様にと残りの皿も打ち砕いたという様な話が
あった気がする
そういう反面、若い頃に火箸の熱さに気づかなかったとかいう様な豪胆さを示す話も聞いた様な
ムカつく家臣に奉公構をした大名はカ○と認識している
この三人の場合、とうとう堪忍袋の緒が切れちゃった
という感じの奉公構なんだけどな
鬼庭や成実らのように結局、見限って出奔した伊達に戻って土下座し
再度伊達に仕えるしか道が残されてない状況にまで外堀を埋めて追い詰める政宗こそ最強鬼畜。
他にも追放されたが伊達領から出れずに白石に匿われた片倉の姉や
政宗の怒りを買い青葉城から投身自○した家臣や
嫉妬した政宗に浮気を疑われて腕に短剣を突き立てて身の潔白を晴らす努力したり
家臣らの前でキスを強要された片倉息子とか。
伊達家に仕えたら再就職も厳しく地獄よりも辛い。
どこの大名でも何例か必ずある。
加藤嘉明と松山
ttp://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-269.html
先日、ロープウェイ街を歩いていると、「加藤嘉明公騎馬像建立 工事中 平成22年4月4日完成」の看板、
その奥では設置作業が進められている。老来、世事に疎く、偶然前を通りかかって、嘉明像建立のことを知った次第である。
加藤嘉明(1563-1631)は安土桃山~江戸初期の武将、賤ヶ岳七本槍の一人。関ヶ原合戦の功で加増されたのを契機に
城郭を伊予郡正木(松前)から勝山に移し、その周辺に城下町を建設。慶長8年(1603)、家臣および正木の住民とともに
新城下町に移り住んで、松山という地名を公称した。松山の名は、若松、松代、松江、高松などと同様に松平氏の松を表わし、
繁栄を願ったものともいう(『愛媛県史 人物』の記述)。
嘉明が築城した当時の松山城天守は五層で、本丸と二之丸の間には全国的にも珍しい防備用の「登り石垣」が築かれていた
(一部現存)。「登り石垣」は韓国南部の倭城にそのルーツがあるといわれるが、嘉明は秀吉が命じた朝鮮出兵の際、
「登り石垣」をもつ安骨浦(アンゴルポ)倭城を拠点としており、その経験から松山城に「登り石垣」を導入したと考えられている。
嘉明の名は「よしあきら」とも「よしあき」ともよまれるが、近年の出版物では「よしあき」のよみで固定しているように見受けられる。
「2万石で名将を一人召し抱えるより、200石の侍を100人召し抱えた方がいいじゃないか」って言った男だ。
団右衛門のような個性派とは肌が合わなかったんだろう。
その逸話見る度に100人の中から2万石を取れるのが2~3人出る可能性を考えてないように見えるんよね。
本人の資質とかは、現時点で200石で抱えられるんなら関係なくね?
その後、万石与えられる懐があって万石の働きした相手の知行増やさなかったら
それはどうかと思うけど
一向一揆が無ければ老中くらいはなれたかな?
その他大勢の幕臣の一つとして明治維新を迎えたんじゃね?
その上皮肉屋で結構口も悪いから
藤堂や塙団右衛門とかと悶着起こす
市松が改易されて城の受渡処理に出向いた時も
云わなくてもいいような昔の事持ち出して高笑いするし
目立屋の市松の事も好きじゃなかったのかな
本当なのかどうなのか詳しい人がいたら教えていただきたい。
保科正之(吉川弘文館)より
明成の改易については、明成が自主的に返上を申し出たもので
それを幕府が認めたものだが
猪苗代城代堀主水と新藩主加藤明成の確執という、この時期典型的なお家騒動
くわえて明成による若松城無断修築や領内の苛政などにも原因があるとされた(『会津若松史」、『福島県史』)
しかし、これらの諸説はいずれも確実な史料によったものではなく
一次史料を見る限り、自身の病気と家臣の人材不足によって藩政がままならぬ明成が世間の目を気にして
自主的に領地返上を申し出たのが真相だったようである(三宅正浩 「会津領主加藤明成改易を巡る諸認識」『福島大学人間発達文化学論文集』20号 2014年)
なお、明成と堀主水の対立は、家光の裁断で堀に非があるとされ、
堀は即座に明成によって処刑されたが、その審理の過程で、
大坂の陣の時、明成が豊臣方に内通していたのを堀が暴露したとする説もある(『御当家紀年録』)
明成の正室が保科正直の女だったこともあってか
加藤氏の石見転封後、特に寛文期になると正之は明成の嫡子明友とも頻繁に交流していた(『寛政重修諸家譜』『国史館目録』)
「わが軍門に下られよ」
引用元: http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1226667982/
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