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弥生人が話していた言葉の正体を兵庫・大中遺跡の播磨町郷土資料館で徹底解明

1: 2020/12/06(日) 16:22:26.30 ID:CAP_USER

弥生時代に話されていた、いわゆる弥生語をご存知だろうか。学校の教科書で弥生時代について学んだことと言えば、稲作文化や青銅器が大陸から伝わったということくらいで、弥生語については想像すらできないという人がほとんどであろう。ここでは、弥生時代後期にあったとされる大中村(現在の兵庫県加古郡播磨町大中)で話された言葉にスポットを当て、その地に定着した文化に触れていく。

大中遺跡の誕生の歴史
大中遺跡の歴史は昭和37(1962)年に遡る。東京オリンピックが開催される2年前のことだ。開発事業に伴う発掘調査を開始した結果、この界隈に約1900年前(弥生時代後期に相当)、長さ500メートル、幅180メートル、広さにして約7万平方メートルの遺跡が存在したことが判明。そして、姫路市と明石市とのちょうど中間に、大中遺跡が誕生した。

印南野(いなの)台地と加古川の三角州により形成された大中村は今から1900年前~1750年前、播磨国の中でも有力な村であった。全盛期には甲子園球場5個分に相当するそのムラに100名ほどの人が住んでいたと伝えられている。

日本で唯一弥生語を体験できる資料館
大中遺跡の中にある播磨町郷土資料館は、全国でも珍しい弥生語を体験できる資料館である。その資料館内の展示スペースのほぼ中央に設けられているのが、弥生語を体験可能なコーナーだ。ここでテープを再生し、弥生語を聞くことができる。

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ちなみに、背後に見えるのは、弥生時代の人々の暮らしを表したジオラマだ。山の近くには狩猟に明け暮れる人々がおり、海岸沿いには食料用の貝を拾う人や、船を修理する船工が見受けられる。この小さなジオラマを通じて、弥生時代の人々の生活ぶりを垣間見ることができる。

弥生時代以前の日本には縄文文化が根づいていた。しかしながら、縄文語の資料がほとんどなく、弥生語が日本語の起源と考えることもできる。ただし、日本語の起源をめぐっては諸説あることを断っておく。

弥生時代には大陸や朝鮮半島から稲作や金属器、集落、墓など、今日の日本文化の基礎をなすさまざまなものが伝えられた。今日の私たちが話す言葉もそのひとつであり、その言葉は大陸や朝鮮半島の影響を多かれ少なかれ受けている。

テープから流れてくる弥生語の音声は、生前古事記や万葉集の表現法や発音を研究されていた神戸市外国語大学の長田夏樹(おさだなつき)先生が、奈良時代およびそれ以前に話されていたとされ、古事記や日本書紀、万葉集にも記される上代日本語と、大陸の言葉(中国語、朝鮮語、モンゴル語)とを組み合わせることで、弥生時代後期の言葉として復元したものである。

弥生語の特徴とは?
ここからは本題である弥生語に入る。まず注意していただきたいのが、大中村で話されていた言葉が中央方言(近畿地方およびその周辺で話されていたとされる言葉)に属するのであって、現在の東日本に相当する地域で話されていた上代東国(とうごく)方言とは異なる点だ。上代東国方言については自身の関心の領域のひとつであるので、今後和樂webでも取り上げたい。

さて、中央方言の大きな特徴としては、現代日本語の「ハ」行、「サ」行がないという点が挙げられる。したがって、現代日本語を上代日本語に変換後、「ハヒフヘホ」を「パピプペポ」に、「サシスセソ」を「ツァ ツィ ツゥ ツェ ツォ」に変換すれば、ほぼ弥生語の出来上がりだ。

話は逸れるが、弥生時代のものが多く出土している奄美諸島の一部である喜界島でも、「ハヒフヘホ」は「パピプペポ」に対応しており、例えば旗は「パタ」、昼は「ピル」となる。そんな喜界島は土着の弥生文化を体験できる日本でも数少ない場所であり、一度訪れてみる価値あるのかもしれない。

現代語から弥生語への翻訳に挑戦しよう!
さあ、以上の規則に従って、一緒に現代日本語の文を弥生語に翻訳してみよう。(ここで取り上げるのは、播磨町郷土資料館で音声として公開されている文である)。

2: 2020/12/06(日) 16:24:20.43 ID:CAP_USER

 

3: 2020/12/06(日) 16:26:03.62 ID:xrlju3LH
最近は暴走グループ弥生など流行らない

 

6: 2020/12/06(日) 16:29:46.90 ID:SNUBWt3b
そこで、ぴえん、ぱおんですよ。

 

7: 2020/12/06(日) 16:39:41.00 ID:qebFpKot

 

8: 2020/12/06(日) 16:40:42.81 ID:3wcwUWL7

母はパパ
吹くはプク
光はピカリ

彦火火出見はピコポポデミだった言って不敬だとされた学者さんが昔いたな

 

10: 2020/12/06(日) 16:49:29.92 ID:QXkQADR+
まーたインチキ歴史

 

11: 2020/12/06(日) 16:53:43.05 ID:r9twvl4Y
5年ほど前にここで声を聞いたが現代語訳と比べて聞けば全く分からない言葉ではない。沖縄弁をしゃべるおばあさんが標準語訳画面の前でしゃべっているような感じ。

 

12: 2020/12/06(日) 16:59:25.63 ID:HWyb5lh6
胡散臭すぎるw

 

13: 2020/12/06(日) 17:03:46.43 ID:HWyb5lh6
縄文人だって話しまくってたわけで
大陸からちらほら入ってきた人たちから鉄器や稲作がもたらされたからといって、
縄文語がモンゴル語や中国語や韓国語の文法、発音とまざる、なんてことは信じがたいね

 

14: 2020/12/06(日) 17:04:03.49 ID:3wcwUWL7
室町時代に次のようななぞなぞがあった。
ははには二たびあいたれども ちちには一度もあわず
答えは「くちびる」である。
現在「はは」と発音しても、「ちち」と発音しても、くちびるは1度もあわない。
これは国語学上貴重な資料といわれ、この時代の「は」行音の子音が「h」でなかったことの証拠の一つとされている。
「はは」はくちびるの二度あう音「ファファ」φaφaだったのである。
(日本人の発音する「ファ」の子音はφであって、fではない)
「は」行音の子音は奈良時代以前はpだった。それが奈良時代にはφになっていた。
さらには江戸時代初期にhに転化した。
例をあげるなら「葉」は古くは「パ」paで、「ファ」φa、「ハ」haと変わっていった。
「川」は新仮名では「かわ」だが、旧仮名では「かは」である。
「かは」も古くは「カパ」kapaで、それが「カファ」kaφaに変わったのだが、
「カハ」kahaには変わらなかった。
それは平安時代末期に「は」行転呼音と呼ばれる現象がおこったためである。
それは語頭以外の「は」行音の子音がφからwに転化した現象である。
このことによって「カファ」kaφaが「カワ」kawaになった。
語頭の「は」行音の子音がφからhに変わったのは、
江戸時代初期のことである。

 

16: 2020/12/06(日) 17:34:27.13 ID:5rzUmDdP
東京大学が創った弥生時代か

 

17: 2020/12/06(日) 17:34:34.06 ID:Rf7kb3+K
いきなり姫路から明石つて高砂と加古川を飛ばすなんて… 

 

18: 2020/12/06(日) 17:58:54.01 ID:3wcwUWL7
なにしろテープレコーダーがなかった時代であり
正確な音韻を復元できるわけではないが
さまざまなアプローチで当時の発音を復元しようと研究されている
例えば上海シャンハイの海は中国語ではハイと発音されるが
日本語音読みだとカイと読まれる
これは漢字が渡ってきたころの日本語にハ行音が無く一番近い音がカ行音だったからと
考えられている
子音のサ行音タ行音ハ行音が大きく変化してきただけでなく
現在の5母音も上代特殊仮名遣いの研究から6ないし8母音だったと考えられている

 

19: 2020/12/06(日) 18:19:15.27 ID:3wcwUWL7
日本語と中国語は全く異なる系統の言語であるが
例えば馬ウマは中国語のマから
梅ウメはメイから
竹タケはチクから来ているのかもしれない

 

引用元: https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1607239346/

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