インド亜大陸全域をほぼ統一した帝国、マウリヤ朝について知っていること
マウリヤ朝(マウリヤちょう、梵: Maurya-sāmrājya、紀元前317年頃 – 紀元前180年頃)は、古代インドで栄えたマガダ国に興った王朝である。
紀元前317年頃、チャンドラグプタによって建国された。
アショーカ王の時に全盛期を迎え、南端部分を除くインド亜大陸全域を統一した。
しかしアショーカ王の死後国家は分裂し、紀元前2世紀初頭、シュンガ朝の勃興により滅亡した。
>南端部分を除くインド亜大陸全域を統一した。
つまり統一できなかった
チャンドラグプタよりアショカのほうが知られてるよ
これちがうだろ。シュンガ朝は将軍のクーデターだから簒奪
カウティリヤは紀元前324年頃のインド北西部におけるチャンドラグプタの挙兵に大きく関わったとされており、
彼の補佐のもとチャンドラグプタはガンジス川中流域へと侵攻してナンダ朝の首都パータリプトラを占領し、
国王ダナナンダを○害してナンダ朝を滅ぼし、マウリヤ朝を建国した。
カウティリヤは建国されたマウリヤ朝において引き続き政治顧問の役割を果たし、事実上の宰相となっていた。
また、タキシラにあった大学の教官でもあった。
チャンドラグプタのタヒ後も、彼の息子であるビンドゥサーラ王のもとで引き続き補佐を行っていたとされる。
カウティリヤの残したとされる「実利論」はサンスクリット語で書かれた冷徹な政治論であり、しばしばマキアヴェッリの『君主論』と比較される。
この「実利論」は同時に、当時のマウリヤ朝やインド社会を知るための貴重な資料ともなっている。
カウティリヤの「実利論」は、かなり有名な個展
日本での知名度はゼロに近いが
マキアヴェッリとよく比較されるカウティリヤだが
そういやマキアヴェッリのころのイタリアも毒による暗○が盛んだったね。
>>13
昼でも暗い濃密なジャングル
支配できるようなところではない
古代インドに騎兵なんていたの?当時は戦車だったんじゃないの
象に騎乗してたろ
>>22
>>15に、「騎馬軍団には」と書いてあるけど
あと辞書には、騎乗も騎も馬に乗ること、と出ているが・・・
ポロス
仏典にはよく四兵(象・馬・車・歩の四軍団)が登場しており、これは阿含経からすでに見られます。
また、王の七宝と言えば車・象・馬・玉・美女・宰相・将軍の七種のこと。
『実理論』にも四種の軍団のことは見えており、チャトランガの駒にもなっていますね。
至極攻めにくそう
インドとアラビア半島は、地図で見ると意外なほど近い
古代から交易が盛んだったのは当然
アショーカ王 獅子柱頭
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/p/postagestamp/20170326/20170326161816.jpg
>>26
プリニウス博物誌で言及されているパーンディヤ朝の軍隊は歩兵と象だけとなっている
古代の南インドに騎兵がいたかどうかは実証に乏しいような
レリーフとか遺物とか発掘されてないのだろうか
どうも極論が多いな
「濃密なジャングルに覆われた熱帯の低地は、移動しにくい地形なので、征服するのが難しい」と言ってるだけで、不可能とまでは言ってない
もっとも、たとえ征服したとしても、長く支配し続けるのは不可能に近い
インド南端全体が熱帯ジャングルというのも極端だろ
熱帯モンスーン、ステップ、サバンナ気候帯にわかれている
>>32
インド人は、歴史に無関心で記録しない国
マウリヤ朝のチャンドラグプタは、アレクサンドロス大王と戦ったおかげでギリシャ側の記録に残った
マウリヤ朝が有名なのは、「インド最初の統一王朝」というのもさることながら、それが大きい
>>51
チャンドラグプタが戦った相手はアレクサンダータヒ後のマケドニア軍
>>56
そうだな
「アレクサンドロス大王の東征軍」じゃなくて、「セレウコス1世のインド遠征軍」に訂正
紀元前3世紀にアショーカ王がインド半島の大部分を統一した。
アショーカ王は仏教をあつく信じ、
仏教の経典を編集させて、仏教をセイロン島(現在のスリランカ)まで広めたが、財政困難などの原因によって衰退
していった。
セイロン島に伝わった仏教は上座部(小乗)仏教といい、後に東南アジアまで広まっていった。
おいしい役得がありそうなポジションだ・・・
世界最大の人口を擁する都市だったとか。
ローマはポエニ戦争前でやだとイタリア統一した程度
ライバル都市としてはアレクサンドリアくらいか
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%9E%E3%A6%E3%
83%AA%E3%A4%E6%9C%9D#/media/File:Maurya_MAP.png
最南端の部分に色が塗られてないけど
ここの部分にはどんな勢力がいたの?
アショーカ王の時代の南インドにはパーンディア朝があったらしい。
「パーンディヤ朝に関する最古の記録のひとつに紀元前3世紀のマウリヤ朝のアショーカ王による
紀元前273年から同232年の間に刻まれた 磨崖詔勅の銘文が挙げられる。」
マウリヤ朝にチャンドラグプタ
グプタ朝にチャンドラグプタ1世
グプタ朝にチャンドラグプタ2世
紛らわしい
チャンドラグプタ1世とチャンドラグプタ2世の間に、サムドラグプタがいる
大正時代は昭和帝が摂政やってたから実質昭和
マウリヤ朝はアショーカがインドのある種のシンボルとみなされているものの・・・
マウリヤ朝が有名なのは、建国者のチャンドラグプタが、アレクサンドロス大王の東征軍と戦ったおかげ
歴史を記録することに興味がなかったインド人だが、チャンドラグプタはギリシャ側の記録に残って有名になった
それから、アショーカ王は仏教の歴史で有名な人物なので、そこでおおいに名を残した
インド人は、歴史には興味ないけど、宗教や哲学には異常なほど興味あるから
はじめてインド統一を成し遂げた人物だと誰でも習うのでかなり特別な存在になってる
>>54
インド人も、愛国心を植え付けるための歴史教育をやっているのだな
もともと、歴史教育なんてものは、そのためにあるようなものだが
なんだか、インドも中国みたいになってきた
・初代 チャンドラグプタ: ジャイナ教
・二代 ビンドゥサーラ: アージーヴィカ教(運命決定論による諦観主義)
・三代 アショーカ : 仏教
仏教経典で六師外道とdisられるジャイナ教とアージーヴィカ教だが、この時期拮抗していたことが伺える
またマウリヤ朝が、バラモン教以外の新思想を柔軟に取り込む基本姿勢を有していたことを示唆している
新宗教でバラモン教に対抗するという点では一貫しているようにも見えますな。
宗教の最大勢力を抑え込むのに目新しい宗教を使う。
「カウティリヤは、ヴェストファーレン平和条約よりもはるか昔に、
ヨーロッパの構造に匹敵するものをインドで築いた」。
「マキアヴェリとおなじように、自分が目にした世界を分析し、
行動の指針として規範ではなく実利を提案した」。
「『実理論』では、他の国をすべて征服し、
勝利に向かう道に存在するそういう釣り合いを克服することが、戦略の目的である。
その点からすると、カウティリヤはマキアヴェリではなく、
ナポレオンや秦の始皇帝になぞらえられるべきだろう」。
「カウティリヤはマキアヴェリとはちがい、よりよい時代の美徳への感傷を示さなかった。
カウティリヤが認める美徳の基準はただひとつ、
勝利への道についての自分の分析が正確かどうかということだけだった」。
「いわばマキアヴェリとクラウセヴィッツを組み合わせたような理論だった」。
「『実利論』は国際秩序を打ち立てるための手引ではなく、征服のための手引だった」。
国際政治学者であり、ニクソンとフォード政権期の国家安全保障問題担当大統領
補佐官であり、国務長官だったヘンリー・キッシンジャーは驚くほど高評価を下している。
さらに、マックス・ウェーバーも
「これに比べればマキャヴェリ『君主論』などたわいもないものだ」
と述べている。
現実に施行されたわけでも何でもないでしょ
同時代のアレクサンドロスの東征軍の将校らが残した見聞録とは大きくかけ離れるし
やっぱりそんなものなんやな
チャンドラグプタ時代のマウリヤ朝の統治制度っていまいち良く分からないんだよな
単純に資料が少ないんかね?
アショーカの統治って仏教的なダルマの統治がメインだったんじゃないの?
だるまさんがころんだ
だるまさんがころんだ
そのだるまも語源同じやで
達磨人形のダルマってインドの言葉由来や
dharna samgha ko runda
ダルマ(法)、サンガ(僧伽)を誰が傷つけたのか?
まあ後に仏教に目覚めて改心するから……
カウティリヤの実利論は、諜報活動の話が多い
古代インド人はスパイを送り込むのが大好きで、お互いに諜報合戦を繰り広げていた
始皇帝やネロは暴君の代表みたいな扱いされてるけど
これは弾圧された儒者やキリスト教徒が誇大に暴君宣伝してるからで
実際にはそこまで暴君ではなかったと言われてる
アショーカは特にネガキャンされてるとは思えんから
ほんまに暴君やったんやろな
99人兄弟○し、500人大臣○し、8万4千の塔に分納
話盛りすぎだろ
始皇帝やネロと違うて特に恨みのある勢力は無いと思うけど
>>87
まあ、仏典は「極悪人が解脱して聖者になった」とか、「ボーッとしたバ○が覚醒して知恵者になった」とか、そういう転回話が好きだけどな
でも、火の無いところに煙は立たない
伝説の暴君になったからには、相当に苛烈だったはず
恨みがあるから盛ったんじゃなくて、「かつては苛烈な暴君が仏教で改心した」ってなると仏教の良い宣伝エピソードになるから仏教サイドが盛った可能性はあるんやない?
苛政で溜まった恨みと怒りが一気に爆発しそうなもんだが
生き残りがいるから恨まれる
全滅させれば恨まれない
いまでいうパキスタンやアフガニスタンあたりまで版図におさめているからな
シナにたとえれば、中華皇帝がモンゴルまで征服するようなものだ
アフガニスタンはともかく、パキスタンは歴史的にインド亜大陸の一部なんだし、
中国にとってのモンゴルとは全然違うやろ
一説によると、チャンドラグプタがセレウコスと戦った可能性もあるんだとか
中国への侵略者もたいてい雁門関を通ってやってくるが、中国の場合は他にも侵入口がいくつかある
その点、インドはカイバル峠しか侵入口がない
そこしかないなら守りやすいように思えるが・・・それこそ長城つくって
インド人にはそういう発想はなかったのだろうか
大航海時代以降のヨーロッパ人は海沿いからインドに侵入してるな
イギリスのインド植民地化だって基本的には海沿いからスタートしてる
だだっ広い乾燥した平原、しかも酷暑が続く土地のようだ
長城を築くのは無理だったのではなかろうか
カイバル峠
数千年のインドの歴史を見ると、西北方面からの侵略を何度も受けてるので、攻めやすいのかと思ってしまうが
実際には、ヒンドゥークシュ山脈は峻険な「世界の屋根」
なんとか山を越えても、その先には支流が多い暴れ川のインダス越え、広大なラージャスターンの砂漠越えが待っている地獄の行軍
防衛は土地の峻嶮かどうかよりも人にかかってる
バーブルは、インドで皇帝になってからも、故郷の中央アジアに帰りたがっていた
高温多湿もさることながら、「美味しい果物がない」というのが最大の不満だったらしい
バーブルのタヒ後、フマーユーンが亡命先のペルシャから多数の料理人を連れ帰ってきたため、インド料理は劇的に進化することになる
その次のアクバルで、インド的なものとペルシャ的なものを併せ持つ、満漢全席みたいなムガール宮廷料理が完成した
インドの文化は、ムガール帝国の時代に飛躍的に進化した
それ以前のインド文化は、土人っぽかった
古代インドでは、女性も上半身裸だった
その頃は、おっぱいが珍しくなかったため、見ても興奮しなかったらしい
そもそも、インドはヨーロッパ大陸くらい広い
ヨーロッパも統一された試しがないのに、インドを統一できないのは当たり前
もっとも、ヨーロッパは地形が複雑だ
イギリスは島だし、スペインとイタリアは半島で、半島の付け根を峻険な山脈で区切られている
ドイツとフランスを除けば、自然国境の壁が厚い
日本も地形複雑で多数の島に別れてて山脈多い平地少ない悪条件なのに
1500年前から統一されてる
日本は〇〇道を抑えるために、線をたどる。
ヨーロッパ大陸は平野部が大きいので、面を抑えなければならない。
華北平原から長江まで
済南近辺にちょこっと山ある以外はまったく山なんか無いだだっぴろい平原
2200年前に始皇帝に統一されてる
>>120
イタリアもそれと似ている
細長い国土なのに、東海岸から西海岸への移動は「海をグルっと回ったほうが早い」と言われるほど山が険しい
イギリス・フランスに比べて、統一および国民国家形成が何百年も遅れたのは当たり前
アペニン山脈ってそんなに険しい?
脊梁山脈を持つ形状が似てるっちゃ似てるとはいえ、少なくとも日本の本州よりイタリア半島は緩そうだけど
インドは、大きく分けて北のヒンドゥスタン平原と、南のデカン高原に分かれる
南北の境界線となっているのは、ヴィンディヤ山脈とサトプラ山脈で、その間の細長い谷間をナルマダー川が流れている
>>123
江戸時代なら緩やかな統一国家体制と言えるだろうが、室町時代なんか、どう見ても統一国家とは言えない
天皇と将軍がいるから統一国家だというのなら、ヨーロッパも教皇と皇帝がいるから統一国家
インドも、北部のヒンドゥスタン平原はだだっ広い低地
暑い国だが、熱帯雨林に覆われているわけではないので統一しやすい地形
でも、南部のデカン高原を長期にわたって支配するのは至難
ましてや、南端の密林に覆われた山岳地帯など
デカン高原の美しい風景
オムカレシュワルの魅力はその風景にある。はじめて見たすべての人が、その景観に釘付けになってしまう。
青々とした川の流れと雄大な空のコントラスト、川を行き来する幾つものボート、小さなガート、そしてガートから急な階段を上った辺りにある寺院、遠くに見える火葬の煙。そのすべてが美しい。
夕暮れの風景も忘れがたい。赤く染まった川の流れを眺めていると、シタールの音色がふと聞こえてくるようでさえある。
http://chaichai.campur.com/image/tabinozatugakuimage/omkareshwar01.jpg
日本の戦国時代だと、中央の秀吉軍が
地方で勢力を伸ばした長宗我部、島津を大軍で一捻り。
伊達、上杉などを戦わずして服属させる。
最後には物見遊山で北条氏を攻略。
ゲームで言うと終盤は楽勝モード。
それに比べるとインドの大国化した王朝は最後の詰めが甘いように感ずる。
スレ違いの極致
>>132
いや、そんなことない
「インドを統一するのが、どれほど難しいか」は、日本人には実感しにくいテーマなので重要
あれは日本人ならほぼ100パーセントが好きたという味
遠征の理由は不明瞭であるが、マウリヤ朝の軍が時に敗走するなどの激戦の末カリンガ国を征服した。
この時15万人もの捕虜を得たが、このうち10万人が○され、戦禍によってその数倍の人々がタヒに、多くの素晴らしきバラモン、シャモンが○され、多くの人が住処を失ったという。
アショーカ王はこれを深く後悔し、この地方の住民に対し特別の温情を持って統治に当たるよう勅令を発した。以後対外遠征には消極的になり「法(ダルマ)の政治」の実現を目指すようになったという。
やっぱり資料に乏しいからなんだろうか
265年、アショーカ王の頃の版図
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3d/Maurya_Dynasty_in_265_BCE.jpg/250px-Maurya_Dynasty_in_265_BCE.jpg
人口スッカスカなんだから
一応、インドをほぼ統一した王朝とは言われてるけど、どの程度まで集権的な支配が敷かれていたのかはいまだに良く分かってない
内地の帝国なのに、パキスタン・アフガニスタンまで征服したというのが凄い
中国でいえば、漢や明がモンゴルまで征服するのに相当する
武帝や永楽帝が生涯をかけた戦い
いや、パキスタンはインダス川流域だから、古代としては純然たるインドの地
アフガニスタンが、古代のペルシャ帝国やアレクサンドロス大王から、近現代のイギリス・ロシア・アメリカに至るまで苦戦つづきの難物だが、よく征服できたな?
マウリヤ朝によるアフガニスタン方面の征服は同時期にこの辺りを支配していたセレウコス朝との関係が手がかりになりそう
実際、マウリヤ朝初代王のチャンドラグプタはセレウコスと戦ったかも知れないと言われている(真偽はいまだに不明だが)
Wikipedia 「セレウコス朝」より
セレウコス1世は東部領土に目を向けた。当時マケドニアの東部領土ではバクトリア地方で入植ギリシア人の反乱が発生していた他、イラン高原の総督(サトラップ)達は親アンティゴノス派によって占められていた。
紀元前305年から2年間にわたるセレウコス1世の東方遠征は成功のうちに終わった。
一方この領土拡大の結果、当時インドで勢力を拡大していたマウリヤ朝の王チャンドラグプタの勢力範囲とセレウコス朝の勢力が接触した。
この時の軍事衝突の有無は不明であるが、セレウコス朝はマウリヤ朝の優位を認め、ガンダーラ、ドランギアナなど国境地帯のかなりの領域についてマウリヤ朝の支配権を容認し、見返りとして500頭もの戦象を得た。
古代には、アフガニスタン・タジキスタン・ウズベキスタンの国境あたりの盆地にバクトリアがあった
バクトリア王国はセレウコス朝にもマウリヤ朝にも従わず、イラン方面に勢力を広げ、アショカ王のタヒ後はインドを侵略した
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/14/BactriaMap.jpg/350px-BactriaMap.jpg
インド・グリーク朝だな
インドへのギリシャ人の侵入はマウリヤ朝時代以降も続いたわけだ
セレウコス朝から領土を奪ったマウリヤ朝は、インドへのギリシャ人への侵入を遅らせた存在と見ることもできる
ギリシャとインドなんて遠すぎるのに、良くこんな古代に接点があったもんだ
フン族がヨーロッパで荒れまくったのもローマが交通路を用意してたからみたいな?
乾燥地帯の移動は、「砂漠の船」ラクダがいればスムーズ
海上移動と同じで速い
だがモンゴルだけは追い返した
>>154
プラティハーラ朝が、初期のイスラム帝国による侵入を防ぎきったことを忘れてはならない
あれがなかったら、いまごろインドではイスラム教徒がもっと多かっただろう
バーブルはモンゴルっていうよりもトルコ系だろう
ティムールの系譜だし
実質的にはチュルク化していても
ティムールと同様に家系の権威付けにはモンゴルを頻用する
そもそもムガールってモンゴルだし
母方の祖父であるモグーリスタン・ハン国の君主ユーヌスはチンギス・カンの次男チャガタイの後裔
モグーリスタンっていうのももろモンゴル
ムガールって呼称はあくまでも他称なので、当人たちはそこまでモンゴルの権威を利用してないぞ
ペルシア人やん
ムガール帝国はトルコ人だ
ペルシャ文化に傾倒し、ペルシャ語を公用語としていたが
アフガニスタンとパキスタンの間にはカイバル峠があり、自然国境が明確だ。
それに比べて、パキスタンと北インドはどちらも広大なヒンドゥスタン平原の一部であり、明確な自然国境があるわけではない。
インドを独立するに当たって、イスラム教徒が多い地域とヒンドゥー教徒が多い地域を分離することになり、イギリスが適当に線引きして国境を決めた。
そして、イスラム地域からヒンドゥー教徒を、ヒンドゥー地域からはイスラム教徒をそれぞれ強制移住させた。
つまり、パキスタンと北インドは、もともと宗教的な地域差はあったものの、それが今ほど明確になったのは20世紀のことだ。
そこからカイバル峠を越えてアフガニスタンにまで勢力を伸長できたのは、マウリヤ朝くらいのものだ。
インダス川の東側は広大なタール砂漠で、これを越えるのは大変
これがインドとパキスタンを分けた
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/02/Map_of_Vedic_India.png
パキスタンの中核地域、シンド州の歴史
紀元前3千年頃インダス文明が始まり、シンドにも有名な遺跡モヘンジョダロがある。
紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシャに征服され「ヒンドゥシュ州」に組み込まれた。紀元前4世紀にはアレクサンドロス3世(大王)の遠征に続き
ギリシャ系セレウコス朝に短期間支配された後、マウリヤ朝に征服され、アショーカ王治下では仏教が盛んになった。
その後、ウマイヤ朝に征服されてイスラーム化が進み、シンドと呼ばれた。
アラブの支配は約3世紀続き、現在につながる文化が生まれた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/22/Sindh_in_Pakistan_laims_hatched%29.svg/500px-Sindh_in_Pakistan_laims_hatched%29.svg.png
ガンジス川流域の支配を確立したチャンドラグプタはインダス川方面の制圧に乗り出した。
インダス川流域はマウリヤ朝の成立より前にマケドニアのアレクサンドロス大王によって制圧されていたが、
アレクサンドロスが紀元前323年にタヒ去すると彼の任命した総督(サトラップ)達の支配するところとなっていた。
ディアドコイ戦争中の紀元前305年、アレクサンドロスの東方領土制圧を目指したセレウコス1世がインダス川流域にまで勢力を伸ばした。
チャンドラグプタはその兵力を持ってセレウコス1世を圧倒して彼の侵入を排し(セレウコス・マウリヤ戦争)、セレウコス朝に4州の支配権を認めさせてインダス川流域からバクトリア南部にいたる地域に勢力を拡大した。
これが直接的な戦闘の結果であるのかセレウコス1世が戦わずしてマウリヤ朝の領域を認めたのかについては諸説あり判然としない。
「いつ、誰が造ったのか」が分からないというところが、インドらしい
アレクサンドロス大王は、カイバル峠を越えてインダス川、いまでいうパキスタンまで進軍した。
兵士たちは、インダス川を越えてインドまで攻め込むことに難色を示したため、だった。大東征はそこで終わった
インダス川を越えると、そこには広大なタール砂漠が広がり、厳しい行軍となる。
アフガニスタンのカブールを拠点としていたバーブルの軍でさえ、ここで進軍拒否する兵士が続出したため、兵士の数がかなり減った
インダス川
砂漠の中を流れている。インダス川とその両岸だけが緑豊かな肥沃の地であり、他は不毛の荒野で人の住むところではない。
エジプトにとってのナイル川、イラクにとってのチグリス・ユーフラテス川と似た存在だ。
エジプト・イラク・パキスタン
古代文明の地は、みんなこういう気候条件だ。
しかも、3つともイスラム教徒の地。
イスラム教は、こういう風土と相性が良いのだろう。
カイバル峠は高校生でも世界史選択者なら誰でも知ってるほど有名だけど、正確な位置を知ってる人はめったにいない
アレクサンドロス大王もティムールも、まず、めちゃくちゃ険しいアフガニスタンの「ヒンドゥークシュ山脈」を越えた。
ここにも古来から知られる峠が3つほどあり、その3つしか通るところがない。
しばらく行くと、今度はまたまたかなり険しい「スレイマン山脈」にぶつかる。有名なカイバル峠があるのは、このスレイマン山脈で、この峠しか通るところがない。
http://feynmanino.watson.jp/5076_Karakorum3.jpg
https://blog-imgs-80-origin.fc2.com/j/h/f/jhfk1413/201508031705418ad.png
歴史学的にはどの程度認められているのだろうか。
ほぼ事実とされてるんじゃないの?
五人の西方の王の名と在位が合致するらしい
極端な話、当時インドは「ギリシャ人の国」と国境を接していた。
別に極端な話でもないんじゃないか?
バクトリアはギリシャ移民の国。
アフガニスタン・パキスタンの各地に分布するアショカ王の碑文のギリシャ語は、ネイティブじゃなきゃ書けないほど正確な名文なので、間違いないらしい
先祖は西のかなたの楽園からきたと氏族の伝承があったのだろう。
クシャーナ朝(クシャーナちょう、英: Kushan、中: 貴霜)は、中央アジアから北インドにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えたイラン系の王朝である。
紀元前2世紀、匈奴に圧迫されて移動を開始した遊牧民の月氏は、中央アジアのバクトリアに定着した。これを大月氏と呼ぶ。
『漢書』西域伝によれば、大月氏は休密翕侯,貴霜翕侯,雙靡翕侯,肸頓翕侯,高附翕侯の五翕侯を置いて分割統治したという。
それから100余年後、五翕侯のうちの貴霜翕侯(クシャンきゅうこう)が強盛となり、他の四翕侯を滅ぼして貴霜王と称すようになった。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e5/Kushanmap.jpg/250px-Kushanmap.jpg
アラム系文字で筆記される場合が多いイラン語としては唯一ギリシア文字系で筆記された。
>>191
それはつまり、非セム系言語でありセム文字に向いていないにもかかわらず
ずっと母音文字に恵まれなかったイラン系言語が、
ほとんど例外的に母音を完全に表記する文字を得たっていうことなんだよな
他の例外としてはアケメネス朝期に作られた楔形文字風の古代ペルシア文字と
ササン朝期に聖典アヴェスタの発音を精密に記録したアヴェスタ文字があるが
どちらもほとんど日常的にペルシア語を表記するのに使われなかった
ペルシア人はアケメネス朝ではもっぱらアラム語とアラム文字を使い、
ササン朝期にはアラム語を訓読してアラム文字でペルシア語の送り仮名を振るというパフレヴィー語で読み書きし
イスラム教化した後にはアラビア文字で不完全に母音を表記する新ペルシア文字の体系を作った
早くからギリシャ文字にも接していたのになぜ多くのイラン系民族は母音を書く便利さを選ばなかったのかは不思議だ
他の人はウィキペディアの存在すら知らないと勘違いしてる知障だろうか
>>192
自分で書いたら時間がかかるから、時間短縮のためにコピペしている
単なるコピペではなく、抜粋して要約してある
>>192
このスレでそんなにWikipediaを引用したかな? と思ってザックリと見直したが、2,3回しかやってないぞ(笑)
しかも、加工して要約したものばかりだ
Mauryan Empire
https://en.wikipedia.org/wiki/Maurya_Empire
Territorial evolution of the Mauryan Empire
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/46/Magadha_Expansion_1.gif
Maurya-Reich
https://de.wikipedia.org/wiki/Maurya-Reich
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/07/Seleukidenreich.png
北西では、マウリヤ帝国はギリシャが支配するセレウコス帝国に接していました。
サトラピーの所属は、それぞれキリスト教以前の時代に指定されていました。
>>200
いやいや、そんなことないよ
自分が知ってるからといって、他人も知ってて当然と思うのは、世の中に対する初歩的な誤解
>>211
ハンニバルなんか、象兵でアルプス山脈を越えたくらいだ
イタリアに入ったときは、出発時より象の頭数がだいぶ減ってたようだが
大王の遠征はガンジス川で止まったのに、ディアドコイ戦争でインドの象が出てきたって本当なのか?
インドは無関係じゃなかったのか
セレウコスがマウリア朝とアフガンの覇権を争って、覇権を認める代わりに戦象部隊を提供させた。
ヒンドゥークシュやパミールを越えることさえ可能だ
山越えはそもそもアジアゾウは現在も山間部にも生息して木材切り出しに使役されているのだから問題ないとして
(マルミミゾウは知らん)
大量の糧食と飲用水を一体どうやって運搬したんだろうか
現在のインド共和国内部なら現地調達も昔は北部の砂漠化が進んでなかったからなんとかなったろうが
ペルシャ高原は昔から乾燥地帯だろ?一体どうやってインドからシリアまで戦象部隊は移動できたんだろ?
海岸沿いに移動すれば、インドから中東方面へ象を送ることは可能。
下図を見れば分かるように、そのルートはもともとアジア象の生息範囲だった。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/75/Elephant_spread.png
これならディアドコイ戦争でインド象が多用されたのも理解できる。
水や食料もそれくらいと考えれば普通に携行可能
>>223
そうだ。そして、馬とは頭数がケタ違いに少ない
馬を何千頭も連れていくのと比べたら、象を数十頭など、たいしたことはない。
むしろ、近代になってもイギリス軍などは、象を兵糧の運搬に使ってたくらいだ
倭の国王とやらが単発的に後漢に使者を送ることがあった程度の交流
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません