倭って日本のことを指していると思われているけど、日本列島と記した古代文献は一つもないって知ってた?
中国の学者楊守啓氏がいうには、「朝鮮側の史料『東鑑( 東国通鑑) 』では詳らかではないが、
日本の史書から判断すると、高句麗広開土王即位の年は西暦3 9 1 年であり、日本では仁徳天皇の治世時に当たる。
しかし、この間、両国には抗争の事実はみられず、又、中間の履中・允恭両天皇の時代にも、高句麗・新羅と闘争の事実はない。
又、三宅米吉氏も『高麗碑考』の中で同様のことを語っている。即ち、「倭・倭人と高麗との抗争記述も、
『日本書紀』など日本側の記述に対応すべきものがなければ、強いて附会する必要はなかろう。
碑文中に現れる倭が、大和朝廷で在ることを明証した論考は現れていないのである」との見解を述べている。
倭や邪馬台が何処であろうと、我が国の古代史に繋がることではないので、
目角つなめくじらを立て附会曲解をする必要ないこと、論ずるまでもない。
「倭」そのものゝ総体的な輪郭が把握できず、「邪馬台」が「大和朝廷」の前身などという固定観念で、
これら倭人に関する伝記などを捏ねくり返してみたところで、
先人の糟粕を舐め啜るのが落ちであろう。
2: 2019/08/02(金) 23:13:26.70
狗邪韓国は倭のなかでも
西北に位置している
しかも倭の北岸とされている
どういう事?
>>10
当時の倭は、大海の中に有る島国って扱い。
ところが、その(島国の)北部までは
韓国の領土だったと書かれてある。
(つまり、南に関しては地続きだったと言う訳だ)
「韓国は東西を海で囲まれてるが
南に関しては倭国の島の北部まで領土が伸びている」って記述。
ちなみに、半島内まで倭国の領土があったから
地続きとされた……と解釈したがる人がいるけど
それは無理なんよ。
もし、そうなら「倭国が大海の中にある」とは
書かないはずだから。
(あくまで、島国である倭国の中にまで
韓国の領土が有った……としか読みようがない)
>>41
>「韓国は東西を海で囲まれてるが
>南に関しては倭国の島の北部まで領土が伸びている」って記述。
違う。
韓国は四角くて、南は倭に接している、だよ。
半島南岸が倭。
倭については、海の中にあるとあるので、玄界灘の一帯が倭なんだよ。
>>44
いやいや、その解釈は無理なんだ。
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kanden/gisi_kanden.htm
>韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接
>方可四千里有 三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓
>辰韓者古之辰國也
>「韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、
>南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、
>二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。」
「東西が海を限りとするが
南は(海が限りでなく)倭国と接する」……と言う意味で。
つまり、「南に海が無い」か「南が海を越えてる」かの、どちらかな訳だ?
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kanden/gisi_kanden.htm#3
>三、弁辰伝
>其トク盧国與倭接界
>「その(弁辰の)トク盧国は倭と界を接している。
しかし弁辰伝をみれば、倭国と接してるとあるのは、あくまで弁辰のトク盧国だけとわかる。
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kanden/Kanden_zu/k3.gif
↑の図みたいに、弁辰の南に倭国が有ったと考えたら
馬韓の南は海になるんで「韓国の南限も海」と表記されないといけない。
>倭人在帶方東南大海之中
>「倭人は帯方東南、大海の中に在り。
はっきりと「倭人は大海の中にいる」とあるのだから
「玄界灘の一帯が倭」と言う解釈は不可能だ。
馬韓が南岸まで及んでいないのだろう。
>>48
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kanden/gisi_kanden.htm#1
>韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接
>方可四千里有 三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓
>「韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、
>南は倭と接す。およそ四千里四方。
>三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。
>馬韓在西
>「馬韓は西に在る。
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kanden/gisi_kanden.htm#2
>辰韓在馬韓之東
「辰韓は馬韓の東にある。
>始有六國稍分為十二國 弁辰亦十二國
>「始めは六国あり、じょじょに分かれて
>十二国になった。弁辰もまた十二国である。
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kanden/gisi_kanden.htm#3
>弁辰與辰韓雑居
>「弁辰は辰韓と雑居する。
>其トク盧国與倭接界
>「その(弁辰の)瀆盧国は倭と界を接している
日本の神話集だか文献だか知らないが倭←と言うのが人名の中にのみある
あとはまったく関連するのがない
日本で最初の近代的な意味での歴史学者新井白石によれば
日本書紀に記されているヤマトと熊襲の戦争は
馬韓と高麗(コマ)=高句麗戦争のこと
つまり倭とは漢文・仏教文化を受容する以前の馬韓そのもの
後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
そして渡海時期も春先から台風シーズンまでの間に限られる
農耕民族に国を作ろうという発想があるだろうか
あるとしたら何が目的で国なんか作るだろうか
国というのはヨーロッパもだが
馬賊が攻めてきて作るものだろう
電話も車も無い時代に農耕民族が徒歩で国を作ったとして
どうやって維持するんだ
というわけで倭国とは百済人の小さい集落のことだろうね
それを含めてもっと広く新羅人が制圧したのが「日本」でありましょう
日本各地から新羅の刀が見つかっているそうだから
そこで4世紀から5世紀にかけて高句麗と争った百済か、結果失地して倭の領土である朝鮮半島南部を割譲させて遷移してきた
>>52
日本列島から進出したと考えてるなら大間違いだけどな
倭のもともとの本拠が朝鮮半島
人口動態など常識的な範囲で考えてもそういう結論に達する
遼寧省→朝鮮半島→日本列島
の順で古代において人が流入し続けてる
日本列島の場合だと年間数千人規模
韓国は『馬韓、辰韓、弁韓』の三種にわかれ、
馬韓は西に在り、辰韓は東にある。
さらに辰韓と弁辰は雑居し、
それぞれが12か国に別れていて、そのうち
弁辰国の一つであるトク盧国のみが倭国と接してる。
倭国が在るせいで韓国が南を海に接せないとしたら
そのトク盧国ってのが半島南部の海岸を
全部、埋めつくす形状じゃないといけない……
大雑把に言って36分の1の国がだよ?
(韓国を三地域にわけた、さらに12分の1)
もっと素直に考えて、編集者は
12ある弁辰内の1つの国が、
倭人の島に在ったと解釈してただけだろう。
そもそも、この記事は
(韓国や倭国について)予備知識のない人に
向けて、書いている訳で。
素直に読んだら……倭国が大海の中にあって
韓国の東西が海で、南だけ倭国に接してると有れば、
倭国の島に韓国の領土が
伸びていると、(何も考えずに読んで)解釈するだろう。
三地域のうち、さらに12か国うちの1つが
倭国と接してるから、韓国が海まで到達できないとは
まず、解釈できないはずだ。
解釈に無理がありすぎるw
なんで?
トク盧国の国の位置や形状がわからない状態で半島南部で
倭と接するのはあり得ないという意見が。
倭人伝の狗邪韓国の記述とも矛盾するから。
だから朝鮮半島南岸を倭の北岸と呼んだ。
南側は倭奴国で終わる。
從郡至倭、循海岸水行、?韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
「帯方郡から倭に至るには、海岸に循って水行する。韓国を経るのに、時に南し、時に東する。
其の〔倭の〕北岸の狗邪韓国(こやかんこく)に到着する。7000余里である。」
渡海前の狗邪韓国は帯方郡と陸続きでなければならない。
陸続きって事は無いんだろうな
いやいや、わからないぞぉ。
海岸に沿って行き、韓国を経て
(韓国の陸地はいったん通り過ぎて海な訳だ)
あるいは東あるいは南に行ってからの
北岸七千里の地点だからなぁ
(その後水行20日する、12000里のうちの7000里だ)
思うに倭人のいる島に渡るまでの距離の説明として
七千里まで先に解説したんだろう。
そして次の文で、あらためて
「始めて海を渡ると~」「また海を渡ると~」と
海をわたる際の別個の説明をしてるんだ。
素直に考えて、「倭の北岸に韓国が有った」との解釈で十分だ。
自身で提示した話なんだから受け入れなよ。
『倭の北限』ならまだしも、『北岸』だからね。
そこに韓国って国名がふってあるんだから
あきらかに倭人のいる島の北岸に韓国があったと想定している。
陸地なら釜山あたりで、島なら巨済島だろうな
つまり
「倭国の北岸が狗邪韓国」と書いてある
>>86
>つまり
>「倭国の北岸が狗邪韓国」と書いてある
「倭人有り当方東南大海の中」
ここは倭地との間の海を三途の川に見立てて書いてある。
つまり其の北岸とは、「長江北岸」のように、三途の川(対馬海峡)の北側の岸という意味である
倭国って三途の川だったのか?w
まあ、ぶっちゃけた話。
現代人の我々だって、
衛星写真や地図みりゃ、一目瞭然だけど
伝聞で「あーいって、こーいって…」と説明されても
「ん? んぅ? こうかな…?」って感じで
とりあえず、書くだろうけど
ぜんぜんイメージ出来ないってのは、ありそう話だ。
(ましてや、昔の地図自体がデフォルメきついし。
島なんて。細かい形状、無視して丸っこいだけだったりもするし)
編集してる方も、頭の中で正確な地図が
出来上がってる訳じゃなく。
伝聞くっつけても、なお説明不足だったり。
編集者が「こうだろうな」と説明を補った部分が
間違ってたりもしてるだろう。
「アメリカの南にはテキサスが在る」
「アメリカの南にはメキシコが在る」
説明としては、どっちも正解なんだよね
因みに魏書の他の部分
韓在帶方之南,東西以海爲限,南與倭接
「韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と接する」
其涜盧国與倭接界
「その(=弁辰の)トクロ国は倭と境界を接する」
まとめると、こうだよね
・倭人は大海の中にいる
・韓国の東西は海を限界とするが
南は海を限界とせず倭国と接っしている
・倭の西北には狗邪韓国がある
・韓国のトクロ国が倭国と境界を接っしている
さすがに無理がある
朝鮮半島南岸は対馬海峡北岸じゃん
どこに無理があるのかさっぱり分からん
あの解説は秀逸だったな
魏志倭人伝誤読説
https://youtu.be/ZqCNMeXXJoQ#t=34m49s
>從郡至倭 循海岸水行 歴韓国
>乍南乍東 到其北岸狗邪韓國
まあ、結局、マジレスすると
「其北岸」を「倭の北岸」って解釈するなら
「倭北岸」って書けばいいだけなんだよね。
同じ一文字なんだし。
問題は、なんで「其」って書いたかなんだよ……
「その北岸とは、どの北岸?」
「もちろん、その直後に来る狗邪韓國の北岸なんよ」
北岸って面を誇張するために
先に持ってきてるだけで。
いきなり北岸と書いても
どこの北岸かわからないから
「其」で断っといて、直後の狗邪韓國(の北岸)で説明がつく。
もう一回書くけど
「倭の北岸」のつもりなら「倭北岸」って
書けばいいだけなんだよ
>從郡至倭 循海岸水行 歴韓国
>乍南乍東 到其北岸狗邪韓國
あるいは、「いや、『其』は
すでに文中に出てる単語に由来するはずだ」ってなら
その文章の途中に「韓国をへる」とあるんだから
「海岸にしたがって。水行し韓国をへる。
ときに南へ、ときに東へすすんで、
その(韓国の)北岸の『狗邪韓国』に至る」
……で、普通に意味も通るんだよね
もう少し後の時代の隋書の倭国伝になると日本じゃないなんて解釈しようがなくね?
でなきゃ聖徳太子の時代には既に日本が間違いで倭国扱いされてた事になるぞ
そもそも隋書には聖徳太子が出てこない。
隋に国書を送ったのは倭王の多利思比孤だ。
(歴代天皇の諡号では何人かいる)
逆に有名な日出る処の天子~は
日本側の記録に出てこなかったりして
通説も割とガバガバな裏側あるよな
それに対して金印は卑字を当てたから倭奴国。
金印と伊都の三雲遺跡が同時代だから、実質的には同じなのだろう。
引用元: http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1564730934/
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コメント一覧
本当だったら歴史が変わるけど、実際の所この話どれほど信憑性があるの?
終始胡散臭さしかないスレだな