もし全盛期のモンゴル軍が戦国時代に攻めて来たら?
日本に攻めてきた時既に全盛期じゃなかったか?
戦国時代に蒙古襲来があったら
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1088685950/l50
2 : 日本@名無史さん : 04/07/01 21:49
だな。2
3 : 日本@名無史さん 投稿日: 04/07/01 21:49
モンゴル人など信長様が皆○し
4 : 日本@名無史さん 投稿日: 04/07/01 21:51
ヌルハチだったら日本はひとたまりもなかった。
5 : 日本@名無史さん : 04/07/01 21:51
モンゴル兵を生け捕って、逆襲来。
6 : 日本@名無史さん : 04/07/01 21:59
豊臣政権時代だったら復讐心に萌える日本軍が大都まで進撃しそうだな
7 : 日本@名無史さん : 04/07/01 22:08
蒙古ないで、お願い。
8 : 日本@名無史さん : 04/07/01 22:51
九州勢にボコられてアボーン。
戦国時代といっても長いですが。応仁以降か、文明以降か、それとも明応以降か。
時期によっては少弐を大内・大友や菊地が援助することになるのでは。
幕府はどう出るのでしょうね。
全盛期のモンゴル軍というのも、どういうものかよく分かりません。
騎馬なのか徒歩なのか、モンゴル人主体なのか漢人主体なのか、火器は時代
に応じて発達しているのか否か。
戦国日本に勝てるわけないぞ。
日本は山多いからそれなりに戦えるのは戦えると思う。
しかし、野戦の類は間違ってもやるべきではないと思うね。
基本持久戦の鉄砲攻撃でいいと思う。
あと、モンゴル軍に略奪を許さないように、民間人の移動とかどこで戦線張るか
とかを熟考するべし。
まあそんなことしてもゴビ砂漠越えて侵攻してくるから、あんま意味ないかもな。
山だろうと川だると難地形だろうと、関係がないらしいとモンゴル関係の書籍には
乗ってる。 意外と野戦でも柔軟で馬から下りて山を迂回して、奇襲するとか
いった戦術的柔軟性も持ってる。
まああれだ。海軍増強という視点にたって上陸させないということがベストでは
ないだろうか。
せめてオスマン・トルコにしろよ
銃も砲も充実しているオスマン軍に為す術もなく、蹂躪され、大坂城はウルバン
の一撃で吹き飛ばされ、秀吉はイェニチェリの足下に平伏して斬首されるであろ
う
ウルバンの命中率ご存じ?
てつはうなんて原始的な兵器では種子島銃三段撃ちで撃破されるだろうw
つか、秀吉は逆に侵攻しているのだから守ることを考えな!
秀吉軍が朝鮮半島を進軍したところで世界地図上ではわずかな距離にしかならない
しかし長期の停泊によって疫病が流行り出し士気は低下していた。
そんなこんなでまごまごしているうちに台風がやってきて止めをさされた。
まともに戦っても勝ち目は見えず、退却すればフビライの厳罰が待っている。
そんな状況が遠征軍の首脳の判断を鈍らせたのかもしれない。
補給が無理で元軍全滅。
村上水軍や九鬼水軍などの水軍を駆使して、いい勝負ができると思う。
モンゴル軍は、水上の戦いには弱かったような気がする・・・自分の記憶が確かなら
>>61
人間、幼少時代から育ちの違い(自然環境の違い)は、いざというときの判断で
決定的な差が出るよ。
まして今みたいに、栄養学が発達してない時期では、長期の船旅生活では間違いなく
ビタミン欠乏症になったろう。特に海草や魚の刺身を食べない大陸育ちは100%といって
よいほどビタミンC不足で壊血病に近い症状になったと思われる。ちょっとでも
傷ついたら治癒しないで化膿が広がっていく。後から後から化膿した腫れ物が全身に
出てくる。兵士たちにとって不気味な症状だぞ、これは。
海を越えてとなると馬を大量に持ってこれない
日本の地形では大陸のような機動性も発揮できないだろうし
火縄銃で鎌倉時代以上にフルボっコになるのでは?
・九州は上陸前に松浦・竜造寺・鍋島の猛攻でタヒ。
・中国は毛利に○られる。
・近畿は信長率いる火縄銃で絶対タヒ。
・関東は北条ぐらいは倒せるだろうけど後から押し返される。
・北陸は上陸不能。(謙信で)
・東北は攻略できると思う。安東と伊達と最上と相馬には頑張ってもらいたい。
火縄銃と長槍には勝てないし集団戦術も進歩してるし田圃や山じゃ馬使えないし100年近く戦国時代やってて歴戦の武士相手には勝てない。
これで勝てるモンゴル軍ならイージス艦にも勝てる
>>67モンゴルが銃をもってなくても日本の大名がもってるわけだから彼らにかわりに戦わせる可能性もある
代理戦争ですね モンゴルは人員と馬を弱小大名に提供すると
鉄砲って誰でも扱える訳ではないでしょ?
弱小はそれなりの人数しか使い手がいないと思うけど
戦争だって日々進歩してるから普通に無理でしょうね。
まず軍艦のレベルからして違うから陸に上がる前に終了
朝起きたら博多の町にモンゴル軍がいた の設定なら知らん。
>>71
>鉄砲って誰でも扱える訳ではないでしょ?
なにいってんだ。高価で射撃間隔も長いにもかかわらず
鉄砲が普及していったのは「誰にでも扱えるから」だよ
弓にように長期の訓練を必要としない
モンゴルにはそれこそ朝青龍みたいのが何万といるんだぞ
朝青龍ならあの時代の火縄銃の弾なんか10発まではOKなはず
だとしたら…
日本惨敗!!
モンゴル帝国最盛期が13世紀だとしたらもう300年経っている
300年前の旧式軍隊と鉄砲を手に入れた日本軍なら日本軍のほうが強いだろう
まして戦争はだいたい守る側が有利だからな
ホラズムや金みたいな超大国でも、内部分裂で力の半分も出さないままやられてるし。
九州諸侯に貿易の利をちらつかせるくらいはしそう、
博多一帯の防塁建設すら気が付いていなかった元に
高度な情報戦は無理ではないかと
東アジア三大帝国
モンゴル帝国(東・東南・西・南・北アジア、東・中央ヨーロッパ)大清帝国(東・東南・北アジア・中央)大日本帝国(東・東南・南・北アジア、オセアニア)
何気にモンゴロイドって結構凄くね?!
繁殖力というか
兵士の動員数でいうとヨーロッパは太刀打ちできんからな
それこそ大航海時代以前のローテクなころならなおさら
モンゴル軍 対 戦国武士団
戦場が日本なら武士団の圧勝だな
つか元寇ですでに証明されてるじゃん
戦国時代じゃ余計無理っしょ
西欧軍艦に砲撃される脅威を。
時代にもよるが、もし元軍が西欧のどこぞの国に脅迫ないし要請して上陸地点を砲撃してもらえば…
むしろ戦国時代と同時期の西洋なら
日本と同様モンゴルに負けないので威されることもない
元寇は鎌倉武士の圧勝
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。
菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。
※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。
女真や蒙古などを含む北方騎兵は日本刀の前にズタズタでした。
柳成竜『懲毖録』(朴鐘鳴・訳 平凡社)
・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。
関して言えば日本は軟鉄の鎧 兜 モンゴルは皮で出来た鎧 兜 皮ジャンパーを五枚
重ねた程度のモンゴル軍の鎧は日本刀の前にひとたまりも無かった モンゴル兵の刀は
長さ1メートル 幅10センチで騎馬戦には向いても相手の刀を受け止めるようには、なって
いない ましてや日本刀を受け止めたら真っ二つにされてしまう。モンゴル軍の弓は200メートル
の長距離を届くので皮で出来た鎧には有効だが 日本の鎧は軟鉄の鎧なので凹む事は有っても
突き破る事は不可能 事実 日本軍は鉄甲に身を固めているので弓が役に立たないと書いている
反対に日本軍の刀はモンゴル騎兵を鎧もろとも斬ってしまうと 日本を征服しょうと思えば最低
50万の兵力が必要 三ヶ月以内にもう50万の兵力を送らないと征服する事は不可能 これだけの
兵力を送る為には少なくとも一万隻の船が必要 それだけの船を造ればアジアの山はことごとく
はげ山になる 夏以外は日本から大陸めがけて強い風が吹いている為に不可能 たとえ出来ても
それだけの兵士を食べさせる為に水と食料は到底 調達する事が出来ない
相手は統一されててこっちは各地バラバラの勢力
どれかひとつの勢力と同盟結んで責め滅ぼされるわ
それでも楽勝や
モンゴル軍の騎兵は強く、平地で会戦となればどうなるか分からない。
しかし、最大の問題点は海軍力だ。
三国志でも、中原で最大勢力となった曹操が、水軍に慣れていないため
呉に大敗することになったように。
そうなるとモンゴル軍の海軍はどうかといえば、モンゴルは元々内陸国で
造船技術もなく、全て高麗任せだった。
『高麗史』金方慶列伝によれば、「日本征伐のための軍船を建造する際、
中国南方の方式のまま作ると工費と工期がもっとかかるので
国中の人々が心配したところ、金方慶が高麗方式で急いで造らせた」
とのこと。その結果が一晩での船団壊滅。
結論
モンゴル騎兵は優秀だが、高麗の船を利用している限り
何万で攻めてきても日本に勝つことはできない。
戦国期の堅固な城砦を元軍が突破出来るかどうか
無理ぽ
ああ、戦国時代ね
普通に日本が勝つだろ、当時でさえ普通に勝ったんだから
弓矢とか槍とかは 武士としてのそれなりの筋力体力鍛錬がいるけど
鉄砲は短期間で使用できるようになるのは確かだ
事実、幕末から明治維新の官軍兵士には農民や町民も含まれていたのに プロの先頭集団である武士を打ち破る事が出来たわけだから
平成3年あたりなら小錦や曙との対戦が面白そう
朝青龍と琴錦のスピード勝負も
日本に勝ち目ねーよ
……だと結果はあきらかだから19世紀末の李朝とどっちが強いかのほうが良くないか?
李朝側には近代兵器もあるからイタリアVSエチオピア位の実力差にはなると思う。
また島に隠れてるんしゃね?
【応永の外寇】
永楽17年(1419年)6月、李氏朝鮮の太宗は倭寇撃退を名目にした
対馬侵攻を決め、対馬の守護が不在である時期を狙って、
李従茂率いる227隻、17,285名の軍勢を対馬に侵攻させた。
日本側の留守を預かる武士の数は600人程度であり、
通常の軍事的常識から見れば朝鮮軍の圧勝のはずであった。
朝鮮軍は、6月17日に巨済島を出航したが逆風ですぐに引き返し、
19日に再出航、20日昼頃に対馬の尾崎浦(『朝鮮王朝実録』には
豆知浦とある)附近へ上陸した。一帯の一般船舶129隻を焼き払い
20隻を奪い、民家1939戸を焼き払い、また104(実録には首級114)の
島民を○害したとされる。しかし26日頃には、仁位郡(『実録』では尼老郡)
で対馬側の伏兵に遭い多大な損害を受け、李従茂の軍は尾崎浦まで退却、
戦局は膠着状態に陥った。
朝鮮側は、29日に宗氏に対して対馬の属州化などを要求する使者を送るが
宗氏に拒絶された。損害の大きくなった李氏朝鮮側は対馬側の和平提案を
受け入れ、7月3日に巨済島へ全面撤退した。
李氏朝鮮側の被害は日本の資料ではタヒ傷者2500以上。
朝鮮側の資料である『世宗実録』では6月26日の襲撃でタヒ者百数十人、
7月10日の記録では180人とされているが、これでは6月26日、7月10日の
損失を合計しても総数の2%程度であり、この程度の損害で和平を受け入れる
とは考えにくく、6月26日は敗戦と自ら明記し、将官も戦タヒしていることからも、
実際の被害は相当数にのぼると思われる。
8月5日の記録では日本の戦タヒ者20人に対し朝鮮側が100余名とされている、
総じて朝鮮軍は不利であったようであり、この事は保護された中国人の扱い
において「対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に返還できない」
と主張する左議政朴訔に対し、右議政李原らは「事大の礼を尽くして送り返すべき」
と反論したという記録や、朴実が敗戦の罪により投獄され、李従茂が国民への影響を
理由に免罪となった事からも窺え、朝鮮軍が尋常ではない負け方をしたことが推測される。
歴史上の勝利者って海に関しては地方の豪族に土下座外交だし
その後権力握ったらびっくりするくらいの徹底弾圧のワンパターン
元寇でも海で勝利した話は皆無
日本側が夜襲で船を襲った記録もあるのにどんだけ無知なんだよ
>>136
ヴァイキングばりに、中国朝鮮沿岸を荒らしまわってますが?
>>141
その蒙古人にヨーロッパ諸国とイスラム諸国がまとめてフルボッコされた件
山城じゃ自慢の攻城兵器も役に立たないし
平原では強いが、日本の地形では弱い
馬が使えないので、白兵戦になる、日本軍の方が強い
元の兵士の90%以上はただの農民、遊牧民でだよ。
だから、白兵戦になったら、元はまったく無力だったんだよ。
矢を射っても、当たる確立は低い。だから必ず白兵戦となり、元は敗退した。元軍は上陸を試みているが、日本の武士の激しい攻撃により、海に逃げ帰って、最後は台風でやられた。
また、近代になるまで、日本のような武士階級という戦闘専門集団はどこの国にも無かった。
大量の騎兵を上陸させることができ、
上陸後の割と短い期間に広大な平地で一大決戦できたら、
その場は元の勝ち。
それが出来なきゃ戦国大名の勝ち。
日本には、そうそう都合のいい平地なんてないから、
九州に上陸した場合、最盛期の大友や竜造寺、
薩摩大隅支配後の島津なら単独で十分勝てるだろ。
下手すると最強僧侶、甲斐宗運を要する阿蘇家でも負けない。
こいつ等の仲がいくら悪くても、言葉の通じない異人と
そうそう同盟は結ばんよ。
もっとも元を破っても、他の勢力に滅ぼされるのが落ちだが。
三井資長、蒙古兵を撃退する
http://blog-imgs-35.fc2.com/3/k/s/3kstyle/201002061140293e7.jpg
日本の弓騎兵の強さが当時の記録に残ってるし、順当に実力で圧勝
あと、当時の武士は
元の槍の集団戦法に面食らったが、夜間の敵船奇襲でお返し
戦国時代には弓の性能はさらに上がり、槍歩兵はさらに長く組織化された
直江兼続率いる豊臣本隊(上杉・前田・伊達連合軍を中核とした部隊。勿論、前田慶次も参戦で)vs蒙古軍。
どっちが勝つか?
大都陥落→フビライが秀吉と謁見するが・・・斬首されて大阪城下で晒されるという結末になるかと。
モンゴル帝国は基本的に
遊牧国家 ゆうぼくこっか(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
> 実力主義で王位を継承することが多かったため争いが頻発し,
> いずれも分裂したり,
> 短命国家に終わることが多かった。
・遊牧民の慣習である領地領民の分割相続で、君主の弱体化や内乱を招く
・征服した各地の豊かな文化に染まり、「モノを持たない」モンゴル文化が薄れる
・「四方八方戦争吹っかけて回ったツケ」 で各国が反乱
つまり無理な疲弊などは各地の叛乱どころかクーデターも招くし、基本的に短命
大戦争の継続は困難
でもまあ、チンギスカンが蒙古高原を統一した1206年から、
ギリギリ統一を守り続けたモンケカーンがタヒぬ1259年まで、
あの広大な帝国が一つだったというのは中々すごいことだとは思うよ
クビライカーンは確かに傑物だが、もう少し即位の経緯が上手ければもっとモンゴル帝国の命脈は長く続いたとは思う
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1212055328/
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