豊臣秀頼ってボンボンじゃなく有能だったから徳川が滅ぼしたようだけど
夏の陣ですっかり弱っている豊臣方に
さらに追い打ちをかけるように銃撃した徳川方はマジありえん
もし過去が変えられるなら、
あのあとの秀頼の運命をどう設定しますか?
2: 2011/11/07(月) 02:09:08.33 ID:UMSTyjYP
でも古今東西色んな政権が存在したけど
滅びないで終わった政権はないんだぞ
どんな強大な政権や王朝でも最後は必ず滅亡する運命にある
秀頼を潰しても結局徳川幕府は滅亡したしな
だったら秀頼残しても良かったかも知れないな
まぁ、あの時点で家康がタヒんだとして、その後の豊臣政権が間違いなく絶対安泰ってわけではないんだろうけど
もし関ヶ原で西軍が勝っていたら、当面は平和でもその内三成が専横始めたりってのもありえるだろうし
逆だろ
小牧長久手は内容的には徳川型の圧勝
六年前の書き込みにレスするけど、
小牧長久手は羽柴の勝利でしょ
時代も変わったもんだ
素直に大坂城出てれば…。
親孝行の秀頼はそれには逆らえなかった
泣かせる話ではないか
公家、おじゃる丸になるのだから、生かしておいてもそれほどの脅威だったかどうか・・・
平治の乱後の頼朝と同じよ。
本人に何の財産も無くても政権転覆を謀る連中が担ぎ上げるために周りに集まってくる。
>>13
同じじゃない。
当時の頼朝はまだ子供。
まして、源氏対平氏の総力戦でも無いから、当時の武家源氏の正統を根絶やしなんか出来ない。
対して秀頼は大阪方の大将。
挙げ句、頼りになるはずの母方には実家が無いし、
次に頼る嫁の実家があれだし。
親戚なんて、ましていないも同然。
まあ、秀頼の子供くらいは公家として生かしてもバチは当たらんだろうと思うがな。
結局、そうしなかったから家康は当たってタヒんだんだろうこど
なにか勘違いしてるな。
「源氏を根絶やし」じゃなくて、「左馬頭義朝の子を根絶やし」にしなかった
っていうことだよ。
武家源氏の正統の嫡男を○すってことは相当でかい。
戦国時代のなんちゃって源氏(武田、京極(自称佐々木)、朽木(自称佐々木)、森、明智、佐竹)とは桁違いの存在なんだから
自分から始めた戦で、城兵は皆タヒに、城も落ち、その上で、なお生き延びて助命を求められたら
何を虫の良いことをとは思う
秀頼と淀には武家の心得がないからなぁ
>>16
生き延びて次の戦いの準備をするのが武門の慣いじゃね?
そして命乞いする人間を何とかして○すのも武門の道だろ。
秀頼の助命を望む人間がいないから○せた。
その割には冬の陣・夏の陣とも衝動的な開戦なんだが
淀と秀頼が野良仕事で生きていけるか見たい
尾張藩完全監視のもとで中村に所領をやればよかったと思うw
徳川に恩がある者なんて限られてる
お袋様が許さないって?
だったら徳川にひたすら恭順を誓う以外に道はなかったんだよ
土地と農具与えてもお淀さんは何もしないで餓タヒか自害するだろう
秀頼道連れに滅亡乙!
親父殿は農民から天下人まで成り上がったのにタヒんでられるかってな
自分が無理なら子孫がやってくれってな
お姫様の淀殿じゃ駄目だったんだよ
そんなの耐えられんし実際そうだった
難癖付けて結局取り潰しに持っていくだけだと思うけど
福島も潰されたし、信用出来ないね
臥薪嘗胆よりも玉砕を美化するこの日本人の風潮もどうかと思うわ。
300年後に何万もの人が同じように玉砕するわけだからな。
家康に辱しめを受けるくらいならタヒんだ方がマシだというプライド。
それを玉砕っていうんだろ。
米兵に辱めを受けるくらいならタヒんだ方がマシっていうのと何が違うんだよw
徳川の鉄砲の一斉射撃って、ちょっとした威嚇どころか小屋の中の人間を
全員射○するぐらいの勢いで長時間やったらしいよ・・・ かわいそう
千姫だって命乞いのために出したのに・・・
前田利長が生きてれば加賀藩を賭けて家康に助命嘆願してただろうか・・・
かわいそうってなにがかわいそうなんだよ!
みたいな方向に無理矢理持って行きたい気持ちはよくわかるw
じり貧なんだろうが、家康のタヒ期も近づいてただろうし
年内に総構は落ちる
というのがスイーツ姉の意見
戦になった時は全然前線に出て来ない臆病者だからな、
生きながらえる事を拒否するなら総大将出陣でちゃんと戦えよと
下手に生き残っちゃったら今頃は喜連川とか後北条ていどの扱いだろうな
足利義昭は○されなかったよね?
やっぱり家康は器が狭いよ。
というより信長は人物の処分についてムラがありすぎる
流石に将軍○しを罵倒した自分が出来んのよ
秀頼の場合は別に家康が祭り上げたわけでもなく関白にしたわけでもないから○しても問題ではない
大坂冬の陣で徳川方が真田丸を攻撃した時に南方の3つの門から全軍出馬して
総攻撃すれば良かったと思う。
北と東と西は守備兵だけ3000で十分、残りの兵を南側から徳川家康、秀忠の本陣に向けて
一直線に攻撃すれば華やかな戦いになったであろう。
決戦は兵の数ではなく、実戦経験豊富だが明日の無い浪人衆と満ち足りた生活をしてる
徳川方の兵とでは一発勝負にかける心構えが違う。
一方は手柄を立てなければ再び乞食同然の野垂れタヒにの生活が、一方は逃げても命があれば
領土もあり生活の保障のある高級武家衆。
南方の伊達、藤堂、前田は旧主である秀頼の本陣には弓矢を引き抜き難く
元気なのは松平と徳川一門だけ、しかも、世代交代した実戦経験の無い2世ぞろい。
局地戦で付け入る隙は十分ある。
秀忠のすぐ側には立花宗茂が陣取っていたわけだが
牢人衆がいくら来ようとけちらされて終り
当時の豊臣家は、わずか60万石。徳川方が勝ったところで報償は無しに等しい。
(事実、戦後の報償が茶碗一つなのを不満に思い、自棄になり乱行した徳川家大名もいる)
外様大名が命がけで攻めて兵を減らし家臣団がタヒんでも莫大な遠征費や戦費は自己負担。
本気で戦うのは一部の徳川家臣だけで後は名目上の参加に等しいのが現実。
伊達政宗は家康のご機嫌取りのため後継ぎを連れて来ていたが、大事な後継者に
万が一の事が有っては大変と遥か後方に着陣させた。
豊臣の3倍以上の兵力を持ちながら、家康、秀忠の本陣を極僅かな兵で掻き回された夏の陣。
大坂冬の陣の時であれば、時期を見払って総攻撃すれば大坂方に勝機は有ったが
総大将が城から一歩も出なかったのが敗因。これが歴史。
自宅警備員しているニートがアフガニスタンに行って戦えるか?
総大将が城から一歩も出なかったのが敗因とか馬○馬○しいんだよ
秀頼が戦場に行かないのは当たり前だろ
命をやり取りする戦場を舐めるのもいい加減にしろよ
>>62
お主は、バ○じゃの~www
では、なぜ、大御所家康や将軍秀忠が兵を率いて
わざわざ命をやり取りする戦場である大坂の地に来ているのじゃ???
彼らは徳川家のナンバー1とナンバー2ではないかwww
お主の説では、総大将は駿府や江戸城に引き籠っているのかwwww
秀頼の父、秀吉も総大将として日本各地の戦場を駆け回っただろ。たわけー!
秀頼は実戦経験どころか武芸の訓練もしていない素人だから
前線に出れないのは仕方がない
数々の修羅場を潜り抜けて日常的に武芸を磨いている家康や秀吉とは比較にならない
親衛隊なら秀吉時代にもう少し強化・厚遇しとくべきだった。
みんなで担ぎ上げないと祭りも盛り上がらないよ。
その御輿が出てこなかったから、祭りが盛り上がらなかったわけだろ。
つか、総大将なんだからタヒぬ気でいかないとね。
老い先短くて必タヒ状態の家康が手加減してくれるわけもなし島津ごと滅ぼされるべ
秀忠は関ヶ原や大坂の役は失敗続きだけど一地方大名の島津相手なら何とかなるかも
というか秀忠がタヒんでも島原の乱鎮圧に成功した家光がなんとかしそう
大阪城から出て和泉か河内に移る。
大阪城にいる浪人を解放する。
そしたら大名として残してやるって温情示してるのに拒否。秀頼が拒否したか重臣が拒否したかわからないが大阪城の主は秀頼。
よって○されて当然
転封したってどうせ後々難癖つけてつぶされるだけ
どうせ後世、大坂で篭城しとけば恩顧が寝返って勝てたのに・・・
っていわれるのがオチ
さっさと降伏したら命が助かったとでも?
将来の遺恨になるからやっぱり秀頼を○したんじゃない?
加藤清正や福島正則など関ヶ原で家康に臣従し味方した豊臣恩顧の大名に
家康がした仕打ちをみれば分かると思うけど?
豊臣宗家を仮に生かすとした場合
1~2万石程度まで減封
知行地の運営は幕府派遣の代官が執る
蓄財した金銀や名物などの没収
定府
婚姻は徳川家の縁の者限定
官位官職の制限
とか以外に何がプラスされるかなぁ
>>86
>> 1~2万石程度まで減封
2万石はやりすぎ。多くても1万石。
または5千石くらいの旗本で、高家待遇。
>> 知行地の運営は幕府派遣の代官が執る
知行地なんかやるか。1万石は捨扶持で、部屋住みだ。
最初は江戸城内の部屋住みだが、三代家光の治世になるとある程度は大目に
見てもらえるようになり、大坂城(もちろん徳川の)に戻され、大阪城内の
部屋住み。大坂城代の管理下で生涯を終える。
その頃には外様大名たちはすっかり徳川の犬になり果てて、もはや秀頼には
何の力も無いので、大坂城代とは良好なお友達関係。
そうして豊臣家の子孫は捨扶持で悠々自適に暮らしたとさ。めでたしめでたし。
蓄財した金銀や名物などの没収
定府
婚姻は徳川家の縁の者限定
官位官職の制限
とか以外に何がプラスされるかなぁ
>>86
>>108です。途中で書きこんでしまいました。
続き
>> 蓄財した金銀や名物などの没収
当然するね。
>> 定府
最初のうちはね。でも、徳川の世が安定して来たら、徳川家が豊臣家の扱い
に慣れてくるだろうから、豊臣家が完全無力になったことがはっきりした時点
で大坂城代に預けるだろ。
>> 婚姻は徳川家の縁の者限定
これはないんじゃないかな。徳川家にとって、完全無力になった豊臣家と婚姻
する意味がない。他の大名や旗本も同じ。
でもそれだと断絶するから、徳川家か幕府のどこかの役所がお見合いの斡旋
をすることになると思う。
>> 官位官職の制限
これは逆でしょう。
捨扶持で部屋住みの代わりに官位官職は上げるのでは。
高家待遇になるのでは。
そうでもしないと、徳川家としても捨扶持をやる意味がますます無いわけだし。
幕府側で世話をする人も必要で、その人たちの人件費もかかるわけだし。
だから、身なりだけは立派でないとね。
あと、大坂城内での生活はわりと自由になるだろう。
大坂城代の監視付きで城外へも行けるだろうし、
監視役とも一緒にいるうちに仲よくなるだろうし。
結構いい人生ね。
家康は自分も老いて寿命が短い…
秀頼親子に淀殿の妹の常高院と祖父の織田有楽斉に
德川家に家臣として仕えるよう説得させても
駄目だったので豊臣家を攻め滅ぼすしかなかった
大坂の夏の陣の時常高院がなかなか京極陣営に帰ってこないから
京極家の家臣が常高院を説得して大坂城から出させたのが真相
常高院は関ヶ原の時も合わせると4度の落城を経験している…
波乱の人生だわ
それにしても、幕府を開いてから冬の陣開戦まで、
良く10年も待てたよな、家康は。
よっぽど自分の健康に自信があったのかね。
1610~大阪の陣開戦前あたりにタヒんだ豊臣恩顧大名が全て生きてたりしたら、さすがにすんなりいかないだろ
息子の結城秀康ですら全幅の信頼とは言い難い
どっちかといえば、秀頼の元兄達が心配の種だったんじゃね?
福井県と岡山県にいたんだから、この二人が裏切ったら収拾はつかないだろうな
徳川も二条城会見のあと殊勝にしていれば滅ぼす気なかったんじゃないかな~とか思ってる。
清正は本当になんであのタイミングでタヒぬんだよ、もうちょっと頑張れよw
そりゃ最強だわ
秀吉の親戚筋の小出氏は3万石の大名として
幕末まで存続している…
小出秀政が豊臣家の家老として生涯を終えている
清正らに最高家格である摂関家豊臣姓を与えて牽制していた朝廷。
豊臣姓の豊臣恩顧大名を次々に作り、徳川より上の家格を増やす策謀。
豊臣完子を妻に持つ九条幸家がわずか22才で関白にして朝廷が仕掛けてきたわけで
秀吉の猶子近衛前子を妻にしている後水尾天皇の義弟である秀頼も
22歳で関白になれる前例をつくった朝廷の動きから恐怖を覚えた家康が、
方広寺鐘銘事件をデッチあげて21歳だった秀頼をタヒに追いやっただけのことだ。
逆らってた事が明らかになってきたからな。
淀が自ら江戸に人質に行こうとしたのを止めてた可能性すらある。
両親は信長秀吉に○されているから余計にプライドが高い…
お初江千姫はこの悲劇は辛いはず
江は家康が亡くなるとすぐに大坂の陣の供養を行っている
国松には身寄りがないも同然だし
国松が大きくなる頃には豊臣残党もタヒんでる
>>130
気持ちはわかるが、
禍根を絶たないと、後々いつ誰が国松を担いで反乱をこすかわからないからね。
行かしておけば、国松も子孫を残すし。
男根取って出家させても、生きていれば人間関係が出来るので、影響を受けた人物が
反乱の火種になりかねない。
たとえ小さな反乱でも、鎮圧するために味方に損害が出るし。
老い先短い家康には焦りがあったろうし・・・
孫の家光がかわいくてしょうがなかったみたいだし。
「秀頼が15歳になったら、天下の政務は秀頼に属す」との内容であったとされる
その後薩摩藩主がその男子同道で吉宗に伺候した 秀頼の子孫となると男子は処刑される恐れもあったが、吉宗はもはや過ぎたことだとして、その男子はお咎めなしとし、赤坂山王の神主(500石)に指名し、支度金を与えら樹下民部と名乗らせたという話があるにある
引用元: http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320594382/
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