竪穴建物跡で、カマドの排煙部から見つかった大刀=八戸市田面木の法霊林遺跡(県埋蔵文化財調査センター提供)
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青森県八戸市田面木の法霊林(ほうりょうばやし)遺跡で、奈良時代の竪穴建物跡から、8世紀後半以降に作られたとみられる大刀(たち)が、カマドの排煙部に入った状態で見つかった。儀礼などのために入れたとみられる。むつ市田名部の酪農(らくのう)(3)遺跡からは、縄文時代後期前葉(約4千年前)のものとみられる環状列石が見つかった。下北地域で初めての発掘例という。13日、本年度調査をした県埋蔵文化財調査センターが明らかにした。
カマドに土器が入れられていたことはあるが、法霊林遺跡のように排煙部に大刀が入れられていた例は「全国的にも認められない」(同センター)という。住居から立ち去る際の儀礼などのためだったとみられ、当時この地域で活動しエミシと呼ばれた人々の社会を知る上で貴重な発見とされる。
大刀は鉄製で全長65センチ、刃の部分の長さ48センチで、木製のさやに納められ、良好な保存状態で見つかった。柄頭の形から「方頭大刀(ほうとうたち)」と呼ばれる。
大刀は当時貴重品で、エミシの有力者を埋葬したとされる「末期古墳」からの出土例が多く、県内の集落跡からは、蕨手刀(わらびてとう)と呼ばれるものは見つかっているが、方頭大刀はこれまで出土した例がないという。
本年度の調査で、同遺跡からは奈良時代の竪穴建物跡9棟が見つかり、大刀はこのうち大型の建物跡で出土した。同センターはこの建物跡には地域の有力者が住んでいたとみている。
刀がどこで作られたかは分かっておらず、同センターは北関東などを念頭に分析を進める。
県史通史編で「古代エミシの集落と末期古墳」の項を執筆した八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館の宇部則保発掘専門員は、貴重な鉄製の大刀を建物に残して立ち去ったとみられる点に注目し「この地域のエミシの精神文化、社会の構造を考える上で大事な発見。末期古墳との関係を考えていく必要がある」と語った。
10/13(火) 15:58配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201013-00000006-webtoo-l02
そがのえみし?
そがのからこ(韓子)もいるでよw
>>1 >>
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アイヌが北海道の“先住民族(蝦夷)ではない”ことを学びましょう
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https://youtu.be/PKxNuaPX3xI?t=844
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先住民である「和人」(擦文人)にアイヌが流入して“同化”したにもかかわらず
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『アイヌ新法』により事実が捻じ曲げられ歴史が塗り替えられる。
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sssp://o.5ch.net/1lqtl.png
>>1
北海道が東北の北部地方(蝦夷:エミシ)より縄文人の影響が低めなのは
https://news.yahoo.co.jp/articles/5af63ba6af9cabd20bffb73d387006827d9fd9d2
北方渡来の「オホーツク人」(アイヌ)が北海道へ進出(南下)してきて
その後、先住民である北海道の和人(擦文)と“交雑”したもので
北海道の近代アイヌが、縄文人直系の末裔(縄文→続縄文→擦文)の進化形
蝦夷(エミシ)ではないというのは明らか
http://www.okhotsk.org/news/pict/fuyou/img178.jpg
⇒ >>14 >>26
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>>32
アイヌがオホーツク人なのは同意だが、蝦夷が果たして縄文人だったというのにも疑義がある
縄文人は歯のかみ合わせ自体が現代人と全然違うから
とにかく戦後の一時期の史学は
文献学上の存在である「蝦夷」と
考古学上の存在である「縄文人」と
現存する「アイヌ」(民族学の対象)の
三つを「全部同じだったことにしょうぜ ウヒヒヒヒ」って方向で押してた
>>45
縄文人は狩猟中心だったから稲作弥生人に比べてかなり人口比率少なかったから弥生時代が終わる頃には純粋な縄文人は殆ど居なかったと見るのが正解
我々が思ってる以上に混血が進んだんだろう
しかし縄文人とはまったく別の弥生人という民族を想定するのも無理があると思う。
短期間に海を渡って現地の民族と入れ替われるような勢力を日本周辺に想定できない。
少しずつ流入してきて、都度携えてくる文化を吸収しながら融合していったというところだと思う。
毎年1000人程度の流入でも数百年もすれば子孫も増えて遺伝子的には入れ替わるだろうしね。
>>1
>カマドの排煙部に入った状態で見つかった。
からの
>儀礼などのために入れたとみられる。
への飛躍が考古学者のうさんくささやねw
征夷大将軍の夷の部分
つまり征夷大将軍とは
蝦夷を征服する役目の役人長
>>7
だった
> >>5
> 征夷大将軍の夷の部分
> つまり征夷大将軍とは
> 蝦夷を征服する役目の役人長
蝦夷を征服する征夷大将軍がのちに京都から権力を奪うことになるのは歴史の皮肉というか日本に祟る蝦夷の怨念だな
>>9世紀初め、北九州の松浦党の一族が東海岸へ上陸し、蝦夷を西海岸(釜谷地区)へ追い払って生活するようになった
この頃の史料結構読んだけどこれは初見、出典教えて
「考古学者は唯物主義で想像力無いから駄目」某梅原の迷言だべな
因みに北部九州から稲作伝えたのは宗像氏と言われており、青森に土着して後世、棟方氏と名乗ったそうだ。
棟方志功の祖先。
北東北が九州北部との交易で稲作技術を得たのは遅くとも縄文中期
宗像氏が成立する遥か以前の話。それも九州まで出向いたのは北東北の民。北東北の縄文人は北九州に限らず日本海ルートはもちろん太平洋側でもどこにでも出向いてる
アベシはあったけどなw
東北に伝わる
あの伝説のエミシの太刀か
小太刀って奥方とかが胸にさしている護身刀のようなイメージだけど
刃渡り60cm以下くらいなんだよな 60~90cmが大太刀 併せて太刀と
されるが分類はもっとたくさんあるねぇ
ちょっと反ってて非常によく切れた
>貴重な鉄製の大刀を建物に残して立ち去ったとみられる点に注目
竈は神様が宿っていたり神聖なものと見なされて、竈を祭る風習は全国的にあったと思う
井戸の息抜きと似たような意味で置いたんじゃないかな
細かいところまでよく見えるじゃん。
東北はエミシで北海道がエゾ
あるね
近畿で竃が残ってる家は、今でも竈に荒神さんを祭ってるとこが多い
信仰が続いていたのかな?
落としちゃっただけだったりなw.
読める奴いる?
たもぎ
大陸からの先端職能集団も居住を許していたんでしょう。
陶器、薪炭、製鐵、産馬などは後世交易上セットになっていったでしょうね。
・倭国大乱 → 畿内の縄文勢力を抹○
・ヤマトタケルの東征 → 関東の縄文勢力を抹○
・坂上田村麻呂の蝦夷征伐 → 東北の縄文勢力を抹○
・北海道への和人大量入植 → 最後の縄文勢力を民族浄化
が、大まかな流れか。
酒なんか直ぐに耐性つくし環境に因る後天的な要素で変わる
例→シマンチュの毛あしびー
伝説でも近畿にいた蝦夷を神武天皇が追い出したことになってるからな
「あっ!」
うっかり落っことして
「まいっか」
↓
現代に至る
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1602673277/
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