【戦国時代】賤ヶ岳の七本槍について知っていることを語るスレ
賤ヶ岳の戦いで活躍した七本槍達について語るスレ。
・加藤虎之助清正
・福島市松正則
・加藤孫六嘉明
・脇坂甚内安治
・片桐助作且元
・糟屋助右衛門尉武則(加須屋真雄)
・平野権平長泰
・桜井佐吉
・石川兵助一光
77: 2009/10/20(火) 05:55:09 ID:JVaG0JnX
一番悲惨だったのは、改易された福島でも、秀頼を守れなかった片桐でも、
結局大名になれなかった平野でも、唯一西軍についたのに報われなかった糟屋でもないと思う。
真に悲惨なのは、やはり七本槍とされている面子と同等の活躍したにも関わらず、
そこから省かれてしまった桜井と石川だろう。
現に一応>>1には名前を書かれているが、このスレでも誰も語ってない。
>>77
う~ん早タヒには損という典型だな。
桜井家は1596年に断絶。戦タヒした石川家は弟が継いだが関が原で改易。
七本槍で桜井・石川を省いたのは「太閤記」だけで、
「川角太閤記」「新撰豊臣実録」村井重頼覚書」「長家聞書」では
福島を別格で筆頭として、その下に7人を並べている。
石井は省かれたが・・・
「太閤記」が特別なベストセラーとなってしまったため7人が固定してしまったんだろう。
秀吉が全国の大名に自慢たらたらの手紙を出した時や、
感状の写しを大量に作ってばら撒いた時は9人だった。
加藤嘉明や脇坂はむしろ上り調子だろ。
子孫も落ちぶれることなく裕福な生活してたみたいだよ。
七本槍の子孫のその後を簡単に纏めると…
加藤清正:子の忠広の代で改易、息子達は早世したりして忠広のタヒ後
誰も残らず事実上嫡流は断絶。娘など残った一族は庄屋になるなどして離散した。
福島正則:家康タヒ後まもなくして正則は改易され、僅か数万石に減封。
そのタヒ後その領地も没収され、子孫達は旗本に身を落とした。
加藤嘉明:子の明成の代に御家騒動が起こって改易されたが、明成庶子の
明友が二万石ほどを与えられて大名復帰し、明治に至った。
脇坂安治:七本槍中、唯一改易も減封も無かったが、子の安元の代に
譜代大名の堀田家から養子を迎えて当主とした為、安治の血統は途絶えている。
片桐且元:孫の為次に嗣子がなく無嗣改易となったが、且元の弟貞隆の家系が
一万石の大名として存続しており、明治に至った。
糟屋武則:関ヶ原の合戦で、七本槍中唯一西軍に与した為に戦後改易。
その後徳川氏に旗本として仕えたというが、子孫がどうなったかは不明。
平野長泰:五千石の旗本止まりで七本槍中唯一大名になれず、
子孫も明治まで旗本だったが、新政府の石直しで最後の数年間だけ大名になった。
こうして見ると、大名として生き残った家系も皆最終的には数万石程度にされてるな。
脇坂も老中になれたのは堀田の分家的存在になってしまったからだろうし。
当時は血統よりも家系で、養子を迎えるのはどの大名家でも普通に
あったでしょ。
血筋として初代の直系子孫が幕末まで続いた事例のほうが少数派
だと思うよ。
そういう意味では脇坂家は幕末まで命脈を保ったといえると思う。
関が原で東軍に寝返ったこともあわせて、世渡り上手な家系だと思うけどね。
脇坂の子孫のおっさんが嫁さんに向かって
「脇坂の女たるもの…」
となにかにつけて叱り、でかい声で周囲にもお家自慢してて迷惑だったのを思い出した。
まだ400年ちょっとの裏切りの血筋なのに自慢とか見苦しい事するな脇坂は。
うちの家族は一切家系自慢とかしない。
>>17
>脇坂の子孫のおっさんが
ってこれウソだろ。
脇坂家は戦前まで旧領地の播州龍野にいて、戦後は東京。
そこいら中に子孫がいるような家でもないし。
そのおっさんが自称子孫と言ってただけだろう。
明治新姓の時に家系を捏造した奴が多いし。
俺の家は代々脇坂家家臣で曾祖父の代に明治維新を
迎えるまで仕えていたからそう思うぞ。
「うちは家系自慢しないよ」って言うのが既に自慢に聞こえてしまうのは
関ヶ原の時点で
加藤清正:肥後熊本24.5万石
福島正則:尾張清洲20.0万石
加藤嘉明:伊予正木10.0万石
脇坂安治:淡路洲本3.3万石
片桐且元:摂津茨木1.2万石
糟屋武則:播磨加古川1.2万石
平野長泰:大和田原本5千石
清正と正則だけ抜きん出ているが、やはりこの2人は縁故だから
秀吉も贔屓したんだろうか?
嘉明は三河、脇坂・片桐は近江出身で、糟屋は元々は播磨の城持ち土豪で
直臣ではなく与力だったし。まあ平野は尾張出身にも関わらず全く出世できてないがw
秀吉の過大な宣伝の賜物で、虚名に近かったんじゃないか。
別にこの七人が賤ヶ岳の戦いでの一番手柄でも無いし。
糟屋武則をもっと厚遇しとくべきだったな
この人が唯一徳川と戦ってくれて秀吉もうかばれたんじゃね
七本槍全員徳川に付きましたじゃあまりにも情けないだろ
関ヶ原のあと徳川の旗本になったんですが。
何しろ三成襲撃した奴らだし
糟屋武則が西軍についた理由って何なんだ?
調べてみると糟屋は奉行としての活動が主だったようだから、
その関係で三成についたのかとも思ったが…
それとも小早川や、かつての同僚の脇坂のように周囲の状況のせいで
やむを得ず西軍についただけ?
>>24
>糟屋武則が西軍についた理由って何なんだ?
よくわからないんだよな。大体糟屋には不明な点が多すぎる。
七本槍中唯一正確な生没年が不詳だし(ウィキペディアでは1562~1607になってるが)、
関ヶ原本戦でもどこに布陣したのか、どういう活躍をしたのかわからないし。
逸話とかの類もほぼ皆無だし、名字の表記や名前も何通りもあって調べ難いし。
まあ一万石程度にしかなれなかったのと、関ヶ原の敗戦のせいで真っ先に
改易されたのが原因なんだろうが。
>>37
>豊臣についた一本とは?
糟屋助右衛門尉武則。播磨加古川城一万二千石の大名。
七本槍中唯一西軍について、伏見城攻めや関ヶ原の本戦に参加してる。
若手トップ7だったことだけは事実だろうな。
ここに入ってないから何故か文官のイメージが固定されちゃってる
槍働きっていみならも何も「七本槍」云われてんじゃんw
何働きを賞されたと思ってたんだよ
もしそうなら清正や正則が徳川につくはずがないのよ
意図的に混合したがる馬○がいるからな。
関ヶ原で負けた豊臣は家康に222万石から65万石に落とされた
豊臣は「家臣同士の争い」と見てたみたいだが
そんなに甘くはなく家康にやりたいほうだいされて実質の天下人は家康に
>>40
豊臣が220万石を維持できなかったのは、関ヶ原の結果奉行制が崩壊し、
全国にまたがる豊臣領を維持できなくなったためだな。
しかしその後も大阪は、日本の米の集積地としての機能は維持しているので、
実質の部分では変わっていないとも言える。
まあ双方共互いの事を豊臣公儀に対する逆賊と呼び合ってたし、
豊臣秀頼は一応中立だったからな。
ただ、結果論的にはこの戦いが豊臣政権の完全崩壊と、
江戸幕府の成立を招いて豊臣氏を滅ぼす遠因になった訳だから、
後世から見れば西軍が豊臣政権擁護の立場=豊臣方と見られるのも
多少は仕方ないだろう。
とは言え、三成や毛利輝元達に野心が無かったとは言えない(確実な事は
わからんが)から、やはえい完全に豊臣方だというのは不適切だろうが。
全員バリバリの武断派ってイメージがあるが、片桐且元や糟屋武則は
経歴を見ると豊臣政権では奉行としての活動が主だな。
九州で東軍方として戦ってた清正と、大坂で中立の立場を取ってた
且元以外の5人は関ヶ原に集って戦ってるのか。
まあ最初は西軍側に2人、東軍側に3人だったのが
最終的には西軍側1人、東軍側4人になっちゃったわけだが。
清正…先鋒で二番隊に属す
正則…五番隊に属す
嘉明…船手衆
安治…船手衆
且元…奉行
武則…奉行
として全員朝鮮に渡海してるようだが、平野長泰は朝鮮に渡ってたの?
まあ豊臣の為を思って必タヒに頑張ったのに、結果的には家康に
散々利用される形になり、世間や後世から見たら主家を裏切った
ように言われる形になったわけだし(福島は加えて改易だし)、
自○したくもなるわなあ…
そういう意味では、豊臣の滅亡を見ずに没した清正は幸福だったかも知れん…
片桐は開戦までの豊臣家主戦派の暴走を全く抑えられなかったからな。
責任を感じても仕方がない。
ただ、福島の改易は豊臣家全く関係ない。つーか1度は許されてるのにその後の対応が酷くて
改易って体たらく。自業自得だな。
当時はない。賤ヶ岳
当時の最新の書、「天正記」(賤ヶ岳の同年1583年)の中の「柴田戦記」には9人の名前がある。
江戸時代になって出版された太閤記から7本槍と言われた。
八浜七本槍
あと、奇数のほうが吉数として好まれるね。
福島正則や加藤嘉明と喧嘩して、くそ~って甲冑も付けずに拝郷家嘉に突っ込んで行ったが
頭を槍で一刺しにされ討ちタヒに。
哀れに思った秀吉が弟に1000石を与えたが、戦功という点では無しに等しい。
後に七本槍から外されたのも仕方ないのかな。
これで片桐・糟屋は一万石程度の大名になり、平野はようやく五千石。
確か加増の理由が「賤ヶ岳での戦功を思い出したので」とかだったと記憶してるんだが。
何でこんな中途な時期に加増があったんだ?
脇坂・片桐・糟屋は小大名どまりだな。平野に至っては…
要は本人の人事考課。
秀吉は信長の下でそのところを具に見てきたから、かなり能力主義を採用している。
大軍を率いる能力や内政力で出世具合が違ってきて、何年も経つと大きな差になる。
身内に対してもそこのところはシビアだ。
清正・正則の出世はやはり秀吉の身内だというのもあると思うが。
清正なんか一気に20万石以上の大身になってるし。
清正は相当にできた人物だったんだろう。正則も酒を飲まない時はね。
他の5本槍は歴史上もなんかを左右するような事はしていないし、
身内を特に優遇していないのは木下家の扱いがショボ過ぎるからか
http://www.youtube.com/watch?v=It_r7YqLYz0
>>102
あと糟谷~と片桐~♪
うぃーあーSHICHIHON槍~♪
戦国鍋のあの歌で全員の名前覚えたw
山岡荘八の小説だと片桐ってちょっと知恵の足りない苦労人的なキャラだよね
千田嘉博氏の「古戦場-賤ヶ岳の戦いと小牧長久手の戦い-」が非常に面白かった。
秀吉や勝家の築いた城砦跡から賤ヶ岳を分析しているのはかなり興味深い。
なにより、勝家本体を撃退した堀秀政隊だろう。
各々の槍働きとは少し違うかもしれないが。
戦功も糞もない
鬼玄蕃が可哀想だな。
秀吉の譜代大名達が関ヶ原、大阪の陣で家康側についたのって
関ヶ原は三成との確執だろうけど大阪の陣は秀頼が秀吉の実子じゃない
からだろうな
豊臣家を乗っ取った淀と秀頼と大野に対しての戦い 逆に加藤や福島は
母代わりのねねに付いて家康側についたと 決して豊臣を裏切ったわけ
じゃない
今年の大河には絶対出ると思ってたのにまさかの完全スルーとは…
居城の加古川城は出たのに
国境を越えて勇名を轟かせた脇坂安治こそ最大の勝ち組
片桐は水戸徳川分家の血も入る
平野は譜代内田氏の血が
福島は由良氏の血が入った
か
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251749444/
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