つまり他のどの大名が薩摩を拝領して江戸時代に納めてたかって話だな
誰であれ「納めて」しまえば幕府の天領ってところだなw
そうすればそれ以前にもっと面倒なことにも
>>6
謎?
知らないだけなんじゃ・・・・・
徳川家康にとっては田舎大名なんてどうでもよかった
余裕がないというのもあるが、一番の問題は「豊臣恩顧」大名を如何につぶすかだよ。
だから石田三成とか西軍についた者は当然だが、東軍についた者もそうだ。
福島正則、黒田長政、山内一豊など、味方につけたが戦勝後は遠隔地に配置した。
そして強力な大名については加藤清正も含めて徳川政権樹立後潰していった。
薩摩が謎だったら、西軍総大将だった毛利はなぜ残ったんだ?
豊臣恩顧じゃないからだろ。
そして徳川家康が関ヶ原の直前実際に討伐対象にまでした上杉さえ残っているぞw
関ヶ原の戦いからの徳川政権当初は豊臣潰し。
それ以外はそれ以降の問題。幕末まで家康・秀忠が面倒見れるかよ!!
徳川家っても、そんなに体制が固まってたわけでもないんだろうし。
とりつぶすこともできたかもしれないな。宝暦治水みたいな形で明らかに
島津の弱体化を図ってはいるが。
>>8 いま急いでwikiで宝暦治水事件のことを調べたが、こんな可哀想な事件があるとは今まで知らなかった
幕府の役人ってドラマにでてくる悪代官みたいなやつだったんだな おれは薩摩藩士のようにジッと耐えることができたかどうか
>>9
鹿児島では平田靱負を始めとして、その歴史は高校入試でもよく出されるし学校で習ってみんな知っている。
宝暦治水はそもそも、徳川吉宗と尾張宗春の対立があって、その両者のタヒ後、幕府と尾張藩の関係修復の為に企画されたこと。
それを幕府初期のように「天下普請」方式を採用し、そのとばっちりが薩摩に来たというわけだ。
その経過については調べればわかるだろうから、意見としては薩摩の対応について書いてみようか。
薩摩は「関ヶ原の戦い」が、いわば全国デビュー。それまでは九州情勢以上の対応をしたことがなかった。
関ヶ原の戦いについては、完全に流れが読めていない。いわば「田舎大名」でしかなく、秀吉タヒ後の豊臣内部の対立(武断派・文治派)とも無縁。
その結果、当初上杉征伐に赴く徳川家康から伏見を守って欲しいと言われ、快諾(このままいけば東軍)したが、伏見城で徳川家臣鳥居元忠といさかいをしてしまい、結果西軍に。
ところが大垣城で石田三成とも対立してしまい、関ヶ原の戦いでは完全に浮いた存在だった。
結局戦闘はせず、気がついたら西軍は敗北していて、威力撤退をするはめに。
それで追撃を受け、1600名いた薩摩勢が鹿児島に生還したのは80人。95%を失うという散々な内容だった。
問題はこのあと。
家康が薩摩を潰そうとするという噂(事実ではないだろう)は薩摩にも伝わってきた。
臨戦態勢を取ったが、中央政界にも手を打つべき。しかし薩摩には当時一切中央とのつながりはない。
これで何と薩摩はその関係を700年も遡ってそれを求めた。
それが「近衛家」。島津発祥の地島津荘はかつての摂関家の荘園だったところで、それを寄進したのが島津氏だった。
薩摩は近衛家に対し、その700年も前の関係を持ち出し、進んでそれを復活させることで近衛家に徳川家との関係修復を依頼した。
これはタイミングがドンピシャだった。徳川家康は当時、征夷大将軍就任を目指して朝廷と交渉中だったからだ。
征夷大将軍になるには、いくつかの要件があるが、そのひとつが「源氏長者」であること。
徳川家康はそれを楯に征夷大将軍の「補任」を求めたが、
近衛は「同じ『源氏』の島津との関係がこじれていては徳川家を源氏長者とは認めない」という論法で、島津との関係修復が征夷大将軍補任の条件であるとの状況を作り出した。
島津はこの時から、中央との関係、特に外交交渉の重要性を覚ったのだろう。
宝暦治水の後、薩摩は徳川内部の勢力との関係強化を図っている。
それは「一橋家」。徳川御三卿のひとつであり、かつ当主一橋治済は、ひとつの野望を抱いていた。
それは自分の系統から「将軍」を出すこと。その為に権謀術策を用い、その息子豊千代丸を次期将軍へと画策していた。
そのため、一橋家は各勢力との合従連衡を図っていた。そこに薩摩は入り込んだ。
豊千代丸が十一代将軍徳川家斉となる前後から、一橋家および一橋系将軍家と薩摩との関係は密接になっていく。
一橋家から島津重豪の正室(保姫)が嫁いでいる。また将軍家斉の正室は島津から近衛家経由で近衛寔子(広大院)が入っている。
それにより幕府と薩摩は妥協し、幕末へと推移していく。
現在NHK大河ドラマでやっている「天璋院」もそうした流れの中のひとつだ。
ひとついえるのは、薩摩は度々徳川から狙われたが、その度に妥協を画策し、それが成功してきたということ。
そして、薩摩はそれを実行するたびに、かつての田舎大名から次第に政治的なセンスと行動力が身についてきたということだろう。
危機が人や集団をより強く逞しくしていく一つの例ではないだろうか?
耐えられなかったら潰されるだけだろうな。
戦国時代でもそうだろうけど、難癖にしても大義名分は必要なわけで。
ただ、島津が取りつぶされていてもきっと西方(辺境?)の外様が同じコトをやったような気もする。
なぜ西方かと言えば、江戸から見て辺境であることと外国の影響を受けやすい、更に江戸より京
に近いからと言ってみる。
で、一番潰しておかなきゃいけなかったのは朝廷だったと・・・信長でも出来なかっただろうけど。
しかし、朝廷が続く理由のひとつは「実権」がないから?かとも。
薩摩を全力で潰しに行くような徳川だったら
すぐに豊臣恩顧大名に反撃されてあぼーん
よって幕末は、ないw
後の北条氏みたいに
>>17
そうだよな。島津が滅ぶとした関ヶ原後よりそのタイミングだよな。それでやっと
このスレの仮定が成り立つわけだw
秀吉が薩摩を潰すはずがない。
秀吉は日本統一だけを考えていた訳ではないからだ。
大陸への進出。
これがあるから、特に「西日本」に対してはかなり妥協的だ。
当然、全国統一後の大陸進出時の「戦力になる」からだ。潰してしまってどうする。
本当はその考えで全国すべてを進めるつもりだっただろう。
しかしそれだと問題が残る。
ひとつは家康の勢力圏が秀吉に近く、その立場が脅かされること。
そして、これが大きいが、そんなやり方だけでは秀吉の直轄領が全く増えず、秀吉配下に十分な加増をしてやれないこと。
だから北条は潰した。
それで家康を関東に。それで空いた場所に福島、山内などを宛がった。
島津は領地が戦国時代に増えた分だけ減らされた。また他の九州大名で潰して良い者は潰した
それは、加藤清正(当初は佐々成政)とか小西行長を宛がった。
なんでも潰せば良いというものではない。
薩摩も支配する。鎌倉以来島津の支配下にあった薩摩は肥後以上に治めにくい、なん癖
つけてとり潰すには絶好の地だな。そのあとのことは知らんが…
気まぐれな人なんで小さな切っ掛けさえあれば攻めてくるぞって。
清正も徳川・豊臣そっちのけで戦を起こす様な短慮な人ではないが
恐れ知らずで戦好きの猛将って世間では思われてたからな。
最強将軍となり、天皇も討伐して大日本皇帝として君臨してただろうなw
>>25
おまえは歴史を知らんな
日本を知らん
天皇陛下に矢を向けたものは必ず滅びる
平将門然り
(ちなみに俺は藤原秀郷流の名字、自慢w)
畏れおおくも天皇様の御所の隣に、七重の塔を
建ててそこを見下ろして悦に入り、我がの息子
を天皇にしようと画策しあまつさえシナ皇帝から
汝日本国王の書状を貰い狂喜乱舞した売国野郎
足利義満も欲望実現の一歩手前で熱タヒした
かの信長も、天皇陛下からの太政大臣就任の
打診を蹴って、第六天魔王などと僭称した途端に
屯タヒした
なぜ出来なかったかというと外様NO1の伊達政宗の存在があったから。
家康が親征などしなくてもよい。
肥後には加藤清正もいるし、九州の諸大名にさせれば済む話。
ただし、島津がこれ見よがしに反乱をおこせばということ。
その状況で島津が乱を起こすとは思えないしな。
だからといって関白に毛利の分家でもなれると言えるのかw
もし島津を取り潰そうとしたとしても、
西軍の残党だらけだし、第一義広義久が引き下がるはずがない。
合戦になったとしたら、家康は三成の野望から豊臣を守る為に軍を出したというのは嘘になり、
家康の野望が全土に知れ渡って、東軍のほとんどがだませたのに癇癪を起こして西軍に下るだろう。
そんな事してたら家康が危ない。タヒぬ可能性すらある。これで島津が勝ったとして、
もし淀殿が三成を迎えなかったら応仁級の戦いが勃発するよ。
豊臣等西軍VS石田等賊軍VS東軍残党のね。
義弘だろw
第一宇宙戦艦島津を怒らせたら波動砲が火を噴くぞw
たんです。
あれ以上徳川家の統治が続いたら日本は西欧の植民地になっていたかもしれま
せん。そうなったらもちろん徳川家も無事ではありません。
薩長は徳川家を残したんだから寛大な処置でした。だから家康が毛利・島津を
残したからこそ徳川家も助かったんですよ。
家康が毛利・島津を潰して、数百年後に薩長以外の者が江戸幕府を倒したら
どうなったでしょうか。その場合はあまり徳川家に対して寛大な処置を取らなかった
かもしれません。そう考えるとあれで徳川家にとってはベストな成り行きだったんですね。
>>79
関ヶ原に島津兵が数百いてもあの有様なのだから数万いて、しかも完全アウェイ
だったらとか普通考えるよな。最終的に負けることはないにせよ、ある程度の
犠牲は覚悟しなければならない。ましてや高々九州南端の一田舎大名を潰すのに
兵糧その他戦費を考えれば要領悪すぎる。軍勢を派遣するよりじわじわイジメテ
潰すのが得策とか考えたんだろうなたぶん。
助命されて、領土も与えられて、華族に列されたというのは戦国時代からは
考えられないほどの戦後処置だった。
徳川家は豊臣家を滅ぼして、幼い秀頼の遺児を○し、秀吉の墓をあばいて、
遺骨を捨てたりしたんだから。
戊辰戦争で薩長に敵対した藩も後にはほとんど許されている。
豊臣家は城が落ちるまで戦ったけど徳川家は戦闘が始まる前に恭順した。
この差は大きい。
西国の大名連合に征伐させるしかないわけだが、西国の有力大名は外様ばかり
島津征伐に成功したとしても莫大な恩賞を出す必要があり、
島津領はそっくりそのまま外様に加増するしかなく、
徳川としてはたとえば豊臣恩顧の外様を太らせるより、島津に恩を売って
取り込んだ方が得策と考えるのは当然だ
旧日本軍の体質は明治維新後薩摩軍人が帝国軍の上層や現場上官に居たせいってのが大きいからなぁ
逆だよ。日清日露までは、薩英戦争や下関戦争などで外交の
経験のある元勲達がいたから事がスムーズに運んだが
これらが没した後に訳わからん事になっている。
ーーーと、ある本には書いてあった
大政奉還したあと、徳川主体で合議制を敷けば混乱がなかった
薩長の○能達が政権取りたくて幼天皇を抱き込んで政権転覆を図った
島津も毛利も潰しておけばよかったんだよ、家康さん、
織田信長がいくつも国を滅亡させているが、家康が滅亡させたのは豊臣家だけではなかろうか。それも秀吉亡き後の淀君と秀頼。消えていく運命のような状態からの攻撃だ。
信長は今川氏、斎藤氏、浅井氏、朝倉氏、三好氏、足利氏、武田氏など、その他多数の大名を滅ぼしている。
秀吉の場合は明智光秀、柴田勝家とはガチ○コ勝負、北条氏などは余裕の戦。ただ、信長の家来の時は、大将として、別所氏を滅亡させている。
家康がガチ○コで一つの大名を滅亡させたことがないのでは。
だから島津が必タヒで抵抗すれば、徳川では無理であろう。和睦が関の山。
家康が滅ぼした大名(旧族系のみ)
宇喜多氏(備前)
長曽我部氏(土佐)
里見氏(安房)
龍造寺氏(肥前)
秀吉が滅ぼした大名(旧族系のみ)
姉小路氏(飛騨)
波多氏(壱岐)
大友氏(豊後)
宇都宮氏(豊前と下野)
日本国中探しても薩摩ほど土地条件が劣悪な場所はそうざらにはない。火山灰地で生産性0。
それに下手に島津家が東海や上方あたりにあるより、九州の南の果てのほうが何かあった時徳川に
とり都合がよいからな
西から攻めてきた同族をどう思っていたんだろう
越後毛利は京の上杉屋敷で活動
長州脱藩の志士からは冗談めかして「御本家」と呼ばれた
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1221893170/
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