豊臣政権末期に政権の実務を担い
五奉行と呼ばれた五人の吏僚について語りましょう。
* 浅野長政(甲斐甲府22万石)
* 増田長盛(大和郡山22万石)
* 石田三成(近江佐和山19万石)
* 前田玄以(丹波亀岡5万石)
* 長束正家(近江水口5万石)
2: 2007/02/18(日) 01:05:17 ID:Ns+JJk0c
>>1
スレ立て乙
ところで前田玄以と増田長盛は家康に内通していたが
長盛は改易され、対照的に玄以は所領を安堵された。
この二人の処遇の違いには何の思惑があるのだろうか?
玄以は公卿や僧侶に独自の人脈を持っていたからでは?
末席の長束カワイソス。
長束は新参で一番若かったからね。
但し、実質15万石程度の実収があったとか
長束殿が一番若輩だったんですな。勉強になりました。
関ヶ原直前には12万石に加増されてる。
石高以外では細川と縁が深かったようだ。正室は本多忠勝の妹だった。
伏見城や関ヶ原に出兵せず、自らの手を汚さなかったためと思われる。
ただ、家康は長盛を仇敵と憎んでいたらしく、大阪落城の直後に自○させている。
前田玄以の孫3人も同じ頃自○させられており、家康の執念深さはすさまじい。
浅野長政はまとめ役だったのだろうが
執行官としての威厳をもっと持たせるために
みんなもう少し禄高を上げてやって欲しかったね。
ただでさえ君主の側近に侍り大きな権限を持ってるのに、
大封まで与えてしまえば増長してしまうでしょ
思っていた。だから西軍の動向を家康に通報していた。
太閤の義弟でありながらも実は、
一番の親家康派だったからか?
北政所様系だからじゃね?
長束正家
同じ奉行として、関係深かったが戦意はなかったようだ。
前田玄以・増田長盛
長束同様の関係だが自分が惜しかったか裏で三成を裏切った。
例えば新五奉行に、加藤清正・福島正則・浅野幸長・前田玄以・蜂須賀至鎮とか
豊臣政権に対する影響力なんて皆無に等しかったと思われ
長束は、財政経理担当、今風に言えば財務経理部長。
増田は、名判官と呼ばれてたらしいから、庶政庶務担当かな…。総務部長。
石田は、太閤の側近で、天下の枢機担当って感じ…。天下の検知から、大名の配置、太閤の遺命にまで参画した。社長室長兼秘書室長。
前田は、公家寺社担当で京都奉行。
浅野は、太閤の最古参の家臣の一人で、奉行の中で、唯一尾張出身で、太閤の縁者。人事部長。
以上、関ヶ原400年記念に、岐阜県が発売したDVDから(監修は、堺屋太一)
増田って土木じゃなかった?
浅野が司法,石田が行政,前田が宗教,長束が財政
ちがふ?
そんな機能的に分かれてるわけが無いだろ。
とりあえず何でも「手の空いたのがやる」体制だろ。
五大老は五人の奉行とよばれていた。
五奉行は五人の年寄り(大老)とよばれていた。
>>37
豊臣家の三中老は、三成らより格下になるのかな?
それならば、存在感の薄さも理解できるけど。
今までは五大老の下に、三中老がいたと思ってた。
>>38
こんな感じでしょ
五大老=閣僚
三中老=副大臣
五奉行=各省事務次官
例えは分かるけど、実権はどうなんだろ?
三中老に確固たる役目や権限とかはなくて、名誉職というオチは無し?
>>40
豊臣家の機構自体適当な組織だからなあ…
徳川期みたいにきっちり決まった官僚機構があるわけじゃ無いし。
大体中老って物自体実際あったのかってのも疑問がw
まあ大雑把に中老ってのは、内閣と省庁の間の調整役みたいに考えればいいのでは?
それでも家康・秀忠の代に破綻しなかったんだから、
豊臣家の仕組みより強力に思えるが。
秀吉がタヒ亡しても機能不全を起こさないように改めて政権内での位置づけを明確にしたのが五奉行なんだけどね
実際に秀吉タヒ後には大老連中と協議してスムーズに諸将の朝鮮からの撤兵を成功させてる
家康が豊臣恩顧の連中の対立を煽らず、むしろ秀吉に頼まれたように
彼らを押さえつけてくれたら問題なかったんだろうけど、それは仕方ないな
三成に島左近あり。
長盛に渡辺了あり。
では正家には?有名な家臣はいたのかね?
まあ、いなくとも、関が原で島津と石田の間にでも布陣していれば、
戦局も多少は違っていたかもね。
島津の1,500に参戦の要請をするほど、兵数を三成が欲していたからね。
それか、崩れかけた小西勢を横から助勢するとかしてもいいよな。
三成は、せめて正家くらいは関が原に引っ張っていくべきだったな。
それに江戸時代初期はまだまだ豊臣家とか朝廷とか
戦国生き残りの有力外様大名みたいな紛争の火種が山積み状態
そういう不安定な状況ではかっちりした官僚行政機構組み立てるよりも、
ある程度将軍の独裁が発揮できて変事に臨機応変に対応できる制度の方が理にかなってた
何か勘違いしてね
秀次は関白としていわば日本国首相の任を負っていた。実際に軍事権以外の行政権はほぼ任されていたわけで。
そのもとで「豊臣家官僚」が育成され実際に政府を構成していた。前野長康なんかがその首班と言っていい。
それがあの事件で一夜にして豊臣家官僚やその候補が霧散した訳だ。そのため秀次事変後秀吉は
五奉行みたいな「私的諮問機関」で、当座の政権を作らざるを得なかった。
豊臣家のれっきとした政権運営機関だよ
あと関白秀次に大した権限なんて無かったよ
実際に彼の出した朱印状は後で秀吉が追認の判を押したものが多い
彼の最大の政治的業績といえば朝鮮出兵の際の人掃令だが、
これにしたって秀吉に命じられたことをそのままやっただけに過ぎない
前野長康が豊臣家官僚の首班ってそれこそ何か勘違いしてるとしか思えない
ただの秀次の付家老だろ
長康の署名した行政文書が果たしてどれだけ残ってるというのか
実際どうすごかったのかよくわからん
石高も前田以外の3人と比べて低いな
しかし、豊臣政権は関白を首班とする公儀体制を敷いているため、すべての行政手続は関白の決裁が必要である。
秀次事件により関白不在となっても、秀吉と諸大名との関係に変わりはないため、政権の運営には支障はない。
しかし、いずれ関白に就任する秀頼のため、公儀体制を再構築する必要に迫られた。
こうした状況の中で豊臣家諸奉行の取りまとめ役となった者が、後世、五奉行、三中老と称された。
前田利家のタヒ後短期間で
石田三成、浅野長政両奉行が罷免・蟄居され
利家の後継の利長も大老職を解任
上杉景勝が謀反人にされてるところを見ると
五大老・五奉行制はかなり脆弱な組織なのかも
まあ家康が狡猾ともいえるが
>>61
オレも疑問なんだが、基本は五奉行は石田で豊臣政権派で五大老も上杉
宇喜多、毛利は石田派ならみんなの前で家康糾弾できなっかたのかな?
仲裁・調整する三中老が全く機能してなかったからね。
一応、政治担当で公家にも顔のきく前田玄以がやや抜きん出てて
それに次いで石田三成、浅野長政だったんじゃないかね。
経理実務の最高執政官は長束正家だったはず。
確か前田、浅野、増田、石田、長束の順だった気がする。
秀吉の葬儀の時もその順番じゃなかったかな。かなり危うい記憶だが。
なるほど。それで序列が下位の三成が「合議制」なのをよいことにして増田、長束を味方に引き入れて
自分の意思を「五奉行の多数決による総意」という形で引っ張りまわしてたわけか。
五奉行首座は浅野長政
豊臣家の組織は全くの未整備状態。
さまざまな案件に対して、
秀吉が適当な家臣に処理を命じる。
その取り纏め役になることが多かったのが
浅野、石田、前田、増田、長束。
役職としての五奉行なんてものは存在しなっかのでは。
ちゃんと名指しで五奉行制を定めてる
浅野と石田は不仲のようだが。
>>73
石田と浅野長政の不和はどうなんだろう?って話があるな
仲が良かったという確証もないみたいだが…
浅野は根っからの親家康に見えるけどそれはあくまで後世から見ての話で
見方によっては長政は秀吉のタヒの前も後も豊臣政権寄りだったと見ることが
できるって説を見たことあるが……なにで見たんだっけな。
豊臣政権よりでも石田路線支持とは限らんわな。
江戸時代も大名として残ったから、親徳川って見られてるんだろうな。
でも、家康暗○計画の謀議に加わったとして、蟄居されてる。
家康と組んで行った出来レースと言われてしまえば、仕方ないけど。
秀吉にも気に入られてたし、関ヶ原起こしたのも彼だし。
実力者だけど、席次は下位。
関東軍じゃないが、司令官より参謀が権勢を振るって感じw
とにかく家康排除みたいな?
結局は家康を体制の中に置くか外に叩き出すか、って路線じゃね?
家康と決戦して勝てばいいけど、負ければその覇権を確立させるだけだし(実際そうなったし)
石田と長束は一応子孫がいるが
前田と増田はどうなったんだ?
浅野は息子の長晟が家康の娘(蒲生の中古)を孕ませた功績で生き残った。
高齢出産で出産後すぐに家康の娘が亡くなり、母のいない光晟を家康や秀忠が
不憫に思っての家康の外孫としての御家存続らしい。
長盛は息子が大阪の陣で反徳川に付いた責任を取らされ自決、子孫無し
秀吉が奉行に任ずるだけあって素晴らしい政治家なんだろうけど
五奉行ってそんな固定化された組織じゃ無いだろ。
たまたま5人が指導的地位にいたから五奉行って呼ばれただけで。
6人いりゃあ6奉行になってたさ。
実は、五奉行が大老(年寄)
実は、五大老が奉行
学校のテストで書くと×にされるけどねw
各人の地方大名とのパイプはどんな感じだろ?
詳しく知らないから、分かる人が是非教えて欲しい。
石田:佐竹・津軽
浅野:
増田:長宗我部
長束:
前田:
石田:佐竹、宇都宮、真田、津軽、秋田、伊達、相馬、毛利、上杉、島津
浅野:南部、徳川、前田、蒲生
増田:長宗我部、里見、宇都宮、成田、那須、毛利、上杉、織田ら美濃
石高が減って困窮する島津に貨幣経済について教えて
助けちゃったことがあるので仲がよかったらしい
あまり機能してない
とくに堀尾は親家康でいろいろと策動してる
前述の増田とか経歴みるかぎりでは、三成と仲悪そうだが・・・
そのあたり書いている本とか、ほとんどみたことないけど
仲が良い悪い以前に、立場や利害がバラバラ。
人事の部長や経理の部長をまとめて「五部長」て呼んでるようなもんだと思ってたんだが。
寺社対応の前田以外の四人の仕事って、秀吉のタヒの直前まで
けっして分化されていたものじゃないんだよね。
堺屋はビジネス小説としておもしろいように
石田社長室長、長束経理部長、増田総務部長etcって感じに書いているけど、
すくなくとも東北の縄張りとかの当りまで、
三成と浅野が組んで検地とか、日常茶飯事。
全員総務、全員庶務、全員経理。
ミーティングや調整はその時一緒に仕事する相手としょっちゅう。
ちなみにその時の奉行は五奉行だけじゃなく、大谷、木村、富田などの面子も
五奉行と同格で入っている。
そいつらの中で最後に政争で秀吉側近に残れた5人(4人?)が五奉行と言われるだけであって。
ようするに秀吉の奉行集団の呼称だってことね。
小西行長、宮部継潤、富田一白、大谷吉継もくわえると、
9人ぐらいかな。
このメンツの関ヶ原の動静をまとめてみました。
ガチ西軍:
石田三成(西軍・関ヶ原)
小西行長(西軍・関ヶ原)
大谷吉継(西軍・関ヶ原)
長束正家(西軍・関ヶ原・南宮山)
ガチ東軍:
浅野長政
秀忠付きで関ヶ原に遅参
タヒ亡:
富田一白
関ヶ原前年にタヒ亡・子の知信は東軍として安濃津城に籠城
宮部継潤
関ヶ原前年にタヒ亡・子の長房は初め東軍につくも、なぜか西軍に寝返った
裏切り者:
前田玄以
大坂在。表面上は西軍を装いつつも、家康に内通し、三成の内部情報を家康に流した。
戦後、その功績により、本領を安堵される。
謎:
増田長盛
秀吉タヒ後は反家康勢力結集のために精力的に動き、三成とともに、
中心的な役割をした。大坂城に在勤。
秀吉タヒ後、一時的に豊臣家の蔵入り地の管理を任され、
自領とあわせて120万石以上の兵力の権限をもったが、
関ヶ原には一兵も出さず、立花宗茂が島津義弘、毛利輝元らと増田の兵力をあてにして、
大坂城での籠城、あるいは再決戦を仕掛けようとしたときも、
増田は拒んでいる。
戦後、三成とともに関ヶ原の役の首謀者として所領を没収されたが、
大坂城での西軍の再結集を阻んだことを評価されて、高野山に蟄居させられた。
こんなものかな。
長男が清正と組んでるのみてもそう思う
小西と加藤清正は奉行ではないけどね
五大老が、ほんとうに名前だけで、
豊臣政権の将来なんてどうでもいいと思っている連中だったんだから、
せめて五奉行は・・・って秀吉も期待しただろうし、
その期待を背負っての三成らの行動だったんだろうな。
一応、表向きは五奉行は全員で足並み揃えているようにみえる。
問題は三成が嫌われていたことかもな。
もし、関ヶ原で三成が勝っていたら、
本来並列の関係であった五奉行内で、あきらかに、
三成>(大谷・小西)>>長束>>増田>>前田>浅野
みたいな直列の序列ができそうだ。
三成嫌いには、それは耐えられないだろう。
だから、増田、前田、浅野はああーいう行動したんじゃないかと。
世の中は好き嫌いよりも利害で動く
彼らの引退後に浅野と長束が代わった。
浅野の一時失脚時というよりはむしろ秀次に連座して切腹した
前野の穴を埋めるショートリリーフとして引っ張り出された感が強い。
奉行としての実務と言うよりは、格的に、
秀次派を粛清しても豊臣を支える古老はまだまだいるよ、と内外に示す感じで。
保守穏健派の長老の一人で、万時そつのない継潤はそういう役にはうってつけだろうね。
だから前野とかは消えた気がする
尾藤は縁戚の三成が約束守って敵の降伏兵とその城下の人間を助けたせいで
秀吉が「はぁ?おまえなに生真面目にやってんの?俺に逆らった奴は
すれ違っただけで皆○しにしろよ」とつっこんで三成が「助けるって約束したのは
あんただろ。約束も守れねーで天下とる気かよ」と突っ込んだ腹いせに粛清
(三成はお気に入りだったので免れた代わり)
秀吉最悪だな
古参の臣を大事にしない時点でそりゃいざとなったら豊臣に味方する大名いなくなるわな
豊臣は滅びるべくして滅んだということだ
藤堂家に仕官していた旧石田三成家臣磯野右近の子供
関ヶ原で三成が落ちるときに塩野、渡辺らとともに
最後までつき従い三成が解散命令出すまでずっと一緒にいた人物
しかもこの人磯野員昌の孫なんだな
茂勝は頭がおかしくなったんだっけ?
自分の小姓を斬ったりした
人の心を理解できない三成の戦采配は狸親爺に通用はしない
依存も何も、当初の予定とは違う場所に秀秋が布陣しただけ。
三成が置いていた門番の兵を押しのけて、山に登ったんだぞ。
確実に内通してたみたいだが、同じく内通してたと言われる前田の方はどうなんだ?
何か内通の根拠でもあるの?
>>205
増田長盛については、「挙兵の二段階論」をどう考えるかによって
変わってくると思う。三成・吉継が謀議していると垂れ込んだのは
三奉行だったはずだけど、増田長盛ってこの後具体的な行動をとってたっけ?
三成と長政を除いた連中を三奉行といったりするけど、こいつらの間にも
かなり行動に温度差があるので、一概には言えないし難しい所だ
福島とか黒田はタヌキにしょんべんチビって逃げ出したヘタレ
正面から向かって行ったのは三成だけだよ
輝元「ええ!?俺!?」
それぞれの領地の地元なら地方史家に山ほど居るとおもうぞ。
話をブッタ切ってスマソ
質問があるのですが…
秀吉が天正十三年に関白に就任した時
任命された諸大夫12人のメンバーを教えてください
石田三成、中村一氏、福島正則、大谷吉継、稲葉重通は解ったので
↑この五人で合っているのか?
あと残りの7人の名前を教えてください
豊臣政権で結構重要なメンバーらしいので
どうしても知りたいです
(秀吉関連ではここが一番まともスレらしいので…)
「関白任官記」によれば他の7人は
生駒雅楽頭政勝(近規)、小野木縫殿助重勝(重次)、尼子宮内少輔晴久(ママ)、
柘植左京亮、津田大炊頭、古田兵部少輔重恒(重勝)、服部采女正(一忠)。
「歴名土代」で確認できるのは以下の10人。
平一氏(中村)、源吉継(大谷)、源宗澄(尼子カ)、平勝次、藤三成(石田)、
平重長、平正則(福島)、藤重執(稲葉)、藤近規(生駒)、平吉広
>>233
ほんとこれ誰なんだろ
尼子さん。亀井あたりが尼子を名乗るかな(名乗らんような)
しかしムックとか中級者・初心者向けみたいな書籍には
信長軍団とか徳川軍団の本はよくみかける印象があるけど
秀吉軍団とか豊臣軍団みたいなのは見たことがないなあ。
御伽衆一覧とか、あっても良さそうじゃないの。
蒲生氏郷、細川幽斎、堀秀政あたりは外様でもあるが、
秀吉政権においては重きをなしているイメージがあるなあ
下手すると後の五大老の上杉なぞより食い込んでいる感じがする
秀吉が隆景のタヒ後秀秋を大老にしなかったから。以上。
そして五奉行は五年寄と呼ぶべき
奉行に処せられないことが豊臣政権の脆弱性の証。
家康ちゃん奉行宜しく!なんて調子こいたら
いや家康どころか島津あたりでも黙ってない
五奉行は大老の事を奉行と言い、大老(家康)は五奉行の事を奉行と言った。
「年寄り」「お年寄り」というのは所謂「家老」の事であり、
お互いが自分達こそが豊臣家の家老であると主張し、
相手方を実務官僚であると言っていたって事だな。
秀吉は彼らの事を「五人の衆、五人の者」としか呼んでおらず、
「年寄り」と言ったというのは浅野の記録にしかない。
>>257
秀長も長政も優秀だとおもうが、秀吉の縁故がもしなかったら
どれほどまで出世したんだろうね。
>>258
神子田、尾藤、前野‥‥‥最期がひどいな。
蜂須賀△
息子が大坂の陣で豊臣方に走った責めを受けて切腹だっけ?
しかし、五奉行といえば現政権の中枢なのに
乱に負けるとあっさり斬首なのな。
まさに時代が一日で変わってしまったんだろうな。
江戸幕府は豊臣家を総攻撃して潰したのに。
いまいち好きになれない
いろんな小説にちょこちょこ出てくるけど大していい扱いじゃないし
どんな人たちだったのか個性がつかめない
桑田忠親「豊臣氏の五奉行制度に関する考察」(『史学雑誌』46巻9号、1935年発行)
山本博文「豊臣政権の『指南』について―浅野長政と伊達政宗―」(『論集きんせい』11号、1989年5月発行)
阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年9月10日発行)
阿部勝則「豊臣政権の権力構造」(『武田氏研究』10号、1993年4月30日発行)
宮本義己「家康と秀吉―内府゛律義”の真相―(『大日光』69号、1999年2月26日発行)
堀越祐一「豊臣「五大老」・「五奉行」についての再検討―その呼称に関して―」(『日本歴史』659号、2003年4月1日発行)
小林厚太「豊臣氏五奉行について-特に発給文書の形成を中心に―」(『鴨台史学』7号、2007年3月31日発行)
堀越祐一「知行充行状にみる豊臣「五大老」の性格」(『國學院大學紀要』48巻、2010年2月14日発行)
清水亮「秀吉遺言と『五大老』・『五奉行』」山本博文・堀新・曽根勇二編『消された秀吉の真実』(柏書房、2011年6月10日発行)
宮部より石高上なんだな
蜂須賀宮部黒田あたりに大封与えて
豊臣家の柱石にすればよかったのに
宮部は老齢と後継者が若年のため大封を断ったんだよ
色々役割や立場があるから石高だけで比べるのは無意味
ただ柱石=政権中枢か?というとはっきり違う
黒田・蜂須賀ら武断派は天下統一後豊臣政権が制度的に確立してゆくなかで
政権中枢=秀吉の側近である取次や奉行職から外されていったわけで
じゃあ黒田や蜂須賀に検地や本格的な行政職がつとまるか?というとふつうに無理だろ
どーせ実務は奉行衆がやるんだし
さっさと隠居した蜂須賀はその気はないかもしれないが
その息子と孫は力を持たされれば豊臣家のために尽くしてくれたと思う
宮部は戦もできるし奉行経験もあるのに山陰にやったのがもったいないな
本来純粋な吏僚集団であるべき奉行達に軍事面での
役割が与えるというのは秀吉からすれば本意で無かったと思う。
政策上の失敗は別段無いのだから。
強いて挙げるなら筑前筑後を三成が断らずに受けていたら奉行衆の発言力が強化されていたのだが、
それはそれで武断派が逆上して逆効果かも知れんし。
いや秀吉の政権構想がぶれ気味だった点は失敗だと思う。
大まかに言えば一門+擬似一門中心→関白秀次→大老奉行制と変化してて
その過程で結果的に奉行衆の役割や実力が中途半端になった。
勿論秀吉がもう少し長生きしていればそのへんの問題を解決して
強力な豊臣宗家を完成できた可能性はあるね。
領地だけじゃなくて官位面でも奉行衆が優遇されなかったのは
おそらく武断派だけではなくて他の外様大名への気遣いという面もあったと思う。
なんだかんだで豊臣政権は大名連合的性格強いから露骨な身内贔屓は
簡単には出来なかったんじゃないかな。
宇喜多くらいしかマトモなのいないだろ
秀吉側も寧々側も残ったのはろくなのいない
福島加藤前田宇喜多小早川木下
序列なら、
聚楽第行幸の時に従一位になった北政所がトップ
次が出家して前がつくものの、正二位前内大臣信雄がNo.2
家康はNo.3に過ぎない。
もっと言うと摂関家の豊臣秀頼に対して、
清華成の徳川で明らかな身分差がある。
そして秀頼を擁する淀も北政所も信雄も実質的に西軍陣営。
家康に対するブレーキを秀吉は装置として用意はしてあった。
しかし馬○低脳武断派の常軌を逸した、
家康を悪用しての強欲を達しようとした行動のせいで、
うまく機能しなくなってしまった。
まさか秀吉も武断派が豊臣政権を崩壊に導くとは想定外だっただろう。
そういう身分差は平時に有効なのであって戦時にあっては意味も薄れる
三成が無謀な蜂起をして日本中を戦時に変えてしまったことで
秀吉が苦労して作り上げた摂関家や清華成といったものが台無しになった
まさか秀吉も三成が豊臣政権を崩壊に導くとは想定外だっただろう
五大老・五奉行で秀頼を支えてくれってのが秀吉の遺志。
トップは秀頼。幼いから家康が代理。
ほんとこれ
家康と利家二人で政務を執れなんて誰も言ってないし
大名が自分の領土確保に必タヒになったのに、
豊臣政権化では徐々に全国は豊臣のもの、お前らはただの管理役。
それを指導し進めたいのが三成はじめ官僚系、
不満ありの加藤福島なんかの新参の不満を上手く拾った徳川が天下をとったっていうぐらいだろうな。
上杉みたいな土着古豪なら居座ってるだけでその地域一帯の代表になれるだろうが、
福島や加藤なんか論外だし、家康すら国替えのせいでひっくり返される可能性があっただろうしな。
それを秀吉がするならともかく、三成がやりはじめたら不満は出て当然だろうな。
国を治めるなら官僚制度の方が統率しやすいから政策自体は正解だったのだろうが。
時代を先取りしすぎたのと、秀吉が老害になってしまったのが誤算だったな。
褒美を与える国がないから凄惨な取り潰し国替え多発と朝鮮出兵がごたごたすぎた。
島津の庄内問題とかがまさにそれだし
家康は豊臣家の力を削ぐために諸大名に領土確保することで恩を売った
増やした蔵入地の管理をするのは三成で、事実上三成の領地を増やすことと一緒なんだよなあ…
長束正家は、そんなに、算術や兵糧の輸送に長けていたのかな?
司馬氏の本では、その数字の計算力は、神技に等しいとかいてあったから。。。
初の大規模海外遠征の朝鮮征伐の補給の責任者を大過なく勤めた
=きっとすごかったに違いない的な評価じゃない?
五奉行制度は、後の官僚制度の源流なのかな。
立派な制度には、違いないけど。
官僚制度なんて組織的整備や権限整備はされてない。要は何でも屋が何でもやってたに過ぎない。
室町幕府の奉行衆のほうがまだまし
ドラマや小説では存在感ないな
石田が地方転地を受けて奉行から外れたら秀吉はどうするつもりだったんだろう?
増田長盛って領地では頭抜けているよね。
いったいどうやってここまで出世したのか。
すごい能力を持ってないとデスクワーク中心で
20万石以上なんて無理でしょ。
家柄も良さそうではないし、
いったいどやって出世したんだろう。
いまいちそのへんのこと語られないよね
子飼いにばら撒いただけやな。
三成なんか父兄の領地と預かり地7万石込みで30万石大名(多門院日記)つわれてたし
豊臣政権下では軽んじられた的な話があるけど
豊臣政権下での烏帽子親の事例ってどれぐらいあるの?
あと、増田長盛の実際の豊臣政権下の地位ってどんなんもんなの?
石田三成烏帽子親→多賀谷三経
玄以、長束、浅野、増田、石田
3~4な気がする
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1171727569/

コメント
コメント一覧 (1件)
長束の性格悪さが後世まで語り継がれてるあたり、中央集権を目指す実務官僚のトップ達が地方首長に本気で憎まれるという豊臣政権の危うさの象徴。
どのくらい性格悪いかというと、銀河英雄伝説のハイドリヒ・ラングをそのまま現実の人間にした感じだったようだ。