【戦国時代】徳川家康はどうして関ヶ原で勝ってそのまま豊臣家を潰さなかったの?????

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1: 2008/10/12(日) 20:20:33
あの時潰しとけば後々楽だっただろうに

4: 2008/10/13(月) 09:15:45

>>1とか>>3のような楽天家でなかったから、家康は泰平の世を築くことができたのだろう。

家康なら、こういうのではないか?

「俺は豊臣恩顧の大名が簡単に豊臣を見限ると思うほど楽天家ではない」
「俺は大坂城が簡単に落とせると思うほど楽天家ではない」
「今秀頼を○してしまえば徳川の世にすんなり移行すると思うほど楽天家ではない」

これを前提にしたからこそ、関ヶ原から豊臣滅亡まで14年もかけた。
家康の寿命ぎりぎりだった。家康はその翌年なくなっているからね。

 

34: 2011/02/22(火) 18:23:54.99
>>1
そんなことすれば黒田官兵衛あたりが大喜びで豊臣恩顧の大名連中をアジりまくっただろう。
関ヶ原どころの騒ぎじゃなくなる。

 

2: 2008/10/12(日) 22:16:24
東軍には豊臣恩顧の武断派大名が従っているんだ。
大坂城をいきなり攻めたら寝返りに遭って負けるのは家康

 

3: 2008/10/12(日) 22:53:33
東軍の連中なんてとっくに豊臣を見限ってる連中ばっかりだしむしろ我先にと従うだろう
加藤、福島、浅野息子をなんとかすれば楽勝

 

5: 2008/10/13(月) 18:19:55
ゴルゴ徳川家康w

 

6: 2008/10/14(火) 13:18:19
大阪城と家康では、大阪城が大きいから。(笑)

 

7: 2008/10/15(水) 17:43:13

西軍も東軍も豊臣の為という旗印を掲げてたのに潰すわけないだろ

国民の為といいながら、政権争いしてるジャパンみたいなモンだ。
自民=徳川・民主=石田+西軍豊臣恩顧・公明=東軍豊臣恩顧・共産=?・国民新=?

 

8: 2008/10/15(水) 21:44:35

潰したけどなw

すぐに潰したかどうかという話なのに「潰さない」はないだろw

 

9: 2008/10/16(木) 13:06:57
どうでもいいが大坂城の堀が埋められたことは残念に思える。
貴重な観光名所を一つ失った。

 

10: 2008/10/17(金) 23:31:09
豊臣時代の大坂城自体がのこってないだろ

 

11: 2008/10/18(土) 01:54:45
関ヶ原の時の家康は五大老として戦っているから、将軍宣下も受けてないのに
豊臣家を潰す事は不可能。正当性もない。

 

14: 2008/10/19(日) 14:33:38

>>11
関ヶ原の戦後処置(含論功行賞)は徳川家だけで行われた。
また全国の金山等の支配も徳川家に移行した
豊臣家は210万石の天下人から65万石の大名に転落した。

正当性の問題じゃないな
征夷大将軍の「補任」は対朝廷問題なだけで豊臣に対する正当性など関係ない。
不可能ではないが、徳川政権の永続性を考えて手順を踏んだということだろう。

 

15: 2008/11/22(土) 20:37:55
関が原の時点では家康は豊臣の臣下の立場だし、淀殿も三成方を支持していた訳ではない。
(むしろ三成には何の援助もしていないし、対会津用ではあるが家康に大量の軍資金と兵糧米を提供しているぐらいだ。)
あの時点で家康に豊臣家を攻撃する理由が無い。

 

16: 2008/11/22(土) 21:07:04

攻撃する理由は大ありジャマイカ?

徳川の天下を作るためだよ、そんなことも知らなかったの?
たぶん、歴史を習ったばかりの子供でも理解できる

ただいきなり打ちかかっていくほど馬○じゃないだけ

正当性だけが行動論理なら、歴史に変化は起きないw

 

17: 2008/11/22(土) 21:21:34
同盟者である福島正則の親族の豊臣秀頼を攻撃する事は不可能。

 

18: 2008/11/22(土) 23:23:14

家康が政権奪取の為に動いた戦争ではなくて、三成方に無理やり家康謀反という
形で嵌められた戦争だからだよ。 いわゆる自衛の形なん。
じゃなかったら普通に潰す。

秀吉からは遺言で京都につめて政権を担当するよう言われてたし、別に無理
から東西戦争なんて起こす必要なかった。

 

19: 2008/11/22(土) 23:34:36
もう潰れたも同然だったから潰さなかった

 

21: 2008/11/28(金) 21:12:42
むしろあの時点で一番潰すべきは毛利だろ?
家康も吉川には借りが出来てるから、毛利のことは不問にして恩を売るか
綺麗さっぱり潰してしまうかのどっちかだったな。
輝元がバ○だったが家康の戦後処理は一番恨みが残るやり方だ。

 

22: 2008/11/28(金) 21:37:19
>>21
潰すつもりがそうならずに残ったから却って恨みを買うことになったんだろ

 

23: 2008/11/29(土) 13:50:33

関が原の時点での家康の目標は、まず西軍に勝つこと、次に重要なのは東軍
・西軍どちらであっても豊臣恩顧の大名を矢面に立たせて力を弱めるもしくは
潰すこと。この2点で関が原は戦術面・戦略面ともに家康の大勝利。

その余勢を駆って大阪攻めを一気にやる!なんて云ったら東軍に与した豊臣
恩顧の大名が一斉離反していかな徳川家といえど猛り狂う猛犬の処理は一瞬
では出来ないから、一時的にでも全国が再び混乱状態となり、関が原で西軍
敗北ということで政治的には力を失ったとはいえ兵力はほぼ健在な地方の西軍
方大勢力が政治的にも息を吹き返し、家康が拾った関が原での戦略的大勝利の
意味が殆どなくなる。
関が原の勝利を政治に最大限反映させる為には嘘でも一旦矛を収めて論功行賞
をする必要があった。本当は潰したくて潰したくて仕方なかったかもしれないが。
これが我慢強くやれるのが家康の凄いところ。

 

24: 2008/12/18(木) 05:42:33

家康「徳川家の安泰の為には豊臣は潰しておかないと 大義名分があれば攻め込めるのだが秀頼め、なかなかボロを出さんわ」

といいつづけて十四年 しびれを切らした家康はついに何の大義名分もないまま挙兵した

 

25: 2009/01/07(水) 05:36:44
家康は英雄
豊臣家は悪

 

28: 2010/02/02(火) 18:31:35

14年も待つぐらいなら配下の忍びを使って長期的に毒○できたと思う
淀殿か秀頼どちらかだけでも暗○しておけばもっと簡単に無力化できたはず

大阪夏の陣では家康が今川義元のようになる可能性もあった
真田幸村をなめすぎてた面もあるし若年世代による旗本弱体化は想像以上にひどかった
家康は危険な橋を渡りすぎ

 

32: 2011/02/21(月) 16:44:04.89

大坂冬の陣の和議は家康の謀略!

兵も食料も1年分はあった難攻不落の名城に立てこもる大坂方
なぜ豊臣家は大きな戦いもぜず、わずか籠城一カ月で和議の条件を飲んだのか?
そこにはオレオレ詐欺より巧妙な徳川方の詐欺があった。
後で勝者側の徳川方が流布した大筒による淀君の恐怖ではない。

朝廷を巻き込んだ停戦命令が真相ではないのか?
朝廷の命により停戦とするから遠方より駆け付けた印として惣構を壊すという条件をつけ
朝敵となる事を避けたい豊臣側に付け込んだ罠を仕掛けたのが歴史の裏側

 

 

35: 2011/02/26(土) 01:09:20.95

家康は豊臣恩顧大名の総力を減○すれば徳川の天下になると考えたのだろう。
関ヶ原は俯瞰してみれば豊臣恩顧大名が真っ二つに分かれて○し合い、勢力を半減させてしまったものだった。
これで家康の戦争目的は達した。

だから毛利も必要以上に追い詰めなかったし、島津など「恩顧」でないものも同様。
何よりも関ヶ原のきっかけになった上杉討伐が中止同然になってしまい、当事者の上杉は減封だけで生き残っている。

しかしこれが裏目に出たのが幕末。
上杉は別としても結局薩摩・長州に・・・・・

 

36: 2011/02/27(日) 13:07:54.08
流石に250年先のことまでは読み切れんわな

 

37: 2011/02/28(月) 23:36:13.25
つかそこまで面倒見きれんわ

 

39: 2011/03/11(金) 03:33:58.76
え~っと。関ヶ原の段階で、家康が確かに最大の実力者ではあったけどね、
公権力ではなかったのですよ。もう「切り取り次第」の戦国時代は終わっていたので、
名目もなしに武力で人を従えるというのは事実上不可能だったのですよ。
もちろん、関ヶ原の本戦に、家康の息子秀忠が率いる徳川主力軍が間に合わなかったため、
東軍の勝利=徳川の勝利とはならなかったことも大きい。
関ヶ原で率先して東軍について福島正則や池田輝政、山内一豊にしても、
まだまだ家康の「家臣」になったわけではないので、石田三成らが主導する「西軍」と戦うことは
できたけれど、豊臣家=大坂城を的に回すなどということは、とうてい考えられない状況だったのですよ。
それから15年をかけて、ようやく「もう徳川が公権力であり、豊臣家はそれに従わない一大名だ」
という意識が根付いたので、大坂の陣が成立したわけですわ。
笠谷和比古さんの提唱する「二重公儀体制」論には異論があるが(関ヶ原~大坂の陣の期間は、
徳川と豊臣がともに公権力として並び立つ時代だったとする「論」は、あまりに形式論に過ぎると思う)、
関ヶ原が「天下分け目の合戦」で、それに勝利した徳川家康が天下をとった、とするイメージは、
近世幕藩体制が固まった以後に、公権力である徳川幕府が意図的に作ったイメージ戦略の
たまもの、という側面があったのは間違いない。

 

40: 2011/03/29(火) 17:19:14.33
その頃のリアル空気感と社会規範が分かればなあ

 

42: 2011/06/26(日) 01:52:15.61
家康は豊臣家家臣だろ。
三成も家康も名目上は豊臣家の権威を私物化する悪者を伐つ!って大義名分だったから、あのあと
「よーし、この勢いで大坂も潰しちゃうよー!」
ってなったらそれ完全なる謀叛だよ。

 

43: 2011/06/27(月) 06:27:03.51
関ヶ原時点ではまだ「豊臣政権の内部抗争」だろ

 

44: 2012/05/06(日) 15:30:16.64
秀頼が実は家康の息子だったから。
秀吉の漁食伝説はすべて家康の仕業だった。
大阪城は家康のハーレムであったので、潰すのは惜しかった。

 

45: 2012/08/27(月) 01:14:12.93
豊臣家の直轄領に出入りしてる商人や武士や宗教団体は山ほどいたから
豊臣家を攻める=彼らを敵に回すで
猛烈な反撃を受けて対立する大名へ資金提供を始める

 

46: 2013/06/03(月) 23:43:42.75
10年も待ってあげたんだからやさしいほうだな

 

47: 2013/06/10(月) 12:04:46.26

関ヶ原の時点ではまだ秀吉がタヒんでから3年で
合戦に所属していた大名たちも皆秀吉を覚えているし
家康自身も秀頼に「不忠の上杉を成敗します」と豊臣家家臣として出陣しているんだよな

そのことは関ヶ原に勝利しても尚、徳川家が人質にされるかもしれぬのに
秀頼の正室として千姫を差し出さなければならなかったことでもわかる

大坂の役のときは秀吉のタヒから17~18年後
世代交代が進んで秀吉恩顧大名の息子たちが徳川軍の主力
家康だけはあいもかわらず70歳にして尚、徳川軍の総大将として
大坂まで大軍引き連れて出陣してきたが

 

49: 2013/12/06(金) 16:38:20.16
家康も関が原の直後は、秀頼の命まではとろうとなんて考えて
いなかったのではないかな
実権のない関白にして、お公家さんにするつもりじゃなかったのかな

 

50: 2013/12/21(土) 15:34:22.69
関ヶ原に間に会わなかった立花宗茂など九州の武将が来るのもあったのではないか?

 

51: 2014/08/26(火) 17:20:32.82
家康は、残すつもりだった。
明智光秀じゃないかと?10年以上たてば誰?
となる。親戚の春日つぼみちゃんとこの頃イチャイチャ。

 

53: 2017/01/28(土) 16:48:12.59
家康は二条城で会見するまでは、一大名として残すつもりだった。

 

54: 2018/02/17(土) 04:50:51.70
秀頼に一大名になる気がなかったからしょうがない

 

 

引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1223810433/

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