【戦国時代】関ケ原の戦い・西軍の武将大谷吉継の戒名が関ヶ原町の石塔の最下部から発見される
大谷吉継の戒名と没年月日が刻まれていた五輪塔=関ケ原町藤下で
関ケ原の戦いに参戦した西軍の武将大谷吉継について、関ケ原町に残る墓に戒名と没年月日が彫られていたことが、町の調査でわかった。墓は合戦後すぐに建立されたとみられ、専門家は「貴重な資料で、新たな発見につながる可能性がある」と指摘している。
町は県と策定した「関ケ原古戦場グランドデザイン」に基づき、二〇一五年度から史跡整備を進めている。今回発見された戒名と没年月日は、一七年度に大谷吉継の墓を整備していて見つかった。
刻まれていた場所は、上から空輪、風輪、火輪、水輪、地輪の五つの部位から成る五輪塔と呼ばれる石塔の最下部の地輪。拓本を採取したところ「前刑部□□□□大禅定門」と「□時慶長五年」「九月十五日」などとあった。
大谷吉継は関ケ原の戦いで敗れて自害した。これまで知られている戒名は領地だった福井県敦賀市の永賞寺の資料などにある「渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門」で、今回とは文字や文字数が異なる。
大谷吉継の研究で知られる敦賀市博物館の外岡慎一郎館長は「従来の戒名とは異なる可能性が高い。没年月日と戒名が彫り込まれて出てくるのはとても貴重だ」と話した。
五輪塔の専門家で、元興寺文化財研究所(奈良市)の狭川真一副所長は、今回の五輪塔は「関ケ原の戦いのあった慶長年間のころの塔とみて問題はない」としている。
町は文字の解読を進めると同時に、石材として使われた花こう岩の産地を特定し、建立に関わったと伝わる藤堂家との関係も明らかにしていく。(吉本章紀)
2018年3月19日
中日新聞
http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20180319/CK2018031902000020.html
つまり誰もケアせず放置してたのか
三成ぐらいしか友達いなかったんでしょ
梅毒だかハンセン病で顔がぐちゃぐちゃだったみたいだし
なぜ真田丸の時に発掘しなかった
こんなもん、当時なんて寺が違って宗派が違ってれば戒名なんてみんな違うだろ。ましてや敗者の墓なんて表だって書くわけにもいかねーだろうし
それこそ裸一貫足軽から国持大名だからな。しかも外様だけど別格譜代とか。圧倒的な能力と行動力があったのは間違いない。
体制としては徳川家康が天下を取ったのが理想とわかるけど、大谷吉継とか真田親子とか反徳川の武将に惹かれるのは否定できない。
真田兄「・・・」
税金使うなら家康レベルにしろ
学問こそ多様性が必須だぞ。
こないだ行ったけど、なんかやる気なくて三成すら活用されてなかったよ
三成は彦根で井伊よりもポジション高いぞ。佐和山なんて何もないんだがな。
大谷吉継って一説には秀吉の隠し子って言われてる武将なんだよ
秀吉の子飼い武将の中で秀吉の「吉」の字を貰った数少ない人
そして、病気さえ無ければもっと活躍できた人
そもそも石田三成が小早川家を
潰そうとしてた所を家康に助けられたのに
小早川が石田につくわけないじゃん
性格はたぶん良かったんやろなあ
時勢上そうせざるを得なかっただけで本質的には無茶苦茶義理堅いんだろうな
>>50
「この藩は合わないんで辞めます」って家臣がいたら高虎は茶を点てて刀をプレゼントし
「新しい仕官先が駄目だったらいつでも帰ってきて良いぞ」と言って送り出し、実際に出戻った家臣を元の待遇で仕官させたという
これを批判した家臣に対しては「家臣や家来には禄だけじゃなくて情を掛けないといけない。
情を掛けてやれば藩主に付いてきてくれる有能な家臣が増えて禄も無駄にならない」と言ったという話がある
大和大納言豊臣秀長が
長生きしてたら普通に豊臣の家臣として
人生終えてた気がする
秀長以外に高虎の器を使い切れる人間が家康しかいなかった
家康のタヒに際に「宗派を変えてあの世でも付いていきますぞ」とその場で改宗した話とか
両者の信頼関係がよく現れてるな
逆になぁ
そのエピソードでただのイエスマンだったのかって印象がついちゃってなぁ
それさえなければ生かして使うべき
万人にとっての器量人って感じなんだが
当時も職場の人間関係に悩んで退職する人いっぱいいたんだねえ
>>19
明朝鮮連合軍二万を六千人で打ち破ってるね。
地元の治世も良かったらしい。
小早川家は後に復興されてることを思えば過小評価されすぎ。
その白ずきんと具足を身につけたら何故か
外見カッコいい大谷吉継。
そのわりには知行少ないんだよな
秀吉の嫁に縁が深い準身内枠らしいね
石高的には戦働きは期待されずに能吏として評価されてたのが良くも悪くも裏目った感
変らなかった人だよね。この人の娘が真田幸村の嫁。
石田三成も含めて関ヶ原敗戦組はドラマの主役を張る人が多い。
たしかに東軍は、家康以外、華のあるのがだれもいないという感じ。
山内みたいな腹黒策士が多いわな。
だよね。
漢がいないんだよな。
>>45
井伊直政
福島さえ怯んだ島津の前進撤退に追撃をかけている
生駒は親子兄弟で東軍と西軍に別れ
どっちが勝ってもお家安泰
幼少時インパクト与えるのが大谷刑部だろう。
朝廷から授与された官位が従五位刑部少輔
ハンセン氏病
天正15年(1587年)、大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を
1口ずつ飲んで次の者へ回していった。
この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをする
だけであったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み(一説には吉継が飲む際に顔から膿が
茶碗に落ち、周りの者達はさらにその茶を飲むのをためらったが、三成はその膿ごと茶を飲み干し、
おいしいので全部飲んでしまったからもう一杯茶を注いでほしいと気を利かせたとされる)
、気軽に話しかけてきた。その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされる
領地は取上げられたけど生き延びることができた
大谷の石塔も建ててやるだなんて意外にいいやつだな藤堂さん
>>70
個人的に憎しみあっていた訳ではないし
大谷吉継は東西関係なく家康をはじめ多くの将から評価されてたよ
その上、義を重んじ西軍に着く姿勢を取ったのだからまともな武人であれば尊敬尊重するのは自然の成り行きじゃないかな
事大主義のしょーもない武将とは比べ物にならない立派な人間だと思うよ
「渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門」
「けいこういん さきのぎょうぶきょう しんげつはくとう だいぜんじょうもん」
という読みでいいのかな?
でも、大谷吉継は刑部卿ではないだろ。刑部少輔じゃね?
敵とはいえ、立派な最後なんだし、家康の覚えのめでたい高虎が作りたいっていったら無下にもできんだろうし
>>92
大谷の付き人が介錯してその首を隠し
その後高虎の息子に出くわし「首はどこにあるか」と尋ねられたが病気で崩れた顔を晒す恥は晒せないと言う遺言から「それは言えない」と答えるとその意を汲み取り高虎の息子もそれ以上詮索しなかったと言う事があったらしい
藤堂家が碑をたてたのはその縁かなと思う
そうじゃないなら、あとからのほうに院殿号を足しただけだし。まあ、ちがうっちゃあ違うが
有り続けたんだろうね。
小早川秀秋を題材にした戸部新十郎の「放れ駒」って短編小説があったが、あの孤独感に満ちた秀秋像は今でも記憶に残っているな。
>>112
あーその話好き
武士として約束しました、言えません!
これには家康もホロリ、お咎めなしってね
まあそういうポジションだったから五万石の大名になれたのかもしれんが
そもそも、大谷を秀吉に繋いだのは石田なんだが。
転職回数多いと評価下がるよ
戦国時代はそんな事は無い。感状なんかは再仕官の時の為に役立つ物だし。主君も部下を食わせられなければ留めておけないし、部下も一族食わせなきゃならないし、今なんかより全然ドライな時代だ。
そんなことはある
乱世で転職という側面があったからお咎めがなかったレベルとはいえ、当時も武士として評価されるのは楠木正成や山中鹿之助、鳥居強衛門、清水宗治、秀吉から直参の誘いを受けて断った直江兼続や片倉小十郎だ
一度だけでも「う~ん?ま、仕方ないか」なものが、何度もの主君替えはさすがに評価は下がる
北山村があの立地で高虎の所領が中心の三重県に属さなかった理由の一つかもしれん
まあ、和歌山との結びつきを重んじたってのが大きいだろうけど
あれは高虎が墓から起き上がって首狩り始めてもおかしくないレベルのド畜生行為ですわ
確か鳥羽伏見の合戦中に裏切ったんだっけか
戊辰戦争かな。
さすが藤堂家って皮肉られたって話だな。
伊勢は国学が盛んだったからねえ。
藤堂家は外様ながら家康が井伊家と並んで先鋒に起用するよう命じたほど信頼が厚かったけど
朝敵にはなれなかったと考えるのが自然だよ。
そもそも総大将自身が逃げ出しちゃったからねえ。
藤堂高刑は大谷の首の場所を家康にも言わなかった
いい話やね
石田隊もだよ
そういえば島左近は助かったんだっけか
生タヒ不明でしょ
ドリフターズに出て来てもおかしくない存在
そう言えば全然コミックス出ないね、アレ
三成もそれは感じていて
大谷諸隊は小早川の裏切りに備えて配置された。
そして小早川の裏切りに対応し、一時は押し寄せた小早川本隊を押し返し
多数を討ち取るも、そこへ予想だにしない事態が、、
味方だと思っていた脇坂等諸隊が西軍に襲い掛かってきたのだ。
戦を決定づけた寝がえりなのに小早川、脇坂以外は罰せられてるんだよな。
そりゃ前もって約束した裏切りじゃないからな
ただ時勢をみて裏切っただけじゃ評価されん
そのとおり、総大将は毛利輝元
実質ブレーンは石田だけど
こんな形で仮に西軍が仮に勝っても戦後荒れるのは明白
この人は、家康にもかなり評価されてたんだよな
でも友の石田三成の要請を断れずに西軍方についた
大谷の嫁さんは家康の養女。
おそらく次の時代は家康のものと見据えていた。
健康で家康の方に付いてたら
藤堂高虎ポジは大谷がやってたかも
割と意外なところで姻戚関係あるよな
石田三成の親族と真田の妹も結婚してたっけ
三成と吉継の茶会での逸話もヘソ曲がりの三成が誰も飲まないなら、ここで俺の肝の太いところを見せてやる。程度の気持ちで飲んだだけなんだろう
友情とか吉継に対する親愛の情からではないな。あの時代の武将にそんなことを求めるのは無理
家康にしてみれば関ヶ原での勝ちが確実になったのに、吉継がタヒんでいようが
生きていようが大勢に影響は無いからね
吉継が永く生き延びて自分の覇道の邪魔になることも有り得ないからな
首が無いことを利用して、ああいう振舞いをした方がポイントが高いことくらいの計算はするよ
誰かよーわからんがここ読んでてすげー人だという事は理解した。
しかしタヒんで1000年後の世界でそんな絵にされるとは想像もしなかったろうな。
人生何があるかわからないけどタヒんでからもわからないもんだな。
大谷吉継の子孫は家康の次男結城秀康の子孫の福井藩松平家の家臣
石田三成の娘は蒲生家家老の岡家に嫁いで、生んだ娘が蒲生家家臣町野家に嫁いで、生んだ娘が三代将軍家光の側室になって生んだ千代姫が尾張徳川家に嫁いで跡継ぎの男子を生んでる
大学のときの同級生がそこの分家の子孫だった
歴史好きなのでそいつの実家に遊びに行ったときにその爺さんにいろいろ話し聞いたりして大興奮した
そいつは興味ないから他の連中とラーメン屋とかに言ってたw
農村に埋もれていたのを探し出してまで家臣にするってんだから、
相当な思い入れだよな。
小早川秀秋って優柔不断の愚将ってイメージが大きいが
彼の重臣には稲葉、内藤?だっけっていう優秀な家臣がいて
そいつらが徳川と事前に通じていた。
そういう状況で伏見城攻めは加わったものの裏切るのは不思議
でもなかった。秀秋が強引に西軍につこうとしたらしたで
宇喜多家のように親徳川派が内紛を起こす可能性も否定できなかった。
小早川が西軍として動いたら当面の戦局は膠着するものの
毛利の動きが緩慢な以上、西軍有利の展開はあまり期待できない。
吉次が三成に合力するときの話が泣かせるんだよな。
最初、三成に思いとどませるように説得したが
三成ってあの通りの頑固者で無理で
城外に退出したけど、暫く逡巡した末にタヒを覚悟で彼に合力すると
意を決して城に戻るシーン
西軍は何かと恩義やら大義が語られることが多いが
東軍側は実利とか三成個人に対する恨み、朝鮮出兵により
疲弊した、鬱屈した恨みが三成個人に向けられた
西軍きっての名将揃い、かつ大兵力だった
大津城攻め組が間に合ってれば
毛利秀元もやる気あったしそこに元康も加わったら
吉川も抑えきれなくて状況変わっただろうに
ま、その場合秀忠の到着も考慮する必要出てくるけど
まあ、関ヶ原で藤堂勢が直接戦ったのは事実らしいし、出身地も近いからその意味でも縁はあるしな
高虎はそのへんの筋目はわりとカッチリとやる印象
秀吉のタヒ後に家康と前田利家が対立して双方の屋敷に味方の武将が集まったときには大谷吉継、藤堂高虎、伊達政宗らは家康の屋敷に
石田三成、加藤清正、宇喜多秀家らは前田屋敷に集まった
まあ、直勝が本当に病弱だったのかは当時の経緯を知ると分らんが
たった5万石しか与えなかったという処遇が意味不明で理解に苦しむ
武将としても執政官としても散々持ち上げてたのに
所詮、行政官僚だったからじゃないのか?
一大事には一軍の司令官になることもあるだろうが
基本、内政で重きをなす人間だったから。
五大老とちがって五奉行はそんな石高高くない。
何代も政治家やってきたような家の当主と、親がリーマンの事務次官みたいなもんだな
現代の自衛隊だったら1個連隊もいれば守れそうなくらいの面積の平野しかない
大谷も逆恨みすんなや小早川秀秋を頼りにし過ぎやろ
小早川の15000は兵力的に西軍の主力級。
それが後ろから襲いかかってきたら
もう、その時点で西軍は戦争にならん。
それに大谷は5万石。
率いてた兵力はかき集めて3000の小身でどうしようもない。
そもそも小早川は東軍という説もあるからね
小早川家を潰そうとしてたのは石田三成、
それを阻止して小早川を助けた徳川家康 だしね。
西軍兵力では宇喜田秀家が18000人で福島正則軍の目の前で5段構えの陣形だったと言われている。
南宮山の毛利軍は主力の輝元代理の秀元15000 毛利軍付僧安国寺 長曽我部元親 吉川広家らで総勢3万いたが
吉川広家が内通して毛利軍の降下をブロックしちまった。
>>278
本陣真裏からの奇襲だからね
本陣壊滅で指揮系統が乱れて壊滅させられた方は負けてしまう
大坂夏の陣でも真田幸村が家康本陣を狙って突撃を仕掛け、家康は東軍の本陣の混乱ぶりに首を取られて徳川側敗北も意識したという
本田忠勝が本陣壊滅寸前に気づいて間に合わなかったら、家康の首は幸村に取られて徳川敗北になり日本のその後の歴史はものすごく変わっていた
忠勝が間に合うか間に合わないか
その時間はわずか5分程度だったといわれる
あの時点で家康がタヒんでも大勢に影響は無かっただろう。ほとんどの武将は徳川政権を頼るしか無かったからな
家康が討たれても秀頼は切腹して果てたし、豊臣家が消え失せるのは確定だったんだよ
大将にやる気がないんじゃ勝てるわけない。
その上、子分格の石田とかが大将面して出しゃばって、
雰囲気ぶち壊しじゃん。
一応毛利は大坂城に留まった輝元の代わりに息子の秀元が兵15000で南宮山の最上部に陣取っていた。
しかし先陣は亡くなった元春から代わった吉川広家だった上に既に徳川から毛利の領土は安堵するという
工作に乗せられて一度も動かず、安国寺らが出馬を催促しても飯の時間だからと取り合ってもらえず
南宮山の毛利軍と長曽我部元親軍は全く戦えなかった。逃亡した長曽我部元親軍は浅野・山内軍に追撃される始末。
後小早川が寝返った時に同時に赤座 朽木らも寝返ってる。
その小早川が大谷吉継に突入して行った際に大谷軍が既にそうなることを備えて体制を立て直していて
一度は小早川軍を押し戻している。
ゲームの影響ってスゲーなw
それまでまったくの無名だったのに。
聞いたことすらなかった。
古い大河ドラマでも登場シーンあるし無名ちゃうやろ
ちなみに無双とバサラ両方に出てる
ひょっとして松永弾正久秀も知らなかった系か
バサラに出てたな。
もっともその前から知ってる。
確か信長のライバルだろ。大仏巡って戦い火を付けたんだっけ?
魔王と言われてたんだよな確か。
今まで癩病に罹ってからの姿しか出てこなかったからね
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1521459137/
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