https://news.yahoo.co.jp/articles/11796c2b9f490a776135aa1aec07129f42ea8d07
通称を喜平次と呼ばれた上杉景勝は気難しい性分で、幼い頃から無口であり、いつもこめかみに青い筋を立てていたという。生涯、笑ったことがない、と追われるほどの難しい性格の人物であった。生まれたのは弘治2年(1556)で、父は長尾政景(ながおまさかげ)。母が謙信(長尾景虎・後に輝虎)の姉・仙桃院であって、謙信の甥に当たる。10歳の時に謙信の側に侍り、21歳で謙信の養嗣子になった。しかし、父・政景は景勝の少年時代に謙信によって○されている。無口で無愛想になったのは、この時からかも知れない。
謙信は生涯、女性と縁を持たないし、結婚もしなかったといわれる。しかし、上杉家の後継者は必要であった。そこで、実の甥である喜平次を養子にしたが、実はもっと早く1人の養子を入れている。それが北条氏康(ほうじょううじやす)の7男(氏政の弟)・三郎氏秀(うじひで/名前意には諸説あり)であった。これは、謙信と北条氏康が永禄12年(1569)6月に越相・軍事同盟が結ばれると、その証として氏康は、7男・氏秀を謙信に差し出した。すると謙信は、単なる人質ではなく大事に預かるとして、氏秀を「養子」とし、しかも自分の幼名である「景虎」という名前まで与えた。景虎となった氏秀は17歳であった。景勝が養子になったのは、その7年後のことである。
景虎(氏秀)は眉目秀麗。謙信好みのの若武者であり、景勝は幼少の頃から戦さに興味を示し、軍事に優れた才能の持ち主であった。
そして2人の養子は、どちらが上杉家を継承するかは知らされていなかった。そうした状況の中で、謙信が天正6年(1578)3月、春日山城で急逝する。遺された養子2人は、本葬もすまないうちに跡目争いに巻き込まれていく。景虎を支援する者、景勝を推薦する者。2人を巡って内訌が起きる。「御館の乱」である。家臣団も2派に分かれて争った。
これに北条家も武田家も巻き込まれていく。結果として、武田勝頼はお上げ勝つに与して「御館の乱」は景勝の勝利となった。
上杉家の継承者となった景勝は、本能寺の変などを経て、豊臣秀吉に従い、秀吉政権では5大老の一角を占めるほどの立場になっていった。「御館の乱」から「会津120万石」の大大名に至るまでには、幼い頃からの側近であり、文武両道の家老・直江兼続の存在などがあった。しかし、秀吉のタヒ去から再び景勝の足元は揺れ始めた大老筆頭として豊臣家の家宰となった徳川家康は、策を弄して「親豊臣系」の大名を弾圧しようとした。加賀・前田家も会津・上杉家もその対象であった。家康は、景勝に上洛を促したが景勝はその誘いに乗らず、戦力の増強を図った。これが慶長5年(1600)9月「関ヶ原合戦」の導火線になった。
結果として、石田三成の西軍に属した景勝は、この戦さに敗北。様々な取り成しなどの末に、上杉家と景勝の命は助かったが、会津120万石から山縣の米沢30万石に減封された。以後、徳川家の1大名として景勝と上杉家は残る。景勝は、生涯笑うことのない大名といわれた。ただ1度だけ、人前で笑ったのは、飼っていた猿が景勝の頭巾を被って景勝の座にすわって家臣に対する真似をした。その時に、景勝は思わず吹き出してしまった。それが生涯1度の笑いであったという。元和9年(1623)年4月、67歳でタヒ去。
赤軍が勝てば!?撤退!…ばっか(´;ω;`)
そのくせのぶやぼだとやたら武力が高いんだよなぁ
前田慶次というろくに記録も実績もないために、なろう小説書いて貰った男
景虎の方
それじゃ分からんだろ
上杉の方だよ
この御館の乱で勝頼が景虎に力を貸してれば武田は滅びなかったはず
北条の風下に立つことを良しとしなかった勝頼のプライドが邪魔したな
逆に言うと勝頼のお陰で御館の乱に勝ち残り
東は新発田重家の叛乱
南と西から武田滅ぼした織田が迫っている状況で
運良く本能寺の変が起こって窮地を脱し
敵の敵がたまたま織田家ディアドコイの覇者で
五大老と呼ばれる大大名まで成り上がり
関ヶ原の際は負け組の首魁の一人なのに
結局大名家として名跡を今に至るまで残せた
景勝は持ってる武将なんだろうな
出来の悪い家康みたい
大したもんだよ
普通なら取り潰されてる
伊達政宗が23歳で自力で切り取った120万国の領土を秀吉に早くくっついてたおかげでそっくりそのまま貰えただけだからな
関ヶ原に向かう途中で上杉軍が江戸に南下していたら
関ヶ原に向かう軍勢は引き返すことになり(上杉軍は戦わずに会津に戻る)これを繰り返し
西軍が美濃尾張を落とせば
東軍は圧倒的な不利になると思うけどな
その前に秀康が立ちはだかってるから無理だろ
徳川家康以外は過大評価だね
26歳前後の秀康にどんだけ実践経験あるのか
秀吉の元で戦いまくってるよ
九州のとき14歳ですよ
小田原が16~17歳
本当の采配なんて出来るわけない
お膳立てされてやらされてるだけ
実践やってるんだからさ
認めなよ
大体、上杉は家康迎え撃つ体制取ってるのに江戸に進撃とかねえわ
さらに伊達や最上にすら勝てねえのに
それだと後でその義将()さんが家康の手下になって鴫野今福で秀頼公を袋叩きとかギャグみたいな展開になるんだけど
スペイン王フェリペ2世が笑ったのは
プロテスタント大量虐○の報を聞いた時😨
深き眉間のシワが…ってヤツか
まあ何も残ってないから仕方ないんだけど
ただその縄張りは相当な広さで もし完成してたらどんな城になってたのかなあとは思う そういう事考えるのは楽しいね
そいつを世継ぎにしてたら、もっと味方が増えただろうか
まあ、秀吉が健在なうちに何が何でも家康を○しておくべきだったが
本庄繁長すらなんか浪人してる時期あるし無能だろアイツ
家中不一致による内ゲバと
有力家臣冷や飯の結果造反は
長尾景春の乱から続く山内上杉家の伝統芸能だから
そのとき顔に怒気を浮かべて鞭をふったら、家臣たちは先を争って
川にとびこんだとか。
そこまでしないと動かない家臣が無能って話だな
主君を守らずに一緒に沈むんか?って
上杉は厳しくて勝手なことできないんじゃなかったかな
大坂の陣のとき、上杉の陣中静まりかえってたという話もあるし
多分どーでもいい
直江兼続が「追撃して殲滅しましょう!」と主張し一同沸き立ったところ
ずっと黙って聞いていた景勝が口を開いて
「おまえは、謙信公の戦を見てきたであろう」
「我が父は決して敵の背後を突かなかった」と言い放ち
山城守が力なく崩れて「ごもっともでございます・・」と黙ったのが名シーンであったな。
小説の名前ど忘れしたけど、寡黙な景勝が一番似合う場面だとおもう。
三成「ちょww挟み撃ちは?話が違www」
目の前で引き返した訳じゃねーからな。
数は圧倒的に上杉征伐隊の方が多いんだし。
上杉領内で小競り合いが始まったタイミングで三成挙兵してればな。
直江状みたいななめ腐ったの書いたのによく処罰もされないばかりかこんな厚遇されたもんだよな
赤ん坊の頃笑ったやろ
引用元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1732538140/

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