信長の細川藤孝(幽斎)宛て書状発見 幕府滅亡前年「あなたの働きこそ重要」
細川家伝来の資料群を保管する永青文庫と、熊本大学永青文庫研究センターの共同調査で、2022年8月に東京にある永青文庫の収蔵庫から発見された。
書状は13.7センチ×84.4センチ。花押(かおう)の形などから、義昭が反信長の兵を挙げるも敗れて京都から追放され、室町幕府が事実上滅亡した1573年の前年、元亀3(1572)年8月15日に書かれたものとみられる。この年、義昭の側近衆が誰一人手紙や贈り物をよこさない中、「あなたからは、初春にも太刀(たち)と馬とをお贈りいただき、例年どおりにお付き合いくださる」と礼を述べ、「南方辺(みなみかたあたり)(山城・摂津・河内方面)の領主たちを、誰であっても、信長に忠節してくれるのであれば、味方に引き入れてください。あなたの働きこそが重要なのです」などと記す。
稲葉継陽(つぐはる)・熊本大学永青文庫研究センター教授(日本中世史)によると、元亀3年段階で信長と義昭の側近衆との関係は極めて悪化していたが、細川藤孝だけが信長と通じ、内密に領主層への働きかけを依頼されていたことなどがわかり、「義昭の挙兵が失敗した裏には細川藤孝の働きがあったことがうかがえる。藤孝の果たした歴史的役割が改めてクローズアップされる貴重な一次史料だ」と話す。
信長の書状は800通弱が現存すると言われ、永青文庫所蔵品はこれで60通目。他の59通はいずれも国の重要文化財に指定されている。書状は永青文庫で10月5日から始まる秋季展「熊本大学永青文庫研究センター設立15周年記念 信長の手紙―珠玉の60通大公開―」で公開される。(編集委員・宮代栄一)
■細川藤孝とは…(以下有料版で、残り673文字)
朝日新聞 2024年9月6日 16時00分
https://www.asahi.com/articles/ASS9610N0S96UCVL03YM.html?iref=pc_ss_date_article
(元亀3年)8月15日付細川藤孝宛織田信長書状の翻刻
猶具一卜ニ申渉候、
八朔之為祝儀委細承候、殊帷子二送給候、懇切祝着之至候、当年京衆何も無音之処、初春も太刀・馬給之候間、被表例年之条大慶候、仍鹿毛之馬進之候、
乗心如形候欤、方々御辛労之由、併此節候、南方邊之衆不寄誰々、可抽忠節ニ付てハ、被召出可然候、馳走簡要候、恐々謹言、
八月十五日 信長(花押)
細川兵部大輔 信長
【大意】
八朔の祝儀をいただきました。特に帷子二枚お贈りいただき祝着至極に存じます。
当年は京衆(足利義昭の側近衆)からはいずれも便りがないところに、初春には貴方から太刀・馬をお贈りいただき、例年通りの交流していただき大変嬉しく思います。
さて私からは鹿毛の馬をお贈りします。乗り心地は見た目の通りかと思います。今はあれこれとご辛労も多いかと思いますが、大切なのは今この時です。
南方辺り(山城・摂津・河内)の衆は誰であろうと信長に忠節を尽くすのであれば、味方につけてください。貴方の働きが肝要です。
追伸
なお詳しいことは一卜に申し渡しました。
>・・・・いただきました。
>・・・・祝着至極に存じます。
>・・・味方につけてください。貴方の働きが肝要です。
信長が細川に出した手紙にしては、言葉遣いが丁寧すぎるような気がする。
もっと高圧的に、命令してたようなイメージがあるけど、実際はこんな丁寧なお願い調だったんだろうか?
仮にも主家(将軍家)の家宰相当の人間やで。信長はそういうとこ細かい
織田伊勢守・大和守家を滅ぼす直前でも書面では主筋としての体裁を取ってる。下剋上をするに当たっての筋目と考えてたんだろう
格上か格下か、または対等な相手なのかを判断するには現代語訳を見るんじゃなくて書札礼を見るんだよ
この書状の書止文言は「恐々謹言」だから信長は対等な立場で藤孝と交流していることが分かる
それにこの時点では藤孝は信長の配下じゃないし、あくまで信長の協力者なんだから薄礼な「謹言」やましてや「候也」なんかは使うわけない
言葉は国が違えば通じなかったけど文字は通じるようにしてたんだよな
凄いよな
細川本家(細川京兆家)の細川昭元を差し置いて、江戸時代に大大名として生き残っただけのことはある。
ぶっちゃけ鎌倉時代から外様ながら「特権的支配層」、
評定衆の家格だった京極氏の方が上。
鎌倉時代の細川氏は虫ケラだし。
本家からの家系がそのまま続いている点でも、京極氏の方が上。
NHKでドラマ化されている。
細川藤孝が光秀につかなかったことの伏線なのかな
藤孝は信長に国持大名にしてもらって感謝していた
謀反に加担する理由がまったくない
明智を裏切って豊臣に付く
豊臣を裏切って徳川に付く
長い者に捲かれるのが家訓なのかw
あの時代に勝ち残りそうな相手選んで巻かれに行く眼力と主とっかえひっかえしても時代の強者に必要とされるだけの能力もってたって考えるとすごい人物ではあったんだろうな
そらトップに立って勝ち残ればそれが一番だろうけどそれは無理だって見切りつけて誰かの下につくのも大事なんだと思う
まさにコレなんだよな
細川親子こそ小早川なんぞを超える戦国最大の裏切者
「細川親子」ってのも、実は言論操作されている、洗脳されてるからな。
当時はちゃんと信長の妹婿で、細川本家(細川京兆家)の細川昭元(信良)ってのが別に居て、
藤孝・忠興親子は「長岡親子」だったわけだから。
荒巻なんとかみたいなのが最悪だったような
名前思い出せねえ
荒木村重か
信長に反旗を翻し、負け確になると城を明け渡せば妻子は助命すると信長が情けをかけたのに、それを拒否して一族郎党処刑されて一人で逃げ延びた畜生
そうそれ
そいつが戦国一の裏切り者だろ
先祖は佐々木道誉だからなw
道誉の子孫の京極高次は明智光秀についたんだな
戦国武将は滅茶苦茶筆まめじゃないと勤まらんのよ
関係を上手く維持したりしてないといつ離れられるかわからんし
LINE感覚
鬼島津さんにこぬこもっと!おねだりエピソードは外せない
なかなか面白い人物だし魅力的な人物でもあるよね
上杉謙信や三英傑との絡みもあるから十分に面白い大河ドラマになり得ると思う
ま た 三 河 か
しかも信長書状の所蔵数全国一の細川家の永青文庫から見つかるとか凄いわ
永青文庫にはまだまだ未発見の書状がありそう
本能寺の変関連の明智光秀書状とか見つからんかな
空襲なければもっといっぱい残ってたろうな
ときどき古い農家の蔵とかからでてきたりする
先祖が手に入れて子孫が蔵に放り込んだのかな
この書状は右筆によるもの
信長の自筆書状は現存してる800通の内10通もないよ
信長が書いていてどんどん興奮していくのが分かる佐久間折檻状はいいよな
よく消失しないで残っていてくれたと思う
残念ながら佐久間宛折檻状の原本はないな
伝わってるのは信長公記や尊経閣文庫にある写しのみ
まあ写しだけでも伝わってくれて良かったけどね
さあここで、
秀吉の嫁宛の例の書状の出番です。
ノブに萌えるわ。
「のふ」と署名された信長書状はそのおね宛の書状とふもじと言う女性宛の二通でしか確認できないんだよな
徳川家康はお亀の方・阿茶局宛の書状で「家」、伊達政宗は娘の牟宇姫宛や振姫(息子忠宗の嫁)宛の書状で「まさ」と署名している
信長の肖像は従来緑色の服装の肖像画(長興寺蔵)が有名で教科書にも載ってきたが
近年の歴史研究の書籍ではこの肖像画(大徳寺蔵)の採用が増えている
http://www.shouzou.com/mag/p/daitokuji700px.jpg
https://pbs.twimg.com/media/ElauVpeU0AU2VEr.jpg
大徳寺の肖像は生前の信長に面会した絵師の狩野永徳本人が制作したものでより写実性に優れ、
信長は丸顔ではなく痩せた面長な顔であったことが伺える。
(長興寺蔵)は永徳が安土に赴く間実家の留守を預かった弟・元秀が(大徳寺蔵)を模写して描いたものと考えられ、他に残る信長の肖像もこれらの模写と考えられる。つまり全ての信長肖像のオリジナルがこの作品である。
また一部で"宣教師が描いた信長"と流布される写真のような「肖像画」は、当時の西欧にこのような画風は存在せず確実に"贋作"であり、まともな書籍には採用されていない。
作品には明治創業の写真館の所有印が残り、信長の肖像画からイメージして作成したモンタージュの類いだろう。
織田家は美形、て言われてなかった?妹のお市の方は戦国一の美女で有名だし、もう一人の妹のお犬の方も美人だったらしい。
江戸時代の美人画とかみても昔の美形って現代のビミョー顔でしょ
よくブサイクいわれる皇族顔も昔の美人顔だし
絵だからね
今のアニメ絵みたく、その当時の流行のデフォルメは入ってるから
あまり真に受けてもしゃーない
これでよく人様にハゲとか言えたな
お前も相当ハゲてるやんw
包丁握ってプチ斬鉄剣もしてるのに
牛を投げてたし忠興に投げ飛ばされてたけどな
あの決闘が本当にあったのかは置いといて
時期的にはまだ細川の厄介にはなってない頃だろ
あとアレはは細川の家臣じゃねえぞ
「客分」の扱い
幕臣から始まって三好のクーデターに抵抗して足利義昭を擁立
後見捨てて信長傘下で明智光秀の与力親戚になるが本能寺の変では見捨てる
秀吉家康治世下でも良好な関係で大藩へ
時流を見抜く目は超超一流
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1725634487/
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません