【戦国時代】魔将軍・足利義教と第六天魔王・織田信長、どちらもネーミングバリューが半端ないけど
奴もシンパか
信長すらずっと謀反に悩まされたし
義教の場合、生涯に起きた謀反が赤松に○されたアレだけだもんな
あんなに優秀なのに
秀忠は戦争が下手くそだったのと、朝廷いじめがひどかったので
マイナスポイント付けられてる。
有力外様の改易とか無用な外征はしないとかちゃんと仕事してるんだけどね。
尊氏は後醍醐天皇のタヒを傷んで天竜寺まで創建【なんと元寇以来、日本と関係が悪化してた元との関係を貿易面で修復】 したり
義教は後小松天皇の為に、禁裏五番を設けたりしたしな
まあ秀忠の場合、朝廷とは娘が入内してから不祥事ばっかりだったし
不信感を抱くのもしゃあない
朝廷いじめ=朝廷統制は、いい仕事だろ。
天皇や公家に勝手なことさせないためには必要。
信長は一歩手前だったし。
半将軍細川政元も暗○されてたな
義教、政元、信長の叡山焼き討ち三人組が何れも叡山開基の最澄がタヒんだのと同じ旧暦六月に家臣の謀反によって○されてるのは何か因縁めいたものを感じるんだよな…
普広院殿は比叡山焼き討ちなどしていないのだが
僧侶どもが勝手に焼身自○しただけ
普広院はそれを自分の失策のせいであるとして後花園院に
平謝りしているのだが
お優しい普広院様
足利家は義満と世阿弥以来
阿弥と仲良かったのかねー。
まあ足利時代の朝廷は好き勝手どころか 室町無かったら消滅してたろうが。
南朝の生活費工面してたの鎌倉公方足利持氏なんだがな。
かつて南朝を支持したおかげで足利将軍家が滅んでも鎌倉公方の系統は残れたのだなw
足利将軍家は
【滅んでないぞ】
江戸時代の喜連川藩藩主・喜連川氏は4代目まで足利持氏の子孫
鎌倉公方ー古河公方ー小弓公方ー喜連川氏
ただそれ以降は何度も養子が入っていて血縁は繋がっていない
明治時代に足利に復して家名は残っている
分家の宮原家のほうは女系ながら足利家の末裔なんだよね。
それにしても古河公方家であることがレーゾンデートルみたいな喜連川藩が、平気で異姓養子を迎えたのが理解できない。
堀越公方のほうは室町幕府将軍家に近いが
名門は基本残すよね
民衆や下克上大名じゃぴんと来なかったろうが、信長も天下人になる頃には第六天魔王より皇統が上ちゃ上とは理解してたと思うぞ。
>天皇つまりは「皇統」が日本通史のキーワードだしな。
好き嫌い、良い悪いの出汁に使うスレが多いもんな。
血というより家名存続が大事だったんじゃ?
アドバイをお願いします
最後は本能寺があったらしい場所で供養お参りします
たかだか400年前 歴史的にみれば ほんの昨日です
彼は最後に無念、どんな思いだっただろうか
根本中堂で焼身されるやこの件を広めた茶売りを○害させたり、話が広まるのを嫌っていた。
信長も延暦寺焼き討ちはぎりぎりまで避けようとしたり、吉田家に「南都(東大寺)に続いて
北嶺まで焼き討ちし、その上京を戦で焼いてしまったらそのまま京が滅びるということはない
か」と問い合わせたり、鎮護国家の寺院焼き討ちは気にしていた模様。
焼いたのも『言継卿記』では義教と同様に坂本が中心で(その後、山上もまとめて焼いたかの
ように書かれていますが)、明確にこの時焼かれたと言い得る建築物が根本中堂以下限定され
ているというのが、発掘調査の結果。
西塔には信長以前に建築された瑠璃堂が現存しています。
一般にイメージされているように、信長が最初から終始焼き討ちするつもりで、全山容赦なく
やり、後悔しなかったという印象はありませんね。
そのわりに信長信者は比叡山焼き討ちを絶賛してるけどな
第六天魔王に転生した後醍醐天皇 という記事が出てくる
天魔王としてたくさんの魔を世にはなって世間を乱そうとするとの記事だ
戦国期には、著名人の大多数は太平記を熟読してたんだから、第六天魔王と聞いて後醍醐天皇を想起しない人はいなかっただろう
そして、太平記で第六天魔王がしようとしたことも。
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1413293860/
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