【戦国時代】大谷吉継「お前は人望無いから、誰も言う事聞かん!」石田三成「太閤の御恩が~!」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180131-00135530-tkwalk-life
石田三成なんてただのサイコパスじゃん
実際人心を掌握するのに関節キスはかなり有効だよ
俺も一度ブサイクな女の子にこれをやられて落ちたことあるしし、違うブサイクな女の子にこれをやってしまって付きまとわれた
光成はずっとブチ切れてて家康は子供からいきなり成長、秀吉はゴリラ、信長はお市に○されてるイメージか
家康の正当性を強調するために悪く書かれてるところあるだろうな
石田三成のイメージが良かったら、関ヶ原の戦いは西軍が勝っていた
戦いにイメージはあんまり関係ない。光成は頭は切れるが役人であり戦争は得意じゃなかった。それに戦いの前半は勝ってたし。
家康は苦しい戦いを何度も経験してたから戦いの流れをみて臨機応変に判断できた。
>>16
主に性格だな今で言うコミュ症だったんだろうそれを上手く表してる逸話があって
石田三成と細川忠興は仲が驚くほど悪くて流石に改善したいと思い前田玄以に仲介頼んで一席設けて貰ったそうな
んで既に待っていた忠興に盆一杯の柿突き出して
三成「柿好きだって聞いた俺の事は気にせずたらふく食ってくれ!(゚Д゚)」
忠興「・・・(#^ω^)」
玄以「(′Д`;)」
てな感じらしい
相手が精神的に余裕があり悪気がないと分かってる人以外付き合うのはきつかったのかもな
ただのアスペルガーじゃないか
そりゃ人望なんてものとは完全に無縁
あくまで逸話で人望無い訳じゃなかったろうけどな
善政布いて領民には慕われてたし大谷含め佐竹、兼続、真田信之etc.とも関係良好だったし
言ってる事は解る確かに正論で解るんだけどなんでこんなに腹立つんだろってタイプだったんじゃろ多分
>>41
>言ってる事は解る確かに正論で解るんだけどなんでこんなに腹立つんだろってタイプだったんじゃろ多分
頭は切れるけど人望がない舛添みたいなタイプだったんかな
あの人も自民党に長くいたけど盟友は一人もできなかったとか
>>46
そらないだろ
三成は性格的に横領とかしないと言うか出来ないタイプと思うぞ
旗に大一大万大吉(一人は皆の為に皆は一人の為にそうすれば天下はハッピー)とか書く夢見がちな人だし
だからコミュ賞気味でも慕う奴もいたと思うんだよね
天下分け目の大戦さで西軍の総大将なのに
彼の判断は「動かない」 ア○か
三成は自分が大将になりたかったんだが、
そうすると味方にしなければいけない武将まで、
喜んで三成の敵に回ってしまうから、
大将は毛利か宇喜多になって貰え、
って大谷吉継が助言したから従った。
但し、戦場で指揮を執ったのは三成。
家康にまんまとはめられただけ
>>21
いや、やはり人望無かった。
三成自身の性格もあるが、独裁者で「絶対に悪口を言ってはいけない存在、嫌いって言ってはいけない存在」だった秀吉の『悪』の部分を、
全部三成が被ってしまったってのが大きい。
家康にハメらてたんじゃなくて秀吉の罪を擦り付けられたんだよ。
有能なトップは悪い部分をナンバー2に押し付けるよな
また有能なナンバー2は悪い部分を引き受ける
天下分けめの合戦に奇襲はダメだとか言って無けりゃね
島左近も所詮筒井家の家老に過ぎず
実戦経験豊富な前線指揮官ではあっても
いくつもの大名を束ねて動かす経験なんて無いけどな
今のみんながつとめてる大企業の部署でもそうだろ
上司からは仕事ちゃんとするから評判良いけど同期と仲悪かったというかうまくいかなかった
だっけ?
部下には面倒見よくて好かれるし主君にも忠実で大事な守り任されたけど、同僚には俺が一番の子分だぞって威張って嫌われた関羽みたいなもんか
外部の連中からすると公正な人
身内の同期からすると「自分が秀吉様の一番の家臣」みたいな面してる嫌なやつ
こういうのもあるやろ
創作なのかな
本当は処刑人の足をうっかり踏んでしまって
「申し訳ない、わざとではないので許されよ」
と語ったらしい
それはマリーアントワネットじゃね
やっぱ葵の江守徹の三成がバランス取れて本当あれくらいだったのかもって説得力で好きだな
家康タヒ後に再逆転もあったのにね
徳川秀忠なんか総大将の器じゃないし
>>76
大金を費やした方広寺の大仏は慶長伏見地震で倒壊し「自分の身も守れないのに処衆が救えるか」と秀吉を怒らせ
善光寺から取り寄せた善光寺如来の祟りで秀吉は病に倒れたともいう
復興のために大金を費やした方広寺の鐘銘は国家安康で家康を怒らせ豊臣滅亡の原因になった
よかれと思って寺院へ大金を投じても
方広寺みたいにことごとく裏目にでることもあるから世の中不思議だ
この人も生真面目で頑固者だな
北条と違って日本中が敵とは程遠い状況だし、万が一徳川が負ければ泥沼の戦国が続いてしまう
人望云々以前に石田に力が無さ過ぎた
豊臣家内の内紛だぞ
関ヶ原とか
秀忠率いる徳川軍主力は決戦に間に合わんかったし
吉川、小早川の毛利勢が裏切らなければ布陣的に西軍が勝ってた
三成の戦略は当たったんだからあとはもう少し人望があれば
歴史は変わったかもしれない
石田ら文治派と、加藤福島あたりの武断派の、どっちが豊家第一の家臣かという内戦に
本来なら争いをおさめるべき立場の徳川やら毛利が後見人になって「やれやれ、○しあえ、ケツ持ちしたる」ってなってるかんじやろな
毛利は最初は乗り気だったけど、ここぞというところでチキンになったと。
そして修羅場くぐった数なら誰にも負けねえ家康はそのまんまかちこみも参加して、その後の全主導権もぶんどっちまったんやな。
たとえ東軍負けたところで徳川主力は真田のおかげで完全温存状態、関東欲しけりゃ力づくで取りに来いと余裕。
一方西軍は勝ったところで主導権争い起きて分裂だぜ。やっぱり徳川が最後に勝ってしまう。
>>85
北条オタの静岡大・小和田教授に言わせると
北条もあと三ヶ月あのまま篭城続ければ勝てただろうって 秀吉の全国連合軍に
少なくとも負けないことはできて、全面講和になっただろう
なによりも兵站が続かない どうしたって食い物やらの補給がなくなる 士気も落ちる
ソ連がドイツに勝ったのと同じでアウェイの不利さホームの有利さ 日本もシナで勝ちきれなかったし
アメリカだって東南アジア中東でそうでしょ
秀吉があそこまで大きく北条を考えていたのは、国力が半端ないから負けもありうると思ったのだろう
そもそも関ヶ原は長期決戦想定だったのが西軍が雑魚過ぎて短期で終わったものだぞ
秀次健在ならそもそもつけいる隙すらない
将来何目指しせて仕事してたんだろう?
天下の政務を取り仕切る大官僚ポジになりたかったんやろ
晩年の秀吉の狂行も三成の暴走もほぼコイツが原因
輝元を大阪に留めたのも淀だしな
毛利はそもそも総大将やっちゃダメだったわ
淀さんは豊臣家を滅ぼしたかったんで
サゲマンじゃないと思うよ傾国の方でしょ
両親と義父の仇だからなあ。
最初は豊臣家を潰したかったんだけど、秀頼が生まれてからは秀頼を将軍にして天下を治めたかった。
しかし(当たり前だが)秀吉と違って人望がなかったから家康にはかなわなかった。
元ネタは家康にすぎたるものふたつあり
という家康を揶揄するものを
神君家康時代になって
三成貶しで移し替えたもんだからな
三成貶し逸話は後世の作が多い
吉継貶しの逸話がないのはさすがと言える
今の三成上げは正直なところ気持ち悪い
主君の終わりが近いって時に行政官の首座が豊臣軍の中核になる譜代との仲を修復しようともせず悪化するに任せたまま
当時の豊臣家は一代で成り上がったからとても安定してるとは言えず徳川を筆頭に毛利や島津の強力な外様、前田や上杉も本質は外様
そんな状況で家中の分裂を放置とかとてもじゃないが義人とは呼べん
自分の正義に拘っただけの厄介な正義マンだろ
梶原景時やこうのもろなや本多佐渡とと同じ
石田三成個人は人徳ありますよ
こいつの場合、嫌われ者ってレベルじゃないからな。武断派に暗○まで実行されて逃げ回るくらい憎まれたレベルだし。
こいつの意固地せいで内紛起き、それで家康につけ入れただけだからな、豊臣家潰したマジもんの大戦犯。義将どころかお家潰したただ愚将。
トップがいなくなりゃただの内紛の種でしかない
秀吉が急逝したってならまだしも終わりは誰の目にも明らかだったのに嫌われものを続けるのはなぁ
作り話だしソレ
そうだったのかw
中学校くらいの時、「風雲児たち」を読んで、そこがすごく盛り上がっていたから覚えてたのにw
と言うあたりが悲しいまでの小物界の超小物
三成は斬首だが??
よく嫁。
「三成本人とその居城・佐和山城に籠城した親族のみが処理され、その他の三成親族にはお咎め無しだった」
って書いてあんだよ。
特に三成の次男と3番目の娘は津軽家に引き取られ、娘は高台院(秀吉の奥さん・お寧)養女扱いで広前藩2代目の側室になり、3代目藩主を産んでいる。
三成次男は杉山と名を改め、その子孫は津軽本家から嫁を貰って親族重臣と成り、家老職も勤めて、津軽家のピンチの際に活躍したりして、現在も続いている。
動くよう仕向けた家康が上手だけど、家康がタヒぬまで待つべきだった。
それなら秀頼も成人してるし三成がしゃしゃることもなかった。
向こうがやたら粘ってたのもあるんだろうけど
朝鮮出兵では戦果上げてるし何より20そこそこの若者なんだよなぁ
最初から東軍で参加して立って説もあるし
メッケルだね
あの配置なら誰も徳川が勝つなんて思わない
うーん、コレはどうだべ?肯定も否定も難しいな。
ただ家康は、関ヶ原の前に『徳川に次ぐ大大名』である前田家にも因縁 付けてるんだよね。
それに対して前田家は何とお母ちゃんを徳川に人質に出しちゃった。
事実上徳川に降伏しちゃったんだよね。
現代で言ったら
「急に地球からアメリカが消えちゃって、国連などで中国が傍若無人に振る舞い出した。
他の国が皆『ロシアが何とかしてくれよ』と思ってたら、プーチンが習近平の靴を舐めた」
に匹敵する感じ。コリャもう誰も中国、じゃなかった徳川家康に逆らわないだろって雰囲気には成ってた。
そんで調子に乗って?(いやむしろ苦しくなってか?)上杉にも因縁つけたら、公然と逆らってきたってワケで、
石田三成が居なかったら、家康が「かつて秀吉が九州で島津家にやったように」天下の兵を率いて上杉討伐をやって、天下のリーダーとしての実績を着実に稼いだハズだから、
ナカナカ「三成がいなかったら家康は天下を取れなかった」とは言えないカモ知れんよ。
利家なら「豊家政権の大叔父貴」だったからそりゃもうでかい影響持ってたけど、その息子じゃあーた家康に勝てるわけ無いだろ
プーチンがいなくなってメドベージェフの露になったら似たようなもんだぜ
本当それ。プーチン無き後のロシアを想像すると、スゲー怖くなる。
あそこは日本より人材がいない。
秀秋は甥っ子だからなそりゃ東軍につくわ
いや、北のまーんどころは西軍の負けを知ると
寺かどっかへ急いで駆け込んだ、
とかいう記録なかったっけ?
仲が悪かったという説もあるが
関ヶ原では西軍支持、という点では一致していたはず
にも関わらず、豊臣恩顧の大名が割れていたのは
徳川による調略の巧さだろう
単に人望がないから銭積んで味方増やしてすっからかんになっただけだよ
秀吉になにを学んだんだよw
お茶の出し方
それは中国文学からパクった
秀頼がタヒんだときも、そのまま生きててもらおうと思ったのになぜ…とかっていう三文芝居したとかってのも書かせてるし
なんで豊臣家と徳川家を同等に扱おうとしてるやつが多いのか
家康としたら
豊臣家を滅亡させようまでは考えていなかったのでは?
滅亡を望んでいて実行したのは、二代目の秀忠だろう
>>179
大坂は今も昔も日本国にとって極めて重要な土地だからな。だから秀吉も、信長があれほど犠牲を
払って追放した石山本願寺の跡地に大坂城をたてた。家康も大坂が重要だとわかっていた。豊臣
家が徳川の命に従い、速やかに大和あたりに退去していればかろうじて命脈だけは保てたかも
目の前に現れると、自分に出来ないことをやってのける嫌な奴として嫌うとか
どれだけ屈折してるんだよ
>>186
水清ければ魚住まず
コミュ障はどんだけ能力あっても煙たがられるだろ
人望無い時点でお察しですわ
家康についた加藤や福島たちは
その後の大坂の陣まで何を思っていたのだろう
清正「いや俺、大阪の陣まで生きてねーし」
豊臣の最大の敗因は秀吉の戦国武将に最も必要な種スキルがゼロだったことだろ
まぁ正論を言う行動もそれに順ずる人だったのかもな
正論の中にも逃げ道用意しとかないと人間関係はこじれるからな
>>208
潔癖方面であることは良い事だけど度が過ぎれば問題が出てくるのは確か
ただ、潔癖すぎたかどうかも疑問
正しい事を言われて腹をたてるクズは現代にもごまんと居るしな
為政者の手足という立場上
使命感から
潔癖度に拍車が掛かったという事はかんがえられる
まあ真面目なんだよ
時代が早かった
家康に歯向かう気概を秀次の助命嘆願で発揮できたらな
あれが豊臣政権崩壊の引き金だったし
まぁだからこそ今度こそはで無駄に気合いが入ってしまったのかもしれないが
>>219
途中送信
最後まで秀次を弁護してたが
他の諸大名が秀次を見放してしまったから
もうどうにもならなかった
替え玉でも遠過ぎてバレんやろ
千成り瓢箪があったら福島も細川も弓が引けんやろ
あのおっさんは信長の同盟者をやり続けた
この時点で処世術半端なさそう
結局は徳川が利する形になっちまって・・・
なんでも中途半端で終わらせるから関ヶ原で高いツケをまとめて払うことになったわな・・・政治力の無さに定評あるよな(´・ω・`)
三成と対立してた派閥もエリート揃いだぞ。
法学部と防衛大学くらいの差かと。
対人関係が絶望的にダメで他人を信用していないから、
細川ガラシャ等を人質にしようとしたが失敗。
それで余計に敵方を奮起させる結果になった。
人望の無さが致命的だった。
それを考えて物を言えよ
上杉や島津、佐竹なんかは秀吉との仲介してもらったのを恩義に感じてたんじゃねえのか
上杉島津は西軍だし、律儀者で有名な佐竹義宣も西軍につこうとした
島津「鳥居に断られたから西軍入るわwww」
島津「西軍入ったけど三成風情から命令されて気に入らないから動かないわ」
上司や部下には好かれるし、よその人にも嫌われないけど同僚受けだけは悪いイメージ
家康だって当時は律義者で有名だったし
三成が豊臣のために動いてたとは思えないんだよな
豊臣秀吉が皇室に多額の献上金で皇室の地盤を固めたが
徳川家康が乱交騒ぎをきっかけに幕府が皇室の権力を握り法律で縛り上げた
徳川家康の晩年を支えた、天海大僧正も結構子供じみていて、家康のタヒ後のおくり名は
「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)だが、読み方を変えると「あずまてらす」になり、
要するに、皇室の祖先である「天照大御神」(アマテラス)に対抗させたのだろう。
「政治家」だから、秀吉のムチャ振りに対して「兄上、それはいかがなものと・・」「殿下、それは世間に
対して受けが悪しゅうございますぞ・・」とある程度止める制止する事ができた。秀吉にしても激情のあまり
(この時代の人間はのちの日本人と違い感情を抑制する訓練をしていない)「この者をタヒ罪にせい!」と
言ってしまった挙句に「しまった!」と思えば内心で「秀長!秀長!止めろ!」というのはあっただろう
それで秀長が「あいや、兄上!この者は功績のある者!秀長の一命にかけてお命だけは・・」と言ってくれれば
秀吉にしても「秀長がそういうならタヒ罪だけは許してやろう」とできたろう。
が秀長が病タヒ、利休が刑タヒし、石田三成が実権を握ってから、豊臣政権は急激に残虐度を増す。
これは三成という人が、秀吉個人に忠実な官僚であって、一つも政治家ではなかった点に原因があるだろう。
政治家である秀長・利休は秀吉に命に対して、影に日向に調整しつつ実行するなり握りつぶせたが
忠実な官僚である三成は、秀吉から例えば「皆○しにせよ!」と言われれば、それが世間にあたえる影響や豊臣政権への
ダメージについて考えずに忠実に、それこそ一人も残さずに実行してしまう。
こういう人間が渾身政治家の家康に勝てる道理がないよね
代表者ではあるが、これは時代の意思と観る方が分かり易いよ
個人の力だけで何とかしようとしたのは信長くらいじゃないかな
関ヶ原ってあくまでも豊臣家中の主導権争いだし
あの時点では家康は「律儀者の内府殿」で通ってたし
秀吉から秀頼の後見を頼まれたのは家康だし
暗○されそうだった三成を匿ったのだって家康だし
単に三成派のクーデターが失敗しただけなんだよね
関ヶ原に秀頼引っ張り出してたらもっと悲惨なことになってたんじゃないか?
誘拐みたいなもんだし
ま、if言っても仕方ないが。
最低でも家康と景勝が東北で当たるまで待つべき
引き返した家康が箱根を越えたら、景勝は佐竹義宣・伊達政宗を誘って関東乱入
九州では黒田如水が無双して島津と決戦
三成と景勝に密約があったとかは伝説らしいけど、あと少し我慢してたらどう転んでもおかしくない状況だったのに
最初から将として無理だった
家康もそれを恐れてグズグズしてたのに
現代のような通信技術がある前提の戦略だな
応仁の乱みたいに10年以上ずるずるやってれば秀頼が成人するのに。
三成には細川勝元程の
領土戦力がない
淀も敵多そうなイメージだなぁ。後世の創作もあるだろうが。
豊臣恩顧の筋肉脳連中が淀を好いていたかどうか
多くが北政所派だったとすれば淀君がシャシャリ出るとかえって逆効果かもね
毛利が秀頼を抱いて、家康を討ていと大号令発すれば効果絶大だったろうにね
輝元「じっちゃんが毛利は天下望むなと言うし」
輝元「いや~新しい天下人の家康しゃま~!ご機嫌よろしいでゲスか~事前の密約どおり
大坂城から一歩も動かなかったでゲスよ~これでお約束どおり本領安堵してもらえるでゲスね~」
家康「いや、あんた西軍の総大将なんだから駄目だよ。毛利家はお取り潰し(後に100万国前後の領土を
30数万石に削減に変更)決定だから。
輝元「ぎゃふん!」
家康「そんなに毛利家が大事ならお前に恩賞としてやる36万石の領土を代わりに毛利家にやるがいいのか?」
吉川広家「…それでお願いします…」
家康「じゃあ今回だけは毛利家を潰さないでおいてやる。次はないぞ」
吉川広家「は、はい…」
家康「ふん!毛利家めお取り潰しを避けて、領土削減だけでとどめてやったんだから
毛利の将士はさぞ、徳川に恩を着ている事だろうな」
広島城を奪われ萩に移住する将士「徳川許すまじ~!この恨み晴らさで置くべきかあ~」
江戸時代の正月の毛利家
家老「殿、もはや徳川討滅の準備ができましたぞ!」
毛利の殿様「まだ時期が早い!!」
この倒幕ごっこが幕末に続くんだもんな
同世代の豊富恩顧の大名全部、黒田長政が東軍側にしてしまった。
で、裏工作もバッチリ働き、戦場でも東軍の為に粉骨砕身!東軍の勝利に貢献し、その後
自国に帰って、父、黒田如水の前で意気揚々と自分がいかに東軍勝利に貢献したかを語り
「家康殿は、自分の手をとって感謝を述べて・・」と語ると、物憂そうに聞いていた如水が
「家康殿がとった手は、そちのどちらの手だった・・」
「えっ・・?こちらの手でございますが・・」
「そうか、そちらの手か、ではその時、そちの逆の手は何をしていたのだ・・」
(なぜ、その手で家康の脾腹をさして○害しなかった!オマエがそれをすれば、当然、その場で
オマエは徳川の手で斬○されるだろうが、家康が○害されて天下が大混乱になれば、この父
如水が天下を奪ってやったのにの意)
戦国武将としてはかなり変わり種だと思いますね(´・ω・`)三成は
立身出世、自家の繁栄と安泰が至上主義だった武士時代でそういう欲が少ないってのは
是非はともかく面白い
小姓時代に知行すべて与えて渡辺勘兵衛を召し抱え、家臣の勘兵衛の家に居候とか
歴史上なかなかみないエピソードで傑物のひとりではあるでしょうね
でもその無欲が関ヶ原で仇になって
三成本隊の兵力不足を招いてしまう
太閤殿下が100万石くれるといわれた時に
素直にもらっとけば兵力の心配などせずに済んだと
笑い話で済ませたてたが
三成が高禄で抱えたエピソードはあるけど
それ以前に具体的になんか凄いことした話ってあるの?
何かしら凄い業績や戦績があるから三成が高禄で抱えたんだよな
引用元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1517401637/
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