【戦国時代】俗に言われる100万石大名ってどういうものなん?????
戦国中期
三好・今川
少し遅れて
濃尾時代の織田、全盛武田・長尾上杉、北条、毛利
小牧長久手期の徳川
関ヶ原頃
上杉・毛利
江戸期
前田
100万石大名についていろいろと語りませう!
32: 2009/02/18(水) 09:15:05 ID:mK85cdHs
今川や三好入れるんなら細川や大内とか大友も入れとけ
>>30
上杉が加賀全域を支配下に置いたことは「一瞬」たりと無かったはずだが。
それと、交易収入加えると250万石とかいう根拠はなんだ?
中世~近世の主産業は農業で、支配者に入ってくる収入はともかく、産業
収益そのものが、商業が農業を上回るなんてことは無い。
(堺や博多と言った都市のみ、であればともかく)
>>32
今川氏親&伊勢盛時コンビのときじゃない?
相模・伊豆・駿河・遠江の4国支配・・・あれ?67万石くらいか。
つ 鉱山
十一州の太守・尼子
五州二島の熊・龍造寺
近畿南海の覇者・三好
南奥常北の麒麟・佐竹
独眼竜・伊達
九州の覇王・島津
西国探題・池田
出羽の狐・最上
伊達
後北条
上杉
武田
徳川
織田
三好
尼子
大内
毛利
長宗我部
大友
竜造寺
島津
ここら辺の戦国大名は石高に直したら一度は100万石超えてたのかな
あとこいつらも
豊臣秀長
丹羽長秀
織田信雄
勢力地図見ると一国全支配とかしてない。
尼子も70万石ぐらいか?
Yahoo!知恵袋に
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011269740 なんていう
太閤検地では四国全部で80万石程度なので、長宗我部はないはずだけど、太閤検地では
土佐の石高が低すぎることを考えると、かろうじて100万石に届いていた可能性も。
ある程度の統治期間が必要じゃね?
太閤検地以前とは平均で30%は低かったんだから、
太閤検地で出てきた石高でそれ以前の生産高を見るのは無理があるだろ。
だいたい太閤検地は、秀吉が諸侯の軍役を増やすための魔法の種みたいなもんなんだから。
太閤検地以降の石高にしても、当然毎年の生産量は違うのだから
実高も毎年変動するお
むしろ江戸期に実高で100万石以上行った所の方がすごい。
伊達、毛利、島津、
熊本の細川や安芸の浅野はそこまで行ってなかったっけ?
毛利が最盛期は200万石行っているんじゃない?
三好はともかく、織田と北条がそこにいるのはおかしい
>>20
北条も織田も、戦国時代に安定的に200万石を支配した大名だが?
北条は氏政~氏直時代の話になるが。
スレタイ通りに戦国時代に100万石以上を安定支配した大名は・・・
東から
北条、武田、徳川、織田、細川(三好)、大内(毛利)
こんなもんか。意外と少ないな。(太閤検地ベース)
>>22
いや
織田>>>>北条>>>>>>三好
くらいなもんだろ。全部最盛期計算で
つまり、織田も北条も200万よりは上だと
加賀も入れたら120万石はいく。
>>21
元就タヒ去寸前の毛利は95万石くらい。
元就タヒ後に葬式にも出ずに吉川元春が各地の戦線で戦い続けて挽回したが。
さらに石高に米以外を入れたら計算不能だろ。謙信なんか250万石を余裕で超えるぞ。
>>23
越後の長尾(上杉)家って、越後一国を安定支配していたとは
言えないからなあ。
とりあえず、越後+越中+能登を完全に支配したと仮定しても
98万石で100万石に届かず(太閤検地ベース)
石高換算は出来ないが
>>40
さすがに堺よりでかいということはないだろ。
>>41
はやくおち○ち○がむけて、気の利いた煽りができるようになればイイネ!
当時は日本の中でも京が経済規模で他を圧倒していて、堺はその京の外港としての機能で
大きくなったわけだが、京の外港と言う意味では二級の意味しかなかった三国湊(でしょ?)が、
当時工業地帯としての機能まで備えた堺より栄えたなんてありえない。
ましてや越後(笑)
変な書き物に影響されたのか知らんが、冷静になって考えて見ようや。
治安の悪い瀬戸内に船走らせるとは正気の沙汰じゃないな
つかおまいら想定している年代違うだろ
堺は瀬戸内海を牛耳っていた村上水軍に場所代払って普通に船を行き来させていたんだが。
堺と大坂を混同する自体がアイタタタタタタなんだが
>>46、海賊がなぜ儲かるのか分かるか?そこに商船が多数通るからだ。
瀬戸内海と日本海は西方交易のメインルート。瀬戸内海が危険で通れ
ないってどういう認識なんだ。
それと、明船は太平洋側の小田原まで、普通に往来してるから。太平洋
を通れないなんてことはない。メインルートとは言えないがね。
>>48
大身の他国衆を除いて100万石以上の直轄地(直臣の領地含む)を持った
大名なんて、それこそ織田と豊臣と徳川と北条しか無いだろうな。(北条も
怪しい。)
進めていってたから、最後期には100万石を越えてたかもね。
丹羽は100万石
徳川家康250万石
(最大の家臣は徳川秀忠20万石)
毛利輝元170万石
(最大の家臣は小早川隆景30万石
小早川独立後は毛利秀元20万石)
他の100万石を越える有力戦国大名の直轄領って
どのくらいの規模だったんかな?
3割前後なんでね?
家康はそれこそスタートの時点から君主権の強化確立をやりまくってたから、
その結実ではあるな。
>>62は佐竹義宣の弟達、岩城、多賀谷、葦名のことじゃないのか
それがありだと、大友宗麟の弟の大内義長が当主だった頃、
大友は200万石クラスの巨大大名ってことになる罠。
毛利における吉川や小早川の関係と同じだから
その周辺地域でもう10年くらい佐竹義重が暴れる時代があれば
自然と佐竹の下に組み込んでよさそうみたいな仮定を含めたレス。
すぐ南に北条がいるのに、佐竹が自領拡大に専念できるはずも無い。
むしろ、いかにして北条を防ぐか、が至上命題な状況。
跡取りになるのと、織田と北畠・神戸、北条と大石・藤田、毛利と吉川・小早川の
ようにあきらかに勢力の力関係に差がある場合とでは全然違うものだし。
佐竹と葦名が対等のわけあるまいお┐ (´ω`) ┌
佐竹はせいぜい十数万石、洞中合わせて二十万石前後
葦名は三十万石弱、洞中合わせて五十万石前後だお
養子に入ったから、それらは伊達の勢力下に入ったというようなものだ。
北条に伊達の人間が養子入りした事実は無い。
やったあああああああああああああああ
規制解除!ありがとうみんな
>>76
よく北条の子孫は創価だけど途中で伊達から養子をもらったから
どうのこうのってのをよく見た気がする
あれのソースがどっから来てるのかは知らんが
正確に言うと北条は堀田家から養子を貰ったわけで
伊達と直接縁組した事は一度もないと言う意味だと思うお( ^ω^)
血筋で言うと
仙台藩6代藩主伊達宗村公の8男正敦が堀田家に入り
その正敦の5男正衡の7男が北条に入り
狭山藩12代藩主北条氏恭を名乗ったわけだから
一応伊達の血を引いているのは間違いないお( ^ω^)
北条は伊豆から加賀まで
ぐるっと武田を包む形になって相当でかくなる
江戸期の池田輝政一族領に相当する場所+長浜
ひるがえって北条・前田・上杉・伊達・毛利は本家の石高は高い
秀吉が天下統一してなかったら伊達と北条に攻められて連合国崩壊
瞬時に滅亡していた
大内氏の漫画みたいな金持ちっぷりは凄い。
100万石なんてケチなもんじゃない。
一体勘合貿易でどれだけもうけてたんだろう?
上杉景勝と合戦して、
信濃北部や、あわよくば越後進攻を考えた事は無かったのでしょうか?
甲信上州は織田の統治期間が浅かったから
それぞれ保持を諦め放棄したお陰で
ほぼ空白状態になった事から三者はここぞとばかり侵攻したわけで
まさか地生えの勢力と正面からぶつかるとなると一朝一夕に勝負は決しないお
それぞれ別の敵も抱えていたし無理押しは避けたかったから
皆、妥協案を練って和解したわけだお( ^ω^)
秀吉の西国平定が長引けば真田の問題もあったし上杉との合戦は必至だったかもしれんけど
それぞれ敵方に働きかけてる。麻績や青柳、仁科地方等を巡って戦っているし
埴科郡の屋代秀正や小県の室賀、更級の塩崎氏等が家康の誘いにのって内通するが
上杉が麻績、青柳、屋代ら討伐のため出兵すると逃亡したようだ。
しかし小笠原は家康の支援を受けつつジワジワと安曇や筑摩を攻略していったようだ。
84年には上杉に大敗してるが新発田対策のため越後に引き返すと反撃に出て
麻績、青柳を攻略してるし。
>>165
江戸時代を語るなら実高じゃなく表高だろ(太閤検地ベースなら)。
で、100万石越えは徳川宗家を除けば加賀前田家のみ。
んで、佐竹も伊達も100万石をまともに支配したこと無いのでスレ違
い、と。
勝頼末期は100万石いってる
景勝から譲られた北信濃と東上野
旧領の甲斐、中南信、駿河、西上野に加え
美濃の一部、遠州の一部、飛騨の一部
武田の最盛期を気づいた
既に武田勢の国人領主やその領民はもちろん、直属領地の領民達も疲弊しており、既に勝頼は見限られていた。
例えば今で言えば東京は米をあまり作ってないが、経済的には東北全部以上の価値があったりする。
石高だけで考えるのはどうだろうか。
今も昔も総合的な国力が問題になるのは同じだよ。
>>210
時期によってもかなり違うのだが、少なくとも応仁の乱までは
鎌倉以来の荘園、南北朝のときに新たに獲得した直轄領、さらに奉公衆などの
将軍直轄の武士の所領を含めると、相当巨大になると思われる。
所領形態としては豊臣政権にちょっと似てるな。まあ豊臣政権は足利政権の
カ○タムアップバージョンみたいなもんだが。
朝倉も百万石越えだな。
そして密かにいわれてるように
朝倉義景が六角家からの養子であるというのが本当のことで
3家の関係が親密であったとするなら。
薩摩77万は琉球の15万込みだから
他と同じ量り方したら30万石前後
でも人が少ない訳じゃなく面積相当の人口は居る
石高じゃなくて、経済力で語ったほうがいいかもだけど
統一貨幣があったわけでもないし、GDPなんて出しようがないからなあ
肥後細川も商人から嫌われまくりだぞ
金気がないとさびよけのまじないに使われるほど
なんで50万石の太守なのに、あんなに金がなかったんだろう?
不知火海は宝の海、熊本も良質な地下水に恵まれているのに
毛利は大友にたびたび大敗して結局、
国人たちに加増も褒美も与えられなかったのが致命傷で財政崩壊。
伊達も家臣に加増も褒美も与えられず、
転封した際には痩せた土地を与えられ大物配下が次々に出奔しまくるほど財政崩壊。
細川は交遊における雅な趣味のせいか?丹後田辺城時代は信長による過度な軍役負担で貧しそうだが肥後時代は好転しそうだけどね?
15~18万石くらいなもんで飢饉での一揆を防ぐ為に徳政令ばっかりやってて、
米を無駄に酒作りに転用して米不足から餓タヒ者を出さないように家臣の贅沢を禁止し禁酒令まで出してた劣等地。
津軽の地は米作りに向いてないからほとんど変化なく4万石くらい。
マジで? 蒲生が表向き90万石くらいの時のことを言ってるんだよね?
太閤検地って田舎になるほど急激に杜撰になるのかな?
江戸時代って農民泣かせの時代だったのは間違いないなぁ
それだと農業がバクチってことになるのだが
奥州や茨城県東部はまさに負け率が異常に高いバクチそのもの
だから南奥や茨城東部では田では無く畑で代替作物を育ててる。
金銅山尽きた後の南部と財政崩壊スタートの伊達の百姓は藩がバクチ熱中で地獄行き。
特に伊達は畑を潰してどんどん田に変え作付け面積を拡大し江戸期を通じてタヒ亡モードだった。
一番ひどい時は公称100万石で実収10万石だけ。
太閤検地から
毛利
112万石→29万石
防長の最検地で50万石余の検地高をたたき出すも
幕閣が難色を示し
36万7千石が表高となる。
幕末には実高90万石とも言われる。
実際は米以外の作物や貿易で儲けてたらしいが石高は0なので潤ってた
これで120万石は過少申告 完全に脱税 かるく200万石は超えてる
中国地方って石高は結構少ないのよ
>>324
どうやっても200なんていかない
ちょっと内訳書いてみん
200もあったら秀吉との戦いに7万近く出してくるよ
もうそうなると秀吉軍だけでは手におえなくなる
1578年のまだ毛利優勢で中国の国衆が毛利に味方しまくってた上月城の戦いでさえ3万程度
負ければ後がなく信長来たら一気に詰めで背水の陣で
根こそぎ動員しただろう備中高松城の後詰めも3万程度が実情だ。
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1234770586/
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