北条時宗ってなんで英雄視されないんだろ???
最近神風でモンゴル倒した説は間違いが有力になりつつあるから時宗が英雄視されない理由を聞かせてもらいたいです。東郷よりはるかに上でしょ?
されてますが。
戦前までは、まさに>>1のような理由で評価されることも多かったようだが
一つには北条氏があまりにも有能な指導者揃いで(特に義時泰時時頼時宗)、時宗が特に目立たないという面がある
直前で止めたから。
ことをやってれば、稀代の英雄になれた
単に防衛しただけだから、そんなんは当たり前のこと
英雄とまではいえない
当たり前のことをしただけ
そもそも高麗に攻め込まれたってことは
北条が高麗に舐められていたことの証でしかない
高麗ごときに舐められるものではないが、義時が後鳥羽を島流しに
したのが仇になったのかもしれん
吾妻鏡に契丹文字、女真文字読めない記事があるから同じ民族なわけないw遼金元の文明に入った朝鮮人は読めたらしいがw
なんか話が伝わらなかったみたいですね
北面武士団は契丹が作ったのだけど、契丹人の兵隊を
白河が連れてきたわけではないから
後鳥羽が義時に負けたのは北面武士団が誰も味方してくれな
かったからだね
契丹天皇を立てておけば、高麗が攻め来ることはなかったと
思うわ
日本史上最大の外交問題に対峙した時宗以上なことができるわけない
時宗よりだいぶ楽
時宗と東郷どっち英雄なんだ?
ただ当時最大最強の帝国に喧嘩うっただけのやつだから
北条時宗は世界史上最高の英雄。
ベトナムやジャワがモンゴル帝国に勝てたのは、その前にモンゴル軍が元寇で大敗して弱体化していたからだ。
つまり日本のお陰。
少弐景資が攻勢に出てから一気に日本優勢になったし、最後は蒙古軍の副将を負傷させてるし。
元寇負けたら時宗の責任なの?
フランス攻略はヒトラーの手柄なのに
元寇は時宗の手柄じゃない?
マジノを避けてアルデンヌの森の奇襲突破を承認したからか?時宗も全部承認してるよ!
弘安の役の後、東南アジアへ使者を送って「お前らも蒙古に占領されたままじゃダメだ」って叱責してる。
それでベトナムは蒙古と戦う決心をした。鄭思肖『心史・雑文・大義略叙』
「辛巳六月、韃兵由明州渉海、至倭口、遭大風雨作、人与船倶陥、又大敗而回。倭遣使責占城不戦而附韃。
占城有悟意、始背元韃。」
「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本,行次慶元,卒于軍中」元史卷十一 本紀第十一 十八年六月
「庚寅,以阿剌罕有疾,詔阿塔海統率軍馬征日本」
元史卷一百二十九 列傳第十六 阿塔海
「二十年,遷征東行省丞相,征日本,遇風,舟壞,喪師十七、八」
元史を普通に読めば弘安の役には40万人のモンゴル兵が参戦して、その内の28万人から32万人が戦タヒしている。
これを完全スルーしてるのは酷いよな。
そのくせ命を張った武士への恩賞はしみったれ
これは英雄視されませんわ
そういうけど鎌倉幕府は江戸幕府のような支配体制があったわけでもないからな
九州の武士なんて鎌倉がどれだけコントロールできたのか
当時の武士の考えからするととんでもない偉業
九州のような未開の地で撃退するようにトップとして支援したことがどんだけすごいか
それより遥かにましだろ?
ベトナムの陳朝なんてモンゴルから来た使者をいきなり投獄して拷問タヒさせてる。
一方、日本はモンゴルから戦争仕掛けてくるまで使者は全員無事に帰国させてる。
でも元寇は日本が世界の「外交の常識」を無視した対応をしたから戦争になったとか、滅茶苦茶な批判されてるじゃん。
東アジアでモンゴルから戦争仕掛けるまで使者が全員無事に帰還した国なんて日本だけだぞ。
一体どこの平行世界の「外交の常識」持ち出して日本を叩いてるんだ?
蒙古襲来についてもかなり歪曲した見方をしていた
近年ではそういう特定の史観は通用しなくなっている
なんで鎌倉武士最強説がいきなりでてきたの?
戦後にいいふらした説
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/2344443/p001.pdf
昭和19年に元寇を題材にした『かくて神風は吹く』というタイトルの映画も公開されとるんだわ。映像の一部も残っとる
https://www.youtube.com/watch?v=hRNr83Bi_u0
それってただそういう説明もあったというだけだろ。
戦前は自由に学問を研究できたから、いろんな説があった。
少なくとも教科書だと文永の役は武士の善戦で蒙古を退けてるし、弘安の役も武士の善戦で押し返したところを神風かトドメを刺した感じ。
勝利の主要因はどちらも武士の善戦だった。
それが戦後にイデオロギーによって武士の善戦が消え、神風一辺倒に統一された。
神風と武士の奮戦ばかり語られてきたけど、元側に色々と弱点があったねって説明だわ
同書には、神風思想がどうできあがっていったかってことも説明されてる。簡単に言うと、神道イデオロギーによる神国思想の産物ということ
武士の奮戦に関する記述が、軍国主義思想に通じるので抑制されたというならまぁまぁ適切かもしれんが、神風が戦後の産物だなんて、デタラメも甚だしい
神風は神道イデオロギーの産物なんだから、皇国史観からの脱却を掲げた戦後史観が宣伝するわけねぇだろうが
お前は戦前に神秘主義的歴史観が広められてたことを認めたくなくて、戦前は合理主義だった、非合理主義は戦後の産物だってことにしようとしてるんだろうが、それがお前の作り話であることは、>>36の『かくて神風は吹く』の動画を見るだけでわかることだ
神風特攻隊すら存在しなかったってこと?鎌倉武士特攻隊ってのは違和感ある
元寇の時は亀山上皇が自ら熊野三山と伊勢神宮に
勅使を遣わして祈らせた
上皇の祈りが通じて神風が吹いた
神風が吹いたのは鎌倉幕府のお陰ではなく
天皇家のお陰ということで神風特攻隊
あんなのまともな学術研究の水準に達してねーぞ。
戦後の元寇研究がイデオロギー一辺倒で思考停止になってるかの象徴。
によって蒙古勢は海の藻屑と消えたという描き方をしているな
ところが戦後の元寇研究はイデオロギー上の理由で武士が勝ったことを絶対認めないから支離滅裂な説明しかできなくなる。中公文庫『日本の歴史』8 蒙古襲来
「元軍はまったく一方的に優勢に戦いをすすめていたが、夜に入ってそのまま追撃することをせず、どういうわけか軍船に引き揚げた。
そしてこれが運命の岐路になった。」
こんなの真面目に考えて書いてるとは思えないじゃん。
イデオロギーに脳をやられると、この文章読んでも何の疑問も感じなくなるんだから恐いよな。
皇国史観に近い「神風」を強調して、武士の奮戦を過小評価しようとすることがある
むしろ戦前の軍歌のほうが、そこはバランスよく記述しているな
それを時宗が無視したり余計な事して戦争になったってこと?
時宗の対応とか無関係にクビライは最初から日本を侵略するつもりだったよ。
蒙古の使者が最初に来日したのは1268年1月で帰国したのは8月。
クビライが日本侵略の意図を表明し、戦争の準備を命じたのは使者が日本滞在中の1268年5月。高麗史 1268年 5月29日条
「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ。
今、朕、爾の国の猶お一家のごときを視る。
爾が国、若し難あれば、朕、安んぞ敢えて救わざらんや。
朕、不庭の国を征するに、爾が国の出師し助戦すること、亦た其の分なり。
爾、帰りて王に語り、戦艦一千艘、米三、四千石を載すべきを造れ」
あんな九州みたいな未開の地で、御家人の奉公に報いないといけないのに、獲得した土地もないし
若タヒにするぐらいすごいプレッシャーだったろうに
少なくともバラマキ政策やマイナンバー炎上大臣よりはずっと上
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1688353028/
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