もし蒙古が九州ではなく蝦夷(北海道)から日本に侵攻していたらどうなってたのか
>>1
マジレスしてやる、北海道で補給切れ→全滅
誰も済んでいないorほとんど住んでいない土地を攻めるのはゲームだけのバ○機能
>>6
史書に書いてない=無い
ってことはないだろう。
それだと歴史上にある時突然沸いてくる存在だらけになってしまう
まあ軍事的に不可能だ
>>1
実際に樺太を攻めたらしい
>>11
三別抄が立てこもったのは済州島だろ
確か最初は江華島じゃなかったか?で、すぐ陥落して残党が済州島にこもって
数年粘る。
>>73
江華島に逃げたのは蒙古に攻められた際の高麗王
三別抄が最初に立てこもったのは珍島
そんな蒙古にアッサリ蹂躙された欧州
>>1
守りの堅い大宰府をさけて、日本海を東へすすみ、
佐渡島の手前で上陸して京を落とせば余裕。
当時は正確な地図がなかっただけでしょう。
信長の野望じゃあろまいし、いきなり軍隊送り込んでハイ終了ってわけじゃないんよ。
の手におちれば、後は補給の心配がない。一度、二度本土進攻に失敗し
てもまた何度でもせめてきそうだ。危うし鎌倉幕府!
だからそういう信野暮厨みたいな発想は止めれって
>>14
それを言ったらこのスレの存在意義が
高麗人は全く粘ってないかいないよ。
ただ30年間モンゴル軍の略奪と奴隷狩りの対象となっていただけで。
のこと世界中あらゆる気候条件に適応した蒙古が、蝦夷の寒さくらいで
まいってしまうわけがない。それに沿海州と樺太との距離はせいぜい
日本の明石海峡くらい。絶対に補給が不可能ということはない。確かに
日本本土上陸ということになると多少困難がともなうが、おそらく蝦夷
での生活に適応した蒙古は、その後の日本史にすくなからぬ影響を残した
ことだろう。
勃海国使はそっちのルートだったような……?
わけだよね。例えば京都に蒙古が直接出現して天皇の身柄を拘束すれば、
労せずして日本は蒙古の属国。
ゲームじゃあろまいし、現地の人間の目をかいくぐって
思い通りの場所にいきなり大軍で現れてわーっ
なんてこと簡単に出来るわけないだろア○
モンゴル軍は常に寄せ集めの軍隊で戦うのが普通。
元寇でも士気は高かった。
元軍が負けたのは単に武士よりも戦術や兵器の面で劣っていたから。
高麗軍は結構張り切っていたらしいしな。
あの「船をわざと弱く作った」などガセもいいとこ
ちょっと気になってるんだけどさ
高麗軍が張り切ってたのって、国王や将軍たちがではないの?
船大工も張り切ってたの?
いやべつにわざと弱く造った云々の説を肯定するわけじゃないけど
元の大群が蝦夷地、奥州で越冬出来るとは思えない。
冬季になれば日本海が荒れ狂い、物資の補給が途絶える
凍タヒ者俗質し、更に地の利を生かした奥州武士がゲリラ戦
を展開する。
その時代、蝦夷は未開の大地で、侵略する意味があるのだろうか。
東北地方からの侵略の可能性は高い。
奥州武士の血の気の荒さと、勇猛さに期待するしかない。
しかし、海の荒れ方を考えると、北のほうも海上停泊は危ないかもしれない。
間宮海峡ー宗谷海峡ー津軽海峡
冬はいまでも難所。 ここで補給銭が切れる。
人口密度が低いので、征服地から徴兵もできない。
その前に、樺太と日本の位置関係がわかってないと思われる。
当時は、「日ノ本の國」は、道東のアイヌ国ですね。
クイ(クキ)は、樺太から、道北に分布してて行き来してたから、位置関係判ってたよ。
中には万の兵でアイヌを攻めたという記述も。
大挙北上。甲信東海からも続々来援。
把握できていたとは思えない。あいつら日本本州の地理把握できてたのすら怪しい。
極東アムール人はアイヌ人と交易船で行き来してたらしいけど、
兵員乗せるような船で夏場半年だけ戦闘して半年戻るの?出稼ぎかよ
若しくは熊が出る山穴見つけては冬篭りかよ、投資者続出だなwww
蝦夷と何度か戦ってるな。
それは無いと思う。
ロシアやイランは西モンゴル共和国になってないし、中国も南モンゴル共和国になっていないから
http://www.amazon.co.jp/dp/4894565994
【韓国】世界の弓、どういうものがあるのか 韓国の伝統弓は「角弓」で330メートル以上の射程距離を誇る★3[06/23]
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1245789563/
弓は北東アジアで特に発達した。モンゴルの弓は射程距離150メートル程度に過ぎないものの耐久性が
抜群で、中国では満州族が使う弓が最も強力だった。一方、刀が発達した日本は、弓の性能で大きく
後れを取った。竹や杉など1種類の素材で作る日本の弓は、相手を威嚇するために長さが2メートルを
超える反面、射程距離は60-70メートルに過ぎない。
>>61
弘安の役を例にとろう
防塁は敵軍の内陸部への侵攻を止めるには効果的だが、
累上の武士を守る遮蔽としては効果がない。
つまり飛び道具には無力。
したがって本当に和弓より威力も射程も勝る弓を大量に投入できていたなら
防塁の上の武士を矢で射散らしてから上陸すればいい。
ところが実際の元軍は防塁の前になすすべなし、
結局防塁がない陸継島に上陸を試みている(結局今度は武士の白兵戦の能力の前にここからも敗走するが)
つまり元軍にも高麗軍にも
海上から、あるいは海岸線から有効な射撃ができるほどの弓はなかったことになる。
元は満州国があったところへんを抑えてる
満州国あたりは、金朝の根拠地なんで、金朝を征服したモンゴルの領土でもある
ここから樺太に侵攻して、樺太のアイヌ系民族を服属、
そして北海道の当時のアイヌ系民族「骨嵬」を服属。
これがえらい時間掛かったらしく、1308年まで掛かった。
(当時のアイヌどんだけ強いんだ)
日本側の当時の最北の支配者安東氏までは元朝に支配されなかった事は
俺らが学ぶ日本史では当然の史実だが、
どうもこの樺太、北海道アイヌ支配が安東氏に相当圧迫が掛かったようで
蝦夷大乱に繋がり、蝦夷の情勢は1328年まで不安定になる。
これが鎌倉幕府滅亡の直接の原因だという説もある
元軍が樺太に派兵した人数は3000人だそうだ。
アイヌが強いっていうか、元軍がやる気なかったんじゃね?
国家プロジェクトとして侵攻した日本やベトナムとは違うよ。
蒙古は樺太までやってきて
「白主土城」って砦を樺太最南端に作った。
現在は土塁だけが残ってるそうだが、中国様式の建築らしい。
この城についてもっと詳しく知りたいが、検索しても情報が少ないのが悲しい。
数は少ないが、蒙古も北海道の目と鼻の先までは実際来てる。
97が言うように北海道のアイヌも服属されてたのかな。
安藤氏だけは結構危機感感じてたろうね。
元寇は鎌倉武士の圧勝
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。
菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。
※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。
恩賞貰うために作ったなどというウソを信じ込まされている人もいるかもしれんが、
この絵詞が作られた時にはとっくに恩賞は貰い終わっている。
撃退した上に逆に攻め上がって
元側から講和を引き出した稀有な例だと聞いたが
元時代、蒙古軍は九州に2度、北方地域(当時北海道・樺太・千島はアイヌの
領土だった)に3度来襲していますが、九州の件は台風で蒙古が戦わずして船が
沈没しておわりましたが、樺太の戦いは大規模なもので3度とも
アイヌの大勝利だったのですが
樺太の戦いは3度とも元軍の大勝利で、樺太は元に占領されてアイヌは降伏に追い込まれてるんだが
フビライ・ハーン「日本国王に国書を送れ」
:
:(国書届いた)
:
日本側役人「日本国王って誰のことだろう?
天皇?上皇?征夷大将軍?執権?北条家得宗?」
当時、6m越える熊がゴロゴロしてたんだが・・・
故にそこから本州を攻める人数は限られる
だから無理
沿海州~樺太~北海道の補給線をきっちりひいて青森に攻めるとか無理無駄
画期的な生産方法を発見して北海道の生産量を上げて人口ふやしてから攻めないと無理
日本の積雪量半端ないぞ
でも、蒙古軍もバ○だよね。
二度目のとき、わざわざ迎撃の準備万端の所を攻めたわけで…
(何とかの一つ覚え?)
日本海側も範囲が広いから攻めるポイントが沢山あるわけじゃん。
二回目は九州以外を攻めていれば、今の日本は無かったね。
俺が指揮官なら、佐渡島を攻めて軍事拠点とし、次に能登を攻めるね。
>>134
当時は、正確な海図どころか大まかな日本地図すら無く、無線通信もないし
適当に上陸しても、自軍や目標の場所も不明、味方と連絡も取れない
兵站補給には、当時の船で行き来し易い、まともな港も必要
例え天皇の身柄は確保できなくても都を押さえられれば当時の日本人は大ショックで必タヒで取り返そうと大戦さになり結果元軍は追い払われたとしても直後に鎌倉幕府は崩壊し、挙げ句の果てに室町時代をすっ飛ばして戦国時代が来てたかも知れない
ふとそんな気がした
>>136
若狭には対馬海流で軍を送り易い=帰路が逆流で大変だから海賊もあまり来ない
朝鮮→九州よりは若狭まで日数かかり、計画狂い易く、兵も疲れ、馬も持ち込み困難
さらに江南軍が遠い若狭まで、となると過酷過ぎる
若狭から京都への鯖街道などは大軍を一気に送り難いし、地理知らないなら尚更だ
日本側の戦力として
既に、当時の国際港である敦賀は、東山道・北陸道の兵が防衛していたとあるし
それを突破しても
畿内には万単位の幕府の予備戦力、さらに延暦寺など僧兵も防衛参加
元は九州に戦力集中しても勝てないのに、若狭に戦力分けても勝率下がるだけかと
>>137
逆に蒙古が軍を幾つかに分けて、九州と蝦夷と都と鎌倉に同時多発的に
出現していたら、鎌倉幕府はどう対処してたんだろ?
蝦夷から入っても南下して同じ連中と戦う事になるんだし
樺太アイヌと交戦 →北海道アイヌの各派制圧 →日本、で一々渡海など面倒過ぎる
北海道に至っては存在知ってたかどうか、それだけ行き来し辛い、コストかかる場所ってこと
日本は北方も警戒していたし、国際港である敦賀も防衛していたが
元はアムール川以東の地域を詳しく知らなかったらしいぞ
>刀伊の入寇 – Wikipedia
>また、いわゆる元寇(文永・弘安の役)前後に
>日本側は北方からの蒙古の来襲を警戒していた事が知られているが、
>これに反して元朝側の資料で
>アムール川以東の地域の地理概念上に日本は含まれていなかったようである。
>この認識の差異も内陸のアムール水系への
>交易路のシフトが大きく原因していることが推測されている[9]。
地図も海図も無いし、
そもそも当時、元はアムール川以東の地域を詳しく知らなかった>>154
さらに「太平記」より、当時の国際港であった敦賀は、武士で守り固めてた
> 此企兼てより吾朝に聞へしかば、其用意を致せとて、
> 四国・九州の兵は筑紫の博多に馳集り、
> 山陽・山陰の勢は帝都に馳参る。
> 東山道・北陸道の兵は、越前敦賀の津をぞ堅めける。
加えて、当時の操船技術で日本海を東に進んでも
地図も無いし、帰路(偏西風と海流に逆らう)が超困難な、片道切符のア○作戦だ
までこれた最大の理由はやっぱそれ。一方西欧人にとって海というのは、新大陸まで延々
続く一本の通路だからな。もし日本周辺の波がすべて地中海のように穏やかだったら歴史
は全く違っていた。
地理が充分に分かっていたのも、そこだけ。充分と言ってもアレだが
かりに若狭にたどりついたとしても、
日本側にとっても、九州までよりはるかに内線が充実した地域なので
迎撃戦力を集中しやすい。
元10余万以上の戦力を即座に並べられる。
それと馬の輸送は史実でもなかったはずで、物理的に不可能
アイヌは蒙古に負けて従属、ベトナムもボロボロで辛勝の後は従属
はっきり蒙古に勝ったといえるのはマムルークと鎌倉幕府だけだよ
鎌倉幕府全盛時に蒙古が攻めてきて日本はラッキーだった
強大な武力を持った中央政権が無かった
南北朝時代や戦国時代なら簡単に征服されていたかも
平安時代ですら危なかった
元寇は現地九州兵だけで圧勝だしなあ
戦国時代に同様に威圧的に来るなら、各大名が皇室など利用し連合軍作れる
むしろ平和慣れして
刀伊の入寇の略奪軍にすら苦戦してた平安時代に来られるとやばかった
東国大名の存在は、擾乱以降、不安定な状況が続いていた畿内の政治、軍事情勢を回復するうえでも重要な役割を果たした。
尊氏は文和2(1353)年に東国大名を率いて大挙上洛した。
このとき尊氏に従って活躍した「東国ノ諸大名并軍勢」として次のようなものがいた(『源威集』)。
佐竹右馬頭義篤、同刑部大輔師義、結城中務大輔直光、同大内刑部大輔重朝、常陸大椽入道浄永、那須備前守資藤、
小田讃岐守孝朝、小山左衛門佐氏政、武田陸奥守信武のほか、高坂氏重らの平一揆や白旗一揆である。
尊氏勢上洛のさいには、「関東ノ武威ヲ恐テ、洛中ノ敵従退散」、「其武勢ニ恐、山陰道南方ノ御敵、不戦洛中ヲ退散ス」という(『源威集』)。
上洛してくる東国勢の精強は、南朝方もよく知るところであった。
足利政権にとって東国大名の保持する軍事力は、まさに切り札的な存在だったといえる。
その点は、畿内での戦闘においてもいかんなく発揮され、南朝らは以降も何度か入京を果たすものの、結局は一時的なものにとどまっている。
井沢「神風は御用学者の捏造」
武士ががんばって撃退したことを認めたくない
朝廷の捏造だってさ。
九州男児の祖先
九州出身の防人たちはどうも役に立たなかったらしく、早くも七五九年に大宰府の官僚が
「東国の防人を罷めしより、辺戍日に荒散せり」と、防備体制がなっていないことを政府に訴えている。
七年後の七六六年にも大宰府は「筑前等六国」で徴兵された防人たちの不適さを指摘し
「人勇健に非ずは、防守済まし難し」という理由で、「東国の防人旧に依りて戍に配せむ」ことを願っている。
このとき朝廷は妥協策を講じ、任期を終えた防人にはそのまま筑紫に残っている人が多いはずなので、
かれらを使って地元の防人の補強となすことを大宰府に命じている(『続日本紀』)。
(ブルースバートン『国境の誕生』大宰府から見た日本の原型、NHKブックス)
武神を祀り、これに仕える神人が古代の武術を伝えていた鹿島神宮は、奈良時代には、東北や関東方面の武人が九州へ防人として出発する際に、
必ず立ち寄って武運長久を祈り、神人達から武術を教って旅立ったので鹿島立ちという言葉が生まれ、そして、旅の道すがらや任地の九州で、
鹿島立ちと云えば、現在のニューヨーク、ロンドン、パリ、ミラノ等とはと云って珀(ネームバリュー)をつける様な事が出来たのであろう。
ともあれ、この防人達の喧伝によって、兵法は東国からと云われていたのである。
飯篠長威斎が創始した剣術兵法は、香取鹿島地方の優秀でしかも名人や達人となった門下達によって継承進化され新しい流儀が続々と派生していったのである。
特に塚原卜伝と上泉伊勢守は当時の都であった京への上洛を果し、卜伝は十二代将軍足利義晴に上泉伊勢守は十三代足利義輝にそれぞれの剣術を上覧して
天下一の名声を博した上、関東から北陸、東海、近畿地方に至るまで自らの流儀を指導広布した事によって、当時は香取鹿島と云う一地方民族の武術に過ぎなかった
剣術剣法が、全国に伝播する礎を築いたと云えるのである。
(『古流剣術』田中普門著)
島津貞久
1269年 相州鎌倉で生まれる
1274年 文永の役
1275年 九州防備のため、祖父久経(鎌倉出身)、父忠宗(鎌倉出身)らとともに薩摩へ下向
1281年 弘安の役、久経ら参戦
1333年 鎮西探題を襲撃、以降は主に足利方として活動
1363年 タヒ去
あとヒグマ
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北海道からアイヌ攻めてるって初めて知ったんだけどそれですら撤退してる、なおかつ蒙古側が有利だったと言ってる人がいるとなると考えられるのは「攻め込んだ軍を養うだけの兵站が保てなかった」ってことでは?蒙古軍って略奪が代名詞にあがるレベルだけど当時の北海道に例えば万人レベルの兵を送り込んで略奪しながら戦闘していられるほどの食糧が存在していたのかという疑問が湧く。九州ですら占領地で屯田とかしてる様子がなく退いている(ように見える)あたり明確に「攻め込んだ地での略奪による戦線の維持」をあてこんでたと思うのだが…。