【考古学】「邪馬台国時代のクニ」が大ブームに…佐賀県の吉野ケ里、国史跡指定から30年
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/609328/
「邪馬台国時代のクニ」として大ブームを巻き起こした吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼市、吉野ケ里町)は19日、1990年に国史跡に指定されてから30年を迎えた。
91年には特別史跡に格上げされ、教科書でも紹介される遺跡となった。
当初の工業団地造成計画から一転、国営、県立公園として丸ごと残った国内最大級の弥生の環壕(かんごう)集落が、全国に与えたインパクトは想像を超えるものだった。
その功績と、積み残された課題を探る。
1989年2月下旬。吉野ケ里遺跡の発掘現場は、大報道合戦となっていた。本紙も28日付夕刊1面で「最大級の墳丘墓発見」と特報した。
「有柄銅剣」「ガラス製管玉」と出土の度にニュースとなった。
きっかけは、23日付の朝日新聞朝刊1面。「邪馬台国時代の『クニ』」の見出しが躍った記事にマスコミ各社が反応した。
「それまでに邪馬台国の視点はなく、インパクトがあった」。その3カ月前に「弥生最大級の集落」といち早く報じた佐賀総局記者だった下村佳史(57)が振り返る。
当時、佐賀県文化課参事だった高島忠平(80)も朝日の紙面に驚いた。
記者に依頼され、事前に記事をチェック。内容はほとんどが公表したもの。「まさかこんなに大きな扱いとは」
日々見学者が途切れなくなった吉野ケ里。調査後は遺跡を壊す方針だった高島も確信する。「これは保存に向かう」
■ ■
国と県で騒動が続く中、高島は、知事の香月熊雄(故人)も参加した3月1日の県の会議を鮮明に覚えている。
開発部局は「これじゃ工業団地ができない」、教育長は「でも重要なんだ」と激論が続いた。
その時、副知事だった井本勇(同)が「今となっては仕方ない」と意外な発言で場をなだめた。
開発畑を中心に歩んできた井本だが、一連の報道後に最初に現地へ足を運んだ県幹部だった。
高島は「先を見通す力があった」と振り返る。
調査期限まで1カ月を切っていた同7日、井本に促された香月が保存域拡大を発表。ただ、面積は18ヘクタールにすぎなかった。
市民の間には全面保存を求める声が盛り上がる。89年11月発足の「吉野ケ里遺跡全面保存会」は2年で20万人の署名を集めた。
91年、香月の後を継いで知事となった井本は、邪馬台国ブームの後押しを受け、工業団地白紙撤回を表明した。
■ ■
実は、86年5月に始まった本格的な遺跡調査で高島が指示した異例の手法が、後の「幸運」を引き寄せることになる。
発掘調査は、区域ごとに調査を完了させるのが主流だが、遺構がある深さまで一気に地表を剥がした。広大な遺跡調査のために取った手法だ。
土地開発公社の「調査終了までは造成しない」という決定もあり、弥生の環壕集落は丸ごと、地上に姿を現した。
それが研究者を含め多くの評価を生み出すことになった。
県は、遺跡の保存活用は「国営歴史公園で行う」という方針を決定。
「国営は難しい」との見方もあったが、公的公園の整備を課題としていた建設省(当時)が、ブームを横目に話に乗ってきた。
歴史公園は国営、県立を合わせ117ヘクタールで、整備費は計約500億円。当初は「天文学的数字」と思われていたが、国費を含めた資金力が全面保存の決め手になった。
高島は流れを生んだ井本の手腕を評価する。
同時に遺跡の命運を決めたのは、全面保存へ運動を推し進めた市民の力と感じた。
「地表に現れた弥生の姿が、人々の気持ちを揺さぶった」と。
【ワードBOX】吉野ケ里遺跡
佐賀県神埼市と吉野ケ里町にまたがる旧石器時代から中世にかけての複合遺跡。
特に南北約1キロ、東西約600メートルに及ぶ弥生時代の大規模環壕集落が有名。
1989年に着工予定だった神埼工業団地(67ヘクタール)造成に伴う事前調査で36ヘクタールに遺跡があることが確認されたが、
当初の保存予定は緑地とする6ヘクタールのみだった。
末盧館と吉野ヶ里遺跡どうして差がついたのか
保存は賢明な判断だったな。
工業団地とかマジでいらんわ。
既にあそこらは工業団地が多い。
あくまでも邪馬台国時代のクニなw
明らかに卑弥呼を意識した祭壇やマネキンがあったけど
縄文時代の加曾利貝塚も青森の三内丸山遺跡になったし
その後は東遷し、四国で日本の礎を築き畿内の大和朝廷へ至る。
四国は無いわー
神武東征の何処にも出て来ないし、遺跡もない
日本神話を置き換えたんだろ?
淡路島は最初だけど阿波への路ってことだから阿波のほうが重要。
だから徳島にでも都があった説でもあるんじゃね?
ちょてい!
みょまああああああああ!
雷火ブーム来るか!
>>36
確かに
北九州か奈良か或いはその他かは置いといて
台地は削れる、低地は埋まる
これが原則だよねー
弥生でいきなり発展した、的な教育ばかりされていたが
きちんと学説が変わったら教科書も改訂しろよと思う
今は残ってる地名や僅かな遺構で推測するしかないよな
この規模のクニって割とあったんだろうな
中国史を見るとこうなる
卑弥呼
↓
男性王
↓
台与
↓
男性王(台与の後と書いてるので系譜上はともかく邪馬台国の後継だろう)
↓
晋、宋、斉、梁、隋と使節継続
・邪馬台国が滅んだという記事はない
↓
アメノタリシヒコ(用明天皇)
・都は邪馬台国と同じ
・神武天皇が筑紫城から大和に都を移したとあるので用明天皇の都は大和(邪馬台国=大和が確定)
・各地に一大卒を派遣して支配(一大卒のいるところ=大和の属国=九州は大和の属国)
↓
以下皇室系譜
・白村江を経ても同じ皇統が継続してるので九州王朝など存在しない(戦った唐自身の記事)
・倭から日本への国号変更は壬申の乱の事だと確定する
このように中国は邪馬台国は滅んでおらず、ずっと交流を続けていたとある
その上で大和に邪馬台国があると書いている
九州に邪馬台国があったという事になると、中国は400年近くも交流を続けて官位も与えた相手がどこの誰かも知らなかったことになる
最初から九州にそんなものは無いと言う他ないだろう
>>58
なるほど、文献的には畿内なんだね
あとはエビデンスとして
・径100歩の墓
・卑弥呼がいた大型建造物
・魏の年号が入った鏡
・黄幢
があればいいんだね
これみても既に畿内説で決定してるよな。
モモソヒメという確実な候補者までいるんだしw
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
女王がいた国の北は戸数と「道里」が記載されている。つまり日程記載部分を道里行程の続きと読むのは間違いである。
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國
女王がいた国の北は伊都国であると書いてある。
どうでもいいんだが謎はロマンに?がるからな
未だにミステリが人気なのと同じだよ
邪馬台国の改編纂、魏史倭人伝の解説ガイドブックなんか読んでるとダメだぞ。
インチキ統計学を使ったり、ダメダメなパズルしかないんだからなw
弥生時代の後期後半とは邪馬台国の時代の50年程度前を指す
特に吉野ケ里の絹は甕棺の様式から後期初頭
更に古くなる
邪馬台国の時代は弥生時代終末期
肝心の邪馬台国の時代に該当してない
そしてその記事にあるように「吉野ケ里限定」の絹
つまり、そこが邪馬台国かというとそういうわけでもなく邪馬台国の証拠となり得ない
指摘したように吉野ケ里の絹は後期初頭
>出土品は繊維断面形より見ていずれも家蚕の絹であり、楽浪系の三眠蚕と華中系の四眠蚕があります。
>このうち、華中系は中期初頭、中期前半の甕棺から出土し、楽浪系は中期後半、後期初頭の甕棺から出土ました。】
後期初頭と言うのは西暦で言うなら西暦100年くらいに当たる
邪馬台国の150年くらい前の話
そしてこれは吉野ケ里限定の絹でこれ以降途絶して無くなる
九州の絹は九州衰退の証拠として読み取る要素と言う点を補強してるだけになる
貴族の集合墓地はあるだけ
ちなみに最近、纏向遺跡からも硯が出土している
大和の硯は弥生時代後期後半から古墳時代初頭にかけて数を増やしている
この時期はちょうど邪馬台国出現の時期に当たり、それまで文字を使う必要のなかった地域で文字の必要性が増したことを意味する
纏向の出現、庄内式、古墳の全国拡散などの動きとともに、この時期に大和で大きな画期が起こった事が想定される
この大きな変化が邪馬台国の出現に他ならないだろう
この動きが更に発展拡大して後の大和朝廷へと繋がっていくことになる
中国史が邪馬台国を大和と記載して後の大和朝廷の都とも同一と示している事からも整合性が見いだせる
大和の邪馬台国は系譜はともかくとして大和朝廷に連続する勢力というのが史書、考古学ともに問題のない流れであると理解できる
吉野ヶ里は砦村だったが、
その国邑は東南接の上峰町(旧三根=彌根)で、倭人伝にいう「不彌国」だった。
適当な資料なら邪馬台国に行く距離自体いい加減となるし
邪馬台国の存在を示した唯一の文書
魏志倭人伝が資料にならないなら
邪馬台国自体存在しないぞ
奈良と同じように九州北部も瀬戸内海の勢力の支配下にあったんやろね
一大卒は九州北部を支配する為の大兵団かもなぁ
一大率が置かれていたのは半島南部
鉄の利権争いが激しい地域に置かれた軍隊の事だろ
普通に考えて
「弥生になって、土地を守るために戦が起こるようになった」と、教科書でも教えてるけど、
登呂遺跡って、その手の防衛機構ないよねぇ。
遺跡も真っ平らで向こうに街道が見えるし、博物館の再現模型でも堀も柵もない。
見つかってないだけなのか、昔っから静岡の人間はのほほんとしてたのか(´・ω・`)。
ミスター吉野ヶ里の高島さんもたしか筑後説なんだよな
個人的には久留米の祇園山古墳群(大量殉葬説あり)や日田ダンワラ古墳出土の金銀錯嵌鉄鏡(曹操所有物と同一?)などから北部九州には初期山門国連合があったんじゃなかろうかと思ってる
ほったらかしというか
必要がなければ永久保存というのが
今の方針。
発掘したら、その遺跡はなくなるからね。
少しづつ削っていって、埋設物を記録保管しながら
なにも出てこなくなる地層まで掘っていくんだよ。
前提として、発掘調査は遺跡の破壊行為だということを
頭に入れて置かなければならない。
吉野ケ里も一部の表層だけ掘って
あとは土をかぶせ直してる。
言葉足らずで申し訳ない、人々に気づかれないまま今も遺跡は貴方の足元で眠ってるかも、ってことが言いたかっただけなんだ
遺跡かどうか知るきっかけは大抵工事とかで土を掘り返さなきゃダメだから、街中じゃなかなか難しいだろねー
本気で発掘すればごろごろ出てくるだろ
纒向だって、あの辺の人家(特に団地)ぶっ壊して発掘調査すれば凄まじい規模での遺構が見つかる筈
時代も卑弥呼と被る
まだ全体の1割も発掘してないっぽいし
スレの主題だから書いておくが吉野ケ里もこの九州の状況と例外ではない
吉野ケ里から見つかる鏡は小型の?製鏡で当然、当時代の新式完形鏡は出ない
また絹についても後期初頭の甕棺出土物を最後に出ない
鏡の欠落と、絹と言う文化の途絶という状況を見せている
弥生終末期には畿内式の土器が広まりだし独自性を失う流れも同じ
こちらも他の九州の地域と同じく邪馬台国となり得る場所ではない
地元も九州説にとっても
吉野ヶ里は当初から邪馬台国では無いと公表してたが覚えてないのか?
対して纏向は柱並べて卑弥呼ちゃんキャラ作って大騒ぎしてるがw
いや、その上で自治体がそこを無視して卑弥呼の里!とか売り出してたって話
流石に時代的にゆるキャラは無かったが
ほんとこの手のスレ大好物。
どっちの言い分もありえそうで楽しい。
魏使節「ここは何という国だ?」
九州人「八女たい」
魏使節「やまたい国か」
みたいな実はすげー簡単な事だったりしないかなー
吉野ケ里遺跡も別に他の九州の遺跡と変わらない
鏡は小型?製鏡ばかり
絹も後期初頭の段階で途絶している
そして弥生時代終末期には墓所になっている
邪馬台国として見ることが出来る場所じゃない
倭国で飢饉が発生した痕跡だな
記録の通りだ
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1589845780/
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません