http://yamatai.sblo.jp/
ああ、あの辺には不動産調査で行ったことがあるが、近くに高天原もあったな。
秋津という地名もあったのでここが秋津島かと思っていた。第一、御所市という地名が天皇所在地という意味だしな。
秋津遺跡に壁柱建物が存在するならば、当然渡海後でなくては造れない
建物である。
273年 日食が神功渡海の目安。274年神功元年。
新羅 312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず。
308年 永嘉の乱。ここに派兵して、半島占拠の実力を得る。
313年 神功39年太歳。仁徳元年。
323年 神功49年 東北方面の政治的空白、半島占拠。大量の渡来人。
326年 七支刀
纒向遺跡は、2世紀末より3世紀中期から後期に掛けて、箸墓築造を以て緩やかに衰退する。
この間が 崇神188~、垂仁217~、景行3代240~。
ヤマトという地名は古くは奈良の中でも特に天理~桜井辺りを指していたらしい。
邪馬台=ヤマトなら御所の秋津は邪馬台国に入らないだろう。あの辺は葛城に入る。
やはり邪馬台国=マキムクの可能性が高い。
の地域に卑弥呼の国があったことを物語る。つまり女王国は九州に所在
したと観るのが正解なり。畿内にあればそれなりの女王国の地域の状況
が記紀に載るのである。
蘇我馬子「葛城は昔おれらの土地だったんだから返してヨ」
推古天皇「あなたは私の伯父さんだけど、それはダメ」
ってやり取りがあったらしい
吉野ヶ里遺跡って1986年に発掘始まって今だに続いてるんだな
当時は「邪馬台国発見か?」、みたいな感じで凄いブームになったみたいだね
凄い経済効果あったろうな
そういえば今も定期的にちょくちょく土器や木炭の出土のニュースあるよね
随分長い事たつのによくでてくるよな、まさしくゴッドハンドだね
いいや、畿内からは魏志倭人伝に描写された風景が全然出てこないのに
吉野ヶ里からは同一文化圏の風景が現れたから、
ああやっぱり邪馬台国は九州の文化圏なんだなと皆が理解しただけ。
「ここが邪馬台国です」なんて断定した奴は相当なおっちょこちょいだ。
>>35
> 「ここが邪馬台国です」なんて断定した奴は相当なおっちょこちょいだ。
久米宏は 「ここが邪馬台国です」ってニュース捨てで断定したぞ
政治的な策謀はテレ朝だから確実的事象
ニュース捨て久米は「カタカナ」が韓国から伝わったと時間を割いて断言報道してたし
まつろわぬ民がいた時代の女帝が治めた時代の日本
蝦夷が存在した時代の日本
だと思う
場所は台座があって儀式が行われるような地域であって馬が存在する
しかし、邪の空間であったとする地域が当時の邪馬台国の首都だと思われる
という説をとなえてみる
「魏志倭人伝」には「男子は大小と無く、皆黥面(げいめん)文身す」とあるから、
当時の日本人の男は大人も子供も顔や体に入れ墨をしていたらしい。水に潜って魚をとる海人が大魚の襲撃を防ぐまじないにしたのが、
後に飾りとなったのだという
▲ならば入れ墨のない者は当時の役所をクビになったのか??とは、むろん大阪市での職員への入れ墨調査を聞いて頭をよぎった妄想である。
役所が職員の入れ墨の有無を一斉調査するというのもびっくりだが、「110人」という調査結果にも驚いた向きが多かろう
▲そういえば最近タトゥーと呼ばれるファッション感覚の入れ墨を就職活動を機に消す手術をする若者が多いという。
欧米の映画などをまねて気軽に入れたタトゥーも、いざ職探しとなれば入れ墨がアウトローのシンボルとされてきた日本社会の市民感覚に突きあたる
▲さて映画では片肌脱いで桜吹雪を見せる遠山の金さんこと町奉行、遠山景元には本当に入れ墨があったか。
放蕩(ほうとう)ざんまいの若い頃に遊び仲間と腕に桜の入れ墨をしたと記すのは元幕臣の漢学者、中根香亭だ。
旗本の子弟が「武家彫り」などという入れ墨をした時代だ
▲だが香亭によれば、幕府で昇進をとげてからは常に肌着をきつくまとい、夏も脱ぐことがなかったという。
さて景元は「若気の至り」を後悔したのかどうか。ともあれこと奉行としては若い時の体験ゆえに下情に通じたみごとな裁きをしたと香亭は絶賛を惜しまない
▲大阪市職員の入れ墨事情は人それぞれだろうし、何らかの措置が必要なケースもあろう。
ただ未来の景元を失わぬようにするのも組織の「マネジメント」だ。
毎日新聞 2012年05月18日 00時16分
http://mainichi.jp/opinion/news/20120518k0000m070123000c.html
邪馬台国・・・正確には、邪馬壹国(ヤマイチコク)!
魏志倭人伝には
邪馬台国とか邪馬臺国とは書かれていない。
ヤマタイコク、は史家が意図的にそう読んでるだけで
中国音だと普通に「ヤマト」という発音になる。
なおかつ、ヤマトは
周囲の小国を束ねる連邦の首都である、と言ってるのに、
日本史家はなぜか独立した小さな国のような訳をする。
どうも、この辺、現在の天皇家と邪馬台国がつながると
まずい何かがあるんだろうね。
倭人伝が描くのは、争っていた和人たちが女王を共立した、都が邪馬台国に
あったということ。首都だよなあ。国じゃあない。
新しくどこかしがらみのない場所に都を作ったとしたら、纏向のようなのに
なるんじゃないかな。
秋津遺跡は邪馬台国ではないだろ。縄文の遺跡も出てるから、古くから
住人がいたんだろうし、水田を取り入れて弥生化したんだろ。
秋津は葛城だ。神武が来た時はすでにムラがあったし、それなりのクニというか
豪族になってたと思えるな。
>>48
オレが書いたのかとw
秋津遺跡は縄文からだな。近くにある鴨都波神社の遺跡も弥生からから古墳時代まで
繋がってるらしい。社伝ではもう少し山手の方にいたのが平地に降りてきたと
いう伝承があるらしい。
>>49
おお!
鴨都波神社、そうらしいね。最近知った。
室宮山古墳を見に行ったんだが、知ってたら寄ったんだが。
あのへん、「大和青垣 山こもれる・・」が実感できる。
ヤマトタケルの故郷はこの周辺だったんだろうなあ、と。
平城京のあたりだと、それがない。
紀伊には秋津川がある、上秋津・下秋津
大倭豊秋津島由来であろうか
そこと邪馬台国とは関係がない
問題の根本は何処なのかが問題のである
出発地を定めないと確定が出来ない
倭国とは何処なのか。古事記に描かれたイズモとは何処なのか
邪馬台国とはヤマトの国なのか?
答えは、既にある
あの地には神話を具現化する事実があるのだ
そこには、邪馬台国卑弥呼の古墳も在るだろう
当時の中国人が「ヤマト」を中国語で表記したのが邪馬台国だろ。
なんの疑問もないと思うが。
始めが間違っていれば全て間違う。
倭の那国は紀元50年ごろ、それから200年たてば漢も魏になっている。
倭の那国がそのまま有る方が不思議だ。那国は久留米に移っている。
玄海灘と有明海にまたがった筑紫の国の不自然な形を見ればわかるはず。
那国から船に乗れば熊本方面に行くしかないし、順番にたどれば邪馬台国は
宮崎になる。歴史資料を、勝手に南を北に読み替えてはいけない。
古事記を見れば、その宮崎から神武の東征は始まっている。
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1299077450/
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