北条時政は鎌倉幕府を乗っ取ろうとクーデターを考えたが北条政子と義時に引退させられた [194767121]
https://news.yahoo.co.jp/articles/528fed92f0bbf65902237fb991ec6038144b2a18
愚管抄は違う書き方になってるってのが>>1
義時って北条時政の財産を継げる人じゃないらしいよ
知らんけど
すでに分家作ってはいたけど宗時にいちゃんが嫡男だったら
弟の義時に流れるのが普通だと思うが。ただあの時代は誰に
家を継がせるかって結構あいまいだったというかはっきり明文化
してる訳じゃないから時政が決めてんならそうなのかも
いや時政の嫡男は一番最後に生まれた牧の方の子だよ
摂関政治みればわかる通り生まれ順でなく母親の出自が重視される時代
牧の方は中流貴族の家柄なので家格で言えば頼朝の河内源氏より上
義時は、嫡男でないので、北条でなく自分の領地の江間を名乗っていた
牧の方とは子どもはたくさんいたが男は一人、この四男がなぜか畠山重忠の息子の家で客タヒ
資料にはないが畠山邸で喧嘩沙汰でタヒんだ説もあり、それが畠山重忠討伐に繋がっていく
そして、牧の方が息子のかわりに今度は娘婿を将軍にさせようとしてこれが引き金で牧の方と時政が退けられるのだが、牧の方は、頼朝より家格が上の一族でたぶん自分のが偉いという気持ちがあったんだよ
しかも平治の乱で頼朝の助命嘆願したのは牧の方の伯母だからそりゃなめる
★ 梶原景時が一族とともに滅亡(梶原景時の変)
阿野全成、謀反のとがで誅○される。
★ 北条時政の謀略により、比企能員が一族とともに滅亡(比企能員の乱)。
北条義時、一幡を誅○。
源頼家が幽閉先の伊豆修善寺で暗○される。
★ 北条時政の謀略により、畠山重忠が一族とともに滅亡(畠山重忠の乱)。
★ 北条政子・北条義時の謀略により、北条時政・牧の方(りく)らが追放される(牧の方事件)。
北条義時の謀略により、北条時政、牧の方(りく)の娘婿・平賀朝雅が誅○
★ 北条義時に恥辱を受けて → 和田義盛が一族とともに挙兵、討タヒする(和田義盛の乱)。
このくらい粛清しないと安定政権は作れないものよ
室町幕府はこれができなかったから尾大不掉な政権になってしまった
地味に思われがちな徳川秀忠も親父の代からの旧臣をバッサバッサ改易とかにしたもんな
鎌倉時代ははじめから終わりまで粛清の繰り返し
しかし地方の反乱は最終局面で爆発するまでなぜか安定していてあまりない
政子も70代まで生きてるし
現在の奥さんとの間に生まれた男子が継ぐように力学が働くのは当然ではあるな
義時は北条氏を継ぐ立場ではなかった
そういうことにブチ切れたのもオヤジ追放の原因なんだろうけど
大河はそういう設定にはしないだろうな
謀反に失敗したのが明智光秀
謀反には成功してるだろ
その後敵が北畠顕家に次ぐ長距離マラソン
してこなけりゃワンチャンあったし
仲間である細川や筒井に見捨てられてる時点で失敗。
前振りや事前折衝が全く無かったんで動けなかったんだろうな。
承久の乱に巻き込まれたんだろうな
結果的に朝廷の権力を完全掌握したんだから良かったじゃん
義時個人に対する追討令だったらしいけど、ヤクザは頭をなめられたら内輪もめやめて結束するってことが貴族にはわからなかったのかな
雅子様「山よりも高く海よりも深い」
雅子様「だから北条氏のために戦ってね!」←サイコ
「御恩と奉公」巧妙な論理のすり替えか?!
朝廷「裏切り者(義時)を誅○する!」
↓
雅子様「源氏に恩があるなら北条氏に奉公しなさい!」
↓
なぜか北条氏の世襲制が始まってしまう
御家人どもも源氏の恩とかじゃなくて大義名分が欲しかっただけだもんなあ
21世紀の感覚で当時の「御恩」という単語を捉えてはいけない
意味が違う
御恩ってのはとどのつまり領地をくれたり守ってくれる存在って意味だよな
源氏の恩ではなく頼朝がつくった鎌倉幕府への恩だよな
確実に自分の本領を安堵してもらうには、誰の家来になるのがベストか
それがこの時代の武士の唯一絶対の行動原理
長年仕えていた主人でももはや領地を守る実力がないと判断したら
即座に見限って新しい主人を探すのは悪いことでもなんでもない
執権北条氏も武士に餌を与えられなくなって滅んだし。
どっちかというと弁慶みたいなのりじゃね
だいたいKY義経の同母兄弟だし
土地の再分配なんて江戸幕府までは全然無理じゃね
後の世も割と無理じゃね?外様を潰しまくるのとは難易度が違う。
有力御家人ってのは将軍権力を支えてる側でもあるので将軍を支えている奴らの権力をそぐという半分自爆
戦国時代だと
島津→13人の安達盛長の妻の連れ子が初代
毛利→13人の大江広元の息子が初代
大友(立花)→13人の中原親能の養子が初代
伊達→頼朝の側室の親父が初代
小田→13人の八田知家の孫が初代
結城(越前松平)→頼朝乳母、寒川尼の息子、八田知家の甥が初代
小山→寒川尼の夫の一族
宇都宮→八田知家の実家
葦名→13人三浦義澄の弟が初代
六角、京極、尼子→挙兵に参加した佐々木秀義の子孫
千葉(相馬)→頼朝の房総逃避後に参加した千葉常胤
後北条→北条氏の後裔横江氏の血縁から主張の説
畠山→娘婿が畠山氏を継ぎ足利三管領家になった説
武田→武田信義は頼朝のライバル扱いだが、息子信光は鎌倉に忠実な御家人
南部(津軽)→初代が石橋山の戦いに参加
佐竹→頼朝と軍事的に倒せなかった最大のライバル?奥州合戦以降従う
足利(細川、畠山、斯波、今川、一色等が一族)→足利義兼、頼朝の従兄弟関係で北条を介して相婿でもあった源氏門葉
山名→初代が頼朝に従い源氏門葉
かききれないな
朝廷で言う藤原氏みたいに
幕府成立は武家にとっての始まりだから
その創立正当性は想像以上に絶大なのかな
そういうのもあるけど鎌倉幕府が平家や奥州藤原氏や承久の乱で勝って御家人や自分の縁者を全国の地頭なんかにして土地を奪いまくって土地の主にしていったからな
単にぽっと出の新興勢力が自分の統治の正当性の拍付けに
系譜捏造してるからだよ
まあ武田あたりは普通に名門だし全てがそうだとは言わんけど
上にあげたのは鎌倉以降、勢力を維持した一族をあげてるからかなり正確だよ
戦国時代のぽっとでや怪しい主張は無視した
例えば島津初代の忠久は、のちに島津氏は頼朝の落胤と主張したが、歴史学的には、安達盛長の妻で比企尼の長女(比企能員の従姉妹)が安達盛長と結婚する前の夫、惟宗氏(秦氏系の貴族)との間の子と解されており、安達盛長と仲良しだった頼朝に可愛がれ、薩摩国の島津荘を与えられたことに始まる
ちなみに忠久は一度も薩摩には下向せず島津氏が薩摩に下向したのは四代目以降という
義時がタヒぬところまで?
承久の乱
チ○コきられるだろ
吾妻鏡にある
なんなら、応仁の乱も可能かもしれない。
西郷ドンなんて少人数で狭い世界でやってたからな。
応仁の乱も三谷向けでしょ
責任者不在、英雄不在のグダグダ
承久の乱みたいな決定的なシーンがないから盛り上げが難しい
鎌倉殿は、陰惨な内ゲバだが合戦や主要人物の○害などがあるが、応仁の乱は主だった武将の戦タヒもないから本当にグダグダ
ハリウッドザコシショウだった件

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