太平洋戦争の代名詞となった零戦とはどういうものだったの?
あまたある兵器の一つでありながら、戦後には文学、ジャーナリズム、映像作品と、様々なメディアにより取り扱われ、日本文化の一部になった。
零戦とは何かという問いについて考えることは、日本近代史、なかんずく戦中戦後の時代について考える上で重要な意味を持つだろう。
人も、汽車も、ゼロ戦も追いつかれ・・・
https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=826XI0tMOBk#t=417
特攻精神が日本を勝利に導いたか?否だ。
零戦とは日本的価値観を具現化したものであり、その敗北は日本文化の弱点をさらけ出したゆえのものだった。
もちろん日本文化を全否定するつもりはない。その弱みを知ることで、無批判な肯定の害悪を遠ざけられるのだ。
零戦を研究することは、日本文化の美質と弊害を知るための努力である。
欧米に追従する事なかれ。
を、示した日本の誇りだろう。
そして散っていった。川面に佇む花びらのの様に。
そして、今の私たちの不甲斐なさを照らすように。
そういう修辞学的な言説が日本を敗戦に追い込んだのだ。
「タヒ中に活を求める」という慣用句が無謀な作戦の心理的根拠として幾度となく使用されたのと同じだ。
「美しく散る」美学で戦争に勝てるほど現実は小説的ではない。
英雄と謳われた楠木正成も、冷徹な視点から評すれば敗軍の将だ。
無論、はかないものを愛でる精神の機微は文化的美質の一つであり、日本的価値観の優れた点でもある。
しかし、そのレトリックを戦争という力の世界に持ち込むことは許されざる誤りだった。
審美眼を遍用すること、つまり物事を美醜で判断する主観の弊害を認識しなければならない。
文化的な自縄自縛は、民族を不幸にする。
海軍の要望で、防御を軽視し、航続距離と上昇格闘性能のみを追求した機体
>>9
栄シリーズは他に類を見ない非常に高性能なエンジンだし、完全国産だよ。
エンジン本体ではない補器として、在庫が余っていたアメリカの発電装置(オルタネーター)を装着したが
昭和17年投入の32型、22型、
昭和18年から5700機以上生産した52型、62型には国産のオルタネーターが装着されている。
栄の高性能な部分は、燃費の良さと高高度性能。
少ないガソリンで長距離飛行すると、単純に軽量化できるほか
燃料タンクを小型化でき、胴体が太くならず空気抵抗減に有利。
空気抵抗が低いと運動しても速力が低下しにくい。
機種、ガソリン容積(機内のみ)、航続距離
・P-51D戦闘機、942リットル、1530km
車の軽やトランジスタラジオ、ウォークマン、そう言うのに生かされてるじゃないのかな。
ライセンス生産したのが中島飛行機、現在の富士重工
社内では魂は連綿と引き継がれていることだろう
特に富士の自動車関連の技術は海外で評価が高い
>>12
ゼロ戦を設計開発した、名古屋航空機(三菱のグループ)大江工場は
なんと一時期、三菱自動車に占拠されていたことがある…
まあ今はまた航空宇宙システム関連の工場になっているけど。
中島飛行機は解体後、大きく2系統に別れ
片方が富士重工業(戦後初ジェット機の自衛隊T-1練習機や、プロペラ練習機のT-5、T-7を開発・製造)。
もう片方が立川飛行機と合併したプリンス自動車。
プリンス自動車は日産自動車と合併し、日産プリンスとなり、
日産は経営不振の後、ルノーに株式の約半数を取得されルノーの連結子会社となって今に至る。
なお立川飛行機に在籍し、高高度戦闘機キ94の主任設計者となった長谷川龍雄さんは
戦後、トヨタに移り大ヒットした大衆車カローラを開発している。
それらに零戦の技術が活かされているというよりも、零戦と同じ思想の上にある工業製品だと考えた方が適当だろう。
小型化、軽量化。それは資源なき国が必然的に帰着した節約の思想を明瞭に表す方針である。
最も顕著なのは自動車であり、徹底した軽量化に支えられた性能追求や、燃費の効率化に対する執心は、零戦に通底する日本的思想と言える。
さらに言えば、日本の軽自動車が交通事故には脆弱であるという点は、零戦の弱みをそのまま受け継いでいるかのようである。
アメリカの艦載機は、被弾に強く、また着艦に失敗しても搭乗員に致命的なダメージを与えないよう、強靭な構造となっていた。
これに対し、零戦は被弾にも着艦失敗の衝撃にも脆弱だった。元来、構造上の強度は実用化のための最小限度に近いものだったためだ。
ここにあるのは、人はミスを犯すものだとして機械にそれを補わせるアメリカ的発想と、個人的努力によってミスを防止することを優先し、
システムや機材の工夫によって個人のミスをカバーしようと考えることは一種の甘えであるとする日本的発想との差異である。
日本的発想では、軽自動車の脆さは問題ではなく、事故に遭わないようドライバーが安全運転に努めれば良いと考えられている。
これは、いかに零戦が構造的に弱くとも、搭乗員の技量によって被弾を避ければよい、あるいは着艦時のミスを避ければよいとする思想と同一の根源を持っている。
これだけではさしたる問題ではない。単なる考え方の違いであり、優劣の比較を検討すべき事象とは言い難い。
だが、物理的・制度的欠陥を人的努力で補うべしとする思想は、工業製品のみならず、日本社会全体に行き渡り、少なからぬ弊害をもたらしている。
それは人材を酷使する企業の姿勢となり、それを容認する社会的風潮となっているのである。
>>13
それは間違いだ。自動車と飛行機は違う。
零戦は
・制限7G×安全率1.8=終局荷重12.6Gに耐えるよう設計されている。
また、繰り返し荷重試験により、金属疲労を算出し、
空中で繰り返しGを掛けたとき金属疲労による強度低下での墜落を防いでいた。
己の重さを橋のように支え続けている飛行機は重いから頑丈という理屈が通用しない。
構造、外皮などが零戦より1.3トンも重い、F8F戦闘機も
・制限6.3G×安全率1.8=終局荷重11.34G
と制限Gは零戦よりやや低い値であるうえ
1945年12月、1946年9月26日など配備一年以内に金属疲労による墜落事故を起こしている。
アメリカ軍の曲芸飛行チーム、ブルーエンジェルズで初のタヒ亡事故を記録したのも
F8F戦闘機であった。
>>16のつづき
また、操縦上の安全面においても零戦はパイロットの負担を減らした初の航空機だった。
先に書いたように飛行機には制限荷重があり、オーバーGが掛かると機体が破壊される。
安全率1.8倍が保証されているが、4Gを越えると血流が頭に流れにくくなりブラックアウトを誘発するため
維持旋回3G
急降下→引き起こし、7Gくらいが限界と言えた。
高速飛行中の飛行機には、高い風圧が掛かっており、昇降舵の効きが過剰になっているため
操縦桿を大きく引くと簡単にオーバーGに突入してしまった。
イギリスのスピットファイアなどは、操縦桿の根元に錘をつけて、
高速時に重く、引けない操縦桿にするなどオーバーG対策に苦心している。
そこで零戦は「操舵力が自動調整」されれば良いとの考えが盛り込まれた。
ワイヤーの剛性を落とし、弾性変形(金属が復元する範囲内での伸び縮み)させることで
低速・低風圧時には大きく
高速・高風圧時には浅く
舵面の動き方が適切な角度へ自動調整されるようになった。
これにより高速で操縦桿を大きく引いてもオーバーGに陥ることは無くなっている。
現在の航空機はフライ・バイ・ワイヤーによりコンピューターが適切な舵面へと自動調整しているが
発想において零戦はその先鞭と言える。
海面着水を想定した
【浮遊装置】(翼内の一部が水密化)
燃料タンクへの引火を想定した
【胴体消火装置】(炭酸ガス噴射、手動)
翼タンク増設に対応した
【自動消火装置】 (炭酸ガス噴射、自動、0.3秒以内97%の消火率)
バブルキャノピーに対応した
【転覆用支柱】
(5番隔壁と一体、座席が胴体からはみ出したバブル式では転覆時、搭乗者が潰されてしまう)
座席にはめ込む
【パラシュート】(落下傘の変更により1942年一杯まで座席下が凹み、1943年中頃から背もたれが凹む)
というものもあるな
あとゼロ戦は言うほど格闘性能が重視されなかったらしいよ。
格闘戦では、旧式の96艦戦に負けている。
それを承知で、20mm機関銃の武装や、最大速度、長距離飛行できる性能を評価されて
局地戦闘機・零式1号艦戦(零戦11型)として採用された。
この時点ではまだ着艦試験すら済んでいない。
格闘性能の低下に悩まず、むしろ陸上機であっても
早急に戦力化したいという意志があったと見れる。
一方、陸軍・一式戦闘機(隼)は、格闘戦で97式戦闘機に敗北し、
それに悩んで採用を遅延している。
隼は武装が12.7mm機関砲・2つのみ(構造上追加も不可能)であり、速力もなぜかゼロ戦に劣っていたため
セールスポイントが弱かったのかもしれない
旋回性能を向上させる空戦フラップを組み込んだりしたが、97戦に勝つことはできなかった。
これの判断が太平洋戦争の開始にも響いており
ゼロ戦、生産500機
隼 、生産53機
と初期戦力において大差がついている。
隼はゼロ戦・1万機に次ぐ、生産数第二位の5700機を生産しており
必要な機種であったのは間違いない。
隼ともども旋回性能はあまり良くなく
厳密には操縦性が良かったらしい
要求を満たせなかった急降下スピードと、要求が増加された火力を中心に
改造が進んで旋回性能は見捨てられている
それでも欧米の機体よりは遥かに高い旋回性能を発揮したが
パイロットかわいそス
>>24
5000機以上生産された52型・62型には自動消火装置があったよ。
防弾ゴムも8mm厚・外貼り式では、流れ弾一発に耐えるのがせいぜいだけど
消火装置は発火後に97%の確率で火を消せたらしい。
グラマンF4Fも、太平洋戦争開始時は防弾装備が一切なかった
その後「内袋ゴム」を搭載したのが効果を挙げた(のかは判らないが外貼りより効果高い)
内袋ゴムは、流れ弾6発以上耐える。
ただし、12.7mm弾限定で、弾が爆発する形式である20mm弾には無力だけど。
F4Fはガダルカナルの頃から防弾式に変わっていて
後継機のF6Fは初期から防弾を持つ
トップエースって意識を持っていたパイロットは少ないと思うよ。
ただ、自分が守りたい事のために、自己は厭わない。
>>25
後世の結果論で語ったとしても、何の意味はない。
当時の日本では、最善を尽くしたと私は思っている。
結果、下らない2chで下らない管を巻いているわけで。
岩本徹三さんなど空戦に絶大な自信をもっていたパイロットは多くいたようだよ。
学徒から採用された航空兵へも、同情する人もいれば
所詮はスペアーの搭乗者と評した人もいる
もっとも驕りというより、学徒パイロットに制空戦闘を行う力はないから
戦う力のあるものが戦うべきといった合理性なんだろうけど
現実だから映画のように綺麗ごとではすまないね
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1396353579/
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