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【源平合戦】奥州藤原氏って源義経をかくまっていたけど天下を狙ってたの???

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1: 2019/05/01(水) 15:48:50.73
源平合戦ってあるけど大体源氏と平氏の戦いみたいになるけど

源氏 平氏 奥州藤原氏 の三つ巴だったと思うんだよね。

ちょっと三国志っぽいと思うんだけど。平氏と藤原氏が組んだりする可能性ってなかったのかな?

9: 2019/05/02(木) 08:48:02.94
>>1
天下は狙ってないだろうね
将軍として奥州の覇権をというのが基本で
将軍としての権威は朝廷が重要でもあり
2: 2019/05/01(水) 15:51:05.27
立てれた。

義経を匿ってたりしたから源氏に擦り寄る事は考えてたんだろうけど。
平家に近づこうとは思わなかったのかね。

3: 2019/05/01(水) 18:45:42.89
三つ巴だったのは

平氏(西日本)
頼朝(関東東海)
義仲(北信越)

4: 2019/05/01(水) 18:57:28.39
当時、九州は平氏の勢力だったの?
16: 2019/05/03(金) 00:31:38.65
>>4
壇ノ浦の頃には源氏優勢になってる
5: 2019/05/01(水) 19:21:15.98
関東vs東北

神奈川の相模武士・和田義盛「東北一の勇将と呼ばれた国衡を騎射で倒したけどアイツ弱かったな(笑)」

埼玉の武蔵武士・畠山重忠「いやアイツを組み伏せて首を取ったのは俺の部下だから(笑)」

7: 2019/05/01(水) 21:54:02.57
鎌倉軍 28万4千

奥州藤原軍 2万

8: 2019/05/02(木) 07:30:27.52
それはかなりの戦力差だな。

ていうか奥州って2万しか動員できなかったのか。たいした勢力ではなかったのかな。
金色堂作ったりお金もってそうなのに

10: 2019/05/02(木) 08:50:04.21
てか天下って朝廷ありきで考えてもっていうか
日本の武士の時代はそうだな
ちょっと勘違いした
ただ天下は狙ってなかったとは思う
11: 2019/05/02(木) 09:30:36.75
だとしたら平家を倒そうなんてしないほうが良かったんじゃないかな?

平家が生きてたら奥州王としてずっといられた気もする。

13: 2019/05/02(木) 13:43:44.16
いっそ北海道方面を開拓して王国作っちゃえば良かったのにね。
17: 2019/05/03(金) 00:40:09.27
>>13
ちょうど鎌倉に入ったあたりから全国的に寒冷化するので厳しいね
14: 2019/05/02(木) 21:34:24.62
そもそも義経差し出したのに攻め込まれたのはなんでなの?
15: 2019/05/02(木) 21:53:54.68
>>14
また将来、鎌倉幕府に逆らう謀反人を奥州藤原がかくまうかもしれんな
予防のために潰しておくか

by 頼朝

29: 2019/05/08(水) 08:26:24.54
奥州藤原氏の目的は東北地方の自治でそれ以上でもそれ以下でもない
31: 2019/05/08(水) 20:12:42.89
>>29
だったら源氏が天下取った時点で義経を即座に差し出すべきだろう。
32: 2019/05/08(水) 21:38:59.11
>>31
今から考えれば本当はそうすべきだったと思う

しかし秀衡は義経をかわいがって育てた第二の父親だ
窮鳥懐に(略ということわざもあるが、義経を斬って鎌倉へ首を送るのが忍びなかったのだろう

また頼朝がもし奥州へ攻めてきたら、義経を大将にして迎え撃つというカードを
残しておくことで、頼朝の奥州征伐を思いとどまらせたいという気持ちもあったり
(もともと義経を秀衡がかくまった時は平家の天下だが、万が一平家が奥州征伐を起こしたら、義経を旗頭にして源氏の蜂起を狙っていたのではとも考えられる)

35: 2019/05/10(金) 20:30:36.12
藤原秀衡って平清盛や源頼朝と比べても遜色ないぐらいの政治家だよね?
40: 2019/05/12(日) 21:49:38.08
蝦夷がもともと勢力を振るっていた東北地方は例外として

武士が台頭した平安時代以降の日本列島の地方では、
都から脱落した貴種(源氏平氏など)を旗頭として地元の武士たちが結集して、
巨大な勢力を形成するという特徴があった
すなわち貴種に頼らず、地元の武士だけで巨大勢力は築きにくかった

ただ戦国時代になると、地元の武士だけで、貴種に頼らずに巨大勢力を築いていくようになった

42: 2019/05/13(月) 15:36:05.17
鎌倉方が最も恐れていたのは軍事の特に騎馬戦の天才である義経が
奥州騎馬軍団を率いて敵対することだった。
だから恫喝はしても実際には攻め込まなかった。そう義経が健在な
間は…。
状況判断が出来なかった藤原氏は結局義経を差し出してしまい後は
皆さん御存知の通り速攻で滅ばされた。
43: 2019/05/13(月) 19:12:07.95
義経にしても『平治物語』(下巻)によれば、騎射を行うのは鞍馬を出てからである。
つまり義経は下総を根拠とする坂東武者である陵助重頼を語らってその手引きで鞍馬を出る。
その重頼を誘う義経の言葉の中に「物射て遊ばん」というのがあるが、義経は鞍馬を出て近江の鏡宿で自分で元服した後、
重頼に弓箭と馬を用意させ、東国への道すがら、重頼に「馳挽、物射」(つまりは騎射、歩射)を習いながら下ったという。
その後、義経は下総で一年ほど過ごすが、そこで狩猟をしていたことが記されている。
いずれにしろ義経が騎射術を習得したのは、鞍馬を出てからと考えるのが妥当であろう。
とすれば『平治物語』にみえるように、奥州に向かう途中(諸国流浪中)や、また、名馬の産地である奥州に行ってからであろう。
義経の身体能力をもってすれば、騎射術の修得も早かったのではなかろうか。
それにしても、戦術的能力の向上には実戦経験が重要である。
自力救済(公権力に頼らず当事者相互で紛争を解決すること)の私戦を繰り返している東国武者とは違い、
義仲追討戦以前の義経に実戦経験があったかどうか疑問である。
あったとしても、鞍馬にいた時の辻冠者原との戦闘ぐらいであろうし、奥州では戦闘はなかったと考えられる。
そうした実戦経験という面では、義経が鞍馬から直接奥州へ赴かずに、諸国を流浪し、しかもその間、恵まれた生活はしておらず、
山賊や野盗まがいのことをしていたと考える方が、戦士能力の育成をという面では、筆者には説得力がある。
しかしその一方で、義経の戦士能力は、戦術的能力よりも戦略的能力にあることを第三章で指摘した。
その点では、戦術的能力が劣っているのは、実戦経験が少なかったからであるとも考えられる。
結局は類推の積み重ねで何とも言えないのだが、鞍馬を出てから義仲追討戦に向かうまでの義経の実戦経験の有無については気になるところである。

近藤好和『源義経』ミネルヴァ書房(2005年)

44: 2019/05/13(月) 23:02:25.45
奥州藤原氏は広大な土地を支配していたが、兵士の動員力は2~3万程度に過ぎなかった
当時の東北地方は米の生産量は低く、人口が少なかったためである
辺境地帯の有力者ではあるが、中央貴族の平家や関東の穀倉地帯の覇者である源頼朝とは、
比較にならなかったと思う
また、軍事貴族の地位と勢力を持ち、公卿に上った平家や源頼朝とは格が違った
45: 2019/05/14(火) 07:42:05.39
平家みたいに貿易とかしてなかったの?
46: 2019/05/14(火) 11:35:49.20
>>45
やってるぞ
日本海交易に噛んでて渤海とも交易してた
49: 2019/05/15(水) 19:56:49.95
そういえば奥州藤原は金が沢山あったわけでしょ。金のちからでなんとかならんかったのかな。
50: 2019/05/15(水) 20:50:00.90
公家が天下を掌握していた頃は、奥州の金を献上して、うまく付き合いができていた

頼朝にその手は通用しなかった

平清盛の場合はもともとの勢力基盤の西国とか、貿易相手の海外には関心が高くても、
関東より先に関心が低かったからね

52: 2019/05/18(土) 09:31:10.43
奥州藤原氏が東北に君臨できたのは、朝廷(院・摂関家)、平家が京都にいて、遠方で
あったから、中央にある程度従順な辺境の有力者として振舞えたからだろう
中央貴族とも友好関係を築いていた
関東という至近距離に強大な軍事力を持った武家政権ができたことが、奥州藤原氏に
とって命取りになった
53: 2019/05/18(土) 20:28:22.99
あれ?奥州藤原氏が滅びた後って誰が東北を支配したの?
鎌倉幕府から誰か派遣されたわけでしょ?
55: 2019/05/18(土) 22:30:25.94
奥州征伐後に頼朝が奥州を関東御家人に分け与えた

蘆名氏は三浦氏の分家
相馬氏は千葉氏の分家
伊達氏
葛西氏は豊島氏の分家

70: 2019/05/24(金) 19:43:13.00
この時代バージョンの信長の野望みたいの出たらおもしろそうなのに。
72: 2019/05/26(日) 06:44:03.00
たとえば頼朝は平家を倒すときに裏から藤原氏が攻めて来るかも

って警戒してたりはしたんだろうか?

75: 2019/05/26(日) 11:53:58.97
>>72
朝廷から木曽義仲追討のために頼朝上洛を求められた時には、
留守を奥州藤原に狙われるからという理由で断ったりしている

奥州藤原は義経を匿うなど源氏に好意的だった一方で、
平氏政権から陸奥守に任じられるなど平氏とも付き合いはあった
奥州藤原とすれば、源氏と平氏どっちが勝っても上手に立ち回れるように
外交したんだろうが、頼朝からは潜在的脅威と認識されるようになったと思われる

73: 2019/05/26(日) 08:50:01.88
頼朝は挙兵したころ、いったん奥州へ逃れる案もあったらしいから、奥州藤原氏は
友好的勢力と考えていた可能性が高い
奥州でかくまわれていた義経が頼朝の陣に加わるために出征するときも、藤原秀衡は
義経に従者をつけてくれた
74: 2019/05/26(日) 09:11:48.91
ってことは味方だった藤原氏を滅ぼしたってわけか。
やっぱ天下取る人は非情だね。
76: 2019/05/26(日) 18:41:49.46
よく漫画やドラマだと、義経が逃避行の末に奥州平泉へいきなり押しかけて、
秀衡が情にほだされて義経を保護したというお話になっているけど、

実際は奥州藤原の家来か御用商人(金売り吉次?)が秀衡の密命を受けて、
畿内で行き場を失った義経を奥州平泉へ密かに案内したのではないかと思う

77: 2019/05/26(日) 18:53:54.65
義経は頼朝との戦いを決意して後白河法皇から頼朝追討の院宣を得た際に、
畿内や九州の兵力を当てにしていたようだ
義経が都落ちする時も奥州へは向かわず、正反対の九州へ向かおうとした
これは豊後(大分県)の緒方氏を味方と頼んだからだ

しかし船が難破して九州行きは失敗、京都は鎌倉軍に占領され、
緒方氏も鎌倉に降伏。
義経は畿内の公家や寺社に密かに匿われて転々としていたが、
その間に義経の協力者で和泉に勢力を持っていた源行家、大和に勢力を持っていた源有綱、
義経の家臣で伊勢の山賊出身の伊勢三郎が鎌倉軍に相次いで見つかって討ち取られ、
義経は再起の道筋が見えず途方に暮れていたと思われる

そんな中で頼朝は奥州藤原氏に圧力をかけていた
これまで奥州藤原氏は京都の朝廷に直接献金していたが、それを頼朝が仲介して献金することと
一方的に言い渡してきたからだ
頼朝の事実上の挑発とみた奥州藤原は、「有事」に備えて義経を平泉で密かに匿うことと決めて、
迎えの者を畿内の義経の潜伏先へ派遣したのではないかと思う

なぜならはるばる畿内から奥州平泉まで行って、秀衡から「いきなり来られても、匿えません」と断られたら、
義経としては行き場を失うわけで、そんな行き当たりばったりなハイリスクはしないと思うからだ

79: 2019/05/27(月) 22:08:00.86
もし泰衡が義経と手を組み、頼朝の奥州征伐軍と戦い、
義経が鵯越の逆落としのように頼朝本陣を奇襲して頼朝を討ち取ったら、
どうなったのかな?

義経には幕府を開く構想はないから、京都に住んで朝廷や院に仕えるだろう
それこそ義経が権大納言右近衛大将となる
泰衡は陸奥守鎮守府将軍となって、奥州の自治を名実ともに実現かな

80: 2019/05/27(月) 22:55:44.36
>>79
幕府を開く構想はなくともその頃には頼朝が幕府みたいなものを開いてるわけだから
幕府構想を乗っ取るんじゃないかな。東北に幕府ができてたかも。
83: 2019/05/29(水) 12:32:18.16
>>79
鎌倉軍が相当な兵力を動員できたのに対して、奥州は兵力が少なく、兵力差があまりに
大きいので、たとえ義経を加えたとしても奥州側に勝ち目はない。
おそらく、義経は泰衡とともに、平泉を捨てて奥地へ退却して、鎌倉軍を引き込み、
ゲリラ戦に持ち込むだろう。
津軽あたりまで引き込まれたところで、季節が冬になり、大雪が降れば、鎌倉側の
騎馬隊は立ち往生する。恐らく、そのタイミングで義経は頼朝の本陣を奇襲する
と思う。
87: 2019/05/30(木) 20:32:31.62
義仲残党ってどうなったの?頼朝に吸収されたの?
88: 2019/05/30(木) 22:12:09.20
>>87
頼朝に吸収
北陸系は比企じゃねえかな
94: 2019/06/01(土) 00:14:40.33
後付けだが、奥州藤原氏が生き残るためにやるべきだったことは、
源平合戦が長期化・泥沼化するよう工作すべきだった
都落ちして衰退した平氏に、奥州藤原氏が黄金や軍船、軍馬を用立ててもよかった
96: 2019/06/01(土) 10:31:08.02
>>94
頼朝は激怒するだろう
でも頼朝が東国と京を維持しつつ西国の平家と奥州藤原氏の両面を同時に相手して
戦うのは無理だから奥州藤原の「勝手な」振る舞いにはある程度我慢して交渉するほかない
112: 2019/06/02(日) 09:35:17.62
あれだけ黄金を持って大陸とも交易してるんだから
大陸から数万人をお金で雇って奥州に連れてきて奥州藤原軍の兵力を水増しして、
頼朝と戦えばよかった
113: 2019/06/02(日) 10:05:33.31
金は食えないからねぇ
114: 2019/06/02(日) 12:50:35.16
地域別人口構成比と総人口(千人) 『日本二千年の人口史』鬼頭宏

▽縄文前期
東北18.1% 関東40.8% 北陸4.0% 中部23.9% 東海4.7% 近畿1.6% 中国1.2% 四国0.4% 九州5.3%

▽縄文中期=262.5
東北17.8% 関東36.8% 北陸9.4% 中部27.4% 東海5.0% 近畿1.1% 中国0.5% 四国0.1% 九州2.0%

▽縄文後期=161.0
東北27.2% 関東32.4% 北陸9.8% 中部13.7% 東海4.7% 近畿2.7% 中国1.7% 四国1.7% 九州6.2%

▽弥生時代=601.5
東北5.6% 関東16.6% 北陸3.5% 中部14.1% 東海9.3% 近畿18.2% 中国9.9% 四国5.1% 九州17.7%

▽750年=5589.1
東北4.8% 関東17.4% 北陸8.3% 中部5.4% 東海5.3% 近畿25.1% 中国15.2% 四国6.0% 九州12.5%

▽1150年=6916.9
東北8.8% 関東23.2% 北陸10.2% 中部6.3% 東海4.7% 近畿20.6% 中国10.2% 四国4.6% 九州11.4%

▽1600年=12273.0
東北8.7% 関東16.4% 北陸7.0% 中部5.9% 東海6.4% 近畿31.0% 中国9.1% 四国5.1% 九州10.3%

▽1875年=36527.6
東北10.4% 関東16.0% 北陸9.7% 中部6.1% 東海6.5% 近畿16.2% 中国11.6% 四国7.3% 九州15.2%

115: 2019/06/02(日) 13:10:18.76
>>114
人口論的には、やれんことはないな>奥州藤原氏

平泉は、緩やかながら奥羽をほぼ完全に押さえているが、頼朝は関東の北東側半分を押さえていない。
東海甲信の東半分を加勢しても、圧倒的というほどでもない。
平安時代は、関東といっても北関東の生産性が大きく伸びている時期なので、
鎌倉としては、常陸・下野・下総あたりをデフォで押さえられていないのはかなり苦しい。

118: 2019/06/02(日) 18:45:07.47
>>115
下野は小山・宇都宮・足利・那須
下総は千葉

完全に頼朝の忠実な御家人じゃん
常陸ぐらいだろ関東で鎌倉に不穏なのは

120: 2019/06/02(日) 19:47:09.56
秀衡は自分のタヒ後に長男国衡と次男で跡継ぎの泰衡が争うことを恐れて、
泰衡の母を国衡に嫁がせるというミラクルをやって争いを防ごうとした

その結果国衡と泰衡の争いは起きなかったが
代わりに泰衡は自分の弟4人中3人を斬って粛清してしまった
そして父秀衡の遺言を破って義経も斬ってしまった

とてもではないが頼朝と太刀打ちする器はない

121: 2019/06/03(月) 19:55:33.21
>>120
父・秀衡の遺言を守って義経を奉戴したとして、泰衡には鎌倉と戦える成算はあったのだろうか?
到底ないと思ったから、泰衡は、鎌倉との紛争の火種になる義経を斬ったのだと思う
義経を斬ってしまって戦力低下を招いたことから、泰衡は暗愚な人物だと言われるが、
泰衡には鎌倉との開戦をできる限り延ばす以外に手立てはなかったのではないか?
どうすることが泰衡にとって最善手だったのだろうか?
122: 2019/06/04(火) 10:22:54.17
頼朝が攻めてきたら、義経を大将、国衡を副将にして迎え撃たせる
泰衡は平泉の留守を守ると称して平泉に残り、
密かに奥州の砂金を大船に満載し、中国語がわかる僧侶や商人たちを船に乗せておく
義経大敗 奥州藤原軍壊滅の知らせが聞いたら、
泰衡はすぐに船に乗って中国へ逃げる
123: 2019/06/04(火) 23:13:35.56
大陸へ渡るよりも、蝦夷地へ渡るほうが安全ではないか?
奥州藤原氏は蝦夷地への航路を知っていた可能性がある。
また、家臣団とともに武器を持って行けば、蝦夷地の支配者として存続することもできる。
函館あたりを拠点にすればいいだろう。
177: 2019/08/30(金) 00:17:42.02
天下は狙ってない
最初は後白河救援のため頼朝と協力する気だった
でも清盛がタヒんで宗盛が後白河院政を復活させたからやる気がなくなった
あとは内乱に乗じて会津を城氏から奪って勢力拡大
頼朝に警戒される
183: 2020/01/22(水) 23:46:07.69
平泉の人口は結構なもんだったけど、内輪揉めしてる時点で……だしなあ
219: 2020/02/15(土) 22:28:18.28
後白河頼みだったからな秀衡
亡くなったら院宣なしで頼朝が攻めてきちゃった…
222: 2020/02/16(日) 12:54:00.85
関東頼朝vs奥州義経だと西国はどうなっただろうな
224: 2020/02/16(日) 13:14:40.97
>>222
治承寿永の乱の時系列だとどのみち飢饉で動けない
無理に動いた結果が史実だし
246: 2020/02/26(水) 13:21:40.66
奥州藤原氏は土着して地域を支配する土豪であり、中央から貴族の身分にある者が
陸奥守として赴任していた。頼朝の脅威に晒されていた平宗盛が懐柔目的で晩年の藤原秀衡を
陸奥守に着けた。土着の豪族の秀衡が陸奥守に着くのはかなり身分違いで異例のことだったらしい。
秀衡は代々の貴族の身分を持ち鎌倉殿の地位にある頼朝に対抗するには、貴族の身分のある義経を
立てるしかないと考えていたに違いない。
257: 2020/02/28(金) 18:00:14.45
頼朝が平家を滅ぼすのを、ただ奥州藤原が指をくわえてみていたのが何とも悔やまれる
平家が滅べば、次の頼朝の矛先は自分たち奥州藤原なのに
さながら秦の始皇帝が各国を滅ぼしていく中で、
何も動かず、最後になって秦に滅ぼされた斉をみているようだ

一ノ谷の戦いで平家は屋島へ逃れたが、
ここで奥州藤原氏が外交方針を転換して屋島の平家を軍事的に支援する動きをすればよかった

261: 2020/02/29(土) 11:31:37.20
>>257
平宗盛は藤原秀衡を陸奥守に任官させて厚遇し、平家陣営に入れようとしていた。
秀衡が頼朝の背後を攻撃すれば、平家と奥州藤原氏に挟撃された頼朝は、二正面作戦になり、
かなり苦しんだはずだ。
秀衡は早期の段階で平家側に立ち、頼朝を殲滅する方針を立てるべきだった。
陸奥守任官で、在庁官人から受領にまで家格を上昇させ、従来より繁栄することができた。
273: 2020/07/19(日) 20:23:53.33
>>261
あと奥州藤原氏は平家与力の常陸佐竹氏とも縁があったので富士川の合戦に至る前に連携して鎌倉を牽制してたらなと。
頼朝に所領を叩き出されるまで徹底抗戦した志太義広も巻き込めればと思う。(佐竹と志太、どっちが常陸の代官になるかはおいといて)
279: 2020/09/06(日) 06:34:16.10
石橋山で頼朝が戦タヒしてたらどうなっていただろうね?
289: 2020/10/31(土) 12:20:02.02
>>279
源頼朝が石橋山合戦で亡くなっていたら、関東武士団は求心力を失い、鎌倉政権の成立が
遅れた可能性はある(他の源氏貴種が擁立される可能性はあるが)。
そうなると、都の平氏政権もしばらく続くことになり、平氏・鎌倉・奥州で勢力が均衡する。
したがって、奥州藤原氏も泰衡の代まで安泰だった可能性がある。
304: 2022/03/10(木) 15:11:46.26
秀衡は陸奥守鎮守府将軍にも就いてるし、狙えるっちゃあ狙える地位と実力にはある。あとは貴種性だけだな。
305: 2022/03/12(土) 09:16:08.55
藤原秀衡は平宗盛が味方に引き込むために陸奥守にしてもらったけど、もともとの家格は
在庁官人レベルで、受領になれるような身分ではなかった
都から赴任してきた受領を奉戴して在地領主としての地位を築いていた
だから、源頼朝に攻められるのに備えて、源義経を奉戴して一族で団結するように遺言した
広大な地域を持っているけど、単独で戦うには弱いんだよね

引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556693330/

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