豊臣秀吉の両兵衛で名高い竹中半兵衛と黒田官兵衛はどちらが優れていたのか?
両兵衛とまで言われているが、実際はどちらの方が優れて居たのか?
激論しましょう。
激論はしないで仲良くまったりと話しましょうよ。
黒田官兵衛はそこそこ事績があるけど、
竹中半兵衛は最初の頃にちょっと活躍しただけだね。
あとは備前八幡山城に対する調略が主な功績かな。
ただ、竹中の事績は、信憑性がない武功夜話に書いてあるのがあるんだよね。
大感謝されてはいる。当たり前か
能力というか実績としては、
普通に黒田>>>(超えられない壁)>>>竹中だと思うけどね
クロカンは秀吉にとって中国攻略の要だったわけだから、
ちょっと竹中とは比較にならんでしょ
まぁ仮に半兵衛がいたら官兵衛は多少やりにくかったとは思うよ
兜は福島くんに、刀は山内一豊に遺し、後継者に神子田を指名する竹中
このあたりが、多分生前織田家で仲良かった面子になるんだろうけど
わかるようなわからんような人選ではある
ぶっちゃけ「~兵衛」が、秀吉のとこにたまたま二人いたから、後世、
黒田とユニット「二兵衛」を結成することになっただけという気もする
と言うか官兵衛より優れた将を探すのが難しいんじゃね?
官兵衛に足りないのは腕っぷしと天下取りの野心ぐらいでしょ。
それはそれで如水を過大評価してる気がする。
まあ、確かに息子の長政含めて子飼い世代(1560~1580年代生まれ)で
総合的に如水と渡りあえる器量を持つ武将はいないけどね。
晩年は押さえつけられていた野心が顔を出して火事場泥棒やらかしたじゃないですかw
敗因は息子の教育を誤ったことか
半兵衛は美濃攻略以降、大した働きはしてないぞ
この辺過大評価しすぎ
竹中氏は武家の名門で源氏の一族としての家柄と名声で一目置かれた立場と見るべき
土岐氏と同等の名門なんだよね
官兵衛は秀吉の家臣より織田家の家臣であって秀吉の部下じゃない
協力関係と見たほうが無難
秀吉の軍師は弟の秀長と蜂須賀小六だよ
半兵衛が生きてたとしても如水のように警戒されなかっただろーし
秀長のようなポストに収まってたかもしれないな
調整役と遠征の指揮官。
秀長は戦が極端に下手だったから、半兵衛のほうが遥かにはまり役だったかも
>>25
野戦の達人()
部下に恵まれすぎてるに過ぎないから
島津攻めのときなんかあまりにも慎重すぎて部下の尾藤が秀吉に不満爆発させちゃったくらい
(それが原因で尾藤は失脚)
そのあと戦線が播磨に移ると目立たなくなる、って感じか
尾藤知宣とか神子田正治との関係はどんなんだったんだろ
俺はそれすらわからない現状なので比較出来ませぬ
稲葉山城に関しては主犯は安藤守就とも言われてるしね
しかも竹中半兵衛が10人規模で稲葉山城を乗っ取ってたとしても
軍略でも無ければ何かしらの計略でも無い
これだけで天才的な軍師か?と言われるとかなり疑問を覚える
内輪の謀反だったら半兵衛で無くても誰でも不意をつけるからね
やはり半兵衛は拡大解釈されてるで間違いないかと
とりあえず、織田に下ってからの半兵衛の活躍は創作です
官兵衛は秀吉の部下ではなく、協力者でもあり、秀吉のライバルでもある
丹羽とかと同じ立場
じゃあ斎藤家にいた頃に信長の軍勢何回も撃退したってのは事実なん?
そもそも美濃の国力だと斉藤家は普通に強いです
安藤と半兵衛が織田家をボコったことにしないと
信長が雑魚になるから半兵衛を天才にしただけ
斎藤義龍から家督を継いだ子の斎藤龍興は当時14歳、
信長がこんな子供にボコらてたとなれば恥もいいところ
結局、西美濃三人衆が織田家の内応に乗らなかったら美濃攻略はもっと泥沼化してた
>>40
>官兵衛は秀吉の部下ではなく、協力者でもあり、秀吉のライバルでもある
>丹羽とかと同じ立場
それはどう考えても完全に暴論というか誤り
信長からの小寺孝高宛ての感状や命令は、初期は荒木村重と秀吉、
中期以降は秀吉を仲介して出される場合がほとんどで、
明らかに秀吉の中国方面軍の配下に組み込まれているわけで
織田政権期から秀吉と孝高の間には完全に上下関係が成立している
秀吉の播磨平定後、蜂須賀・前野・浅野らとともに孝高が
初めて播磨内で2万石程度の大名に封じられた際にも、
秀吉からの知行宛てがいであって、信長自身からではない
というか織田譜代の丹羽や重臣の秀吉とは、孝高は立場が違いすぎて、
まったく比較にならない
>>46
1876年に信長の元に黒田長政を人質にだしているわけよ
1580年、信長から播磨国の1万石を与えられてここで正式に織田家臣なって
毛利攻めのために秀吉の与力に任命されるわけね。これは秀吉の協力者として
それ以前は織田家の協力者だよ
元々は小寺と宇喜多浦上のとの争いがメインで大活躍する、この後の鳥取城攻めと高松城攻め
での官兵衛の働きは秀吉の部下じゃなく、信長が官兵衛の才能を利用したと見るべきね
この2年の戦いでで信長時代の官兵衛は終る
その後の官兵衛は参謀より、協力者的な立場。毛利攻めを担った織田家の大名だしね
弱小領主クラス。
正直、あまり役に立ってなかったんじゃなかろうか。
秀吉の部下達で万石級がゴロゴロ出て来るのは半兵衛がタヒんでからだったから
一概に比較はできないんじゃないか。
関白就任まで生きてたら、流石に半兵衛が5000石のままとは考えにくいし。
重門に関しては・・・まぁその・・・
>>108
竹中くんの知行は、同じ時期の寄騎の蜂須賀やセンゴクに比べても、
極端に少ない。
この時期は、播磨領有前で、秀吉が家臣に領地を割いて与えていない頃なので、
つまりは竹中に対する信長の評価が、他の織田の寄騎より低かったとしか考えられない。
>>107
いやいや、九州取次はやってませんw黒田は中国取次な。
でも、黒田は奉行系のエリート官僚ではまったくない。
むしろ息子だけでなくお父さんの方も、バリバリの武断派ですわ。
取次も時期によって職能が変わるんだけど、後期の浅野長政や
石田三成などの奉行系の取次は、内政に介入し、検地まで実施する
まさに中央官僚による取次職。
でも、黒田や蜂須賀の時代の初期の取次は、中国攻略以来、
毛利との外交担当者だったの延長で、基本的に内政にまで指南しない、
いわばゆるやかな仲介役にすぎなかった。
だから、のちに秀吉は、黒田・蜂須賀を罷免して、かわりに中央による
統制を強めるために、石田・増田を中国・四国取次に任命することになる。
実は、主に北九州全般をあつかう九州取次は小西行長なのな。
北九州の取次は、海外との交易の管轄という非常に重大な役割を兼ねて
いるので、小西くんが任命された。これは黒田くんには能力的に無理なのよ。
ちなみに、南九州の島津の取次は石田三成。
>>109
なんで信長の半兵衛に対する評価は低かったんだろう。
伝わる通りの人なら優秀な人間だったはず。
信長とウマが合わんかったのか?
肥後国人一揆後に小西行長が入ってくる前の
九州の取次は誰?
行長以前は取次はいない。
秀吉は、毛利輝元を領国ごと中国から九州に加増・転封させて、
九州全体の取次を命じる計画だったが、輝元が九州転封を固辞したので、
この案は流れた。
つーか、江戸時代に家名残した武将の武功の大半はそうなんじゃね?
一般に猛将や名将として知られてる人物も果たしてどこまでが本当だったか。
同時代の書状や史料に残ってるものは確実なんだろうけどな。
君臨してるところをみると、語り継ぐものがいる事の大きさを感じるね
このスレの主役である黒田官兵衛孝高を忘れてもらっちゃ困る。
半兵衛は?
重治は功績が不明瞭な部分が多いけど、
孝高は鳥取城、高松城攻略の話を抜きにしても
その戦績、功績はケチのつけようが無いだろ。
荒木村重に捕らえられた事以外は失態らしい失態も無いし。
孝高大好きなんだけど、文禄の役で三成待たせて囲碁打って、
そのうえ無断帰国して謹慎処分で切腹寸前、
太閤に詫び入れるために出家する羽目になったのは、
まぁ普通にかなりの失態だと思うわ
これで、豊臣政権において完全に失脚したわけで
軍監で派遣されてるのに、無断帰国とかフリーダムすぎるだろwww
秀吉が城持ち大名になった後は少ないけど禄を貰っていたのでは?
蜂須賀なんかもそうじゃなかったか?小谷→長浜のあたりで家臣団に組み入れ
られた。半兵衛の方はタヒ後に弟が家督を次いで秀吉の配下になってた筈。
キチガイ呼ばわりされた(古郷物語)
>>83、88
「古郷物語」は基本的に如水礼賛の書物であって、
いかに如水が知恵が回るか、家臣に配慮したかを家臣の側から
愛をこめて描いたもので、
だからこそこの人は「仕えやすきこと、この上なし」と
書かれたわけですよ
よく戦国板で引用される、古郷物語の「きちがいのよう」というのは、
悪口ではまったくなくて、逆に「さすが如水様、考えることが常人ではない」
という肯定的なニュアンスであって、別に家臣が迷惑してるわけでも、
如水の行動が本当におかしいわけでもないのは、通して読めば一目瞭然なんだけど
全体の文脈とか背景を知らずに、個別の逸話や文章の断片を
スレで読むだけだから、勝手なイメージがひとり歩きするんだお
息子に「そのとき片腕はどうしていたのだ」とか言ったり
秀吉存命時から警戒されてたり知謀はあるけど悪どいイメージがあるからだと思う
半兵衛が張良で官兵衛が陳平みたいな感じで(張良も撤退する楚軍を襲えとか言っちゃうけど)
中国大返しの時は何て言ったか分からないからまあいいとして、
長政を叱ったエピソードの所為で誤解されてるよなあ。
忠義の人、とは少し違うけど当時としては
珍しく道義を弁えた人格的にも優れた将だったと思うんだけど。
それで家臣を困らせる事も度々だったとか。
早く息子の代にならないかなと思わせたりしたそうだよ
関ヶ原がもし長引いてたら九州(薩摩除く)四国くらいは取れたかもしれんね
九州を取る、の意味が分からんな。
当時盟友とも言うべき清正が熊本を統治してたのだが、
その清正を裏切ってまで官兵衛が九州を支配するとでも?
それともまさか清正と手を組んで九州統治?
忠義の士で野心無き清正と?
イメージが広まってると思う。だから>>89を責めないでやっておくれ。
俺も長政を叱りつけた話は長いこと信じてたから分からんでもないが、
戦国板に出入りする奴があんな与太話を信じるようじゃ困るな。
つか100レスにも満たないこのスレちゃんと読めば
官兵衛に天下取りの野心など無いことは分かりそうなもんだが。
であれば家康の指揮権を否定するよほどの理由がない限り、家康の意図に反した行動は取れない。
仮にそういう行動を取れば如水自信が東軍の討伐の対象になる。
その程度のことのわからない如水じゃないわな。
恐れられていたから石高抑えられていたのではなく、石高相当の能力や実績って事はないの?
青山・土器山で織田軍3000を300の兵で撃退
九州征伐に於いて島津軍3万5千を秀長本隊の救援無しで撃退
中国大返しの際に毛利軍と調停、国境を確定
立花宗茂の居城、柳川城無血開城
そのついでに島津義弘を海に沈める
北条親子を説得、小田原城開城
朝鮮軍8000を1500の兵で撃退
毛利・織田の板挟みで信長を選んだ慧眼
名護屋城や中津城築城に携わった築城の名手
他にも官兵衛の功とされるものに鳥取城、高松城攻略等があるし、
小牧・長久手なんかでも活躍してるらしいけど、その辺は不確実なので割愛。
少し誇張気味なのはご愛嬌ってことで。
実績から考えたら、豊臣で何万石ぐらいが適正だったと思う?
適正っていうの難しいと思うけど。
加藤福島が17万石だっけ?
仕えた年数や功績を考えたら少なくともこの二人と
同等かそれ以上貰って然るべきだと思うけどね。
と言うか確か家康から40万石ぐらいを提示されてたような。
>>101
加藤福島は、実績に比べてもらい過ぎだろうな。
まぁ親戚筋だから、当然かもしれんが。
40万石は、妥当かもしれんな。
その石高だと、秀吉の信長時代から下にいた中ではトップだろう。
(秀長は別格として)
40万石というと蒲生と同じ立ち位置かな。
蒲生は、陸奥会津に移封され時に42万石で、のちの検地・加増により92万石だから。
>>99
・鳥取攻めの時は、並行して淡路~四国に派遣されていたので
実際はほとんど関係していない
・小牧長久手の戦いは、そもそも戦場に不在で参加してない
この時は蜂須賀小六と一緒に、備中をめぐる毛利・宇喜多の国境紛争を
調停するため中国にいた。中国大返しの外交的な事後処理ですな
・備中高松水攻めは、一番の難所の堤防工事を担当し、
船を沈めて水攻め完成させたのは黒田くんなので重要な役どころ
黒田孝高の石高自体は豊臣古参の標準なので、そこそこ妥当という気はする
蒲生くんは織田家家臣といえども、そもそも出自が大名なので
黒田や蜂須賀あたりの国人出身の豊臣古参とは、地位が比較にならん
仮にも信長の娘婿だぜ
黒田家は、もともと姫路城主時代は一万石にも満たない播磨の土豪
だったんだから、普通に考えればむしろ大出世ではある
ただ場所は唐入り前提の配置とはいえ、上方から遠いので
古参の蜂須賀・前野や五奉行からは待遇が一段落ちるのは確かだし
九州平定後は政権中枢から外れていったのも事実なので、
孝高の側で不満があっても不思議ではないけどね
になってるからでは?
信長の評価が不当に低いんじゃなく、後世の評判が不当に高いんだよ
息子の重門が自著「豊鑑」で、やたら自分の父・半兵衛をもちあげて
評価を盛りまくる→絵本太閤記や名将言行録あたりに拡散→神話化
という流れな
半兵衛は頭脳は優秀だったけど、体が弱くて、早タヒ・・・
官兵衛は体も強く、苦労したけど、長生き。
体力面では官兵衛が上
>>120
それはない。というのは、豊臣政権が制度的に整うにつれて、
取次の権限は全般的に、秀吉の側近である奉行に集中してゆくのよ。
政権の初期に、黒田が蜂須賀とともに中国取次(正確には、孝高時代には「中国取次」
という職はなく、のちの奉行系の取次とは性格が異なるんだけど、面倒なのでこう書く)
だったのは、秀吉の中国攻略期に毛利との外交を担当した名残だった。
ところが、蜂須賀は、正勝(小六)タヒ後、息子の家政は中国取次の役目から外される。
代わって、浅野長吉(長政)と秀吉の右筆である木下吉隆が奏者として
登用され、孝高とともに毛利との間を取次ぐようになる。
(ちなみに黒田の場合でも、長政は孝高から取次を継承していない)
しかし、次第に毛利との取次も、孝高ではなく、石田三成・増田長盛・大谷吉継らが
秀吉の朱印状に福状発給を行うのが主流になってゆき、文禄二年(孝高が失脚した年)
以降は、完全に奉行が担当するようになる。
要するに天下統一以前は、主に戦にともなう外交交渉の窓口だった取次が
統一の前後から、制度的に奉行が担当する、非常に権限の大きい
内政の専門職に変化してゆく。
その過程で、武断派の黒田や蜂須賀らは、取次職という政権の中枢からは
外されていったということ。
上杉・徳川らの大大名による「取次」と、浅野・石田ら秀吉の側近による
「取次」、黒田や蜂須賀ら旧来型の「取次」が、並存している。
九州征伐時点では、秀吉は景勝・家康に命じたのと同じように、
輝元に九州諸大名の取次をまかせようと考えていたわけ。
北条氏滅亡以降から、制度化が進んで、石田・増田ら奉行クラスが
取次を務める動きが本格化してゆくことになる。
>>122
>九州征伐時点では、秀吉は景勝・家康に命じたのと同じように、
>輝元に九州諸大名の取次をまかせようと考えていたわけ。
これはどんな内容の史料から判断されるの?
史料的に言うと、取次を論じる研究では、主に大日本古文書の家わけ文書に
収録されてる、秀吉が発給した朱印状の分析がもとになっているお。
豊臣政権の取次についての研究は、山本氏をはじめとして、津野氏、田中氏
など多くの研究者による論文・著書があるので、個別の具体的な史料名が
知りたければ、自分で入手して調べてください。
ゆくゆくは輝元に取次を任せたいといった
秀吉側からの朱印状があるの?
毛利領のうち:備中・伯耆の一部+備後・伊予(小早川隆景領)を返還させ、
九州のうち:豊前・筑前・筑後・肥後を代わりに毛利に与える構想を立て、
実際に毛利側に打診している(結局、輝元が断ったので、構想だけで終わった)
このとき、九州転封と、それにともなって「九州取次」を任せたいと輝元に
打診した朱印状がある
確かに構想倒れだ
それで結局秀吉は取次無しでどうするつもりだったんだろう?
竹中の伝説、稲葉山城を数十人で奪い取った
黒田の伝説、関ヶ原の時、軍勢をかき集めほぼ九州を切り取った
この差は大きくないかな?城と国の差があるよ
「ほぼ九州を切り取った」は、いくらなんでも盛りすぎ、盛りすぎ!www
関ヶ原終了まで:豊前・豊後の大部分(全域ではない)
↑ここまでが、黒田くん単独での軍事行動
東軍の勝利確定後:北九州の西軍諸城を攻略
↑ここからは、関ヶ原後の敗戦処理
もっとも、東軍兵力の空白地帯だった北九州にいきなり
大兵力をつくりだして席巻した手腕は、さすがとしか言えないけど
うまい具合も何も、鍋島は東軍に転向したがってたというより、
もともと東軍につく気だったのに、結果的に西軍に加担する羽目になっただけで、
関ヶ原での状況判断は普通に下手くそなんだが
信長や秀吉や家康・・・らその時の主君に頭下げて恩賞もらって
かわりに先祖伝来の地から遠く離れた辺地に行かされた黒田家が、比べて幸せだったのかな、とはおもっちゃうけどね。
もともとの所領はしっかり安堵した竹中家の身の処し方は、なかなかに素敵だと思うよ。
つか、半兵衛は、漢の張良(高祖から、西の海際の斉の地に3万戸やるっていわれて、いえ中原の3千戸がいいです。といって故郷に近い小さな町をひとつもらって引退した)をすごく意識してると思う。
つうか長浜時代の1053石って何だ、何か意味あんのかね、この半端な数字わ。
秀吉が播磨を領国にした時まで生きてればそれなりの知行を宛がわれるかもしれんが
筑紫国くらいかな
自分は戦国武将のなかでは黒田孝高が一番好きなんだけど
でも竹中も黒田も、ぶっちゃけ「秀吉に天下をとらせた功労者」
というより秀吉の寄騎なり家臣になったからこそ
引き立てられもし活躍の場も与えられたわけであって
黒田くんはさらに「天下も狙えた男」(客観的には無理だろ)
秀吉に恐れられた男という、いわば加褒の名誉までもらったわけでさ
このふたりの評価は秀吉の七光な部分がすごく大きいし、ゲームでも小説でも
むしろ秀吉の能力が両兵衛に反映されてる感がある
そういう意味では、まさに後世の評価まで豊臣恩顧の恩恵を蒙ってるわけで
秀吉に感謝しないとだな
「秀吉に天下をとらせた功労者」はどちらかというと小早川隆景という印象
秀吉が日本の蓋にしても余りあるって言ってるくらいだし
黒田家譜でも官兵衛より賢人扱い
言われてみればそうだな
本当に「取らせた」って感じ。秀吉になんかビビっと来るものがあったんだろうかね
意外(?)にも、秀吉は黒田くんより小早川隆景とのつきあいの方が、
年代的には古かったりする
まだ織田と毛利が交戦状態になる以前、秀吉が信長から毛利との申次を
命じられ、外交窓口になってた頃からの知り合いになるから
(当時の毛利の対織田外交のカウンターパートが小早川隆景だった)
のちに、中国大返しで隆景が周囲を抑えて慎重論を主張したのも、
豊臣政権下で隆景が重用されたのも、
このふたりのつきあいの古さは大いに関係しているとは思う
まあ自分は黒田くん贔屓なので、やっぱり播磨攻略~中国攻略期の
孝高の功績を一番に評価するんだけどさ
秀吉は、ほとんど文化的背景や素養を欠いた出自なのに、
歌にせよ、茶道にせよ、能にせよ芸術的な天分は非常にあったわけで
そこは素直に凄いと思うけどね
知識や文化が、人生の指針となっている、生き方を規定している、そういう人のことをいうんだと思うわけ。
そうゆう意味で、竹中黒田の両兵衛の晩年の処し方の見事さ、一貫した潔い態度ってものは、間違いなく知識人のそれで、
だからこの二人は事績以上に現代までも信奉者が多いってことなんだろと。
かたや秀吉の、老醜晒した晩年をみるにつけ、到底、知識人とは呼べない。
所詮農民出身の成り上がり者だと、系図なんぞに頼らずとも、本人の言動が示している。
>>160
うーん?そこまで「文化人・知識人」の意味をひろくとってしまうと、
ほとんど本来の定義が失われてしまうわけで
(大体、知識人という観念自体が、きわめて近代的な概念でしょ?)、
結局のところ、あなたが、その武将の生き方が好きか嫌いか、
というきわめて恣意的な話になってるんだけど
それでも、なお戦国時代の「文化人・知識人」について云々するなら
どうとでもとれる人生哲学のようなものではなく
やはり目に見える文化的業績で評価すべきだと思うけどね
その意味では、桃山文化全般に与えた秀吉の影響力は、疑いなく大きなものがあるし、
もし竹中や黒田に、例えば直江兼続くらい、実際の文化的な業績があるのなら
知識人と呼んでも文句ないですよ、という話
ということはやはりあれか?半兵衛はポッと出てのスマッシュヒット歌手で、
官兵衛は毎年紅白に出るような存在。でも北島三郎の域には達しなかったと。
>>160
けだし明察。
色々怪しいなこいつ
狂犬織田信長に逆らってまで なんてさ。
そのへんの信憑性は、疑う必要はないと思うわ
「孝高が裏切るわけねーと思って、竹中が信長に反論したけど
聞いてもらえなかったので、こっそり長政を匿ってくれました
本当にありがとうございます」
と、当の黒田家譜にも経緯が書いてあるわけで
劉備の三顧の礼まんまの「太閤の三度通い」とか、
ほかの天才軍師系の竹中の逸話は、息子や絵本太閤記や司馬遼が盛りまくりだが
かったという説があるね。
荒木村重に捕まった黒田官兵衛が謀反の疑いをかけられたときに、
半兵衛が松寿丸(長政)を匿ったとのことだが、たぶんこのことによって、
黒田家から半兵衛が名軍師だったという噂が流れて広まったのではないかな?
黒田家がというより、息子の重門自身が豊鏡で、
秀吉を劉備に、父親を諸葛亮に例えて、名軍師説を唱えてる
このあたりが竹中=名軍師説の起源だと思うわ
「おい、孔明が劉備より先にタヒんでもいいのかよ!」
という根本的なツッコミどころがあるが
黒田家譜では名軍師として描かれてるのは如水で
半兵衛さんに関しては二つのエピソードが書かれているくらい。
ひとつは信長に背いて松寿を助けたこと、
もひとつは三木攻めの一戦で、官兵衛が伏兵伏せてたのを打ち合わせもしてない半兵衛が察して
神子田に策を授けたりして側面援助して大勝利し「秀吉両人の謀を大に感じ給ふ」話だね。
この話はそれだけ見ると半兵衛をすごく持ち上げているように見えるけれど
「或時~」ではじまる、如水が優れた作戦で敵を打ち破ったよ!エピソードの中のひとつとして書かれているので
読んだ印象はそんなに目立たないよ。
まあ、当時の基準でもふつうに下剋上だと思うわ
乗っ取り自体には成功したものの、
竹中も舅の安藤も、稲葉山城を維持できるほどの支持を美濃の
国人から得られなくて、結局退去せざるをえなかったというだけの話
別に隙があればそれくらいするだろ、戦国だもの。とは思うけどね
でも火坂の小説だから駄作だぞw過大な期待はするな
黒い竹中、白い黒田の設定が面白いと言えば面白いけど
稲葉山城の件は、信長が長年攻めあぐねてたのを20歳そこそこの若造がたった十数人で落としたってことと、
その後の去就の鮮やかさ、潔さ(内情はどうであれ、結果として
斎藤家にとって変わろうとしたり、信長の誘いに乗ったりはしてないわけだから)が
当時としても特異なエピソードとして人の記憶に残ったんだと思うけどね。
現代の我々が聞いたって、ちょっとありえないような話なわけだし。
信長に逆らってまで松寿丸を助けた話も、ありえなさ、潔さって点で稲葉山城乗っ取りと通じるものがあるよ。
この二つの出来事だけでも、竹中半兵衛って人の非凡さは充分感じられると思うが。
稲葉山城占拠時に、竹中や安藤相手に、美濃半国と引き換えに
稲葉山城よこせなどという交渉自体してないわけでな・・・
当然、信長公記をはじめとする史料にも信長からの勧誘は
一切でてこないんだわ
もちろんドラマや逸話のように、代わりに秀吉を派遣した事実もなく
美濃国内の形勢がクーデター側に不利になったので、
再度龍興に明け渡して、逃げざるを得なかっただけなんだが
信長公記はそもそも稲葉山城クーデター事件を故意に無視してけどね。
(信長公記はそもそも信長に都合悪いことは書かないことが多いってのは有名だよね)
この時期の信長にとって、喉から手が出るほど欲しかった後の岐阜城が
クーデターで半年間城主不在状態で、何もしませんでした。なんてことのほうが 不自然だろうに。
>>195
いや、この話に関しては、後世編まれた史料や逸話にしか記載がないんすよ
甫庵太閤記の逸話が一番有名になってるけど
同時代の一次史料には、信長公記を含めて記載がないんで
史料的な裏付けは客観的にはない、としか言えない
城の乗っ取り自体の記載は、同時代の史料があるんだけど
→コネがない→美濃の国人に仲介を頼む書状は残ってるな。
朝倉と結ぶつもりだったらしいが、結局上手くいかなかった。
織田との間には、交渉したような史料や書状ないと思うが。
なんだか間抜けな話だなあ。
実際の行動は、友情や義ってものを重んじていて、それが尊敬される所以というか
生前もタヒ後も影響が大きい人だよね、竹中さんわ。
半兵衛は松寿丸助けたので後世に名が残った一発屋の印象ですな
浅井攻めでの半兵衛の功績っていうのも
信長公記では弟の久作の手柄として記載されてますしお寿司
天才軍師とか冗談にもほどがあるですよ
わずか千石という半兵衛に対する信長の評価は
同時代の半兵衛に対する見方を考えるうえで
かなり客観的な指標だと思うわけです
ま、大河ドラマで美化されるのはもう火を見るより明らかですが
>>217
おっと、その千石は秀吉の領内からの分だ。
もともとの竹中家の領地は別。あわせて6000石くらい。
その論法で行くと、黒田君は当初は信長から領地をもらっていないので(小寺の一門衆なので当然だけど)、
評価0になっちゃうぞ。
ア○か。評価も何も臣従したばかりの外様の小寺の家臣で、織田家の直臣でも
寄騎でもない黒田に信長がなぜ知行をやるのかと・・・
主家の小寺が離反・御着退去した播磨領有後に秀吉から朱印状を
直接もらって秀吉の家臣団に編入。蜂須賀・前野・浅野ら豊臣恩顧の大名と
同時期に2万石程度の知行をもつ大名になったけど、黒田が織田に帰属した
時期を考えるなら遅い割に十分高い評価だと思うけどね
http://mirai660.net/castle/
在地の豪族の領地はこの時代そもそも石高制で換算してないから
わからないんじゃないの?
正確な美濃菩提山の竹中領の石高が確定するのは、豊臣政権期の秀吉が
重門に宛てた朱印状までないと思う
あと竹中家は美濃平定後から弟が兄より時期的に先に信長の馬廻りで
仕えてるわけでその間、旧領は弟が持ち越しで認められる可能性がある
その点湿った牢に1年ぐらい閉じ込められてもなんとか生きてた官兵衛の方が使い手あるというか
頭が優秀でもすぐ壊れちゃう子だと不安が残るよね
戦国時代の価値観だと敵を斬れる武士が「強者」になるから
半兵衛より官兵衛のほうが強く見られるのは当然
でも軍師としての才は持病のせいかどこか達観している半兵衛のほうが有能なイメージ
テーマ自体がナンセンスw
軍師(参謀)としても武将としてもケースが違いすぎて
比べようがない。例えば、半兵衛なら朝鮮の役を諫止
出来たか?或いは九州を統一出来たか?…とか、官兵
衛なら稲葉山城をもっと効率よく陥落出来たか?或い
はその後の美濃支配を確実に出来たか?…とか、そん
な議論をいくら続けたって答えなんか出る訳がない。
当時に行って確かめられない以上、どこまでいっても
論争は五分五分で終わるw
半兵衛が長政助けたなんてのは後世の作り話だぞ。
そもそも信長からの長政○せという命令すら無かった
半兵衛が生きていた時に関しては半兵衛の方が立場が上だったのは事実。
播磨時代を比較すると
半兵衛・・・立場は寄騎(信長の直臣)。
組織上は秀吉の部下であっても家臣ではない。
先手を勤めていたように野戦指揮官タイプ。
官兵衛・・・立場は陪臣(小寺の家老)。
小寺の代理人でしかない。
本人も犀を振るう方が得意といっていたように幕僚型。
一度説得した播磨の豪族達が再度毛利に寝返っている事や、
誓書を半兵衛に破かれて窘められたりしている所をみるとこの時点では半兵衛の方が上と思う。
その後は半兵衛がタヒんでいるので比べる術がない。
所詮12万石程度しか与えられない過大評価の小物
敵に回ったら怖い家臣は少なめの領地にするのが普通
徳川とかは家臣とは少し違うからできないけど官兵衛みたいに最初っから
家臣の人はよほど裏切らないという確信がなきゃ大封は与えない
黒田所水が格別低かったわけでもない
譜代はいないわけだけども陪々臣だったわけだから破格ともいえる。
竹中半兵衛は大垣3万石・黒田如水は豊後中津12万石
こう考えると黒田のほうが優れていたともいえる。
中国地方攻略の途上で夭折したので豊臣政権成立まで存命だったら
知行はいくら増えたか?という仮定の話は無しとして
例え豊臣政権成立まで存命だとしても如水のほうが石高が高いような気がする
しかしそれが優れた結果と言えるのだろうか
与えられる石高で文句を言わず、戦で土地を失った農民に出来る範囲で
山林や畑を寄付していた半兵衛のほうが人間味として優れていると個人的には思う
まあ感情論
実践した半兵衛が最高の軍師といえるだろう。そもそも官兵衛の水攻めとか
孫子に言わせれば、下の下と言われるだろし、半兵衛なら調略で毛利まで
味方にするのは訳ないと思われる。ゆえに半兵衛の勝ちだろう。
しかも官兵衛は調子に乗って天下取りの野望までいだいちゃうという思慮の
なさ、半兵衛なら勝てない戦は最初からしないと思うし、もし勝てると思ったら
数十人でも城を乗っ取ってしまう大胆さもある。計画性と実行力どれをとっても
上だと思うね。
実行したのは事実だからね
出るところと引くところの見極めが素晴らしいと思うよ>半兵衛
黒田の陣跡であって竹中は招かれただけにすぎない
だって関ケ原町は竹中の地元だもんね
黒田家の史料は、主に、「黒田家譜」と、「古郷物語」で
はっきりいって嘘臭い
豊前国6郡12万石は自己申告で
実際には18~20万石とも。
秀吉に警戒された、左手は何してた?の話は創作だな
官兵衛>>>>>>半兵衛
だろ。
半兵衛は過大すぎ
早タヒにしたから持ち上げられやすいけど
官兵衛とは比較にならないだろ・・・
半兵衛いなくても秀吉は天下とったろうが
官兵衛いなかったら秀吉は天下とれない可能性が高い
黒田総裁のご先祖が販売していた目薬の原料となったのメグスリノキ
黒田総裁のご先祖様 黒田官兵衛
黒田家の祖とも言われている
https://i.imgur.com/v4BiT4b.jpg
つまり半兵衛がどっちを支持するかで斎藤氏と美濃の情勢が決まる
織田は美濃を制圧するのに、この半兵衛の取り込みが必要だった
半兵衛と美濃はセットで美濃以外の半兵衛はただのボンボン武将で将としては微妙
竹中半兵衛に関するよくある勘違い
×軍師である
ただの武将です。後方で指揮をとっていた訳でもなく、普通に前線に配備されて敵と交戦してました
×秀吉の部下である
信長の部下です。秀吉とは友達関係だったかもしれませんが上司と部下ではありません
重門は半兵衛タヒんだときまだ子供で後見役の重利だってまだ二十歳にも達していないから
若い当主でも厚遇されるってのは宇喜多みたいな政治的配慮が必要な場合か
残された家臣が強訴した堀みたいな事情がなければ
遺族の器量次第の待遇しか受ける事はできないんじゃないか
後に秀吉が長浜城を築城することもなかったことを考えればこの一件だけでも歴史を左右する活躍はしている
仮に山本山城が寝返らなかったとしても力攻めでも行けたべ
それがでかい功績だっていうなら、竹中家ももっと加増されていただろうしな
山本山城を力攻めで攻略できたら信長はとっくにやって小谷城孤立させてただろ
小谷城を孤立できなかった最大の理由は山本山城とかあの辺の城の連携で北國街道を封鎖していて織田勢が小谷城の背後に回って朝倉の後詰めを叩けなかったこと
とはいえ竹中の成果は北近江の一向一揆の切り崩しの方に役立ったんじゃないかな
まだ竹中は信長の直臣で、浅井滅亡後あたりで
秀吉の与力になるんだよね
つまり対浅井での調略が評価されていたなら
直臣のまま出世しただろうし
秀吉の与力に甘んじる事もなかっただろう
少なくとも信長は評価していないって事になるわな
秀吉政権下の知行を多く得ているわけでもないし
宮田 討タヒ
神子田 斬首
尾藤 斬首
戸田 断絶
蜂須賀 17万石
前野 10万石 切腹
山内 5万石
生駒 17万石
堀尾 12万石
中村 14万石
竹中重治 1万石未満
竹中重門 1万石未満
黒田如水 4万石→25万石前後
ぶっちぎりですがな。゚(゚´ω`゚)゚。
武功は親父を完全にうわまわってね?
どう考えても12万石や18万石で出来る芸当じゃない
いったい関ヶ原前の黒田家の石高はどれくらいなんや…
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