【歴史】だから徳川幕府は15代も続いた…徳川家康が「病弱で愚鈍な家光」を3代将軍に指名した納得の理由
■「心身に難あり」と思われていた幼少期の家光
徳川家光は、慶長9年(1604)に2代将軍・徳川秀忠の次男として生まれた。
家康は孫の誕生を大いに喜び、自分の幼名である竹千代の名を与えた。やがて家光は、三代将軍に就いて将軍の権威を高め、幕藩体制を整備して徳川政権を盤石にするという大きな功績を残した。
家光が誕生する3年前、秀忠には長丸という長男が生まれたが夭折(ようせつ)し、家光誕生時にはこの世にいなかった。しかも家光の母は、秀忠の正室・お江だから、彼が将軍に就くのは当然だと思うだろう。しかし、もともと家光は、将軍になる予定の人物ではなかったのである。
当時はまだ、長子相続は確立していなかったのだ。確かに長男が家督を継ぐケースが多かったが、「才覚ある者が跡継ぎにならねば家の存亡にかかわる」という戦国の遺風がまだ残っていた。ゆえに、「心身に難あり」と判断された者は嫡子から排除された。
幼少年期の家光は、ほとんど言葉というものを発せず、家臣に声をかけてやることもなく、何を考えているかわからない子供だった。端から見ても愚鈍に見えたのだろう。
しかも、生来の病弱だった。たとえば、3歳のときに医師も匙を投げるほどの大病をしている。このときは家康が調合した薬で奇跡的に回復するが、26歳のときには疱瘡(ほうそう)(天然痘)を煩い、乳母の春日局が病気の回復を願って「一生薬絶ちをする」と誓うほどの重篤な病状に陥っている。その後も眼病、頭痛、瘧(おこり)などたびたび体調を崩した。
■実母の寵愛を受けていたのは弟の国松だった
また、これは巷説だが、少年時代から家光の性愛の対象は男性だけだったといわれ、好んで化粧し、その姿を鏡に映してうっとりしていたという。これでは後嗣の誕生は期待できない。こうしたことから、跡継ぎには不適格だと思えたのかもしれない。
だから秀忠は、家光の2歳年下の同母弟の国松(のちの忠長)を後継者にしようとした。家光にくらべて愛くるしく、賢く思えたからだ。なにより、母のお江が溺愛していた。
家光が乳母(春日局)に養育されたのに対し、国松はお江自身が育てたので、情が移ったのだろう。秀忠という人は大変な恐妻家で、お江にはまったく頭が上がらない。そのため、国松の将軍継承を望む彼女の要望を受け入れたのかもしれない。
■秀忠夫妻は国松を跡継ぎにしようとしたが…
繰り返しになるが、同母兄を差し置いて次男が家督を相続することはタブーではなかった。そもそも秀忠自身、家康の三男であった。
長兄の信康はすでにタヒ去しており、次兄の秀康は、秀吉の養子だったので後嗣にはなれなかった。そういった意味では、秀忠夫妻は、国松を跡継ぎとすることに抵抗感はなかったはず。
しかし、国松の家督相続は、祖父の家康によってはっきりと拒否された。
きっかけは、両親に敬遠され、家臣に軽んじられた12歳の家光が、世をはかなんで自○をくわだてたことにあった。これを知って驚いた春日局が、思いあまって駿府の家康のもとへ赴き、家光を将軍にしてくれるよう直訴したとされる。
■家康が家光を3代将軍にしたワケ
そこで家康は、わざわざ江戸へ出向き、秀忠に対して「家光が16歳になったら、彼を連れて上洛し、三代将軍にするつもりだ」と述べた。また、秀忠夫妻に「おまえたち二人が家光を嫌い、国松に家督を継がせようとするなら、私は駿府に家光を招いて我が子となし、3代将軍とする」と伝えたともいう。
それからまもなく家康はタヒ去するが、こうした家康の強い意志によって、家光は将軍になることができたのである。
※続きはリンク先で
https://approach.yahoo.co.jp/r/QUyHCH?src=https://news.yahoo.co.jp/articles/1d6f97bfad8da02f7a7bf964c7636501880d6e7f&preview=auto
徳川家光像(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)
ケツマ○コでメスイキ憶えたホ◯野郎が将軍とか笑わせるな
戦国大名の多くはホ◯だぞ
伊達政宗や武田信玄なんかは男に宛てた恋文が
博物館で晒されてる
それはホ◯じゃなくてバイな。
同じだよ
両刀だろうがホ◯はホ◯
衆道はお館様が部下を掘るのが基本なんだが
家光は部下に自分を掘るよう要求した
そういう意味でマジモノ
どっちも同じ
攻めだろうが受けだろうがホ◯はホ◯
信玄の書状は偽書説あり
宛先の春日源助の春日が後から加筆されてる
伊達政宗の方は自筆だし間違いなく本物
この政宗の書状で浮気の潔白を示すために自傷する習慣があったことを始めて知ったわ
まあ自傷したのは咎められた小姓だけで、政宗本人はもう孫もいる歳だし、
行水の時に自傷した傷でも他人に見られた日には末代までの恥だからと自傷してないけど
当時でも若い47でタヒんだのは…
その後、優秀な保科肥後守が実権
一番利発で期待されてたのが20歳前後で脂肪とか
昔は普通にあるあるだったから
病弱とか言っても生き延びられたのがすごいよね
伊達政宗だって結局戦国大名では一番長生きしたしなぁ…
秀吉へ忠誠を誓うための名前だからな
将軍なんて誰でも良かった
大事なのは家督争いしない事というこじつけ
実際は7代目で宗家は途絶え徳川御三家から将軍を迎える事になったのに
教科書より頭に入ってくるわ
さすれば家光の待遇は全て納得いくのな
今でいうと40くらいか?
神聖ローマ皇帝=征夷大将軍
ローマ教皇=天皇
シスマ=南北朝
徳川家=ハプスブルク家
そこから復活したら奇跡に思えるし愛情が深くなるよ
もう絶対に失いたくないってね
あとはタヒにそうでタヒななかったっていう運の良さにも着目するでしょ
カエサルも運が良いとおもった部下は出世させてるしな
家康にもそういう才能があったのかも
生い立ちというよりは家光の場合、合戦経験のある人への憧れだろうな
政宗に限らず立花宗茂、加藤嘉明、加藤嘉明なんかも家光の御咄衆だし
加藤嘉明がダブってたわ
丹羽長重だ
「この家光は生まれながらの将軍である!」は
自分より年長でいくさ経験のある諸大名へのハッタリだった
とジェームス三木先生が書いてた
若い家光を支えたのが伊達政宗と藤堂高虎という戦国時代からの古参
生まれながらの将軍宣言のときも、政宗と高虎が家光の左右から諸大名を睨み付けてた
どちらも外様ながらも、江戸幕府初期の制度構築で多大な功績を上げ、外様でも別格扱い
戦国から江戸初期はこういう名政治家がキラ星の如くいたんだがな
少なくとも1700年頃までは
鯛の天ぷらに当たってタヒんだと言われてるが
実際にはお江の手の者に暗○されたのかもな
お前歴史小説ばかり読んでないで
歴史書は読めんだろうから歴史書の注釈したものくらい読めよ
言語こそ不自由だったが9代将軍家重もバ○ではなかったらしいし、ガチのやべー将軍は13代家定とサイコパス5代綱吉くらいだろ
綱吉はんも治安が悪くて命の価値が安かった時代に「命を大切にしよう」って唱えただけなんやで
最近は綱吉は明君とされている。
家光無能説の根拠は
鎖国を国法としたこと(家光時代だけの鎖国なら悪い政策ではないが)
大規模な参詣や上洛を行い行く先々でのばらまき行動
参勤交代という意味のない大名統制で幕府だけではなく藩を含む国の財政をめちゃくちゃにした
それなのだが勝海舟の談話に家光自身の考え方が出てくる
家光が池野中に小判を落として、ここに小判があるけど池野中にあったらなんの意味もないだろ
使えば人々が豊かになるんだよ
という考えだったらしい
使いすぎなのは間違いないけどね
殿様ののケインズ政策なんだよね
自○するようなメンタルで将軍やれないて思われないか
天下人に面会できることから
家臣衆の中でも家康に信頼されてたんだろな
同情を買い跡継ぎへの謀略が成功したんだろうな
京都のお寺とか回ると、家光公の再建、再興、寄進とか結構目にするんだよね
おじいちゃんの威信(徳川幕府)を確固たるモノにしたかったのかな?なんて思ったり
お寺とか再建するにも大名とかに金出させて普請させたんだろうから、(ブレーンが居たとしても)本当に愚鈍だったら出来ない事じゃないかな
(個人の感想です)
結局のところこれな気がする
これだよなー
お家騒動は国やお家が傾く原因だし反抗勢力・反主流派台頭のきっかけになるからね
幕府が諸藩のお家騒動には手厳しく対処してたのも小さな火種が大火になるのを防ぐためだしね
今でも企業や某球団でお家騒動があるけど話題になるだけで騒動前より良くなったためしがないな
それってすごく浅いんだよね
幕府の官僚も老中たちも結局は全員サムライであり殿様なわけで能力を問わない長子相続を固定させると何が起きるか
官僚体制さえしっかりしてればのその官僚もみんな大なり小なりの殿様なんだよ
つまりそういうことだ
こどおじなんてゼロだっただろうなw
農業社会なのにお前にやる土地はないってけっこう酷いよな
そりゃみんな江戸に行く
てか、さんざんドラマとかでやってたな。
末子相続。昔は長男はさっさと実家を出て独立し、末っ子が継ぐんじゃなかったか?
神武天皇も末っ子だし。
自○未遂が可哀想で取り立てただけなんだろ。
家督争いを避けて安定を図った事になるのか?
両親家臣から嫌われていて?
春日局の力量から家光にしたってんならわかるよ。
記事書いてる奴は自分の文章に納得出来るのかね。
信康の場合は信長が自分を追放して、息子の信康を立てると悩んでいたのだろう
だから信康とその正室の徳姫との仲を悪くする様に画策し、罪の無い正室の築山殿の一緒に始末したのだろう
信長も秀吉も身内には甘かったが、身内にさえ非情に接した家康が天下を獲った
甘いと生き残れ無いからな
というか、初代の家康から、秀忠、家光、家綱、綱吉と五代将軍までは名政治家が見事に続いてる
幕府として攘夷を実行して終わってたか
人につかえるものと仕えさせるものの資質ってまるで違うんだよね
伊井の弾圧で歴史が15年遅れになったことは間違いないんだけど幕末のあれを見てるとよしのぶこそ上に立てたらいけない人間だったような気がする
ただよしのぶの性格も弾圧されて出来上がってしまったのかもしれないからスムーズにいっていればよかったかも
よしのぶが先に将軍に慣れなかったのは実は大奥の力が大きい
ゴールデンハンマー家が最恐て事だな
やはり本拠地駿河を持っておかないと。。
名古屋は西側に寄りすぎだから結局最後は一番最初に薩長に加担するし
和歌山なんてド田舎の土居中
徳川の公達を置いておかなくてもいいところ
親戚の松平ナンタラとか猛将本田忠勝でも入れて守らせれば良かった
水戸家はおまけで石高が小さすぎることが結局最終的ネックになった
頼宣は紀州の前が駿河で、その後の駿河は忠長の領有を経て天領
そうなんだ
えらい飛ばされたなw
よほどお気に入りだったようだが11男君w
結局争い起こって弟切腹に追い込んでなかった?
決着は付いたけどたしか忠長は出府を拒否し始めたんだよな
これは日本のサムライの時代の一番やっちゃ行けないやつ
出てこいと言われて出てこなかったら戦争の理由になる
ただしたまーに出てこいと言われて無視して成功するパターンもある
大体は呼び出す方が立場が弱くなってるときはこれでうまくいく
立場が弱いのに無視したらジエンズ
薩摩が生き残った時はこの呼び出しを拒否し続けて交渉をうまく進めたね
15代続いた理由としては論理的な肉付けが薄いからね。
人生の時間を有効に使いきり過ぎw 三つ目の幕府ってのも大きい。前の失敗成功を研究しやすり
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1649680931/
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