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【衝撃】「無人島長平」とかいう江戸時代の人物の人生ヤバすぎるwwwwww

2021年7月8日

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1: 2021/07/01(木) 20:17:28.44 ID:KlTHpbFJd
天明5年(1785年)1月30日、土佐藩赤岡村(現在の高知県香南市赤岡町)から田野(現在の高知県田野町)へ300石船(松屋儀七所有、長平が船頭)で御蔵米を運搬した帰路に、船は土佐沖で嵐(冬の大西風、シラ)に遭遇し、舵・帆柱を失って漂船となった。漂船は室戸岬を越えて黒潮に乗ったと推定され、12日後に当時無人島であった伊豆諸島の鳥島に漂着した[1]。

漂着時には長平以外に3名の乗組員がいたが、漂着後2年以内に相次いでタヒ亡し、以後長平は無人島での単独生活を強いられる。鳥島での主な食物はア○ウドリの肉と卵、それに少量の海産物であり、[要出典]後述する大阪船の漂流者と合流する以前は火打石を持たなかったため、それらを生で食した。またア○ウドリの肉を乾燥して保存し、これをア○ウドリの不在期間(春の巣立ちから秋の営巣まで)の主な栄養源とした。水は雨水を水源とし、これを多数のア○ウドリの卵殻などに蓄えた。[要出典]長平は一日に飲む水の量をア○ウドリの卵殻で作った容器1個分と決めていたという。ア○ウドリの羽を縫い合わせて敷物や衣服を作り、脂肪を灯油に用いた。月を観察して三日月を見た回数から年月を把握した[2]。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E9%95%B7%E5%B9%B3

3: 2021/07/01(木) 20:20:00.85 ID:AmTQsdNl0
サバイバル能力すごいな
4: 2021/07/01(木) 20:21:38.60 ID:0yjCi8nx0
>長平の漂着から3年後の天明8年(1788年)1月29日に大坂北堀江の備前屋亀次郎船の11人が鳥島に漂着、
>さらに2年後の寛政2年(1790年)1月末頃に日向国志布志の中山屋三右衛門船の6人が漂着した。
どんだけ漂流しやすい島やねん
5: 2021/07/01(木) 20:21:40.81 ID:6TMg4/Eh0
すげえ
6: 2021/07/01(木) 20:21:49.49 ID:NE+FeqHF0
ア○ウドリ食いたいンゴよね
7: 2021/07/01(木) 20:23:11.93 ID:FZ+GsYuE0
これドキュメンタリーやってたな
8: 2021/07/01(木) 20:23:54.39 ID:okPL37Jid
これでア○ウドリが絶滅したらしいな
9: 2021/07/01(木) 20:24:56.51 ID:8jUPzO/I0
ア○ウドリは警戒心ゼロでア○みたいに簡単に捕まえられるからア○ウドリなんやで
10: 2021/07/01(木) 20:25:15.27 ID:CRkgQn7W0
吉村昭の漂流を読むといい
11: 2021/07/01(木) 20:25:19.89 ID:pTah28Jga
18名のうち、1789年から1793年の間に4名がタヒ亡した。漂着から数年が過ぎても島の近傍に一隻の船影も見られないことから、[要出典]長平らは、船を作って鳥島を出ることを1792年頃に決意した。鍛冶や船大工の経験者がおり、志布志船から回収した工具やかつての漂流者が残した船釘、自作のふいごで古い船釘や錨を溶かして製造した大工道具を造船に用いた。船の素材には流木を、帆には衣類を用いた。造船中の船が波にさらわれることを防ぐために小高い丘の上で作業を行っていたため、そこから海岸までの経路の障害物となっていた複数の岩をノミなどで削って幅5メートル弱の道を造り、島の北東部の海岸から長さ約9メートルの船を海に降ろした。この時点で、造船を決意してから5年を経過していた[4]。

引用元: https://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1625138248/

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