ジンギスカン料理は義経が発明?義経ジンギスカン伝説「判官びいき」の行き着く先
http://www.sankei.com/west/news/180625/wst1806250001-n1.html
源平の争乱の英雄でありながら異母兄、源頼朝に追われ、奥州・平泉で非業のタヒを遂げた源義経(1159~89年)。
彼には平泉を脱し、北海道へ渡ったという「北行伝説」が語り継がれている。義経の官位のランクに由来する「判官びいき」
という言葉に代表される、日本人の深い同情から生まれた伝説は、いつしか一人歩きを始め、思わぬ物語へと変貌を遂げる。
■作られた?イケメン
源義経の前半生は謎が多い。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』によると、歴史の表舞台に立つのは、
タヒの9年前にあたる治承4(1180)年。平氏追討の兵を挙げ、静岡の黄瀬川に陣をはった頼朝の元に参じ、涙の対面を果たしたとされる。
平氏一門を破り源氏政権樹立の立役者となったが、頼朝との関係は悪化。追われる身となり、文治3(1187)年、
奥州・平泉の藤原氏の元に身を寄せる。同5(1189)年閏4月、頼朝の圧力に屈した藤原泰衡の襲撃を受け、
衣川の館内で妻と子を手にかけた後、自害した。
頼朝に批判的な吾妻鏡には、義経のタヒに同情的な記述がみられる。室町時代には『義経記(ぎけいき)』が成立。
背が低く、出っ歯(『平家物語』)の義経は「非業のタヒを遂げたイケメン」となり、後世の義経像に影響を与えた。「判官びいき」という言葉も、
同時代に生まれたとされる。
そして、義経のタヒ後から500年の時を超えた江戸時代の文献に、義経が衣川を脱し、北海道へ逃げ延びたという伝説が現れる。
■北行を既成事実化
義経の北行伝説に関する最古の記述は、幕府の命で編纂(へんさん)された歴史書『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』のうち、
寛文10(1670)年に完成した続編とされる。義経は自害したとしつつ、「俗伝」として衣川から逃げて蝦夷島(北海道)に渡り子孫を残した、と記す。
義経と北海道の接点はそれ以前からある。「御曹子島渡(おんぞうししまわたり)」と呼ばれる寓話(ぐうわ)で、蝦夷ガ島に行き着いた義経が
大王の娘と通じ、兵法書を入手する物語。ただ、描かれるのは頼朝挙兵前の若き義経だ。
『義経伝説と為朝伝説 日本史の北と南』(岩波新書)の著者で、国士舘大の原田信男教授は「御曹子島渡の話と、義経という英雄に対する
人々の再生願望が結びついた」と指摘。さらに、領土意識や北海道への関心の高まりを挙げる。
このころは松前藩を中心とする、いわゆる「和人」の北海道支配が強まった時期。伝説は北海道が日本領であることを内外に示すのに都合がよく、
義経が北海道へ渡ったことは既成事実化していった。
アイヌの人々が語り継ぐ伝説とも融合し、和人はアイヌ文化を築いたとされる神、オキクルミ(アイヌラックル)と義経を同一視。
圧政から蜂起を繰り返したアイヌをのみこんだ。
■義経伝説、大陸へも
伝説の一人歩きは止まらない。18世紀に入ると、義経は北海道から大陸へ渡ったという説が浮上する。
中国の史書『金史別本』によれば、義経は12~13世紀に中国北東部を支配した金朝(女真)の皇帝に仕えたという。
さらに、17世紀に建国した清朝の史書『図書集成』は、皇帝の祖先は源義経で、「清」という国号は清和源氏の祖、清和天皇に由来すると書く。
実は金史別本も、図書集成もニセモノ。だまされる学者は少なかったが、大陸へ渡った説には新井白石も関心を寄せている。
日本人が中国を制したストーリーを痛快とみる向きもあったようで、幕末のあたりから起こる、壮大な物語を生み出す土壌はこのころからあったとみるべきだろう。
それは、義経が世界を席巻したモンゴル帝国の始祖、ジンギスカン(成吉思汗、チンギスハン)になったという物語だ。
2: 2018/06/25(月) 11:42:20.92 ID:CAP_USER9
■ジンギスカン料理も!?
同説はドイツ人医師、シーボルトも著書で触れているが、明治以降に“論理的”な補強が進んだ。
伊藤博文の娘婿、末松謙澄が英国留学中に書いた論文を翻訳した明治18(1885)年刊の『義経再興記』はその先駆けで、
「ジンギスカン」は源義経の音読み「ゲンギケイ」がなまった▽ジンギスカンの幼名「テムジン」は天神に通ずる-などとする。
さらに、大正末『成吉思汗ハ義経也』という本が登場。著者の小谷部全一郎は末松説を一部なぞりつつ、大陸で見聞きした話や写真を根拠に、
同説が史実であることを訴えた。
専門家からは疑問が呈されたが、小谷部はなんのその。昭和10(1935)年刊の講演録『義経と満洲』によれば、ジンギスカン料理も、
義経が好んだ東北地方のサケの郷土料理が由来で、サケを羊肉に置き換えたのだとか。
■ベストセラーに
奇想天外に見える『成吉思汗ハ-』だが、欧米列強と肩を並べた日本人のプライドをくすぐったのか、ベストセラーになった。
日本は大陸への進出を本格化させ、戦争への道を突き進む。原田教授は「(義経=ジンギスカン説は)当時の日本人の心理を
側面的に支えたのではないだろうか」と話す。義経の旅に終止符を打ったのは、日本の敗戦だったのかもれない。
さて、小谷部は昭和16(1941)年3月、日米開戦の9カ月前にタヒ去している。苦労の末に米国へ渡り、現地の大学を卒業した
経歴の持ち主で、義経が大陸に残した痕跡を探すために陸軍の試験を受け、ロシア革命を受けたシベリア出兵(1918~22年)に、
通訳として赴任した気骨の人でもある。
帰国後、陸軍省勤務や陸軍大学校教授を打診されたが義経研究のために断り、『成吉思汗ハ-』は清貧な生活の中で執筆した。
彼が「国史の誤謬(ごびゅう)」を正すという思いを抱いていたことは、付け加えておきたい。
>背が低く、出っ歯(『平家物語』)の義経
ロンドンブーツの田村淳みたいな顔してたのかwww
こいつのせいで京より栄えた平泉が滅ぼされたからな
平安期に何匹か贈られてるが少数の珍獣扱いで繁殖失敗してるだけど
まともに入ってきたの戦国期だぞ
向こうでの話じゃないのか?作ったのは
日本三大悲劇英雄
源義経
楠木正成
真田幸村
おいおい、高木彬光のジンギスカンの秘密を読んでないのか?
俺は信じるぜ
成吉思汗は、京都に帰りたいけど無理な心情を表した、なすよしもがな と読めるんだぜ、知ってた?
成功して吉野(源静香)を思う(汗)
義経公はのび太君だった?
実際のところ、モンゴルにジンギスカン鍋は存在しているのか?
あるわけないだろ
いや、大陸の騎馬部族なら当然、あの董卓は両手両脇に弓を二本装備して右と左で両方命中させてる
騎射なんて大陸では紀元前から珍しくないし日本でも律令時代に
朝廷が関東で大規模な騎射の講習をやってるほどです
あれ羊肉以外にも使えないかな?
関東でも余裕で売ってる件
アンテナショップとかじゃなくて普通のスーパーでな
民明書房かよw
たしか明治時代にどっかの料理屋が勝手に始めたことだろ
カステラに羊羹挟んで「シベリア」とか命名しちゃういい加減な国
それが日本
少なくとも青森ぐらいまでは逃げただろうね
>>53
絶対無理w
奥州藤原氏の内紛で義経派はほとんど粛清されてその仕上げが義経○害なのに
義経を逃がす理由はないし義経の首差し出せば丸く収まると思ってやってるのに
基本的にこの手の捏造がはやりだしたのは本格的には江戸時代だからな
国学者とか基地害どもが無茶苦茶な論理で捏造繰り返して
それを引き継いだ明治政府がさらにそれを拡大させた
全部義経のせいでいいよもう
羊肉をシャケに置き換えた料理を思い浮かべてみな。
鮭のちゃんちゃん焼きですね
モンゴリアンチョップで有名なプロレスラー、キラーカーンは日本人である
これ、豆知識な
新潟出身のモンゴル人だろ
モンゴル人 相手に商売してるひと
うっかり、ジンギスカン料理に誘うと
二度と商談をしてもらえなくなりますよ
タッキーが出ていた大河ドラマの「義経」は、最終回が秀逸すぎるw
日本特撮史に残る伝説だ。
それにしても世界史上最大のモンゴル帝国の首都だったカラコルムって
今じゃほんと何にも無いんだよな
ただのだだっ広い砂礫の空き地だけ
ショボい石像が何個か残ってるだけでね
遊牧民族の徹底した「空」的観念ってのはそれは見事なもんだよ
身一つでこの世に生まれ身一つで空に帰る
後には何も残さない
だから首都なんて現在の概念で考えちゃダメだし、最大版図も流動的なもので現代の領土とは根本的に違うんだよな。
鮭関係ない遠く離れた千葉の成田にジンギスカン屋が点在するのは何故なんだ
それはジンギスカンは軍服用に飼育した羊の有効利用のために創作料理で
御料牧場があった成田と羊牧場があった北海道に同時に広がったということだ
ジンギスカン鍋のいわれは、羊=放牧=モンゴル=ジンギスカンという単純発想だろ
>>129
当たりハズレあるわな
高いか、ちゃんとした奴が作ったのはうまい
それ以外は没
無茶苦茶な捏造話にしても結構歴史あるんだな
モンゴル兵が鉄兜を火に掛けて馬肉を焼いたことからヒントを得て、
日本で考案されたって聞いたような
どこまでホントかはわからんw
日本ではまことしやかに流れてると言ったら
温和な友達がマジギレしてた
この話だけはモンゴル人にしない方がいい、身の為だ
だれか朝青龍に話してみろ
もしかしたら朝青竜は笑って許してくれるかも知れん、という気がする。
白鳳だとガチで怒りそう。
引用元: http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1529894528/
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