昔の戦闘ってホントに映画や漫画みたいに武将が先頭で戦ってたの???
狙い撃ちされて終わりじゃね?
呂布、関羽、張飛だのは現代でいう原子力潜水艦、核ミサイルといった戦略兵器扱い
戦場に万人之敵とかいわれるクラスの武将を揃えられるかで戦の勝敗は決まった
雑兵の数はあんま関係ないかもね・・・
国のトップが先陣をきるといったらやっぱ柴栄か?
劉仁瞻との逸話は有名だよな。
劉秀は、彼にとって都合の悪いことの記述の多い『後漢紀』によると、
昆陽では兵を集める時にした約束を果たすため先頭に立ったらしいが。
『後漢書』の「光武帝紀」だとここら辺の記述省かれてるな。
親征のときの「自親戦」なんかも帝紀には絶対載ってない所をみると、
儒家的価値観では不名誉なことと見なされているようだ。
兵士のような真似をする、皇帝のやることではないってことで忌まれたのかも知れん。
どこぞのスレでもアレクサンドロスと同じ悪癖を持っていると言われてたな。
まあ、純軍事的にも人心掌握以上の意味は何もない行為であるのは事実。
そこら辺を見ると、国のトップがってのは極めて希だったのではないかと。
後周の皇帝柴栄は攻城戦のとき、城内の一角を占拠し、趙匡胤に戦わせておいて
矢石が飛び交うなかで、冬至節を催した猛者だよ。
そのあとも、甲冑を身にまとって自ら追撃の指揮をとり、戦場をいったりきたりしている。
趙匡胤とは轡を並べて敵軍を追い討つなど、武将連中からみたら憧れの存在だったろう。
それでも傷を負ったという記録はない。
(趙匡胤、王審琦、韓重贇等親衛軍将は傷を負っているがw)
>>7も言っているが、劉仁贍の矢が柴栄に届く前に失速した逸話まで作られるほど。
三国志なら 孫堅、孫策、孫権 だな
孫堅は特に有名というか、タヒに様もうっかりですぎちゃった感じだね。
おいおい、能無しの権なんか先頭きって戦した事ねーよ
張コウに諫められてるから記録に記されてないだけじゃないの?
もっとも適切な場所に速やかに部隊を機動させるには、
自ら先頭に立って軍楽隊やら旗手やらを引き連れて位置を占めるのが有効な方法だったようだ。
それが何よりの意思表示になり、中下級の指揮官も容易には退けず、結果粘り強く戦い続けることになる。
全ての指揮官が実践したわけではないだろうけど。
銃砲以前は勿論のこと、近世のスウェーデンのグスタフ・アドルフまでもそれでミスって(?)戦タヒしてる。
弓矢で負傷するってことは先頭ではないにせよ相当前線出てたんじゃない
自分より後ろだといつの間にか撤退してたりとか考えて不安だ
なら明の頃までは最高司令官が
前線に顔をだすのは当たり前だったんじゃ
いくら武勇に自信があるとしても生身の人間だぞ?
槍で一突きされりゃ終了じゃん、ぶっちゃけ嘘臭いよね
後世に名を揚げようと創作したのが真実だろ
>>32>>34
なんでもかんでも、こういう英雄的な記述を疑い、現代的な考えに無理矢理あてはめて
分かったようなことを書いている人ってネットで多いよね
農民兵が主体の時代なら、幼少から武芸自慢、もしくは訓練を受け、鉄の鎧をつけている
武将が前線に赴くのは、百人単位はもちろん、千人単位の戦いでも、十分に価値がある
中世以前の戦いは先鋒をくずせば、戦いの帰趨がきまりやすい
戦争のたびに大勢を○すような強者が出世して武将になった場合、
その能力を使わないのはもったいないよ。それも十分に指揮であり、鼓舞になる。
日本でも戦国時代なんかは、武士階級だと大概は前線で戦う教育を受けていたし。
総大将でも最前線で吶喊して兜を撃たれた跡が残っている武将もいる。
大体古代中世で後ろでふんぞりかえってるような奴はなかなか人望が集まらないよ。
近代戦でも、戦車部隊の指揮官は第一線が常識ですが。
大隊長(250~1000名規模)、連隊長(1300~3000名規模)、旅団長・師団長クラスで
戦タヒがときたまあるからな、イスラエルあたりは。
歩兵・戦車兵・工兵は後方の指揮所よりも、前線指揮所の方が適切(戦況にもよるが。)
砲兵・兵站あたりは後ろでどっかり腰を据えてもらいたい。
指揮官は、もう本人の能力次第だろうな。
少なくとも、軍官僚とか政治屋みたいな将軍様には第一線までは来てほしくないな。
しっかりと部隊経験のある、現場を知っている人じゃないと……。
と、現代の兵隊さんは思うんだけどね。
前線じゃないと分からない戦況や流れってあるらしいからね
指揮する立場にいる人間かそれに連なる人なら
そういった情報は喉から手が出るほど欲しいはず
項羽なんかはよくフロントで戦ってたって描写があるが、まあ創作だろうな
だって最前線に立ってる本人がタヒんでないって事は、味方が誰一人タヒんでないって事じゃん
また、張良や劉邦からしたら遠巻きにして先頭の奴を矢で狙い撃ちさせて終わりって事になっちまうな
劉邦は弓で射られてタヒにかけてる
動く標的に遠巻きから狙えば当たるってほど、弓矢の命中率は高くない
防具に身を固めた相手に対して、確実に仕留められるほどの○傷力もない
紀元前であれば尚の事
総大将が一番槍や先駆けすることはないとは思うが、
前線が膠着した状況で主力騎馬隊で突破する
その陣頭を率いるというのならありえない話しではない
首をはねてくれるわ
すぐ豪族の支持を失いそうな暴君ですね
で、近代以前の混迷期の皇帝なり王なりってのはこのタイプが多い。
だから最高権力者の筈なのに前線で指揮を執ると言う不可思議な状況になる
日本戦国だけでも
最上義光が直江兼続を追撃する際最前線に立ち兜に被弾、この人は自ら敵の首を打って自慢、
家来から「殿様がそんなことせんでもよろしい」と怒られている。
黒田長政は前線に立ちすぎて先頭の何十人か○せばその中に必ず長政がいるといわれた。
鉄砲玉に当たった森長可、井伊直政、後藤又兵衛らも最前線で指揮したのだろう。
光武帝や最上義光のように最前線で頑張るお!の人が家来から怒られるのもよくあることだが
彼らより下の立場なら逆にいけいけどんどんだっただろうね。
戦争というのはルール無用のようでいてルールがあるから、敵味方共通で将は将が相手をする的な
認識があったのかもしれない。春秋と戦国で戦争の仕方が違うような気配があるし戦国期の戦争と
楚漢戦争ではまた違う感じがする。
概ね同意かな。
集権制が完成してしまえば別なんだけど、古代のそれじゃ弱含みなのは否めないし、乱世になるとそれはさらに弱いものとなる。
特に豪族、士大夫、土豪といった下の権力が強い前漢中期以降の明以前の中国、あるいは日本の戦国などでは、
ほとんどの時代において大将も命を懸ける必要もあったろうな。
李世民が自ら斥候に出て追っかけられたり、柴栄が先頭に出て弓で狙われたりしたのも、必要なことだったのだろう。
>>66
李存勗も自ら斥候して、梁軍の包囲に陥ること数度w
李存勗は史家からも李世民に似ているって言われている
戦争時の求心力は半端なかったと思う(即位後アレだけど)
柴栄が狙われたのは、創作っぽいところがあるけど、前にいなくちゃ
いけなかったのは、たしかに必要な行動だった。
ところで、劉仁贍に狙われた柴栄は、矢が外れたあと不敵にもさらに座を進めて
挑発している。
柴栄は、高平の戦いのおり、全軍崩壊の危機を受けて
部下……枢密使の魏仁浦っていう軍師に「最前線行けや」って言われてる
皇帝自身もともとそのつもりだったけど、部下の進言により体裁を整えたって感じかな
部下側もそういう行動が必要だと認識していた時代ならでは。
勝ち戦なのに功を焦って頓タヒしたって言われてる処だ。
北畠顕家「大将は後ろでどっしり座って兵に指示を出すものだ」
徳川家康「怒りにまかせて突撃など言語道断!」
それに怒りに任せて突撃させる事も大事で、柴田勝家・武田も怒りに任せて
突撃させて勝利を収めてる。
実際に先頭で戦う必要なんてないだろ
出てると兵に思わせることや
そういう噂を流布することは重要かもしれんがな
テレビも写真も無い時代だ
皇帝の顔を知ってる人間がどれだけいることやら
記録だって当てにならん
後からいくらでも書ける
前に出たのは間違いないだろう
戦場で戦車乗りは遠目でも一目で普通の兵隊と違うとわかる
現在のルールを適応して指揮官が前線に出たはずないとかいう方がおかしい
国民国家の徴兵制が出来るまでは上が安全地帯にいたら兵卒なんて真面目に働かないよ
味方の逃亡兵をぶったぎり、声を張り上げて鼓舞し、士気を維持するのが抜群に上手かったらしい
情報の伝達手段に乏しい最前線では、声のデカイ指揮官の存在は大切だったみたいだね
将を誉める言葉にしばしば『声が大きい』が入るのはその為
当然、敵と矛を交える機会も多かった事だろう
陣を組んで押し合う歩兵と違って、動き回る騎兵じゃ、責任者が前に立って進路示すのが一番なのかもしれんね
三国志の本の孔明の項でかいてたな
日本は命知らずが突撃してくるが、中国は相手の中央が出てきたらこちらは左右が前に出るみたいな事を書いてた
まあ高島氏は歴史の研究家じゃないからどこまで信じられるかはわからないけど
引用元: http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1246352026/
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