「インパール作戦」を強行した牟田口廉也中将、毎夜料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋に
ビルマ方面の日本軍を指揮した、第15軍司令官・牟田口廉也中将である。 昭和19年3月、多くの反対を押し切って、牟田口軍司令官がインパール作戦を強行した時は、一部では、まだ期待をもたれていた。何にしても、大東亜戦争(当時の日本側の呼称)の開戦の当初、マレー半島を急進し、シンガポール島を攻略した勇将である。 しかし、今度は、ビルマからインドへ、国境山脈を越えて急進し、3週間で英軍の基地インパールを攻略するという作戦なので、多くの困難が予想されていた。
果して4月の下旬までに、第15軍の3個師団は、それぞれに損害が多く、攻撃が挫折した。3週間の予定で、食糧を3週間分しか持って行かないから、まず食糧が不足してきた。また、急進撃をするため軽装備にしたので、武器、弾薬がたりなくなった。
インパールを目ざして、3方面から進んだ第31師団、第10五師団、第33師団はいずれも悪戦苦闘となり、早くも過半の兵力を失う惨状となった。
このころ、第一線には、牟田口軍司令官についての噂がひろがった。それは、作戦開始後、3週間を過ぎても、牟田口中将は軍司令部の所在地メイミョウから動かないでいるというのである。今度のような重大な作戦の場合、軍司令官は前線指揮に適した場所に、戦闘司令所を進めるべきである。
だが、軍司令部が動かないのは、メイミョウがシャン州の高原地帯にある、ビルマ第一の避暑地であるからだ。そこには日本風の料理屋があり、内地からきた芸者、仲居が いる。その一つは軍司令部の将校専用であり、軍司令官、各参謀、幹部将校は、それぞれに専属の芸者をもっている。彼らは毎夜、料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋につれて行く。
>それまで勇将として畏敬されていた将軍が
え?いつ?
ヤフーでも結構コメントされているのは、独善的で横暴な上司に苦しめられるというテーマが、現代にも通底するからか。
牟田口軍司令官がインパール作戦を強行した時は、一部では、まだ期待をもたれていた。何にしても、大東亜戦争(当時の日本側の呼称)の開戦の当初、マレー半島を急進し、シンガポール島を攻略した勇将である。
本邦のお家芸だね
最後罠にかかってタヒ亡する軍人のモデルが牟田口蓮也
補給なし食料現地調達なんてインパールまがいのこと決めたのもコイツだろ
その結果、北部から南京までの南下過程で中国の民家強奪がはびこり
東洋の鬼=日本人とまで言われる有り様に
こいつ以外にも焼夷弾を水かけて消せとか指示した公務員とかゴミク◯をちゃんと裁こう
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1597470102/
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません