大日本帝国はクロアチア独立国の独立を承認。同15日、クロアチア独立国は日独伊三国
同盟へ参加し、続く26日には日独伊防共協定にも加わり、日本とクロアチアの両国の間に
強固な同盟関係が築かれた。しかし、クロアチアは、同じく日本と同盟を結んでいたイタリアと
ダルマチアの領土問題を抱えていたため、日本はイタリアへの外交配慮を重視し、1943年
9月8日にイタリアが連合国に無条件降伏して枢軸国から離脱するまで、クロアチア国内に
大使館も在外公館も設置しなかった。
1943年12月15日、ベルリンに駐在していた日本の外交官、三浦和一と橋爪三男の両名が、
クロアチアの首都ザグレブ市内のホテルを借りて帝国代表部の事務所を開設。簡素ながらも、
この事務所は、日本が独立国としてのクロアチアに設置した最初の在外公館である。
翌1944年の2月11日付で、日本は在クロアチア帝国公使館を開館し、代表部から公使館に
昇格し、三浦和一が同公使館の代理公使に就任した。
1945年4月29日にザグレブ市内で昭和天皇の誕生日パーティが開かれるなど、日本と
クロアチアの間には友好関係が保たれていたが、その前日28日にはベニート・ムッソリーニが
○害の上、タヒ体を晒し者にされ、天皇誕生日の翌日30日にはアドルフ・ヒトラーが自○するなど、
欧州における枢軸国の劣勢は覆いがたくなっていた。そのため、三浦代理公使らは、翌5月5日
までに重要書類を焼却した後、同日、帝国公使館は閉鎖された。同8日、クロアチア独立国は
パルチザンら連合国側の攻勢を支えきれず崩壊し、ユーゴスラビアに再併合されるに至る。
これにより、日本とクロアチアの同盟関係もまた同時に解消された。
ウィキペディア「日本とクロアチアの関係」より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%E6%9C%AC%E3%A8%E3%AF%E3%AD%E3%A2%E3%81%E3%A2%E3%AE%E9%A2%E4%BF%82
イタリアなんかより、ずっと心強いじゃんか!
ヘタリアなんかと比べるな
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%AF%E3%AD%E3%A2%E3%81%E3%A2%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%9B%BD
何と政権崩壊のわずか9日前!
イタリア=1943年9月8日、サッサと無条件降伏して連合国に寝返る。Q.E.D. クロアチア>>>>>>>>イタリア
クロアチアは親友
これがQBKの伏線だったのかwwwww
QBKって何?
QBK アンサイクロペディア でググれ
降伏時期が早いからって地理的状況を無視し過ぎなんやアンタらは
イタリアでシチリアが占領されるってのは九州が占領されるようなもんなんや
沖縄じゃなくて九州だよ!日本は降伏時期は遅くて沖縄占領、原爆二発食らって、
ソ連参戦を受けてもまだ降伏時点で九州は占領されていない
イタリアは降伏直後にドイツ軍に占領されたから結局日本がしなかった本土決戦までやっている
ドイツのバ○のせいで100%勝ち目ないのにイタリアで戦争が終わったのは日本と数か月しか変わらん
ちなみにドイツ降伏はソ連に首都まで占領された後だ
日本もイタリア、ドイツのように東京占領後も長野に首都移転して戦う気がある奴もいただろうが
意外と独伊ファシストや江戸開城後の佐幕派よりまともだったかもな
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http://www.kaiga.co.jp/shop/upload/save_image/03041350_51342828b0086.jpgドイツ空軍の指揮下で東部戦線を戦った幻の国家『クロアチア独立国』空軍のエースたちとその後とは!?
モザイク国家ユーゴスラヴィアを征したナチス・ドイツは、同国を分割し、クロアチアに独立を与えた。
クロアチア人は東部戦線における枢軸国の戦いを支援するために飛行隊を編成し、ドイツから与えられた
BF09に登場してソ連軍と戦った。バルカン半島の忘れ去られた歴史を紹介します。
著者名: ドラガン・サヴィッチ/ボリス・チグリッチ
訳編者: 手島尚
版型: B5変型ソフトカバー
ページ数: 96ページ
初版年: 2004年
在庫: あり
Amazonのリンクも追加してみるクロアチア空軍のメッサーシュミットBf109エース (オスプレイ軍用機シリーズ):
ドラガン サヴィッチ, ボリス チグリッチ, Dragan Savic, Boris Ciglic, 手島 尚: 本
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http://ec2.images-amazon.com/images/I/51XCHAPN2AL._SS500_.jpg
救命ボートにつかまり、一昼夜漂流していた英海軍の乗組員を発見した駆逐艦「雷」(いかずち)の工藤俊作館長は、
422人の命を救った。
そのうちの1人、英国駆逐艦「エンカウンター」の砲撃仕官だったサムエル・フォール卿(きょう)が2008年12月に来日した。当時スバラヤ海域は敵潜水艦の魚雷攻撃を受ける危険が高かった。
そんな海域で工藤艦長は「最後の1人まで見逃すな」と命じ、「雷」の乗組員150名の総力を挙げて救助にあたった。
フォール卿と武士道: http://daitoua.edoblog.net/Entry/11/
武士道とか言うが
本当の武士だったら海に落ちた敵兵弓矢で射○して
わしの手柄じゃと主張するだろうな
ソビエトにいったイタリア軍は義務を果たした
電気工学者のヴラディミル・デヴィデ博士は、1970年からクロアチア作家協会に所属する文人
でもあった。同年、デヴィデ博士は『日本の詩「俳句」、そして俳句の文化的な枠組み』
(Japanska haiku poezija i njen kulturnopovijesni okvir) という俳句に関する著作を出版した
ことを皮切りに、俳句を中心とした日本文化の研究、発表、普及に貢献し、日本に関する
研究書だけで10点以上もの著作を上梓した。また、デヴィデ博士は1981年からクロアチア・
ペン・センター(クロアチア語: Hrvatski P.E.N. Centar、国際ペンクラブのクロアチア支部)に
所属し、1983年には、俳句などの日本文化をクロアチアに広めた功績を讃えられて勲三等
瑞宝章を受勲している。後年、世界俳句協会の顧問なども務めた。博士自身の手による
俳句の詩作は、日本文化や数学に関する著作と比べると数が少ないが、1990年代に4点の
作品を上梓している。デヴィデ博士は日本人のご夫人を残して2010年に85歳で亡くなったが、
その名はヴラディミル・デヴィデ俳句賞 (Vladimir Devide Haiku Award) などに今なお残っている。
ヴコヴァル出身の文学者レネ・マトウシェクも俳句に影響を受けたクロアチア人の一人で、
まだ彼が20代であった1980年代の前半頃から俳句を作り始めた。しかし、1991年8月25日、
連邦軍の軍事支援を受けて戦車や重火器で武装する約3万6000人のセルビア人勢力が
ヴコヴァルに攻撃を仕掛けた。この戦闘が開始されたことは、若き詩人マトウシェクの運命をも
決定づけた。ヴコヴァルを防衛するクロアチア人勢力の守備隊は僅か2000人でしかなく、全く
勝ち目のない戦いであったが、彼は町を捨てて逃げることを潔しとせず、ヴコヴァルに踏み
止まって無線で町の状況を知らせ続けた。だが、33歳のマトウシェクは11月20日を最後に
消息を絶った。マトウシェクは長らく行方不明とされていたが、2002年11月14日にザグレブの
法科学鑑定研究所が共同墓地に埋葬されていた複数の身元不明の遺体から彼の遺体を
特定して、1991年11月20日から21日にかけて連邦軍やセルビア人民兵によって行われた
虐○で亡くなっていたことが判明した。同月22日、マトウシェクの遺体は改めてヴコヴァルの
「クロアチア守護者の路地」 (Aleja hrvatskih branitelja) に埋葬されることになった。2008年、
彼の名前を記念した「レネ・マトウシェク」国際俳句会合が、クロアチアの画家であり文人でも
あるトミスラヴ・マリヤン・ビロスニッチによって開催された。ビロスニッチもまた、俳句に影響を
受けたクロアチア人のうちの一人であり、これまでに8点の俳句詩集を出版している。
ソース:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%E6%9C%AC%E3%A8%E3%AF%E3%AD%E3%A2%E3%81%E3%A2%E3%AE%E9%A2%E4%BF%82#.E3.82.AF.E3.83.AD.E3.82.A2.E3.83.81.E3.82.A2.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E4.BF.B3.E5.8F.A5
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1364064591/
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