【江戸時代】南海の聖なる少年・天草四郎と島原の乱について語ろう
のか?一揆軍3万7千人が一人残らず虐○されるという不可思議な結果
となった「天草・島原の乱」は、宗教弾圧に対する反発だけでなく、圧
政に苦しむ農民の乱でした。約360年の昔、自由と平等を求めて戦った
聖なる少年に思いを馳せるスレです。
★南海の聖なる少年・天草四郎について語るスレ★
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1019917214/
島原の乱では松倉重政や勝家が少々悪者にされ過ぎだわな。
江戸時代を通じて、旧領主を慰めるための「松倉祭」と呼ばれる
感謝の祭礼もあったとの事、奈良の領民には、かなり好かれていた。
しかも、島原に入った当初の重政は、南蛮貿易の振興の目的も有り、
キリシタン信仰にはかなり寛大な領主であった事が記録されている。
しかし将軍家光から直々に指摘が有り、キリシタン弾圧に転じる。
そして出てきたのが島原藩によるルソン攻略の計画だ。
松倉家は、キリシタンの本拠地であるフィリピンのルソン島に海外出兵する
計画を建てた訳だが、キリシタン根絶の為には、スペインのアジア支配の拠点
を根絶しない事には、どうにもならないと言う事が判ったのだろう。
ルソン攻略の計画は、島原藩だけではなくて
薩摩藩も建てており、幕府はその計画にも許可を与えていた。
幕府中枢は、ルソン島のスペイン艦隊やスペイン軍を警戒していた事が良く判る。
既に1588年の段階で松浦鎮信が、ルソン島の原住民による反スペイン蜂起の
計画に加わっており、九州の大名にはルソン島への関心が高かった事が伺える。
また、ルソン島からも島原のキリシタンと連絡する為に
密かに工作員の様な人物も上陸していたのではないのか?
そういう背景があって、島原の乱が勃発したのなら、島原の乱には、
かなり政治的宗教的な背景が大きく、スペインやポルトガルが支援した
キリシタンによる反乱と言う性格が、かなり大きい事になる。
島原の乱は、松倉家の圧制に苦しむ単なる農民一揆と言うよりは、
キリスト教国によって支援された小西家や有馬家と言うキリシタン
大名の旧家臣団が主導した政治的な反乱と言えるのかも知れない。
新教と旧教の違いと言うが、キリスト教には違いが無く、両者間の連絡も考えられる。
徳川政権ってぇのは、とにかく第2の源頼朝、源義経の出現を恐れたんだよね。
この二人を助けた結果滅びた平氏には絶対なりたくなかったんだろうね。
だからこそ、絶対従わないと思われる輩には容赦ない対応をしたと思う。
豊臣秀吉の孫国松の斬首も島原の乱の根切り同じ理由だと思う。
明治3年に発行された武者絵草紙「七草武勇鑑」画:落合芳幾 から一揆軍側の
将士を元の主家等と共に抜粋してみますと…(名前や出自の字は原文ママです)
・大矢野作左エ門(本多家浪人)・芦塚忠右衛門(大坂の将、郡主馬の長子)
・芦塚忠太夫(芦塚忠右衛門の弟)・芦塚左内(芦塚忠右衛門の一子)
・駒木根八兵衛(西国浪人>多分40氏の述べてる人)・四鬼丹波(中村家浪人)
・千々輪五郎左エ門(加藤家浪人)・赤星内膳(加藤家浪人)
・佐志木佐次右エ門(竜造寺浪人)・森宗意(小西家浪人)
・布津村代五衛門(天草布津村庄屋)・大江冶兵衛(天草大江村名主)
・葦田三平(上深江村名主)・七草(天草)玄礼(医者)
・鹿子木左京(棒火矢の達人)・七草(天草)甚兵衛(阿曽沼中務少鋪の末葉)
…といった所です。
出典が絵草紙なので存在が疑わしいのばっかりですが。(笑)
…とはいえ、上記以外の項には山田右衛門作もちゃんと出てましたし…
~~終了~~
天草四郎は初めて幕府に対して大きな反乱を起こした人物だ。
島原の乱→大塩平八郎の乱→薩長の討幕運動→明治維新へと至る流れの源流である。
したがって、近代史の始まりと位置付けることも出来る。
島原の領主は本当に酷い奴だったらしい。
幕府に納める税を軽くするため通常は自領の石高を低めに申告するが、この領主は見栄のために石高を高く申告した。
当然その負担は農民へといき、重い税を払えない者は見せしめに簑で簀巻きにされ火をつけられたりした。
最終的には収穫高の八割を納める様な状況で生きていくための食糧の確保さえ出来なくなり反乱が起きた。
天草四郎がいなくても起きた事だろう。
>>17
の問いには誰も答えていない
藩主の命令でわが一族から8人が乱鎮圧に参戦しました。
しまったらしい。 百姓に○された大名として有名というか顰蹙をかった情けない殿様
だったみたいだね、板倉さん。
板倉重昌は、可哀想だよ。
人間の皮をかぶった悪魔、松倉勝家が原因の反乱鎮圧を押し付けられた上に、
最後は松平信綱を派遣すると言われ、焦ったのだろう。
情けないという評価は今からは当然、当時から見ても不当だと思うよ。島原の
反乱軍は、悪魔に対して生存権をかけて戦ったからね。落城時、誰一人降伏せず
皆タヒを選び、南島原は無人地帯になったからね。彼らの戦意がいかに凄かったか判る。
天草四郎と島原の乱を描くファンタジー冒険物語が、ハリウッド映画として
企画されていることがわかった。
本作のタイトルは『IX: -Destiny’s Warrior-』。
“IX”とは隠れキリシタンを意味し、江戸時代を舞台に、虐げられた民衆を救い
自由と愛を守るために命を捧げた16歳の少年、天草四郎の愛と勇気を描く。
物語は、天草を主人公に、彼と戦いをともにする西洋人の武器商人の視線で進む。
今回、プロデューサーに名を連ねるのは、チャコのほか、マーク・カントン
(『300 <スリーハンドレッド>』『メン・イン・ブラック』)、ジョン・デイヴィソン(『ロボ
コップ』)ら、そうそうたる顔ぶれ。
世界最高レベルのSFX・コンピューターグラフィックスを駆使し、本場ハリウッド
製作のエンタテインメント大作に仕上げるという。製作費は約66億円。
現在は、脚本が仕上がり、プロデューサーが決定。監督、メインキャストの
契約交渉に入っている。すでに西洋人の武器商人役には、誰もが名前を知る
人気ハリウッドスターとの交渉が進んでいるという。追って新たな発表があるか
もしれない。監督はアメリカで活躍する人物を予定している。
主人公の天草役に関しては、現在オーディションを進めている最中。
ワールドマーケットへ打って出るハリウッド映画(英語作品)であり、日本人には
こだわらないという。
なお撮影地に関しても、日本だけでなく中国、韓国などのアジア圏、またニュー
ジーランドやオーストラリアも候補に入っているとする。
本作は3部作構想の第1作目。この先のスケジュールは、2008年秋に撮影に入
り、2009年の夏以降に公開の予定だ。
チャコは、今、天草四郎の物語を製作することに関して、「テーマは、負けても
勝っても永遠の命があるということです。(島原の乱では)日本人だけでなく、
いろいろな人種が自由と正義のために戦いました。今の日本、アメリカ、そして
世界に必要なメッセージを送り出したいと思っています」と語る。
公開されましたか?
「地獄の業火の中で、 腹を空かせ そしてタヒんでいった多くの罪無き無垢な子供たち、
民百姓たちの無数の血と涙が 俺を動かしたのだ。 エルエムエッサイム、
偉大なる魔界の神よ、我に勝利と力を与えたまえ」
説としては面白いが、何人も四郎がいてどうやって人をまとめ上げるのだろうか。
一人説に比べて、立証は難しいと思う。
美少年説そのものは後世の脚色と考えて間違いない。
原城に籠城した者たちは、獄中の一人を除いて皆○しになったから、
タヒ人に口なしだし。
ただ、何らかの特別なカリスマがあったことは事実。
その中の一つが美少年であったとしてもおかしくはない。
という話は事実ですか?
本人だけの言い分では信用し兼ねます。
戦場の悲惨さと少年が軍を率いてたっていう
ミステリアスさ
いいわー
加藤清正を聖人として描くことが多いよね
何故なんだろう?
小西も加藤も朝鮮遠征では戦わずに秀吉に嘘の報告をしていたんでしょ?
無いにもかかわらず、その存在を確かめようとすると、積極的に
それを証明する証拠はほとんど見当たらない存在とある歴史家が
のべていたね。
天草四郎を目撃した!古文書群が14年ぶりに見つかる [熊本県]
天草・島原地方で起きた島原の乱 (1637~38年) で、キリシタン
農民たち一揆軍を率いた天草四郎を目撃したという古文書群が、
14年ぶりに苓北町で見つかった。所蔵していた民間のキリシタン
資料館 「天草郷土資料館」(天草市本渡町) が2003年に閉館した際に
行方が分からなくなっていたが、館長を務めた故錦戸宏さんの遺族が
保管していることが判明した。謎に包まれた四郎の実在を裏付ける
貴重な史料として、再び注目されている。
古文書群は、熊本藩や久留米藩が江戸幕府の大坂城代や目付に宛てた
報告書など美濃紙48枚で構成される。1985年に苓北町の旧家で
見つかり、天草郷土資料館に展示されていた。
このうち、熊本藩家老の長岡監物(けんもつ)が大坂城代の
阿部備中守に宛てた四郎の目撃情報は、四郎の様子を詳述する。
久留米城下の洗(あらい)町から来た商人の与四右衛門(よしえもん)
は1637年11月14日から16日まで本渡町に滞在中、乱に巻き込まれた。
3600人の一揆勢は、富岡城番代の三宅藤兵衛 (唐津藩) を
討ち取るなどして勝利。与四右衛門は実際に見た合戦を、次のように
証言した。
「キリシタン軍は14日、本渡へ陸と海から攻め寄せた。四郎は舟で
本渡町茂木根(もぎね)に上陸、馬に乗る。白い絹の着物とはかま姿。
頭には苧(からむし)を三つ組みに緒(ひも)で留め、額には小さな
十字架を立てていた。手に御幣(ごへい)を持ち、軍を指揮していた」
「翌15日、島原から一揆軍の応援に来ていた大膳(宿泊先の主人)
らと舟ばたへ行くと、四郎は島原藩主・松倉勝家から奪った舟に
乗っていた」 (以上、要旨)
与四右衛門は商人の立場で自由に往来し、四郎を間近で見ることが
できたとみられる。1986年に古文書群を調査した五野井隆史
東大名誉教授(キリシタン史)は「生々しい見聞は、島原の乱と
天草四郎を知る上で貴重な史料だ」と評価。「物語的な話が先行しがちで
謎多き少年だが、四郎は実在したとみていいと思う」 と話した。
西日本新聞 2017年06月26日
http://egg.2ch.net/test/read.cgi/femnewsplus/1489748473/15
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1303735741/
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