江戸幕府の幕末における軍事力ってどのぐらい知ってる?旧幕府海軍・陸軍の実力についてまとめ
>>1
「甲鉄」だろーが。
とツッコミ入れたい…
せめて蟠竜(朝陽撃沈の殊勲艦)も入れてよ…
まだまだ多いような気がする。
それに証言に拠らざるをえない部分も多いから、研究対象としても
どうしても「マニアックな人のマニアックなジャンル」になりがちなんだよねえ
手頃な刊行物は「幕政改革」家近良樹編・吉川弘文館、幕府歩兵隊」野口武彦・中公新書かなぁ。
洋装軍服だから、英軍か仏軍ではあーゆーの被ってたのかな?
>>9
従来の陣笠では密集隊形の銃陣には不向きなので、細くしたような形に。
ただ、藩や隊によって被り物は大分違う。
小藩は韮山笠が多いし、薩摩のトンガリは末端(庇部分)が上に跳ね上がっている。
欧州のは帽子が長くなった感じだから、和洋共に(時期は違うけど)似たような進化ともいえる。
12 :名無し三等兵[sage]:2009/03/05(木) 10:46:13 ID:???
幕軍がゲベールを買ったのは、初期の頃のこと。
ミニエー弾を使用する前装式ライフル銃に移行し、
伝習隊の頃にはシャスポー銃に代表される後装式ライフル銃を導入してる。
型落ちのゲベールは八王子あたりの民兵の装備に回されつつあった。
幕府直轄軍の装備は当時の日本の中では優秀なほう。
幕軍並みの装備を持ってたのは、薩摩・長州・佐賀・土佐のほか、
長州戦役で痛い目を見た紀州や、例の長岡などでそんなに多くは無い。
ゲベールを高く売りつけられたのは、戊辰戦争になってあわてて洋式化を進めた東北諸藩。
まあ3匁筒とかの火縄銃、それすら足りず弓矢、木砲なんて藩も多い。
紀州藩は長州より軍備の洋式化は早い
他に美濃大垣藩、東北じゃ庄内藩も長州より早い
庄内藩は実戦でも薩摩や佐賀とも互角だった
美濃大垣藩は蛤御門の変で長州兵を敗走させている
土佐藩、長岡藩は長州より遅い
特に長岡藩の本格的な洋式化は鳥羽伏見の後
15 :名無し三等兵[sage]:2009/03/05(木) 11:23:41 ID:???
旗本・御家人の洋式部隊化はどうだったか。
幕府の洋式軍備研究は、先見の明のあった諸藩に比べると着手が遅く、
黒船来航後にあわてて整備に動いたという感じである。
江川太郎左衛門あたりを呼んで、旗本御家人の一部に射撃訓練をやらせだす。
初期の装備はゲベールだったようである。
井伊直弼時代にしばし停滞があるが、桜田門外以降は一気に話が進む。
庶民兵の歩兵隊が有名だが、御持小筒組(後に撒兵隊)や騎兵などは主に御家人からなる。
うち騎兵は伝統に則り、与力(寄騎)が主たる兵員供給源とされた。
将軍家茂上洛の頃には、総勢3000人の一行のうち700人程度がミニエー銃装備になっている。
歩兵1個大隊が入ってるので主力はそれだろうが、御家人部隊の御持小筒組も入ってる。
あとで、五番方旗本改編の奥詰銃隊なんて格式の高い連中からなる部隊もできてくる。
奥詰銃隊の装備はかなり優遇されてたようだ。
最後まで旧来の格式にこだわった編制をしてるが、作戦上、いろいろ不都合はあっただろう。
16 :名無し三等兵[sage]:2009/03/05(木) 11:50:51 ID:???
歩兵隊と正規武士以外に、ちょっと毛色の変わった部隊もある。
八王子千人隊。
八王子千人同心といった戦国以来の郷士で、本来は長槍隊。
便利だったようで、屯田兵として蝦夷地に送られて大被害を出したりしてる。
黒船来航後にゲベール銃の導入がされ、
長州征討の際には槍隊と銃隊が半々の編制で出動している。士気が低かったようだが。
戊辰戦争勃発時には日光警備を担当していたが、新政府側に無血開城した。
責任を取って組頭は自決。
神奈川奉行所下番。横浜警備のため正規の足軽等では足りず、非武士の警備隊を組織。
青い服装(緑のあお?)のため、通称「菜葉隊」。
駐留英軍を盗み見て勉強し、じきに指導を受けるようになり、しまいには合同演習までやる。
一部は函館警備に派遣されて、幕府崩壊後は新政府側の府兵に改編され、榎本軍を迎撃。
新撰組の甲府進撃に誘われたり、彰義隊に参加するお調子者も出たり。
御料兵。天領編成の民兵隊。
おそらく江川太郎左衛門が養成していた民兵の後身に近いんではないか。
大鳥圭介いわく、お行儀が良いが迫力に欠けたらしい。大鳥は伝習隊みたいな無頼が好みと。
江戸市中警備に出動後、彰義隊に参加したり、大鳥軍に加入して転戦、蝦夷地まで。
>>29
圧倒的に幕府海軍
長州がまともに運用した軍艦は第一丁卯のみ
佐賀は土地柄か要員訓練は比較的進んでいたので慶応4年以降軍艦購入し運用している。
慶応3年まで正規軍艦は電流のみ。
幕府の軍艦は
フリゲイト 開陽
コルベット 富士山・回天
スループ・砲艦 朝陽・蟠龍・千代田形
>26 27 28 31
紀州は彦根や越後高田ボコボコにされるなかで、よく奮戦していましたよ。
小倉か石見への援軍に、回っていたらどうなっていたでしょうか。
プロシアから顧問団を招いて、訓練していたようですね。
海軍も榎本武揚が指揮していたら、その力を発揮していたでしょう。
山陰方面の部隊が情けなかったイメージでも強いのか?紀州w
広島の方じゃ、幕府歩兵隊と共同で一進一退の攻防してたよな
あと、水戸長州肥前なんかは、一応天保の改革んときも軍制改革してる
まぁ時期が時期だから、これが洋式軍だ!っつーとこまでは行ってないが
やる気のある藩は装備の改革に成功してた訳で。
やる気はあるのに装備や軍制を改革しなかった藩もあるが。
長岡藩が一番善戦したことは知っているけどね。
長岡城を再度奪い返していますからね。
長岡藩による長岡城奪還は一度きりですよ。
領民の支持もないし軍事的には長岡はたいした障害になってなかったのでは?
>>46
どちらかどいえば恭順派が多かったそうです。
会津は藩境から進軍して長岡を、
巻き込みたかったそうです。
かなり強い部類だろう。
佐賀軍だって、南部軍辺りは一蹴してるから弱くは無い。
長岡藩兵も当然強かったが、対陣した敵がそれぞれ違うから
どっちが強かったかと言われると困るがw
幕府艦隊には新政府海軍と艦隊決戦して欲しかった
甲鉄がある新政府海軍が有利かな?
1777年 (仏) 軍用燧石銃の決定版完成
1848年 佐賀藩 火縄銃を廃し燧石ゲベール銃標準装備化
戊辰戦争発生の20年前に火縄銃は廃棄していた
1850年 佐賀藩 反射炉の製造着手
1866年 (英) 前装銃を改良し後装銃としたものを正式銃とした
エンフィールド(英・前装式) 1,300m
スナイドル(英・後装式金属薬莢) 1,400m
シャスポー(仏・ボルトアクション後装) 1,200m
スペンサー(米・レバーアクション後装式連発) 900m
三ツバンドミニエー(各国・国別で口径が違う) 820m
1000mもあるとはすごい。
銃器も幕府歩兵は十分優れていたが
四境戦争や鳥羽伏見見るとやはり思想、組織、戦術面が敗因だった
慶喜、お前のことだよ
違うだろ。
幕府軍の総参謀総長たる地位にあった勝海舟が
まったくの口だけの無能だったことが
幕府軍大敗の原因。
>>67
勝は慶喜と合わないから遠ざけられてたろうw
長州と戦った時は小笠原長行
高杉に噂に名高い賢人さん早よかかって来きなさいと挑発され
その隙に逆に奇襲され艦砲射撃で渡られた
薩長はチートすぎる。
引用元: http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1286027507/
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