武蔵七党という、平安時代〜鎌倉時代をかけて暴れまわった関東の武士団について
スカイツリーも建ったし。
634.
よく登場するね
マイナーだけど
>>3ですけど、今でも普通に横山さんとか近所にいるから驚きです。
あとは何故か近所に大庭さんが多いですw
今も昔も水田あまり無いですが陸稲だっただろうか
旧入間川方面は条里の痕跡がある
名乗ってる人多いはず
北海道の道南十二館はドンピシャらしいが。
藤田康邦)。
猪俣党は小野妹子の子孫だけあって、生き様は格好良い人が多い。
↑の用土の娘は「前田慶次郎」に嫁いでたりする。
じゃ藤田信吉と慶次郎の嫁は
おじめいの関係なのか
武蔵七党の横山氏・猪俣氏の出自が、中央豪族小野氏というのはお決まりの
仮冒だろ。
武州多摩郡における小野氏の足跡を見ると決してそうとも言い切れない。
篁や好古とかが有名だけど
分家や支流が多くあっただろうしな
>>28
町田市の小野路にはその小野篁を祭る小野神社がある。
武蔵国司で篁の7代子孫の小野孝泰が建立したと言われる。
「小野路」は「小野へ向かう道」の意味。
武蔵国府の置かれた多摩郡域は古くは「小野県」「小野郷」などと呼ばれた。
そこへ向かう道筋の意味。
他にも古代には勅旨牧であった「小野牧」「小野馬牧」もあった。
国司としては孝泰のほか、武蔵掾→武蔵介→武蔵守と武蔵の国司を18年間にも渡って勤めあげた小野(高向)利春などがいる。
これだけ同地の歴史に小野氏が絡んでいながら現地豪族として根を下ろしていない(現地豪族と姻戚関係を結んで婿入りしていない)と考える方が逆に不自然。
大伴氏とかもそうだけど
ほとんどが藤原北家
千葉、児玉ってまだ普通にいるからね。
武蔵、秩父、千葉、方面は普通にまだ当時のままで残ってる。
農家、旧家はほぼそっち計なんだよ。
だから彼らに話を聞き、考古額的にしらべればいいかも。千葉、武蔵、秩父はまだ存命なんだよね。
うちの鎮守神社の氏子世話役は小野姓だし、武蔵総社大國魂神社の世襲の神職には横山姓の人がいる。
ちなみにうちの近くの商店街の会長も横山さん。
武蔵総社・六所宮(現大國魂神社)の宮司職を鎌倉時代以来世襲する猿渡氏(秀郷流藤原氏)は、元々は都の武官(軍事貴族)から鎌倉御家人になった家柄なのだが、
頼朝から平賀氏が武蔵国司に任じられた時、同時にその猿渡氏は武蔵総社神職に任じられている。
吾妻鏡によるとこの猿渡氏は、この時期横山氏と行動を共にしていたことが分かっている。
多摩横山荘(現八王子市横山と言われるが異説もあり)を本拠地に持つ多摩郡の有力豪族・横山氏は、おそらく平安末期頃の武蔵総社宮司職を勤めていた可能性が高い。
武蔵総社宮司職に任命された猿渡氏は実際には、代々同総社宮司職を世襲していたこの横山氏に婿に入ったと見るのが妥当だろう。
その横山氏も同様に中央貴族・小野氏が多摩郡の有力豪族に婿入りしたものだろう。
その有力氏族とは、おそらく出雲氏族で初代武蔵国造・兄多毛比命(天穂日命の後裔・出雲国造氏同族)の末裔である笠原氏だと思われる。
しかし調べてみるとどうもその笠原氏にも更に前身氏族があって、どうやらそれは物部(ry
横浜なんだが、
武蔵七党で最大の党は児玉党と言われる場合と横山党と言われる場合とがあるけどどっちが本当?
武蔵七党としたらちと異端かもしれんが中々面白い
結構な勢力だったのにパッタリといなくなり、以降一切無名となったナゾの幻の一族だよね
丹党の一族は、丹党加治支族の中山氏が水戸徳川家の家臣になり、常陸松岡で二万石を領す大身中の大身として残っているよ。
そしてこの中山氏の女が第三代水戸藩主の側室に入り、生まれた男子が第四代藩主を継いだため、徳川一門にも列せられた。
また、明治に手綱藩として立藩して男爵にも列している。
↑の経緯から徳川会にも所属している。
実は子孫がちょっとした知り合いなんだ。
そして小野(神社)に関連して出会った。
ちょっと町田の小野路はまわってみたいかも
http://century660.sakura.ne.jp/castle/
近所に伝説があるんだが、、
CKBの横山剣(本名:横山正佳)
尾張の支配者変遷
尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び
南北朝以降は土岐、足利、今川、一色・・・と移り変わり、織田氏の登場を待つ。
長秀の剣法中条流は、中条氏の祖小野氏時代より刺撃の術を伝え、中条頼平に至り特に精妙となり。
これを平法とも中条流ともいった。これが長秀に伝わり、長秀が念流系の中条流の中興の祖といわれた。
(『豊田市史』より抜粋、『大日本剣道史』)
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬○がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬○がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
あと東限(北限)は出羽(羽前)のどこかにも地頭職を与えられて進出してなかったか。
(宇都宮氏の一族で小田氏の祖)の養子となり、藤原姓を名乗っている。
本拠地も埼玉北部の熊谷周辺で、横山党の本拠の多摩や相模北部からは随分離れ
ている。
だから、厳密な意味では横山党の武士とは言えんね。出自は確かに横山党なんだ
けど。
猪俣党?
「丸」は小野氏の本姓である和邇氏の別表記である「丸氏」「丸邇氏」「丸子氏」などの「丸」に由来しているのかなあ?
まずは横山党小野氏の奉祭社だった武蔵総社大國魂神社か小野神社で祈念するがよろし。
きっと神が導いてくれる。
八王子の横山神社には行こうと思っています。
自分も家系は武門藤原氏の系譜(家は士族で藩士会にも所属)なのに、ある時から横山さんとか小野さんとかとやたらオンオフ問わず出会いだして(↑でもちょっと書いたけど)、それは今でも続いてる。
しかも要所要所で出会う(というか、助けが必要だったり、なにかで困って途方に暮れているところに現れてピンポイントで助けてくれるのが横山姓、小野姓の人)。あまりにも続くのでちょっと気持ち悪い。
で、色々と自分の家と小野・和邇氏に歴史的に接点があるのかないのか、とか、小野・和邇氏そのものの成り立ちとか調べてる。
こうなると科学(人文科学)板の枠超えちゃってて恐縮だがw
そういう奇妙な偶然は、確かにあると思います。
私の場合、黒田藩の末裔とは良くも悪くも因縁があるようです。
54さんは士族とのこと、家系がはっきりしているのは羨ましいです。
黒田ですか…
元は播磨、さらにその先は近江とも言われてますね確か。
近江は和邇・小野地区があるくらい同一族の本場です(小野神社、小野妹子神社などがご鎮座)。さらに俵藤太の百足退治伝説で有名な近江瀬田川が山城に入ると宇治川(我が家はは秀郷流藤原氏の系譜です)。
この宇治の地が、和邇氏の難波根子建振熊命(神功皇后の側近だった武人)の子孫が根拠地としたところ。そして宇治川北岸には藤原氏の平等院鳳凰堂があってあたりは藤の群生地。
もちろん対岸(南岸)の宇治神社、宇治上神社、許波多神社などは和邇氏ゆかりの神社。
大和における春日大社はもちろん藤原氏の総鎮守だけど、ここも元々は和邇氏の奉祭地。
上の山城宇治と相似形を成しているようで面白い。
だから「伝説」と書いたでしょ。
でも『記紀』の神代段もそうだけど、
伝説や神話の類ってのは、なにかその元になるエピソードが存在する、という立場なので。
そうだ百足退治のところで書き忘れていた…
この俵藤太の百足退治伝説とそっくり同じと言っても良い伝承が北関東にあって、それが「小野猿丸伝説」。
またしても小野=和邇と藤原の相似形、
そして猿丸の「丸」は和邇(丸邇)と掛けているのかもしれない。
実際、船の名前につける~丸の「丸」は航海氏族であった和邇(丸邇)氏に由来している、という説もあるくらいなのです(和邇氏研究の第一人者である岸俊男氏の説だったかな)。
中山氏から黒田氏に養子に入ったんでしたっけ?
多摩郡の府中に人見神社(人見稲荷神社)が鎮座していて、これが猪俣党人見氏の奉祭社であった可能性があり興味深い。
本来の人見氏の本拠地は深谷の人見だが、この人見氏の一族がなぜ本拠地から遥か南の多摩郡に飛び地を有していたのかは謎。
だが、その理由は多摩郡を本拠地とする、猪俣党の同族である横山党に実質婿入りしてきたということなのだと思う。
その証拠に、人見稲荷神社の祭神は、後世に合祀された稲荷神を除くと、一宮である小野神社の祭神と完全に一致するから。
付近には武将・人見四郎の墓がある。
この多摩の人見氏は、姓は人見(猪俣党)でも、実質は横山党の一員だったのだろう。
また、この人見神社の後方に浅間山と呼ばれる標高80Mほどの丘があって山頂には木花咲耶姫を祀る祠が鎮座しているのがこれまた大変興味深い。
人見神社とちょうど里宮と奥津宮のような関係になっているから。
全国の浅間神社系の総本宮である富士山本宮浅間大社の宮司家は富士氏だが、この富士氏の本姓は、猪俣党や横山党と同じ和邇氏である。
いま誰もやる人がいないので家の歴史をまとめていて調査中なんだけど、最近町田の小野神社と八王子の
八幡八雲神社に行ってきた。神社の沿革書きを見ると小野神社と違うことが書いてある。で、横山党の祖先の
小野義考は小野考泰の子じゃなく小野妹子の小野氏とは違う土着の豪族である小野諸興の子であるという説
があってそれは納得が行って、八王子にある諸興の開発した小野牧場が勅旨牧に指定されている。もしかすると
八幡八雲神社は小野考泰が建てたのではなく諸興か義考が建てた可能性が高いと自分は思ってる。
そうすると猪俣党と横山党は全く別の一派ということになるね。まあ武蔵野武家であることは同じだけどね。
その由来書きは私も読んだことがあります。
また中央からの派遣系でない「武蔵土着の小野氏」なるものの存在を説く言説が多く存在していることも知っています。
しかし、その人たちに問いたいのは、ではその「土着系の小野氏」とはそもそも何者なのか?ということです。
その「武蔵土着の小野氏」とは、どこから来たのか?
どこかから降って来たのか?どこかから湧いて来たのか?
そもそも「土着の豪族」の定義とは何なのか?
この問いや疑問に答えている文献やサイトに出会ったことがないのです。
私は小野篁や小野妹子系じゃないから中央小野氏とは無縁の「土着の豪族」と考えるのは早計に過ぎると考えています。
そもそもその「土着豪族」の定義が難しいのです。
小野系図を見ればわかりますが、実際に朝廷は国司に任ずる際、同一氏族の同一人(妹子なら妹子、篁なら篁といった)の直系に限るわけではなく、一族一門の中から広く任じて派遣します。
例えば陸奥における鎮守将軍には安倍氏が歴代多く任ぜられていますが、同一人の子孫に限って任じているわけではなく、広く一門中から任じています。
また、小野氏も陸奥の征蝦夷戦には多く任命されています。
そもそも武蔵に小野氏が多く関わっているのは、この関東の後背地である陸奥の征蝦夷政策があることが大いに関わっているからだと考えています。
小野氏は、坂上氏や文屋氏と並ぶ軍事官僚だったからです。
斎場としての歴史はもっとずっと遡る可能性があるのではないか?
事実、神社のすぐ近隣には浅間古墳郡がある。
そして浅間系神社なのでやはり和邇氏との関連性に注目が行く。
そこで気になるのがこのあたりの地名が、上丸子、中丸子、下丸子、新丸子といった具合に「丸子」地名が神社を囲むように覆っていることである。
「丸子」は今は「まるこ、まりこ」等と読むが、元の読みは「わにこ」であったらしい。
やはり「和邇の一族」「和邇の同胞(ハラカラ)」なのだ。
このような状況証拠から、このあたり一帯は多摩郡同様に元々和邇氏の勢力圏であり、浅間古墳の被葬者は和邇一族なのではないか?
多摩市一ノ宮の小野神社周辺という説があるが、どちらにしても小野諸興が土着豪族
であることは間違いなさそう。小野牧は非常に大きな規模だったそうで朝廷に回す分だけでなく
武家にも回しただろう。相当の財力があったと思える。だから神社を建てられるわけだよ。
小野牧ガ横山に近いところにあることを考えると横山党との関連性が非常にあるね。
古代は祭政一致なので特定豪族が統べる地域には必ず神社を奉祭します。
また、豪族の館や執政府が神社とイコール(含み含まれる)であったりもしますし、新しい館への移転などによって、元館や元執政府を神社に変える場合もあります。
小野某の名前を散見されるんですよね。小野諸興も別当になる前は散位だったからもともと都から
来た小野氏の子孫かなという気がしてきました。また、横山党の主な資金源は牧場だったから
小野孝泰の子が小野義孝というのは正しくないかもしれず小野諸奥の子かもしれない。そうすると
猪俣党の祖はいったい誰なのかよくわからない。小野孝泰という人物が謎なんですよね。
親戚に配ったバージョンとWEBサイトとは若干違っています。ちなみに六野太忠澄
の兜を見せてもらっているのですが、かなり小さかったです。昔の日本人はこんなに
小さかったのかなと。平忠度は六野太を軽く投げ飛ばしたという話ですから忠度のほうが
今の日本人の大きさだったのかもしれないですね。
関東vs東北
神奈川の相模武士・和田義盛「東北一の勇将と呼ばれた国衡を騎射で倒したけどアイツ弱かったな(笑)」
埼玉の武蔵武士・畠山重忠「いやアイツを組み伏せて首を取ったのは俺の部下だから(笑)」
初めて本にした人が間違えたと思われるのだが、六野太と書くのが正しい。
仮冒だな。
児玉党といえば源平合戦、いざ鎌倉!で、源頼朝を主君と仰ぎましたが
我が家のご先祖さんは源義仲を主君と仰ぎ、児玉党一族でも兄弟が敵味方と
なったこともありました。
昨日は小手指ヶ原の古戦場跡に行ってきました。
1333年新田義貞とともに鎌倉幕府軍と30回以上も此処で打ち合ったそうです。
軍配紋の旗印を翻し平安末期から室町時代まで騎馬軍団として駆け抜けた
勇敢なご先祖さんに想いを馳せましょう。
児玉党
三番に、西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。
関東衆、馬上の攻め者にて、是れ又、馬入るべき行にて、
推し太鼓を打ちて、懸かり来たり 信長公記より。
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1325810623/
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