https://www.jiji.com/jc/article?k=2020102800453&g=soc
後鳥羽上皇が鎌倉幕府の北条義時の追討を命じ敗れた「承久の乱」を描いた
「承久記絵巻」が約80年ぶりに発見された。和歌山県高野山の龍光院が所蔵し、
1939年に博物館で展示されてから所在が分からなくなっていた。
承久記絵巻は全6巻で、各巻の長さは約15メートル、縦は約50センチ。
義時と御家人の協議や宇治川合戦など36場面が詞書きとともに描かれている。
今年1月、個人で所有していると聞いた京都文化博物館(京都市中京区)の学芸員が、
木箱に絵巻が入れられているのを発見した。紙の質や装飾などから江戸時代初期のものとみられるという。
承久の乱の経緯に関する絵巻は他に残っていない。同館は来年4~5月、特別展で全巻を公開する予定。
約80年ぶりに発見された「承久記絵巻」。鎌倉幕府の御家人が集まっている場面=26日、京都文化博物館
https://www.jiji.com/news2/kiji_photos/202010/20201028bo01_p.jpg
次の大河はこれで決まり
錦の御旗側が敗れるのをNHKが放送できないだろ
太平記やったやん
昭和天皇が亡くなったから放映できたと言う話もあったな
>>1
1939年の博物館での展示後行方不明
↓
今年1月、個人で所有していると聞いた京都文化博物館(京都市中京区)の学芸員が、木箱に絵巻が入れられているのを発見した。
つまり、その所有してる個人の祖先というか、80年前やから個人の親父か祖父がパクったという事やろw
>>50
国粋主義者が幅利かせてた時代やから「国賊北条氏の戦勝記念画像」が毀損される事を憂いた当時の学芸関係者が隠したんかもな。
敗戦後もアカが横行する中で然る引受人も見当たらぬまま個人が保管し続けてたとか…元の管理者たる高野山の立場が無いけどな。
保存状態の良い桃山期の絵巻なら絢爛豪華なんかねえ…京都市文化博物館で公開するなら見てみたい。
終戦後に旧皇族、華族、農地解放で没落した地主、財閥解体、
国からの援助を断たれた寺社から正規ルートで大量に売却されてる。
あるいは、借金の担保に取られたり、質流れになったりもしている。
それで大儲けしたのがあの鉄道会社だったりしてる。
80年前に盗まれたんだろ
>>222
戦時中の混乱で恐らく博物館の関係者が自宅に保管
その関係者がタヒ亡して相続人が経緯を知らずに古物商に二束三文で売却
古物商はワケあり品を個人に高値売却
購入した個人タヒ亡で相続人の現所有者が良心ある古物商に売ろうとして表面化
そんなところだから「盗まれた」とまでは言えないだろうね
現所有者に返還義務が無いことだけは確か
戦後処理の領地取り上げやそれに伴う
後鳥羽上皇の第二子の御室の道助法親王の愛人たる
美少年「勢多伽丸」の悲劇も絵巻にあるのなら昨今のBL人気から
閲覧希望者は押し寄せると思うぞ
>>279 > 大胆な//
う~ん、普通だと思うんだけどもね。
法永長者ってなんとなく、商人だった気がするね。
早雲が出自を語らなかったのは、後世の新九郎みたいな、
油屋呼ばわりが嫌だったんじゃないかな。まぁ、業種は何だったのかは分からないが。
法永長者については、小川城主の長谷川次郎左衛門政宣、なんて云われるが、
これって、龍王丸が今川氏親として家督を継いだ後に取り立てられたんじゃないかな。
『今川記』に「山西の有徳人(西駿河の富豪)」と書かれてるそうだし。
早雲が室町幕府の伊勢氏だったなら、立派なもんで、
そう云えばいいのであり、出自を伏せる理由なんか無いでしょう。
後北条氏は次代以降では、名門とはいえ陪臣の扇ガ谷、山内といった
両上杉氏と対峙するのだから、こっちは幕府直臣だ、と張り合えばいいんだし。
今一つ、早雲の出自っぽい情報だが、早雲ウィキから。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%E6%9D%A1%E6%A9%E9%9B%B2
> 出自に関する論争・・・伊勢説は『北条記』『相州兵乱記』に書かれており、
早雲が信濃 小笠原定基に宛てた書状で、小笠原家臣の関右馬允春光について
「伊勢の関氏で自分の同族(名字我等一躰ニ候、伊勢国関與申所、依在国、
関與名乗候、根本従兄弟相分名字ニ候)」と書いていた//
法永長者は流通なんかにも関与してて、伊勢国とも取引なんかがあって、
亀山あたりが地盤の関氏とも、何らかの関係を結んだりしてたんじゃないかしらん。
えっと、承久の変だっけ。
>>1 > 「承久記絵巻」。鎌倉幕府の御家人が集まっている場面//
当主の三浦義村も混じってるのかな。
三浦氏はヘンな動きしてて、在京していた末弟の三浦胤義は宮方に対して、
兄の義村は日本国総追捕使に任じられるなら必ず味方する、と確約したんだそうな。
> 高野山の龍光院が所蔵し、1939年に博物館で展示されてから所在が分からなくなっていた//
5代目の北条氏直は、父親とか、相手の猿ほどDQNではなかったお蔭か、
隠岐には流されず馘も繋がったのだが、追放先が高野山ってのは、何の因果かな。
>>344 > 義時追討の院宣なのに 朝廷対幕府の対立構図に持ち込んで//
結局三浦義村は、胤義からの密書を義時に差出したんだが、義時はチトびびったらしいね。
>>354 > 上皇クラスが討伐命じて敗れるとかダサすぎるなw//
帰ってきた方も、結構ダサかったと思うんだが。
>>399 > それは惜しいこと//
だからさ、アンタが遣ればエエだろ、期待できんがね。
てか、随分アンタしつこいけどさ、オリジナルのシッタカなのかね。
早雲ウィキから。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%E6%9D%A1%E6%A9%E9%9B%B2
> 出自に関する論争・・・小和田哲男が史料調査の結果として「伊勢新九郎盛時」を
後の北条早雲とする論文を発表し、その後、有効な反論も出ず、ほぼ定説化した//
あんまり相手にされてない、ってだけだろア○。
そのヒトてっさ、全然関係ない新九郎盛時サンなんだよ。
序に云えば、長井新左衛門尉なんてのも、居たとしても、道三とは何の関係もない。
補足>>356
> 早雲が出自を語らなかったのは、後世の新九郎みたいな、
油屋呼ばわりが嫌だったんじゃないかな//
斎藤道三ウィキから。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%E8%A4%E9%93%E4%B8%89
> 新左衛門から家督を継承している[3]・・・
永禄3年(1560年)7月付けの「六角承禎書写」・・・次の内容を持つ。
・斎藤治部(義龍)祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶であった。
・義龍父の左近大夫(道三)の代になると、惣領を討ち○し、
諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗った。
・・・道三一代のものと見られていた美濃の国盗りは道三一代のものではなく、
その父の長井新左衛門尉()との父子2代にわたるものであることが明らかとなった・・・
3.^ 小和田 1996.
斎藤道三は1人だよ。六角承禎ってどういう香具師かを考えな。
戦下手で謀略好き、門閥意識ばかり強くて粘着質、まぁ、戦国武将としては最低だね。
道三は土岐頼芸を追い出して美濃を手中にしたのだが、承禎は頼芸に娘を入れたりしている。
要するに、美濃で何らかの利権を獲得したかったのだろうが、何も得られなかった訳だ。
加納口の戦いでは、道三に与してる様だが、まぁ、いいように利用されただけだね。
結果として、道三の美濃制圧を目の前で傍観させられたという事だ。
承禎は斎藤道三が大っ嫌いだったんで、事績を貶めたんだよ。
成り上がった油屋とはいえ、一代の英傑ともいえる。
そこで、実は父親の事績を引き継いだだけの甚六にしか過ぎん、事にした。
永禄3年(1560年)7月といえば、直前は桶狭間、直後に六角は、浅井に手痛い敗北を喰らってる。
六角承禎ウィキによれば、「美濃を簒奪した出自の怪しい美濃斎藤氏との同盟に反対」なんだそうな。
信長様への盾にもなるんだから、仲良くしとけばいいのに、困った人だね。
こんな耄碌爺の妄言に惑わされるなんて、いったいどういうツモリなのかね。
「国盗りは道三一代のものではなく」と読み解いたなら、その悪意・劣情ってもんを読み取れよ。
史料ってのはさ、そういった見方をしないとね、解釈なんて出来ないんだよ。
戦争かな。
疎開させて荷物に紛れたとか
「沖に流されるぞ!」
って注意したら
DQN「沖に流されるって後鳥羽上皇かよw」
DQN女「超~承久の乱?w」
「帰って来れなくなるぞ!」
DQN「は?後醍醐さん普通に帰ってるしw」
DQN女「建武の新政マジパねえw」
とか言うから呆れたわ。
これを見にきた
絶対貼ってあると思った
早くてワロタ
なんか違うぞ
改変がつまらない
>>6
178 女性音楽教諭(大阪府) 2007/05/26(土) 22:54:20 ID:epWRnYVI0
こういうDQNは停めても無駄なんだよな
俺も遊泳禁止の場所で遊んでるDQNに向かって
危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!って注意したら
DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」
DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の変〜」
とか言って聞き入れなかったわ
タヒんで当然だと思った。
193 女性音楽教諭(大阪府) 2007/05/26(土) 23:05:47 ID:epWRnYVI0
>>188
いや、マジで。
俺「ふざけるな!マジで帰って来れなくなるぞ!!」
つったら、
DQN「は?後醍醐さん普通に帰ってるしww」
DQN女「パねえ、パねえ建武の新政マジパねえww」
とか言うから、
勝手にしろ!!って呆れて帰ってきた・・・。
なるほど。
これがオリジナルか。
>>503 > よくわからんけど、仮名手本忠臣蔵の吉良上野介がフランキー//
呼んだ? 昔は真田広之の外の人だったんだが。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%E5%B8%AB%E7%9B%B4
> 尊氏の嫡子である足利義詮が図像の人物の上に花押を押し、
自分より格下の人物として扱っている(父の図像に対する行為としては有り得ない)
・・・『太平記』(NHK大河ドラマ、1991年)演:柄本明
讒言しそうなイメージだが、されたっぽい。承久の変が前提だな。
>「王(天皇)だの、院(治天の君)だのは必要なら木彫りや金の像で作り、
生きているそれは流してしまえ」と発言した(と批難された)
>>507 > 改変//
昔は変だった、乱じゃなくて。
ダサすぎない?
仕掛けるのが遅すぎた
あと『変』というのは実際支配者が変わるものを指すような印象なんだけど
諸兄の意見が聞きたい
【乱】軍事蜂起を伴う国家(天皇)への反抗
【変】ときの政権の転覆工作
ソース:「歴史をつかむ技法」山本博文
御所に大砲ぶち込んだ禁門の変はどうなんだ
乱じゃねえのか
だってのちに官軍になったんだから仕方ない
上皇が天皇の作ってる秩序、幕府に反乱したんじゃね?
この戦いの勝敗を分けたものは何か?って見ると
ホント現実的だよなと思う
だいたい家康のせい
くすねた目的が売買なら痛まないように大事にしまっておくだろうから、それが幸いしたかな
飾って見せびらかすこともできないしね
北条王朝の始まり
>>22
平氏がその前に政権とってるから。
小学生に日本の歴史教えてもらえ。
>>48
あんな、これ以前は関東は武家、関西以西はまだ
朝廷の権力下やった、この乱の結果幕府の支配が確立した。
この乱までは、ひっくり返る可能性もあった。
TV放送は再来年だった
大河やるのか
朝…挑戦的だなぁ
1600年~1700年?くらいに承久記絵巻作られる
1939年所在が分からなくなる
2020年発見
承久の乱を描いた承久記絵巻が80年ぶりに発見される じゃなくて
承久の乱を記した承久記が800年経って発見された! だったらずっとインパクトあったねぇ
盗品ではあるが、今の所有者には関係ない話よ。
後鳥羽上皇 承久の変で隠岐に配流
土御門上皇 承久の変で土佐に配流、後鳥羽の皇子、穏健派
順徳上皇 承久の変で佐渡に配流、後鳥羽の皇子、主戦派
後醍醐天皇 元弘の乱で隠岐に配流
平清盛って島流しにはしてないんだっけ?幽閉だけ?
さすがに鎌倉時代にまで「菊のタブー」を及ぼすことはなかろということかな
吾妻鏡、北条政子演説意訳
頼朝公に忠勇なる八幡太郎の武者たちよ。各々心を一にして聞いてほしい。
これは政子、最後の言葉である。
我々は英雄の子、実朝を失った。しかし、これは終焉を意味するのか?
否!始まりなのだ! 公家勢力に比べ、我等関東の国力は30分の1以下である。
にもかかわらず今日まで戦い抜いてこられたのは何故か?
諸君!関東の戦争目的が正義だからだ。これは諸君らが一番知っている。
我々は公家共にいいように使われ、関東移民にさせられた。
そして、一握りの公家が奥羽にまで膨れ上がった朝廷を支配して400余年、
関東に住む我々が自由を要求して何度公家どもに踏みにじられたか。
頼朝公が掲げた自由のための戦いを八幡神が見捨てるわけはない。
私の子、諸君らが愛してくれた実朝はタヒんだ。何故だ!?
新しい時代の覇権を我ら選ばれた武士が得るのは必然である。
ならば、我らは襟を正し、この時局を打開しなければならぬ。
我々は源家と共に過酷な関東を生活の場としながらも共に苦悩し、
錬磨して今日の文化を築き上げてきた。その恩義はシュミ山より高く、海よりも深い。
しかしながら朝廷の公家共は、自分たちが関東の支配権を有すると増長し我々に追討の宣旨を下す。
諸君の父も、子もその公家の無思慮な抵抗の前にタヒんでいったのだ!
この悲しみも怒りも忘れてはならない!
それを、実朝はタヒをもって我々に示してくれた!
我々は今、この怒りを結集し、公家共に叩きつけて、初めて真の勝利を得ることができる。
この勝利こそ、源家への最大の恩義となる。
坂東武者よ!悲しみを怒りにかえて、立てよ!坂東武者よ!
我ら関東こそ選ばれた民であることを忘れないでほしいのだ。
優良種たる我らこそ日の本を救い得るのである。
>>67
意訳どころかギレン臭が酷い…関東と坂東は表記を統一した方が良い
> 諸君らが愛してくれた実朝はタヒんだ。何故だ!?
北条義時に「坊やだからさ」と呟かせたいねえ…♪
ジーク・カマクラ!
>>67
承久の乱の時に政子の檄文を読み上げたのは三河武士の安達景盛
三河縁故の武士が、裏でガッチリタッグを組んでいた
北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)
男系、女系共に源頼朝に近い足利氏が使命感をもって、武家社会を源頼朝の三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)に戻したのさ
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事だ
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
鎌倉時代~江戸時代までは現代風に言えば軍事独裁政権が続いてきた
戦前のスペインもブランコ将軍が軍事クーデター起こして国王を国外に叩き出してる
軍事政権というよりヤクザが国を治めていたという表現かな
京都から組長連れてきて若頭の北条が鎌倉組を仕切っていた。
国を治めてるならヤクザとは言わんだろw
ちゃんと法にのっとってるんだぜ
承久の乱だって別に罪のないものを勝手に討伐しようとした後鳥羽が悪い
とは公家だって言ってることで
いわゆる武士は貴族の私兵だからな。
極端な例えすれば警察も自衛隊も仕事しなくなって政治家が自分たちの私有地を守るために雇ったやくざが力を伸ばして実権握ったのが平安時代後期から鎌倉時代。
今の山口組じゃんw
マジでそういうノリだよ
今じゃ司幕府だよw
執権が独眼竜かなw
そんなの当時のヨーロッパの貴族も同じだ、ア○
武士道が「再発見」される契機である
欧州の騎士道精神だってねえ…
欧州諸侯やランツクネヒトあたりの行状を思えば
当時の貴族や武士も実態は似たようなもんだろなあとも
>>84
いやいやいやw
鎌倉武士はモンゴル騎兵よりヤバい連中なので
あらゆる意味で
>1939年に博物館で展示されてから所在が分からなくなっていた
どういうことなの? 博物館に泥棒が入ったの?
それとも博物館関係者が売り飛ばしたの?
持ち主寺だし売ったんじゃね
戦後の食糧難とかで
持ち主に背乗り
文化財を勝手に売却しますた
だろ
関係ない。
だから北条早雲から始まる北条五代は「後北条氏」とも呼ばれ分けられる。
まぁ、始祖(伊勢長氏・北条早雲)の出自がはっきりしないが、血縁はないんじゃないかな。
始祖は三浦義同と終生の仇敵だったそうだし、周りには、今川・武田・上杉といった名門も多かったしで、
三浦の格上御家人だった北条を名乗ったんじゃないかな、氏綱の代からは。
三浦氏は滅ぼしても、残党みたいなのは多かったのかもしれないし。
>>154
後北条氏は室町幕府の高官・伊勢氏の出でしょう
出自がはっきりしないとか、それは昭和時代の歴史観だよね
アプデイトしなくちゃ
まあ執権北条氏の直系は滅んでるからね
ただ後北条家は関東支配においてそう意識させようとして北条を名乗ったのだろうね
伊勢氏の氏綱が鎌倉北条氏の直系を称してた横井氏の娘を
嫁にしたんだよ
そんで北条氏に改姓し家紋も変えた
そっちのが関東には通りがいいんで
鎌倉北条氏は善政で有名だったから
後鳥羽上皇方に付いた公家や武将は皆○し。
まさか天皇は○せないので、遠島島流しの刑と言う悲喜劇w
歴史的には価値あるだろう。
史実かは別として
歴史マニアは「歴史的価値がある」と言うから胡散臭いんだよ
写真もビデオもなかった時代の400年後の絵巻なんかに価値なんかあるわけないわ
承久の乱の史料としてでなく江戸初期の文化史料として価値があるんだろ
そうならそう書けと言いたい
「江戸初期の文化資料」なら我が家にもあるわ
京都市内の詳細な絵地図だけど学者などには見せていない
15m???
なんでそんなもんが行方不明になるんだよww
高野から坊主が持って降りたんだろ
どっかの古刹のパトロンとかじゃね
鎌倉幕府は🇯🇵日本全て統治していたわけではない
信長だってそうだったからな
それ、勘違い多いよね。
まあ、勘違いと言うか教科書の記述があれだから。
徳川幕府と同じようなものだったとわざと勘違いさせてるというか。
政子の演説シーンが書かれてないんだって?
政子の演説で勝利!て神風で勝利!てのと同じ論法だよな
現場の武士の働きや作戦や情報戦を無視する
行方不明を良いことに誰かが新たに贋作を作ったってことね
そうだったのかな
ど素人の俺でもぱっとみでわかる荒い輪郭だったよ
>>175
戦時中の混乱で恐らく博物館の関係者が自宅に保管
その関係者がタヒ亡して相続人が経緯を知らずに古物商に二束三文で売却
古物商はワケあり品を個人に高値売却
購入した個人タヒ亡で相続人の現所有者が良心ある古物商に売ろうとして表面化
そんなところだから「盗まれた」とまでは言えないかもしれない
国を乱すなんて悪い奴だな
鎮圧されてめでたしめでたし
そら北条側が歴史を記してるなら敵対勢力が起こしたものが「乱」扱いになるわ
君臨すれども統治せずだったから、
日本の王朝はこれだけ長くなったんだから
結果的に良かった。
キャバクラ
落ち武者確定ですやん
宇喜多秀家
後鳥羽上皇
西郷隆盛
ナポレオン
源為朝も
(´・ω・`)
俊寛僧都もー
たまには秀家を思い出してください…
八丈島に島送りになった。
宇喜多秀家ですよ~!
鎮西八郎為朝「それがなにか?」
鎌倉幕府というか北条氏が滅亡したのは後鳥羽上皇の呪いと、後鳥羽上皇の子孫である後醍醐天皇の執念の賜物
つっても最終的に皇統を継いだのは、後鳥羽から距離を置いていた
可愛がられてないほうの息子の土御門系の後嵯峨だけど。
後鳥羽上皇がアレしたせいで皇統は後堀河天皇とその子の四条天皇に移ったけども、四条天皇を呪い○してまた自分の子孫の後嵯峨天皇に戻した
>>219
土御門と後鳥羽って関係が微妙だったねん。
土御門から、あっさり弟の順徳を践祚させて、さらにその息子・仲恭に皇統を移したので、
土御門は、完全に傍流にされたんだわ。
承久の乱においても、土御門上皇は、参加してない。
だから幕府も後嵯峨でOKしたん(朝廷は順徳の息子を推したようだが)
後醍醐にかんしては、ワンポイントリリーフに満足せずに、
息子に皇位を継がせたくて、倒幕するという、ちょっとあれな人。
その点で、持明院も、大覚寺も、鎌倉も全部敵だった。
滅亡するの遅いw
当時の考えではマジメに後鳥羽上皇の呪いについて考えられてたらしい
(´・ω・`)
https://blog.goo.ne.jp/luckyhillson/e/289e6f28f671957e6b0310fa44403433
政子が逝き、義時が逝き、大江広元も逝って泰時大焦り。
>>357
違う崇徳院の呪いでもある
足利氏も関係している
崇徳院
正室
皇嘉門院(三河国吉良荘本家、兄弟の九条兼実は三河国知行国主)
妾
・兵衛佐局 – 法印信縁女、源行宗養女 ←源頼朝の親戚(吾妻鑑)、三河の藤姓熱田大郡司家出身か?
妾
・三河権守・源師経女 ←源頼朝、足利義兼の従兄弟
系図
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→女(崇徳院妾)
>>212
口喧嘩でいうなら後白河と後醍醐のそれは見てみたかったw
南北朝の大シスマの時代に南北朝にこの両雄がぶつかりあって
権謀術数の限りをつくしまくったら
いやほんと、どうなっちゃったんだろうね日本中世史www
皇統126代の史書をみれば暴君も暗君も名君も賢君も英君もおるが
まあ時としてガチに超人的な評舌しがたい君主も出るものだよな。
あ、ちなみに最初の問いに戻るが
取っ組み合いなら武道を愛した後鳥羽帝の方が強いんでないかい?w
そういえば皇祖皇宗って記紀によればガチの戦闘者なわけでねwww
皇統はそういう戦士の血統でもあるんだよなw 案外見過ごされがちだがwww
>>218
>皇統はそういう戦士の血統でもあるんだよなw
神武東征って要するに現地民○戮の歴史だもんな…
>>220
そうそうそう、鎌倉時代やその先行する平氏政権の頃から
武士の時代がやってきた、なあんていうけどさ。
じゃあ平和な時代とか言われている平安京で
でんねんまんねんいうてる左近衛大将や右大将ってなんやねん。
誰がエミシを征討したんねん。将門公や純友公を討伐したのは誰やねん。
奈良朝でも恵美押勝の乱でも橘奈良麻呂の乱でも鎮圧したのは誰か、
刀伊の入寇、白村江の戦、戦ったのは誰かといえば
もちろん武士の時代以前だって普通に戦ってたし軍事力もあるんだよなwww
その極相たる記紀の時代といえばもちろん親征につぐ親征で
天皇陛下自ら戦ったり、時には仲哀帝のように(おそらく)戦タヒする帝も
これ、いたわけでね、そう考えると皇祖というものは神話上は神の子孫かなんか知らんが
事実上かつてはその根拠は武力としての「最強の男」だったんだろうねwww
法然や親鸞を島流しにして念仏弾圧したんだよね。
そしたらその後自分が島流しにされたという、、、。
因果応報ということかな。
後鳥羽院は隠岐で、嘗て弾圧した浄土宗に帰依した。
その時院が記された文の一部を遥か後、
蓮如が布教の為に取り入れている。
>「承久記絵巻」が約80年ぶりに発見された。和歌山県高野山の龍光院が所蔵し、
1939年に博物館で展示されてから所在が分からなくなっていた。
NHKのニュースでは、個人が現在所有と報じてたけど、正式に売ったのなら檀家も知ってただろうし
盗まれたか坊主が横領なのかな?
まだ戦前だから食べ物と交換は無いだろうし。
人の浮き沈みは分からないモノ
後鳥羽:そんな危ないところに息子をやれるか!
義時:しゃーない藤原で我慢するか
↓
決裂へのカウントダウン開始
>>244
>後鳥羽:そんな危ないところに息子をやれるか!
その前に後鳥羽の側室の領地の地頭がウザイから解任しろとか
勝手に後鳥羽の家臣(西面の武士)にして領地を没収された御家人の所領を元に戻せとか
皇子を下向する条件付けまくったからな
さすがにそんな条件飲めない(頼朝ががんばった成果が無駄になる)から拒否した
といっても元寇から鎌倉幕府滅亡まで50年掛かってるけどな
鎌倉時代150年の中で3分の1だからあっという間というほどじゃない
80年前と同じもの???
前のを見たことあるやつタヒんでる説
「院宣が降ったと言っても院宣など勝ったものに幾らでも後から与えられるもに。
九郎義経殿に鎌倉殿追討の院宣を下されておきながら、鎌倉殿侮りがたしと見るや直ちに
九郎殿追討の院宣をお下しになった。まこと院宣とはそんなもの。」
>>272
「勝てば官軍」だね。
時代の流れだのなんだの理由なんてアトからイクラでもつけられる。
歴史なんて、所詮は勝者の行為を追認する主観的なシロモノでしかない。。。
覚えてる、謀叛は上皇のほうだと言っていた
それとも北条義時を追放すればよかっただけなのか?
これが分からない。
北条義時一人に的を絞り、内紛だらけの鎌倉を
分裂に追い込む算段だった、とも。
幕府には後の皇族将軍のように皇子を将軍として送り込む手もあるしなあ
一緒だよそれ
義時が何か問題おこしたなら追討するのわかるが別に問題ないのに
追討しようというんだから
自分の言う通りに地方治める行政組織というのは幕府とは言えん
昔は天皇が乱はおかしい
ということで
教科書は
承久の変だった
今は天皇といえども
戦争しかけたんだから
承久の乱
天皇の権威も落ちたもんだな
つ「敗戦史観」
これを討伐しようした後鳥羽が悪い
とは北畠親房も言ってるからな
義時が名執権だったのは確か
義時がタヒんだ時の混乱時に介入すべきだったんだよ後鳥羽ちゃん
いや、源氏は3代で終了して後は平家幕府だろw
幕府の(名目上の)トップとして、皇族や公家を立てていたので、けっして「平氏の幕府」ではない。(平家と平氏は区別しようね、平家は平氏の一族の一部に過ぎず、源氏に滅ぼされたのが平家。)
よりによって後醍醐天皇を後鳥羽上皇と同じ隠岐に流したから
「ゴトバインてスゴい名前ですね!」て、音の響きだけの感想言ってた
オーラバトラーかよw
島にお墓とかあんのかな
聞いたことないけど
>>321
隠岐に墓と京都に陵はある
承久の乱だと佐々木一族の骨肉の争いがえぐいな
関ヶ原とかと違って助命嘆願ではなく積極的に○してるし
菅元総理と菅総理くらい違う家なの?
シティーハンターの北条と プリキュアの北条と違うぐらいだよ
後北条氏は2代目の氏綱から北條氏を名乗り始めたけど初代の伊勢新九郎盛時(伊勢宗瑞)は生前は北条姓を使っていないので、「北条早雲」という通称も実は間違い
ヤフオク的なやつはいつの時代にもある
つい先だっても皇室ゆかりの品々がしゅっぴ、、、うぐぬう
政子の弟さんか
実朝と公暁がいなくなったとき源氏長者の足利氏は何してたの?
足利が源氏長者になるのは室町時代の義満の時からで鎌倉時代は村上源氏久我流が源氏長者
足利は尊氏が反旗を翻すまでは大体北条の忠実な同盟者
高野山のお寺が博物館に早よ返せと言えば良かったんだよな
たぶんそのうち返ってくるだろうって催促してなくて戦後に「預けた絵巻物をいつになったら返してくれるの?」って問い合わせたら紛失していたと
和田、比企、畠山、三浦ら有力御家人の粛清
2,3代将軍、公暁にしてもそうだろ?
海外も含めて何カ所かに分散しておいて保管しておくべき。
国宝はもちろん、文化財指定されたような美術品等は、精密なデーターを
とって保管しておき、万一破損消失盗難破壊略奪などされた場合には、
そのデーターを元に復元、再制作、できるようにすべきだと思う。
ゴトバ上皇ってのがあったのだから、
もうちょっと頑張ってゴディバ上皇ってのがあってもよかったな
そうすりゃ今頃「ビターな人生だったんじゃなあ(落涙」って書き込んでいたのに
後鳥羽上皇は元祖暴走族
藤原定家が深夜に供を連れて都大路を歩いていたところ暗闇から爆走してきた牛車に危うくはねられそうになった
後で聞いたら後鳥羽院の牛車だったと
なんかやっつけでつけられたみたいで嫌じゃないんかな?
>>376
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B0%B4%E5%B0%BE%E5%A4%A9%E7%9A%87#%E8%AB%A1%E5%8F%B7%E3%BB%E8%BF%BD%E5%8F%B7%E3%BB%E7%B0%E5%8D
後水尾天皇
遺諡により後水尾と追号された。
水尾とは清和天皇の異称である[7]。
後水尾天皇は、不和であった父・後陽成天皇に、乱行があるとして実質的に廃位に追い込まれた陽成天皇の「陽成」の加後号を贈り、自らは陽成天皇の父であった清和天皇の異称「水尾」の加後号を名乗るという意志を持っていたことになる。
このような父子逆転の加後号は他に例がない。
親父嫌いのあまりこんな捻じくれた諡号の付け方した天皇もいる
確かに管理のいい加減さは気になるけど、皆生き延びるのに精いっぱいの戦中の混乱とかもあったんじゃないか
じゃあ忠実に描写されてるわけでもないんだな
絵巻物のベースになっている承久記は異本が多いのでそれらと比較検討することで記述内容の変化の経緯を調べることができる
尊氏に新田がやられてます。後醍醐方はその後南朝とされ、政治的にも足利に負けていきます
尊氏もまた官軍だからなあ
>>401が指摘してるのは中先代の乱の後に起こった箱根竹ノ下の合戦では?この時点では足利は賊軍扱いでしょ
光厳天皇を擁立してからは>>415の言う通り足利尊氏も官軍だけど
日本語分かって欲しい。その後って言ってるんだから、当然新田の負けは北朝出現以前ですw
そのまま天皇制廃止にならなかったのが不思議
>>392
天皇がいなくなったら天皇に与えられた権力の集合体である幕府の存在基盤が怪しくなる
幕府がなくなったら鎌倉殿の陪臣に過ぎない北条に従う奴なんていない
>>397
「権威」を得るのはものすごく難しいからね。
武力だけでは従えるのは困難。
圧倒的な軍事力がない限り、裏切者を防げない。
天命によって王になったとか、前王に禅譲されたとか
神の御指名とか、王になるにはいろいろ苦労してる。
誰でもなれるんなら、取って代わろうとするやつがいくらでも出て来ることになるからね。
日本みたいに「共立された王」ってのも、実は珍しくない。
イギリスも一度は廃止したが「議会が王を連れてきた」
オランダやスウェーデンやノルウェーや。
相変わらず盛り上がっているような盛り上がってないようなスレ
>>392
>>397
よく言われるんだけど鎌倉幕府の御家人っているじゃないですか。
あれってさ御恩と奉公でつながっているわけだけど
これ、名目でもなんでも将軍とのつながりであって
別に執権でも得宗でも内管領でもいいけど北条氏と直接
主従関係結んでいるわけじゃないんだよねwww
まあそういう筋論からすれば幕府のフレームと
その保証人(?)たる皇室はなきゃまずいよねw
(北条氏と他の有力幕閣はそれ故に例えば江戸時代の徳川将軍家と他大名家のような
主従関係にないんでね、だからまあ内訌内紛もおこりまくるよなw)
御家人は
土地関係の訴訟の判決文は将軍じゃなくて
執権からもらって喜んでるだが
鶴太郎はそこまで悪くなかった
悪いのはフランキー堺
って認識にさせてくれた太平記
40まで生きれば長寿ってぐらいみんな早タヒにしてる
それぐらい心血注いでたってことなんだろうか
まあ時宗公とかよくやったよな
仏教を庇護してたらしいけど、あんま役に立たなかったみたいね
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1603855220/
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