日本書紀編さん1300年を記念して開かれたもので、日本書紀の編さんに関する研究資料や現代の亀山市との関わりを示すものなど、
今回が初公開となる史料など約80点が展示されています。
国を平定するための戦いから、日本武尊の墓とされる「能褒野(のぼの)」の場所を特定するまでをたどる史料は、江戸時代から明治時代にまで及びます。
市内の忍山神社が生誕の地とされ、荒れ狂う海を鎮めるため自ら海中に身を投げ日本武尊を救ったとされる弟橘媛(おとたちばなひめ)との物語も紹介されています。
この企画展は、2020年12月13日まで。
世界中どこの国の歴史書も怪しいもんだろ
神話なんだが…
ギリシャ神話は嘘っぱちと言ってるようなもんだぞ、恥ずかしいw
大化の改新の時に日本最大の焚書があったんだよな
今残ってるのは捏造された国史
これなんだよ
古事記が偽書
安麻呂の墓の経緯からして怪しい
天皇皇族貴族が認めて学んできたのは日本書紀だけ
おやおや
ずいぶんと偉くなったものですねぇ
岩波文庫の黄色であるんじゃね
図書館行けば置いてあるとおもう
(´・ω・`)
最近読み返してるわ
ヤマトタケルの伝承が残る地には九州の海人族が身につけた有鉤銅釧が出土する
海人族が各地に進出する過程で本州各地の沿岸部にも分布するようになったけど、鋳型は九州北部からしか見つかっていない
https://i.imgur.com/bdBE1QJ.jpg
関東には九州とは別系統の海人がいたようで、帯状円環型銅釧(上の地図の白丸印)は関東系のオオツタノハ貝輪を用いた関東海人の縄張りと思われる
http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg
ここに九州系の有鉤銅釧が相当数重なって分布しているので、九州の海人が関東の海人の縄張りに攻め込んだことが考えられるが、
実はこの東方の有鉤銅釧出土地をよく見ると、ヤマトタケルの東征伝承の地と多く重なっている
草薙剣で火難を逃れた焼津、海上で波浪に遭って后が入水した横須賀、その后を思って過ごしたという木更津、
白い鹿を討ったという足柄峠など、これらがいずれも九州系の有鉤銅釧の出土地になっている
つまり邪馬台国のキーマンだった九州海人族にとって畿内征服は最終目標ではなく、そのさらに東の地域を征服するための通過点だったのだろう
縄文時代には既に関東とも貝の交流があった彼らにとってはその視野は自然なものだと言える
東海以東への進出をも視野に入れていた彼らにとって、本拠地が九州のままでは遠すぎて指令を出すのに不都合だったため
本州西部では最後まで抵抗した畿内を陥落させたのを機に、そこに前線司令基地を作ったのがヤマト政権の起こりだと考える
しかし東西に広い日本を広範囲に支配するにはむしろ畿内のほうが地理的に好都合だったため、やがてそちらが中心となっていったのだろう
いっぽう旧都の九州北部は徐々に衰退していき、恐らく白村江の敗戦で決定的に放棄されたものと思われる
これが邪馬台国東遷の全ストーリーである
ならアマトタケルだろ。
ヤマトタケルは三船が演じてたな
クマソタケルは宝田明だったかな
クマソタケルは鶴田浩二じゃなかったかな?
クマソタケル弟は鶴田浩二だね
宝田明はヤマトタケルの兄貴だ
よく覚えてるな
弟橘姫は司葉子
天照が原節子
凄いメンバーいっぱい
ヤマタノオロチはキングギドラ
伊吹山には草薙剣の元の持ち主ヤマタノオロチの神霊が眠ると言われている
伊吹山のある琵琶湖北部は息長氏の拠点
ヤマトタケルの次の世代は神功皇后、気長足姫(おきながたらしひめ)
ヤマトタケルが亡くなり徴用され兵になっていた人たちは故郷に舞い戻ったのか
白鳥が最終的に辿り着いたのは和泉の地で和泉には神功皇后が三韓征伐に出立した伝承が残っている
神功皇后は九州からの帰路、住吉明神を伴い塵輪鬼と戦った伝承が瀬戸内海に残っている
>>25
どうでもいいけど、
住吉大社のある住吉区
つまり旧大阪依羅邑は
朝鮮の植民地な
依羅=朝鮮王 依羅
要するに
神功皇后も応仁天皇も
朝鮮人だ
3世紀4世紀には考古学的に九州北部まで支配が及んでいたことがわかっている
ヤマトタケル伝承、伊吹山を訪れたことがきっかけで裏と表が入れ替わったのかもしれない
九州の住吉さんを味方につけた神功皇后、応神天皇はその後畿内に戻りヤマト政権の残党と戦っている
>3世紀4世紀には考古学的に九州北部まで支配が及んでいたことがわかっている
畿内厨はこうやって息を吐くように嘘をつくんだよなぁ
実際は全く逆で、鉄を持たなかった畿内勢力が3世紀末ころに鉄器文明の北部九州に制圧されて
4世紀以降急激に鉄器が出土するようになる
目と鼻の先の淡路島や大阪湾岸にもあった鉄器が奈良盆地内では全然出土しないのは
海辺は北部九州の海人族に制圧されていたが、山に囲まれた奈良盆地の在地勢力が頑強に抵抗していたことを示している
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と
日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地に着いた際、足が三重に曲がるほど疲れたことから三重と呼ばれるようになった
三重苦みたいなw
神話って意味不明な事多いよな。三重に曲がるほど疲れるって何?w
現在の長瀞町に定住していたわけだ
そこが亀山だろ
東海系の土器が多数見つかっている
ヤマト政権は東海系の政権かもしれないね
元伊勢とかはヤマト征伐の兵站の跡かも
東海の支配者である尾張氏は北部九州の安曇と同族
http://img-cdn.jg.jugem.jp/472/1262880/20190718_2587894.png
系図を見ると安曇と尾張は同じ祖神に連なるいわば兄弟氏族で皇室ともごく近い親戚である
皇室の祭事に海人の文化が入っていることから見ても皇室は海人の一族だったと考えるのが妥当だろう
なお大和の地を治めた倭国造の祖・珍彦も同祖氏族だ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%E5%9B%BD%E9%A0
> 倭国造(やまとのくにのみやつこ・やまとこくぞう)は、後世の大倭国(大和国)中央部にあたる領域を支配した国造。
>
> 氏族
> 倭氏(やまとうじ、姓は直)で、国名の変遷とともに氏族名も変わった(大倭氏/おおやまとうじ・大養徳氏・大和氏など)。
> 天武天皇10年(681年)に倭竜麻呂が連姓に、12年に一族が連に、14年に忌寸姓に、さらに奈良時代には大和長岡と水守が宿禰に昇格した。
> その遠祖・椎根津彦は綿積豊玉彦命の曾孫とされ、一族は神別の地祇に類別される。また八木氏や安曇氏と同族とされる海人族の一族。
>東海系の土器が多数見つかっている
草薙剣が熱田神宮なのは、初期大和朝廷の軍事力が東海地方そのものだからだよ。
熱田の周辺の小さな神社には、ヤマトタケルの軍勢が鳴海から出港し、関東を平定し戻る寸前に溺タヒした将軍が奉ってあったりしてある。
平定した畿内の人々を徴用し軍事力を高めて関東方面に向かったのかもしれないね
卑弥呼の弟は素戔嗚だろ
埴輪ができる前のヤマト政権には記紀によると殉葬の風習がある
邪馬台国にも殉葬の風習があった
そして熊襲征伐をした日本武尊が、
魏志倭人伝の卑弥呼の弟で間違いない。
女装して宴会の席で刺○したというのが、
八女が絹織物と酒の産地だった事と一致する。
生目、御間城の投馬国系の崇神垂仁に関する天皇家で、
コレが古事記の通り、熊襲征伐に兵を出さなかったので、
魏に窮状を訴えるぐらい苦労したと考えられる。
瀬戸内海を東征した一方、
卑弥呼、豊姫、日本武尊系の部族は、
豊の国から出雲丹後丹波へと進出して行ったものと考えられる。
焼津の火難は抵抗勢力
○戮を正当化したんだと思う
記紀によると応神天皇が生まれて喜んだのはスクナヒコナとある
大国主と共に国作りをした神さんで神産巣日の子
蛾の服を着ていたとか鳥の服を着ていたとか言われている
トサカでも被っていたのか
結婚の約束をしていたミヤズヒメと結婚をします。
喜びも束の間、伊吹の山に悪い神がいると聞き、今までの勝利の連続からおごりの心があったのでしょうか「素手でやっつけてやる」といい、神剣・草薙の剣をミヤズヒメに預け伊吹の山に征伐に向かいました。
伊吹の山にやってくると、途中、牛ほどの大きな白い猪に出会いました。
「これは山の神の家来だな。帰り道で相手になってやろう」と大きな声で威嚇してやり過ごしました。
すると突然、激しく雹が降り出し行く手をはばまれます。実は白い猪は山の神の家来ではなく山の神そのものであり、ヤマトタケルが威嚇したため怒りを買ったのです。
雹に打たれて体力を激しく消耗したヤマトタケルは‥
その遠征を担当した王が、
西の卑弥呼の弟と合体したのが日本武尊であろう。
8人の天女が降り立ったと言う。
8人の天女=八女である。
コレが絹織物と酒を伝えたと言う。
絹織物が北部九州から畿内に伝播した時代が、
弥生後期~古墳時代である。
山門八女の部族が、絹織物と酒という特産物を通じて、
出雲丹波丹後に進出して行った様子を示している。
鈴鹿市の白鳥塚と言われてたのが、
明治時代の尊皇攘夷思想の影響で、
「日本武尊の墓が、こんな小さいのはおかしい。
近くにもっと大きな古墳があるから、
こちらがふさわしい。」
という理由だけで、現在の能褒野王塚古墳に決められた。
ほんと、明治時代は日本の歴史の多くを、
改変・改悪した歴史暗黒期だわ。
加佐登?
今の袖ヶ浦
日本の古来の文化や習俗、歴史の細かいものは古事記の方が重要度高い
本居宣長先生が正しい
この辺が史実に近いだろう
全く手を出せなかったんだけどな
二十人から多くても七十人くらいの集団でどうしろと
軍門にくだれやってどこもいってきてまあこうるさったこと
いきなり毒○しようとして来なかったりってのは
まだまともな地域ではあったけどね
このあたりからはほぼ夜盗の類いとしか思われてなかったし
まあ確かに似たようなもんだから仕方ない
仲哀電話
そいつの息子が応神天皇
そいつの孫が仁徳天皇だぜ
とはいえ、仲哀天皇ねえ。
親父のヤマトタケルが女装してだまし討ちして倒した
熊襲の再征伐に御親征して、返り討ちにあっているからねwww
まあ、さすがに正統とされる史書にはそうは書いてないけどねw
あの陣没は戦タヒな気がするなあ。かくて諡も「哀」が入るわけだ。アイゴー。
で、むしろそのヤマトタケルの倅の嫁さんである
神功皇后の方が宮将軍としてあたかもヤマトタケコの如き
八面六臂の大活躍を(偉大なる大韓に渡ってまでw)しているんだから
これはどういうことですかって世界だよなあwww
ところで仲哀電話ってなんぞwww
東征には大伴氏の先祖や吉備の先祖も加わってるし、伝説の大臣武内宿禰や伊勢神宮を作った倭姫命も物語に絡んでくる
九州王朝や出雲王朝、東国も出てくる
キラ星の神話ですわ
神の時代と人の時代の結束点が日本武尊の物語のように思う
ヤマトタケルは近畿でタヒんだのに
何故か息子は九州で生まれてる
仲衷電話いや仲衷天皇
しかも
ヤマトタケルが退治したクマソをまた退治したいと言い出し嫁さんにしかられ寝てる間に寝首をとられてる
もしいたら申し訳ないけど、バ○、とかしかいいようがない
だからと言ってすべて嘘だとは考えづらい。嘘で全編を飾るのはかえって難しい。
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1602163526/
コメント
コメント一覧 (1件)
ここは海人コリアンヒストリー入れ込むのが決まりなのか。
東海~南関東は、大阪までの東国勢力が結集して村を作っていってるから、両方の物が出るのは当然なんだよ。
捏造カンサイ寄生がばれて追い出されたら、捏造北九州で海人か。