オランダ・ベルギー・ルクセンブルクから成るベネルクス三国の歴史について
中世からヨーロッパの先進地域だったこの三国の歴史について語りましょう
フランス語が母語で、ドイツ語は生涯ものにできなかった人なんだよな
>>3
この時代のヨーロッパの王侯貴族ならキリスト教徒とか、
ハプスブルク家の人間という意識のほうが強かったのでは
最後は生まれ故郷のフランドルではなく、スペイン南部の
ユステの修道院で生涯を終えたし
なかでもカスティーリャ北部の都市ブルゴスは、フランドルをはじめとする
北ヨーロッパとの貿易によって大きな利益を上げていた
ネーデルラント独立戦争で途中から離脱した南部、
以降はスペイン側に立って北部と戦う事になったんかな
そういえばその後の三十年戦争で皇帝軍の総大将を務めた
ティリーは南部の出身だったか
逆に北部から南部に逃げだしたカトリック系住民もいたんだよな
完全に鎮圧されてしまう
住民はカトリック信仰の遵守か2年以内の退去かの選択を迫られたため、
全市民の40%がこの街を去り、その多くはオランダに移住する
とくに裕福な貿易商の大半を受け入れたアムステルダムは、早々と
アントウェルペンに代わる国際的貿易港としての地位を固めた
地元の貴族や有力市民を政治・軍事の重要なポストに登用し、経済復興に
力を入れたんだよな
最初は南部のほうがカルヴァン派が流入したのは早かった
北部にカルヴァン派が根付くのは10年余り遅い
むしろ先進地帯の南部のほうが宗教対立が先鋭化していた
ある意味気の毒な気がする
カール5世はフランドルの人々から「地元出身の君主」と思われていたが、
息子のフェリペは完全なスペイン人だしな
存続していた。それは、国民は各種の免許や資格を取得するにあたって、
必ず「公民証」を提示しなければならない、という制度だった。
この公民証とは、その保持者が戦争中「対独協力者」ではなかったことを
証明するために国家が発行した書類のことで、それなしでは、
市民は銀行で小切手帳を作成してもらうことすらできなかったのである。
そうした制度を必要とせざるを得ないくらい、ベルギーでは
ドイツに協力した人間が多かったということなのである。
WWⅡ中、ベルギーはドイツに占領されたが、フラマン系の人たちの中には、
これを自分たちの勢力拡大のための好機と捉え、それを歓迎する人たちも存在していた。
しかしワロン系の住民はドイツ支配に対して強い反発の姿勢を示していた。
2940人にものぼっている(実際に刑を執行されたのは242人)。
しかも、これらの判決を下した軍事法廷に対して、フラマン系の住民たちは、
「裁判とは名ばかりで、実態はワロンによるフラマンへの報復の場にすぎなかった」と
非難し続けている。
オランダのロッテルダム港はヨーロッパにおける石油貿易の中心地
オランダは石油情報に関しては大国
ベルギーのアントウェルペンはダイヤモンド取引の中心地
ルクセンブルクはユーロ圏を代表する国際金融センター
中世は神聖ローマ皇帝も輩出したそこそこの大国だったんだよなあ
全然イメージがわかない
あと、変わり種としてはメーヘレンもいるな
フェルメールの贋作で有名になったタイプだからちょっと趣旨からはズレるが
ベルギーの宝石王
急成長したが、これは南部からの多数の移住者のおかげ
、ネーデルラントで亜麻織物の問屋制家内工業が活発だったおかげ
単に資源が豊かだったっていうのもあるけどね
フランドル地方のファンエイクの「アルノルフィーニ夫妻像」は油彩画の先駆であり、記念碑的作品
貴重な北方ルネサンス絵画も、プロテスタントによる聖画像破壊で多くが失われたとか
ファン・エイク兄弟作の《ヘントの祭壇画》は幸運にも破壊を免れた
日本でアニメ化される以前にアメリカで映画化もされてたのね
複雑に入り組んだライン川とマース川の下流の三角州地帯を越えて、
北に進軍するのが困難だったことが大きく、
多分に偶然の要素がからんでいる
住民は象牙やゴムの採集を強制され、規定の量に到達できないと
手足を切断するという残虐な刑罰が容赦なく科された
オランダのほう(19C半ば以降)は再び植民地獲得へ乗り出そうとは
しなかったんかな。
17C黄金時代の遺産で事足りてて別に乗り出すまでもなかった?
オランダは世界のあちこちに植民地を持とうとしても、
人口の少なさがネックになった
オランダ領東インド(インドネシア)は19世紀半ば以降も領土拡大しとるで
アチェなんて20世紀に入ってからだからな、オランダ領になったのは
オランダに比べれば食はマシなイメージ
ベルギー料理はフランス料理と並んで、ヨーロッパでは評判の美味
これに対してオランダは面の支配に移行した
それまでの各島同士の歴史的つながりが薄かったインドネシアが現在一つの国として成立してるのは、
近代になってオランダが面の支配に移行したことで領域内に統一性が生まれたからでもあるしな
インドもこれだよね
ベルギー=ジャン・クロード・ヴァン・ダム
ルクセンブルク=orz・・・
ベルギーのほうはリヴィングストンを発見したスタンリーがその片棒担いでたな。
当時コンゴ以外に植民地を持っていなかったベルギーと違ってオランダは一応インドネシアをすでに持ってたからじゃね?
インドネシア方面での領土拡大がオランダにとってはメインであってアフリカに新たに進出する気はなかったんじゃないか?
あと、南アフリカにはボーア人が入植していたな
南アフリカのオランダ支配はまさに19世紀初頭に途絶えたな
ナポレオン戦争でイギリスにケープ植民地を奪われてしまった
ベルギーがコンゴ進出とかしてた頃にはオランダはもうアフリカの植民地を失っていた
ボーア人共和国(オレンジ自由国とかトランスヴぁ―ル共和国とか)の成立は、
ケープ植民地がオランダ領からイギリス領に遷った後の話だな
イギリスの支配を嫌ったボーア人たちが北へ移動して建国したわけで、
オランダ系住民による国ではあったがオランダ本国の支配は確かに受けていないな
ほとんど知られていないな
セイロン(スリランカ)がオランダ領じゃなくなったのもナポレオン戦争の時だな
オランダはナポレオン戦争でイギリスに植民地を大量に奪われてるんだよな
セイロンもケープ植民地もマラッカも全部この時にオランダ領からイギリス領に変わってしまった
としてオランダ王国を構成する自治領となった
1986年にアルバ等が単独の自治領となり、「オランダ領アンティル」は2010年に
解体されたが、各島はオランダ王国から独立することなく自治領および準自治領
(基礎自治体)としてオランダ領土の一部にとどまっている
FN Herstal 社とか。
(ナショナリズムの観点から)強調する傾向にある?
「あいつらの言葉と自分達の言葉は別物だ」みたいな感じで
バルト海経由で輸入していたんだよな
17世紀になって突然バルト海貿易が始まったわけではない
レオポルド2世の治世が終わった段階で800万人にまで人口が減っている
少なく見積もってもその間の20年強で優に1000万人以上の命が奪われたという
ことになり、世界史上最大のジェノサイドだといわれる所以である
作曲家が出てこなかったな
ホルストとエルガーがいるだけマシだろ
たぶんナショナリズムが絡んでいると思う
現在の韓国が、韓流ドラマを外国に輸出して、
海外に自国の文化を認めさせようとしているのと同じ
フェルメール、レンブラント、ゴッホ、ブリューゲル…・・・・みんなベネルクス地域の画家だ
音楽は不毛でも美術はめちゃくちゃ栄えてた
>>60
オランダが栄えた17世紀までは
有名な画家が多かったが以後は衰退
ゴッホは実質的にはフランスの画家だし
あと、変わり種としてはメーヘレンもいるな
フェルメールの贋作で有名になったタイプだからちょっと趣旨からはズレるが
17世紀のオランダ画家の大半は高邁な理論には縁のない職人たちであって、
旧態依然たる各都市のギルドに所属して日々の活動を送っていた
こうした点から見れば、17世紀のオランダの芸術状況はまた一方では
長い中世の最期の到達点でもあった
この時代のオランダの風俗画や静物画に、写実的な外見にもかかわらず
タヒの想念や恋愛の諸相などに関する教訓的な寓意や象徴を秘めたものが多く、
しかもそうした寓意や象徴が画家の個人的な連想の産物ではなく共有された
コードに基づいている点も、19世紀後半以降の近代絵画との大きな相違である
>>66
見た目は近代絵画っぽいのに中世の絵画の名残もあるってのは面白いな
オランダで絵画が栄えたのがまさに中世から近世への移行期だったからなんだろうな
フェルメールやレンブラントのような有名な画家の絵もそうなんかな?
>>67
フェルメールの絵は、その絵の意味を寓意する画中画が描かれた作品が多いね
たとえば女性が秤を持っている絵があるけど、明らかに最後の審判で
大天使ミカエルが持つ秤の寓意
なるほどなあ
一見すると非宗教的な絵画のように見えるけど実は宗教的モチーフが存分に使われていたのか
などがあったが、南部に比べると影が薄いな
伝統的に使われてきた?
中世のフリースラントは、実質的な領主のいない状態が長く続き、
14、15世紀になると、禁酒法時代のアメリカのギャング団に似た私的権力組織が
住民を支配するようになったとか
自由農の国フリースラントと呼ばれるが、住民は自由を謳歌するというより、
アナーキーな無法状態に呻吟していたとみる人もいる
ユグノー系オランダ人:オランダ語読みの名・フランス語読みの姓
ワロン化したフラマン人:フランス語読みの名・オランダ語読みの姓
オランダ領時代にユグノーが多く移住した南アの場合,現地のアフリカーナの間では
前者の形式が見られる反面,アンドレ・ファン・~とかフランソワ・ファン・~みたく
後者の形式も見られるのな
カトリックのアンジュー侯フランソワを君主として戴くことに決めていた
しかし反乱州側の思惑の違いから、これは失敗に終わる
次にフランス国王アンリ3世に主権の提供を申し出るがこれは断られ、
さらにイギリスのエリザベス1世にも同じ申し出をするがこれも断られた
こうして外国から君主を迎える計画がすべて失敗したので、やむなく共和国という
形をとったのであって、最初から共和国をつくることを目指していたわけではない
>イギリスのエリザベス1世にも同じ申し出をするがこれも断られた
その後イギリスは共和制をとったオランダから皮肉にも(?)君主を迎えるハメになってたか
旧ザイールのほうのコンゴや激しい民族紛争で知られるようになった
ルワンダにくらべるとブルンジは陰薄い感
間接統治を実施したからな
それでもブルンジ内戦が勃発しているけど、国際社会からはなぜか忘れられている
州がそれぞれ主権を有していただけでなく、海軍をつかさどる
海事局も五つもあった
やっぱり神聖ローマ帝国の一部だった歴史があるから?
>>81
そもそも最初は分権的どころか完全に各州がそれぞれ別々の独立した領邦国家だったからだろ
スペインからの独立戦争を勝ち抜くために同盟を組んでいたに過ぎないわけで、
それ以外の面ではそれぞれ別々の歴史・伝統に基づく社会制度を持った国家だった
アメリカ合衆国の各州みたいなもんだな
イギリスから独立するための同盟としてあくまでも成立しただけで、
本来は別々の歴史を持つ植民地だったから、独立後も州権が強くなった
オランダも似たようなものだろう
スターリンが生まれた国「グルジアゆわんといて。ジョージアと呼んで」はあっても
オランダ「オランダ(ホーラント)ゆわんといて。ネーデルラントと呼んで」は
聞かんね
日本に限らずオランダ(ホラント)という国名で呼んでる国は結構多いからなあ
諦めてるんじゃない?
ぺ・バゼかオランデかと思ってた。
17世紀のオランダでは、武器産業も発達した
武器貿易商人は、スウェーデン、デンマーク、イングランド、フランス、
ヴェネツィアに、場合によっては、敵国のスペインにも武器を売った
このためオランダにとって、スウェーデン産の銅は、大砲の製造に
欠かせないものとなった
武器製造についてのオランダとスウェーデンの関係と言えば、
オラニエ公マウリッツ下のオランダにスウェーデン王グスタフ・アドルフが兵器工場見学に来たというエピソードが有名だな
当時のスウェーデンの強国化の一端をオランダは担ったわけだ
どちらも17世紀に最盛期を迎え18世紀に衰退したという点では確かに似た者国家だったのかもな
三十年戦争においてはお互いプロテスタントの反ハプスブルクということで協力関係にあったし
かつての支配者であったハプスブルクから君主を迎えてた場合,ハプスブルク系の
君主制国家が本国以外で生き残った形となったんかな
(ブルボン系の君主制国家がフランス本国以外で生き残ってるみたく)
ハプスブルク家から君主を迎える案は、オーストリアの強大化につながるので、
他の列強が反対して潰したんじゃないかな
何をしようとも、どこかで限界にぶつかったかも
オランダ:ハウステンボス、ゴッホ
ベルギー:フランダースの犬
大昔は↑のイメージ持ってますたorz
それ以降も、国際金融の中心という地位は保持し、多数の外国政府に巨額の融資を
行って利子所得を得ていた
日本で一般に考えられているように、全盛期を過ぎたあと急激に没落したわけではない
ナポレオン戦争の結果、イギリスに植民地をほとんど奪われたのが決定的だったな
ケープ植民地もマラッカもセイロンも全部イギリスに奪われてしまった
そりゃあ列強から没落するわ
これはオランダ経済に壊滅的打撃を与えた
イギリスやその植民地との通商が全面的に禁じられたため
オランダの植民地も大半がイギリスに奪われてしまった
ボロクソにけなしているな
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1602339049/
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