満州とモンゴルの紛争となったノモンハン事件について語る
狭義では陸軍の戦術(作戦行動)に影響を与えた局地紛争
歴史的観点からノモンハン事件を検証いたしましょう
https://twitter.com/i/web/status/1029184332529688577
>⑯「ノモンハン事件の損害比較」 勝敗は損害の比較ではなく、作戦目的達成の成否であり、停戦後、
>ソ軍は後方を安全にしてポーランドに侵攻した。 しかし、ソ連崩壊後公開された資料からは関東軍の
>対戦車戦闘における敢闘が評価されるべきことが分かる。 これは古是三春『ノモンハンの真実』に
>詳しい。
これ、結構リツイートされているようだね。
戦争の勝敗は作戦目的の達成だから、そんなの無意味だよ。
現に、ソ連に攻め込めなくなったからね。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
ノモンハンてもう規模が紛争とか事件とかいうレベルじゃないよな
もう完全に戦争
しかも会戦形式の決戦だろこれ
宣戦布告もないし。しかもソ連も日本も戦史研究を放置したから
ノモンハンの教訓はソ連がわも日本がわもほとんどその後には
生かされてないというのが通説だよ
ジューコフがその後の独ソ戦争で十分以上にいかしたじゃないか
消耗品扱いして損失だけを増やす点は
日本軍の上層部は無能としか
言えんな。
つまり軽量で格闘戦重視の戦闘機、これに陸海軍は第一の認識を深くした
ただ陸軍の中にも今後の世界の戦闘機の潮流を重武装だと読み「鍾馗」も制式化した
格闘戦重視のパイロットたちには敬遠されたけどB29に対する本土防衛戦で(そこそこの)活躍をする事になる
まぁノモンハン後に「事なかれ主義」が陸海軍に蔓延して組織力の低下に繋がって行ったのは今の時代にも教訓となる反省点だと考える
さらにその責任もろくに取らずに反省せず次
組織として末期過ぎてフォローのしようもないのに
ソ連側に打撃があったと後年解るとイキってノモンハンは日本の勝利だとかやってる現代の関東軍の亡霊がいっぱい
打撃はソ連も日本も両方やで
あと組織として関東軍が癌なのに変わりはない
確保するためだけに数千人が犠牲になったのかとおもうとやりきれん
それも日本が勝手に境界を変更しようしたのが原因だからなあ。まったくやりきれんよ。
満州とモンゴルの境界線は、歴史的にはモンゴルソ連の主張する線が正しかった。
清朝時代にモンゴルと満州の境界でもめて、清朝すなわち満州族自身が、満州はここまでと、ハルハ川東岸から数十キロほどの位置に境界を定め、境界を示す標識(オボー)を立てていた。
その境界はモンゴルが独立しても、清朝が中華民国になっても踏襲されており、現地では何の問題もなかった。
ところが、満州の支配者になったものの事情を知らない日本が勝手にハルハ河を国境だと言いだして、本来存在しなかった国境問題が起きてしまった。
日本側も言い出してから調査して、オボーの存在を確認したりもしているのだが、調査結果を隠匿し、主張を取り下げることはなかった。
かくて、必然的に衝突が起き、モンゴル・ソ連側は主張する境界線から踏み出さず、一方日本側は自分の主張する境界線を越えてまで攻撃を行いながら、
ついには、モンゴル・ソ連側に叩き出される形で彼らの主張通りの境界線で決着することになったのである。
ひとえに、日本側上層部の、無知と傲慢、メンツのために、無駄な血が流れる事になったのであった。
正しかったと宣言するの止めてもらえるかな。もともと係争地で、たがいに巡回してて
たまたま遭遇したらちいさな小競り合いがあったという土地なんだぜ。それを日本が悪いと
言ってる時点であんたのほうこそ戦争しかけてるんだよ。なぜそこで「両方に落ち度があった」と
いえないのかね。こういうやつがまさにノモンハンの戦犯なんだよ。
>>19
>もともと係争地で
だから、係争地でもなんでもなかったんだってば。
いや、確かに歴史的には係争地になったことはあるよ。
しかし、ノモンハン事件の200年も前、1734年に清の雍正帝が、満州とモンゴルの境界を定めて決着しているんだ。
>たがいに巡回してて たまたま遭遇したらちいさな小競り合いがあったという土地
小競り合いが生じるようになったのは、日本が国境をハルハ川として、ハルハ東岸に入るモンゴル人を追い出しにかかったからだが。
それまでは、小競り合いなんかほとんど起きてない。
つーかさ、竹島や尖閣を連想してもらいたい。
歴史的にも自国領である地域を、ある日いきなり他国が自国領だと難癖つけられたようなものだ。
それを「両方に落ち度」で片付けるのかね?
>>20
馬鹿馬鹿しい。
尖閣を中国が侵攻占領しても、中国が悪いといえば日本が戦犯になると言うのか。
それが正しい時もあるだろうが、全ての場合において適用できるとは限らんのだよ。
>>21
> 小競り合いが生じるようになったのは、日本が国境をハルハ川として
もともとロシア側の地図でもハルハ川を境界にしていたわけで、それを日本陸軍も踏襲しただけ。
後になって勝手に境界を変更したのはソ連側
今、
ノモンハンが起きたのはソ連も日本もどっちもどっち元々係争地!煽ったのはソ連軍で日本郡は応対しただけ!
ノモンハンでソ連郡は大打撃!
ノモンハンの戦闘は日本が優位だったからこそソ連はビビって停戦協定!
ノモンハンで帝国軍が壊滅的とか敗走は自虐的歴史感が生んだデマ!
…っていう、真実をちょっと混ぜ込んだ嘘が流行ってるから
それを事実だと思ってしまう人も多いのだろう
この手の悪い事は真実がちょっと混ぜ込んであるので真実部分のデータをとってほら真実だとしてしまい
モロ嘘部分やじゃあなんで責任問題になっているのとか言う部分には目もくれなくなる事だ
しまいには人は信じたい物を信じると言って開き直るしなw
皇軍の現状装備と対重装備戦術にかなりの問題有りと認識した下士官はいたはず
ただ現場の上層士官が責任追及を恐れて箝口令
関東軍の上層部も黙○
本土の総司令部も詳細な戦況報告を求めず然るに実情を(あえて)把握せず
後に締結された「日ソ不可侵条約」を永遠不滅とし対米戦に邁進ス
あれほど警戒してたソ連との関係を紙キレ1枚で永久不滅と判断した陸軍上層部の脳天気さに呆れる
>>28
修正、ありがとうございます
帝国陸軍上層部はWWⅠでの近代陸戦を知らずノモンハンの問題点もスルー
日露における旅順陥落の(正面突破なる)成功体験を抱き続け、総員玉砕を是とした
これでは余りにも兵隊さんが可哀想、現代に至っても我が国の組織の悪癖は変わらず
自衛隊には二の足を踏まぬよう切望したい
ソ連の軽戦車は 零戦があれば脅威にならないじゃないかな
海軍が協力して零戦を投入すべきだったな
ノモンハン事件は1939年。ゼロ戦の採用は1940年。
ちょうどノモンハンで衝突してるころ、ゼロ戦は試作機が完成したばかり。
ノモンハン終結後もテスト中で空中分解とか起こしてた。
逆立ちしても投入は不可能。
海軍と陸軍が協力して戦争するなどこのときにはすでに夢物語
もしノモンハンの時に配備されていて日本軍を蹂躙していたとしたら、ヒトラーはソ連侵攻を躊躇していたのだろうか
全滅になる前に引き上げさせたらしい。なんちゃって戦車はソ連からの砲弾が当たると、爆発せず突き抜きたそうな。
当時の日本の工業力じゃ、しかたないか。
ソ連軍はスターリンの指示の下で物量を集めたが、日本側は関東軍の独り相撲で戦力不足
宇垣軍縮で近代化の方に少しだけ舵を切ったのに、歩兵至上主義が根強くて機械化が不十分のまま戦争へ
資源がないということが前提にありながら手を広げすぎるからだけど
ノモンハンの教訓だったのかも
>20mm
対大型爆撃機用
先述のように、ノモンハン勃発時にはゼロ戦の試作機ができており、無関係。
後背の補給基地を爆撃しつづければよかったのさ。理屈をいえばいくら
でも装備も人員も増強できるけれども、手持ちでやるには上層部の意思
決定だけでなんとかするしかない。論点はそこすらぐちゃぐちゃだったので
もはや何ができようか、ということになる。
あたりまえのことで、そこでの最善はとにかく補給を絶つことに尽きるのさ
シベリア鉄道からの距離を考えるとソ連側の方が補給戦が長かったのに
>>39
関東軍はそれやった。
ただ、本気でそれをやると、日ソ戦になるから大本営に怒られた。
対中国戦が終わっていないのに、日ソ戦なんて正気の沙汰じゃないというわけ。
辻なんかは、それで強制的に中国戦を終わらせようと思っていた…かも。
海軍は大和零戦作ったのに陸軍はなぜ機械化師団を編成できず馬や歩兵だけでやったのかな
やはりWWⅠの陸戦不参加が原因かな
究極的に言えば金がないからにつきる
ノモンハンの時の主力は九五式軽戦車っていう安い戦車なんだけど
それでも当時の価格で8万、新戦車チハだと16万円
ちょっとあとに開発された零戦や隼が約3万円
はっきり言って金がかかるのよ
機甲機械化部隊がヨーロッパでの主力になってることの情報とドクトリンがなんで日本に入ってこなかったのかそれが不思議
>>47
当時のソビエト戦車団は世界最強
モスクワ広場の軍事パレードで 延々つづく戦車団に
招待武官をきもつぶした
しかし、日露戦争勝利後は西欧列強に引けをとらないので多くを学ばなくてもいいと勘違いしてしまったんだと思うね
参謀としての仕事内容は現場を混乱させるものばかりなのに
とくに料亭で使った経費と車の行き先、距離までも
それで上官の弱み握って自分の立場や発言権を確保増大させたそうな
>>51
まずは陸大の主席など数人に天皇陛下から軍刀が贈られる
陸大卒というだけで天保山銭組と呼ばれ今の官僚の東大卒的な扱いで桁が違うのに加え
軍刀持ってるとさらにスーパーレアになり陸軍では扱いが桁違い
この下地に加え、辻はそれの特権を上手く使いアチコチに人脈を作っていった
実際にサイコパス系はこういう相手の弱みと好意を同時に操作していく
足がかりになる地位・レア感がなくともここまのぼれず
弱みだけではここまで登れず、
人に好意抱かれるだけでもここまで登れず
大抵こういうのは全てのミックスで上手く使いわけている人が多い
陸軍大学の教えが悪いのもあるでしょう。(兵站を軽視している)
辻にもっとも影響を与えた、石原莞爾などを軍法会議にかけないため、あいまいな風になってしまったのが悪い
現代の今のどこかの組織に似ていますねwww
辻と言えば服部卓四郎もセットだね
彼もノモンハン事件後に軽い処分で済んでいるけど、これはなぜだろう
>>56
服部卓四郎も陸大恩師の軍刀組だからでは?
恩賜の飯盒組とか
恩賜のリヤカー組とか
恩賜のまな板組とかがあったらまた歴史は変わってただろうな。
主たる敵だった中国軍も馬や歩兵が頼みだった訳ですし
皇軍兵士の敢闘精神が高かっただけに惜しまれます
実戦と勉強は別物だし
太平洋戦争の作戦に強い影響力もった分辻よりも悪党だぞ。
テレビ的には悪者を1人に絞った方がわかりやすいし、服部は戦後の自衛隊創設にも関わっているから政治的に忖度したのかもね
保安隊への旧軍将校編入名簿を作ったのは服部だしなぁ
服部自体も国防軍計画目論んでいたけど
陸海空の統一運用や統帥権は首相にあるべきとか流石に反省しているし
辻ともども怪物だよな
吉田の軍事顧問だった辰巳中将や下村大将もCIAやGHQの協力者だったし
支那語が堪能な人は国民党軍からもスカウトされてたらしいし
ここにいる人たちはこのぐらいの数字は知ってて話をしていると思うよ
日本が敗北したと言われる理由は、事件後日本軍が主張した国境線から結局後退して国境が引かれたことと、兵員の損耗率の高さからだと思うよ
あとは事件の教訓からT–34戦車を生み出したソ連と、事件を隠蔽して責任を現場に押し付けた日本の違いもあるけどね
>>74
停戦は陸軍の意向では無い。
停戦となった理由は、対米戦争準備をしたい海軍の政治的策略によって
海軍と通じた現地の東郷大使が、ソ連有利な条件で
無理やり停戦を持ちかけたことによる。
停戦を考えていなかったのは関東軍な
戦闘中に締結された独ソ不可侵条約を見て、参謀本部が作戦中止命令を複数回関東軍に出している
独ソ不可侵条約は独ソの準同盟関係を意味することがわかったからな
止めさせるためだけという、ちいさな擦り傷の手当目的だった。ところがそういう
ちいさな目的にとらわれて大戦略を見落としてしまったんだわ。だから政治は
ちいさなことにとらわれてはいけない。
まあ、ノモンハンはその後の日本軍敗退の縮図だからね。
いろいろ、恨み節が出る訳だ。
>>77
停戦を辻政信はソ連外交官を脅かして、実力行使で止めさせようとしてたんだよね。
まさに「戦争は負けと思った方が負け」という…
>>74
> 日本が敗北したと言われる理由は、事件後日本軍が主張した国境線から結局後退して国境が引かれたことと
兵員の損耗はソ連側の方が多かったと判明したが、国境線問題について。
確かに日本側の主張は全面的に認められず譲歩を強いられたが、モンゴル側も同じく譲歩を強いられている。
> ハンダガヤ~ハロンアルシャン地区では日満側の要求が、ソ連側主張よりハルハ河より
> に線引きされた。モンゴルが今なお500平方キロを失ったと称するのはこの地域
> 「昭和史の謎を追う」上巻 秦郁彦著
領土紛争は双方痛み分けとなると両国とも負けたと感じるもの。日満側が領土を奪われたと考えるのは間違いないが、ソ連蒙古側も同じく領土を奪われたと考えている。
>日満側が領土を奪われたと考えるのは間違いないが
間違いだよ。
満州族皇帝が裁定した満州-モンゴルの境界を越えて自領を拡大しようとしたんだから。
日満側の主張に正当性はなかった。
単に強奪に失敗したに過ぎないのに、奪われたって、盗人猛々しいとはまさにこの事だ。
>>126
ところでノモンハンという不毛な土地で戦争が起こった原因である国境線問題
国境線と地図
1906年 露清間に結ばれたキャフタ条約(1727年)に基づき、ロシアの軍測量隊はハルハ河を境とする地図を作成した
1918年 中国軍がハルハ河を国境とする地図を作成。日本軍はシベリア出兵でソ連側の地図を獲得した。同地図にはハルハ河を国境としていた。
1932年 ソ連は従来の国境線を通告無しに突然変更した。
> ソ連軍は1932年から34年にかけて、兵要図を作成するとき、ハルハ河東岸に国境線を変更した。
> 日本軍がそれを知らされたのは、ノモンハン事件が起こってから敵の20万分の1の地図を手に入れたときであった。
> それまでハルハ河東岸に国境が変わっているなど考えても見なかった。
>
> 「ノモンハンの夏」半藤一利
これでは紛争が起きるのも当然。
>>128
>>1906年 露清間に結ばれたキャフタ条約(1727年)に基づき、ロシアの軍測量隊はハルハ河を境とする地図を作成した
え? 当時の満蒙境界は清の内政区分だよ。
露清国境の一部を取り決めたキャフタ条約なんか、清の内政区分である満蒙境界に全く関係がない。
外国が勝手に作った他国領内の地図に何の意味があるのかな?
>>1918年 中国軍がハルハ河を国境とする地図を作成
国境線を決めるのは政府であって軍ではない。
つまりこれは軍部の作った私製地図でしかない。
満蒙境界については清朝政府の公式認定が存在していた。
>日本軍はシベリア出兵でソ連側の地図を獲得した。同地図にはハルハ河を国境としていた。
だから、外国が勝手に作った地図の何の意味が・・・
と言うかさ、竹島を韓国領、北方4島をロシア領とする外国が勝手に作った地図が存在するが、
それが日本領っである事の否定材料にされて良い訳?
結局日本は、なんの正当性もなく根拠になりえない地図を元に、ハルハ河が境界だと勝手に思い込んだに過ぎない。
>>1932年 ソ連は従来の国境線を通告無しに突然変更した。
そもそも、ソ連の国境じゃないんだから、ソ連が変更なんかできない。
ソ連の間違った思い込みを、当事者であるモンゴルに違うと言われて改めただけのこと。
つまりはソ蒙間の問題であって、日本に通告も何も関係がないのだから必要ない。
ソ連の見解なんざ、満蒙境界に何の意味もない。
ソ連(日本も)は当事者ではないのだから。
国境線の主張はあくまで当事国同士でなされるべきものであり、モンゴル側は1734年以来のハルハ河東岸の境界線を踏襲し、清帝国も中華民国もそれを踏襲してきた。
ところが、東3省が独立して成立した満州国(実質は日本)は、従来の行政区分を超えてハルハ河まで自領を拡大する形で国境だと主張した。
国境(境界線)を一方的に変更したのは満州国(日本)であり、まさか日本の脳内で異なる国境(境界)線が引かれていようとは思いもよらなかったのがモンゴルなのだ。
この事実誤認は満州里会談などで指摘され、日満側も調査して真実を掴んでいたのだが、面子と領土欲からか、隠蔽して、ハルハ河が国境との主張を続けていた。
だから、
>日本軍がそれを知らされたのは、ノモンハン事件が起こってから敵の20万分の1の地図を手に入れたときであった。
> それまでハルハ河東岸に国境が変わっているなど考えても見なかった。
は現地部隊ではありえる話だが、関東軍司令部や政府レベルでは周知の話だった。
>>129
> (国境線の変更は)つまりはソ蒙間の問題であって、日本に通告も何も関係がないのだから必要ない。
いやw 国境線の変更は大変な問題。ソ蒙側の都合はいいが、隣の日満への通告も無しに勝手に変更して
領土を拡大したら当然侵略。当たり前の話し。
ソ蒙側の勝手な自己都合はともかくとして、日本側に国境線認識について、比較的中立的なクックスの著書から
> (日本側は)自分たちの便宜に合わせて国境線を移動させるつもりは無かった。~
>
> 日本はその主張の支えとなる証拠の地図には事欠かなかった。外務省の指示を受けて
> 行われた1935年の研究は、河北省唐山で製作された地図、ロシアで編集された各種の地図、
> イギリスで発行された地図、陸地測量部が製作した別種の地図をそれぞれ例に挙げているが、
> これらはいずれも満州事変以前に発行された物であった。
> 矢野少佐は1937年から38年にかけて手に入る限りの地図資料を調べてみたが、六種のロシアと中国の古記録のうち
> ボイル湖を蒙古内部に図示した物はひとつだけで、それは1884年作製のものであった、矢野は1734年まで遡って協定、条約を調べ、清国がハルハ河を境界と考えていた形跡が有る事を知った。
「ノモンハン1」クックス著 朝日文庫より
可能な限り資料を集め公正中立な判断に基づきハルハ河を境と判定した日本
>>131
>国境線の変更は大変な問題。
いや、国境線は変更されてないよ。ソ連に満蒙境界を決める権利も権限もないんだから。
単に、ソ連が国外の地理に関して間違った認識を持ってたのを、訂正しただけのこと。
>勝手に変更して 領土を拡大したら当然侵略。当たり前の話し
拡大にはならんよ。満蒙境界はソ連国境じゃないんだから。
ソ連がどう認識を変えようが、ソ連領の増減は一切ない。
また、モンゴルは1734年以来の満蒙境界を踏襲しており変更していないので、領土の変更はない。
東3省が独立したもののはずの満州国が、東3省(黒龍江省)の境界を越えて、新たな境界を主張した。
これこそが拡大であり、侵略。当たり前の話。
>可能な限り資料を集め公正中立な判断に基づきハルハ河を境と判定した日本
確かに資料は集めたよ。だけどその結果、明らかにハルハ東岸を境界とする証拠がぼろぼろ出てきて、
調査実行者はそう結論付けて報告してるのに握りつぶされ、そういう都合の悪い情報は一切隠匿して、
ハルは河を境界だと主張したのが事実。
その辺は、 北川四郎『ノモンハン、元満州国外交官の証言』やi辻政信 『ノモンハン』
など、日本側当事者が書き残している。
>>132
>国境線が不明確なら
この前提が最初から間違ってる。
1734年以降、満蒙境界は確定しており、清朝から独立したモンゴルも、清朝から政変で替わった中華民国もそれを踏襲している。
なのに、東3省が独立したという建前の満州国が新たな境界線を主張した。
その根拠が、満州国を支配している日本が、境界線のどちら側にも権利のないソ連が作った地図でそう認識していたと言うお粗末なもの。
その間違いは満州里会議で指摘され、日満側の調査でも判明していたのにそれを握りつぶして
ハルハ河国境を主張し続けて会議を長引かせたのが日本側。
>もう日本と平和的に協議するどころの騒ぎではない。
え? 武力で満州国打ち立てたあげくに新境界線を主張している連中とだって、平和的に協議は出来るんですが。
>>135
> ソ連に満蒙境界を決める権利も権限もないんだから。
そういう主張は平和ボケ日本人らしくていいけどw ソ連軍は他国に黙って一方的に「国境線」を決めて
大軍で侵略してくるのだから。ソ連に何の権利や権限が有るんだ!とか寝言を言ってる場合では無い。
> 辻政信 『ノモンハン』など、日本側当事者が書き残している。
では引用。
> ノモンハン付近は、清朝時代ハルハ蒙古族(内蒙)と、ハルコ蒙古族(外蒙) の~両族の紛争が絶えることなく
> 種族の盛衰に応じて争奪を繰り返し、強ければ進み、弱ければ退く状態で二百年の永い間明確な境界はなかった。
> 満蒙両国は外交的に国境を画定しようと折衝したが、決定を見ないまま昭和十一年、ソ蒙相互援助条約の締結を見るに至った。
> 爾来外蒙は背後の力を侍んでますます強腰となり二百年来紛争の歴史を繰り返す
『ノモンハン』 辻政信 より
昔から不明確な領域を巡っての部族間対立。そして超大国ソ連の後ろ盾を得たモンゴル側が強硬姿勢に出てきたと。単純な話し。
>>137
>では引用。
当事者の自己に有利な主張だけでは意味はない。
「満鉄調査部発行の文献は最も権威のあるものとされていたが’
たまたまハルハ河に関する部分が’我が方に不利と認められる資料があることを発見した。
それを差し押さえたり散逸を禁じたりするためにへ新しい法令を出したりまでした」
辻政信 『ノモンハン』、亜東書房 1950年 24l頁
と言った、自己に不利な記述ならば、いわば自白でありそれだけで大きな意味がある。
>昔から不明確な領域
不明確ではないと言う証拠を隠匿隠滅したと言う辻の自白があるのに、まだそんな世迷言を繰り返すのか?
>>138
>北川四郎氏の発言を引用
それは北川氏の見解ではなく、北川氏の知る日本側の見解を述べただけではないのか?
>満州里会議(第一回は1935年、第三回は1935年、ここで決裂)に出席。
いや、単に満州里会議出席者どころか、現地調査団のメンバーで、ハルハ東岸の国境が正しいと報告してる人なのだが。
「新京へ帰任したあとへ 当然のこととして私が報告書を書きあげた。
測図には’川瀬さんに頼んでオボー跡を屈折点として道光二九(一八四九)年の境界線を入れてもらった。
さすがに’これに 「正しい境界線」という名称をつける勇気はなかった。
しかし、報告書では道光二九年の境界が正しい境界であると解説しておいた。」
北川四郎『ノモンハン、元満州国外交官の証言』 徳間書店 1979年 102頁
>当初はモンゴル人などろくに相手せず、後になって勝手に国境線を書き換えたソ連が悪い。問題の根本原因
いや、モンゴル人を相手にせず、確認も取らずに一方的に新しい境界を主張して書き換えたのは日満なのだが。
そもそも、ソ連には満蒙境界を書き換える事なんか出来ない。
ソ連が勝手に何を地図に書き込もうと、満蒙境界を決定するのは、その地の主権者なのだから。
ソ連はかつて勝手に書いた地図を、現地主権者の主張に応じて訂正したに過ぎない。
境界を主張決定しうる現地主権者は清朝、中華民国、モンゴルと中華民国(黒龍江省)、モンゴルと満州国(黒龍江省)であり、
踏襲されてきた境界を、満州国(実質は日本)が満州建国の際に変更しようとしたのが、事実なのである。
>>143
> それを差し押さえたり散逸を禁じたりする
確かに不正確な境界線を書いてある文献も多いね。それは要するに昔から国境が不明瞭であるという証拠。
古くから略奪に抗争を繰り返している遊牧民たちの「境」。
それを精密な測量により決められる近代国家の国境線と一緒にするのは単なる勘違い。
また不明確・不正確と判定される資料は混乱防止のために回収するのは当たり前。今でも書籍に誤植などがあったら書店から回収する。
「文書の中には、ハルハ河を国境としたものもあれば、そうでないものもあった。国境線はあいまいだった」
『ノモンハン』アルヴィン・D・クックス
> そもそも、ソ連
・・・が悪い、諸悪の根源。満州里会議に出席して苦労した北川四郎氏だけでなく、モンゴル側の証言も。
> 残念なことに、スターリニズムの直接介入によって、モンゴルで行われたチョイパルサンによる粛清~
> 国境確定の直前に話し合いが中断したために三年間の努力は無に~
>
> もし、この話し合いを継続し、国境問題を解決していたならば、ハルハ河戦争は起こらなかったか、あるいは・・・
ゴンボスレン大佐(モンゴル人民共和国戦史研究所戦史部長) 『ノモンハン・ハルハ河戦争 国際シンポジウム全記録』
>>143
> ソ連が勝手に何を地図に書き込もうと、満蒙境界を決定するのは、その地の主権者なのだから。
いやw きれいごとは忘れよう。「国境線を決定するのは」実力のある者。(例 ソ連に侵略されたフィンランド)
「極東ソ連軍は兵力を逐次に増強し、我に三倍するに至って、傲然挑戦的越境を各方面に試みた。あるいは国境画定不明確を理由として各所に紛争を惹起した。」
ノモンハン 辻政信著
それまで静かだったソ連軍が、充分な戦力を確保したと思った時点で、あからさまに侵略的行動に出てきた。
>>135 >>143
> 都合の悪い情報は一切隠匿して、ハルハ河を境界だと主張したのが事実。
> その辺は~辻政信 『ノモンハン』など、日本側当事者が書き残している。
>辻政信 『ノモンハン』、亜東書房 1950年 241頁
原本を読んだが、↑は書籍の一部を切り取って事実をねじ曲げてるな。辻参謀の話しは事変後の資料集め。
まず九月にノモンハン事変の停戦協定が調印される。そして十月に国境線確定会議のための準備が始まる。
そこで満州国だけでなく東京、北京、南京、広東にまで関係者を派遣して資料を集める。
満鉄などの資料も貴重だが、民間の文献は失われやすい。
そこで、それら重要資料の散逸防止のために法令で”差し押さえ”を実施した。つまり日本側にとって都合の良いモノも悪いモノもすべて集めた。
さらにはドイツ、フランス、イギリスなどハルハ河に関係ありそうな膨大な資料を可能な限り集める。
この膨大な資料を持ってソ連相手に国境交渉に向かった。交渉は豊富な資料を持つ日本側に有利・・・そして
「(国境線は)ソ連側主張よりハルハ河よりに線引きされた。モンゴルが今なお500平方キロを失ったと称するのはこの地域」”昭和史の謎を追う”上巻 秦郁彦著
>>135
> 都合の悪い情報は一切隠匿して、ハルは河を境界だと主張したのが事実。
> その辺は、北川四郎『ノモンハン、元満州国外交官の証言』~など、日本側当事者が書き残している。
では北川四郎氏の発言を引用。同氏は満州里会議(第一回は1935年、第三回は1935年、ここで決裂)に出席。
「帝政ロシアがハルハ河を境界とした理由は1727年のキャフタ条約の”山が有れば山、河が有れば河をもって国境とする”という国境画定の基準」
「それから七年目にホロンボイルと外モンゴルとの境界が造られたが、そのときに~ロシアはハルハ河を境界とした」
「ハルハ河国境が何時変わったかというと、1932年~34年にモンゴルがソ連に要請して測量してもらったときのこと。これを日本軍は全然知らなかった。ノモンハン戦争で地図を分捕って始めて気づく。」
元国境確定委員会補佐員 北川四郎談 「ノモンハン・ハルハ河戦争」より
当初はモンゴル人などろくに相手せず、後になって勝手に国境線を書き換えたソ連が悪い。問題の根本原因
現場は悲惨、統帥はぐちゃぐちゃ、責任者は無責任という
良いところ無しの武力衝突だよ。こんなものホメてはいけない。
「あたりまえ」として通用してんだから信じらんない
状況を正しく見られる立場にあれば、常識で考えて対米開戦などまったく必要
なかったんだからな。
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180829134140.pdf?id=ART0010006058
「1941年の秋、モスクワ攻防戦の一番危機的な時期にゾルゲが獲得に成功した情報のおかげで、
ソ連指導部は極東、シベリア、中央アジアにいた師団の一部をモスクワへと配置換えする決定をとることができました。
この師団らが私たちの首都へ迫ろうとしていたドイツ軍を撃退する上で計り知れない重要な役割を演じたのです。」
https://jp.sputniknews.com/russia/20151003988176/
「しかしソ連への攻撃は行われなかった。だがそれは日本の宣伝家たちが主張しているよ
うな、日本が中立条約の条件を誠実に遂行したからではなく、ドイツの『電撃戦』が失敗
し、ソ連の防衛力が同国の東部で維持されたからだ。いつ始まるかわからない日本の攻撃
を撃退するための準備として、ソ連軍全体の28パーセント超に相当する549万300
0人の中から156万8000人と数千台の戦車や航空機が極東と南の国境近くに配置さ
れた。この戦力は、ソ連とドイツの前線で効果的に使えたはずだ。そのため、軍国主義日
本の政策が、戦時中に中立条約の規定に違反し、全体として大祖国戦争と第二次世界大戦
を長引かせ、ソ連や他の国民の犠牲者を増やしたと考える十分な根拠がある。」
http://jp.sputniknews.com/opinion/20160414/1955357.html
邦訳者後書きには、ノモンハン停戦協定が締結された後も1941年、その7月1日現在のロシア側戦力は、
対独戦に振り向けられていた戦力より大きく、723119名の兵力、戦車4638両、航空機4777機、自動車6万余台、
トラクター1万余台、砲14062門などと、やたら記録をとる民族だけに詳しいのだが、
http://yhsvtex.blogspot.jp/2007/06/19417172311946384777614062-30003.html
>>92
物事は表裏一体である
日本軍も対ソ警戒から、太平洋戦争開戦後も精鋭14個師団を満州にはりつけていた
開戦時陸軍は51個師団であるから師団数約27%、くしくもソ連軍と極東ソ連軍の比率と酷似している
開戦後は双方とも正面の敵に注力せざるを得ないはず、という合理的判断から戦力を続々引っこ抜いた
関東軍から戦力を抜けなければ、南方の諸作戦は成り立たなかった
また、独ソ戦をやっている限りソ満国境は案山子で十分、つまりはドイツが敗れたなら
日ソ中立条約は一片の反故となる、わかりきった話である
ノモンハンの真の教訓である組織の腐敗について私たちは自らの意思で学ぶまで真相を知らなかった
日本軍の腐敗は現代日本にも継承され現場の声は経営陣に伝わらない、出世競争脱落を恐れる現場責任者の多くが問題点を上層部に上げない
仮に上げたとしても揉み消される、これは文科省並びに日本政府の誤りである
>>97
歩兵第26連隊須見新一郎大佐が「精神力だけでは戦争に勝てない」と発言したことに対し
軍務局長武藤章少将から「ノモンハンのようなつまらいぬ事件の戦訓にいったい何の価値があるか」と叱責されたという
戦場の地形が違うだけっで。
それなりに成果はあったんだろうな。
軍事関連で予算注ぎ込んでる建艦、航空機でさえも、基礎技術は欧米の劣化コピーだもんなあ。
>>112
https://oilgas-info.jogmec.go.jp/_res/projects/default_project/_project_/pdf/0/652/200601_045a.pdf
一応南方からの石油はある程度は確保されていたけどね。
日本は高オクタン価のガソリンが精製できなかったんじゃないの?
大国になったという変なプライドがあったか
技術だけならともかく、それを工業、産業として成り立たせるだけの国内需要が
一般国民が貧しいために乏しく、大量生産体制が整わなかったことも大きい。
戦後の通産省を中心にした国内産業の振興政策はそのあたりの反省もあってなんだろうな
ドイツは1944年の時点で年間650万tの合成石油を生産しておりルーマニアノ油田地帯が失われてもなおガソリンを供給し続けていた
硝石が輸入できなければ空中窒素固定法で火薬を生産しバターがなければマーガリンを作る
日本はと無ければ南方進出だと短絡もいいところで足らぬ足らぬは工夫が足りぬの典型だった
イーゲーファルベンに技術指導に来てもらうとか少しでも合成石油を生産する努力が何らなかった
南方油田地帯を抑えたらそれで満足してしまいシーレーンをズタズタにされたら小学生に松の根っ子堀をやらせる有様
合成石油というか、液化石炭の研究は大々的に行われていたよ。
そこれそ、戦艦大和以上の予算を取って研究している。
ところが、ご存じの通り失敗した。液化石炭を得るためには、高温高圧状態を維持しなければ
ならないのだが、実験室レベルで成功しても工場レベルで大々的にやろうとするとそれが維持
できず、温度低下で固化した原料がパイプに詰まって失敗だ。
六ヶ所村での使用済み燃料の濃縮でも似たような失敗しているような…
兵隊さんのエネルギーにはなったかも
【ノモンハン 70年後の教訓】に触発され満州の旅を追憶する
https://4travel.jp/travelogue/10387322
【ノモンハン 70年後の教訓】(上)満州侵略決意したスターリン 暴かれる日ソ衝突の秘密
https://web.archive.org/web/20091011001617/http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091008/acd0910082057005-n1.htm
満州では、石油が見つからなかった。だが、航空隊は当時、満州領だった現中国の大慶油田の上空を度々飛行し
眼下の湖沼にギラギラと黒く輝く油膜のようなものを認め、満州鉄道に報告していた。満鉄は「石油が出る地層にあらず」
と回答をよこし、一度も現地調査を行わなかった。
中国は約20年後、その場所に大油田を発見し大慶と命名。ピーク時には、年間5000万トンの産油量を誇った。
これは第二次大戦開戦時の日本の年間消費量の10倍にあたる。「調査さえしていれば、日本は事件後、資源を求めて
南方に進出し米国と衝突しなくてもすんだのかもしれない」と瀧山氏はつぶやいた。
【ノモンハン 70年後の教訓】(中)大粛清のナゾ 果たせぬ“統一モンゴル”の夢
https://web.archive.org/web/20091012020452/http://sankei.jp.msn.com:80/culture/academic/091009/acd0910091745005-n1.htm
満ソ国境紛争2/ノモンハン事件 概説1 昭和14年5月11日~昭和14年9月16日
https://web.archive.org/web/20070113042929/http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-kokkyo21.html
『日本軍はなぜ満州大油田を発見できなかったのか』岩瀬昇著:戦前満州での大慶油田発見は対米戦争回避につながったか?
http://www.asyu ra2.com/16/warb17/msg/260.html
大慶油田の発見の時期
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1233075047
https://academy6.5ch.net/test/read.cgi/history2/1222959679/203
https://academy6.5ch.net/test/read.cgi/history2/1222959679/206
【札幌】“北樺太に石油あり” 100年以上前の資源調査文書発見 北海道庁の技師が軍の指令を受けて潜入、調査
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1528183588/
戦後70年の新事実…旧日本海軍が望んだ「ソ連との提携」
https://dot.asahi.com/dot/2015021300089.html
戦前日本と石油 【六】 日露関係に揺れた北樺太油田
https://blogs.yahoo.co.jp/naomoe3/61191418.html
紛争が起きたのは、満州国(日本)がそれまで当事者が守っていた歴史的境界線を無視して、
新たな境界線を満州領が拡大する形で主張したのが原因。
最初は事実誤認だったようだが、事実確認してからも主張を取り下げなかった。
その最初の事実誤認も、なんの権限もないソ連がかってに作った地図を信じ込むと言う、実にお粗末なものであった。
当事者の政府や行政機構に確認を取れば済んだ事なのに。
(脱亜入欧で、西洋人の見解>アジア人の見解と言う偏見にでも捕われていたのだろうか)
全く、これでは紛争が起きるのも当然。
>>130
> 当事者の政府や行政機構に確認を取れば済んだ事なのに。
ところで国境線が不明確なら関係国の間で協議して話し合いで決めれば良い(満州里会議)。平和ボケしている我々ならそう考えるw しかし・・・
>モンゴルは遺憾ながらスターリニズムに侵され…狂気の暴虐のせいで、政府、軍の上級指導者達は一斉に「日本のスパイ、手先」として逮捕された。
ゴンボスレン大佐談 モンゴル人民共和国戦史研究所戦史部長 訳・田中克彦「ノモンハン戦争」
モンゴル国内ではソ連軍により酷い虐○が発生し、政治家・有力者・知識人層の大部分が○害され全モンゴル人口の4.5パーセントが処刑される。
政府閣僚も大量処刑。ゲンデン首相・外相・参謀総長・商務相・保険相・司法相・教育相・他
満州里会議で日本側と協議していたモンゴル政府関係者も大量処刑。日本と深い関わり合いが有るからとスパイ容疑で処刑。
もう日本と平和的に協議するどころの騒ぎではない。ノモンハン事件は必然といえよう
チョイバルサンはスターリンのご機嫌を取らないと粛清される。妻はロシア女だしね。
スターリンはチョイバルサンの故郷が危機になっても見逃すなら、親分の意味はないしな。
ちなみに藤田の「アッツ島玉砕」はこの前、始めて見てきたんだが、凄い迫力だった
ノモンハン事件って不気味ですね~
同じです
海軍には興味があってノモンハンの武力衝突の事はほんの一部分の浅い認識しかなかったのですが皆さんの書き込みで僅かですが事の経緯の一端を垣間見た様に思います
大日本帝国にとって満州事変が戦略上の歴史的転換点ならノモンハン事件は組織の弱点(隠蔽無視されましたが)を露呈した戦術面の綻び、どちらも無条件降伏に至った軍事的検証問題として今後更なる真相究明に期待したいと考えます
まだまだ私たち現代に生きる日本人が学ぶべき近代日本史の問題は多いですね
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1541089084/
本当は日本軍の大勝利だったノモンハン事件 五味川純平、司馬遼太郎の小説は虚構である
http://www.asyu ra2.com/biz0310/idletalk5/msg/137.html
ノモンハン事件の真相と戦果―ソ連軍撃破の記録
https://www.amazon.co.jp/dp/4897131103
ノモンハン事件1・壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった!『ノモンハン戦場日記』ノモンハン会=編(新人物往来社、1994年)・第2次大戦見直しに反発=ノモンハン事件70周年-ロ大統領
https://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/41697178.html
ノモンハン事件2~7
https://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/41697274.html
https://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/41697519.html
https://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/41699594.html
https://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/41703279.html
https://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/41704868.html
https://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/41704917.html
※すんません、本の正式なタイトル失念
あと牟田口閣下に関する生い立ち・陸軍士官学校時代から(厚顔無恥なる?)戦後に至るまでの本も向学の為に
何でもかんでも帝国軍は悪くない
真珠湾も自分らで奇襲作戦したけどあれはアメリカのせい帝国軍悪くない
ノモンハンもソ連のせい帝国軍悪くない
…徹底的に情報戦で敗北した上に軍として機能不全起こしている事はしょうがないとみないふり
さすがに、百科事典目指している Wikipediaでそれやるなよと思う。
げんなりするぜ。
上層部と大多数の司令官にあるのは日露戦以来の玉砕敢闘精神
とても便利
精神的勝利
とはいえ「正式に国家承認する」というのはほぼ名誉に関するステータスの
ようなものであって、国家承認していない国の外交使節と接触することが
何か外交上の契機になるわけでもないし、国家承認していない国と条約を
締約することが国際法上あらたなステータスの付与にただちにつながる
わけでもない。
あって、友好条約や和親条約のような明示的な友好関係の確立宣言がなければ、やはり
「国家承認」という実態のよくわからないステータスの付与と呼ぶのは難しいだろうね。
スターリンの意図的な政策説もあるがいずれにせよ満州に介入している場合では無かったのではないか
>>162
違う
この飢饉で餓タヒしていたのはウクライナ人でロシア人ではない
ロシア全域の飢饉は1920年代初頭ので映像の世紀でやってた方
この人工飢饉でウクライナ人のソ連政府への反感は高まり独ソ開戦後ウクライナに侵攻したドイツ軍は一時解放軍として歓迎された
しかしドイツ軍のウクライナ人の扱いはソ連政府と50歩100歩でウクライナ人の離反を招いた
この辺は日本軍の東南アジアの占領政策と被る
ウクライナはロシアではない
この辺を題材にしたのがフォーサイスの悪魔の選択
ノモンハンで日本は負けた負けたというが、それで日本は何を失ったのか。
ちなみにフィンランドは冬戦争でカレリアを失っている。
カレリアを取ったティモシェンコと何も取れなかったジューコフでは、どっちの評価が高いか。
なおドイツ国防軍が全身全霊かけた対ソ戦の「輝かしい戦果」が判明するのは戦後半世紀を経てから。
けれども何を失い何を得たかというのは、戦時でも明確である。 バグラチオン作戦と大陸打通作戦、
ベルリンに翻る赤旗と南京に翻る日章旗。
ナチスと結んで米英を攻撃した日本は「無条件降伏をしたのに、北方領土を返還しろ」と主張してるのに、
ナチスと結んでソ連を攻撃したフィンランドは「有条件降伏をしたからカレリアを返還しろ」とは言わない。
クリミアは住民投票の結果ロシア領土になったという主張と、北方四島は日本が無条件降伏した結果ロシア領土になったいう主張は、
どちらが正しくてどちらが間違いなのか、あるいは両方間違いなのか両方正しいのか。
終戦時でも浮き彫りになった“軍部の醜さ”
https://bunshun.jp/articles/-/14149
忠実な衛星国のモンゴルよりも、敵国ともなりうる
中華民国の利害を優先した点で、よほど注目に値する。
なおかつ満洲のように、国際機関が中国の領土主権につき
承認するなど、国際社会の注目を集めた訳でもないのに、
広大な大地をみすみす明け渡したのだから、中国人は
ソ連に感謝の念を抱くべきだろう。
大日本帝国もせめてソ連なみに、中国の立場を尊重していたら、
日中関係も日米関係も破綻せずに、帝国の名も実も
存続していただろうに、まことに残念だ。
ノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シンポジウム実行委員会/編
出版社名 原書房
出版年月 1992年8月
https://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000018717505&Action_id=121&Sza_id=F4
http://www.aisf.or.jp/sgra/active/schedule/2009/1534/
発表要旨集
https://web.archive.org/web/20131228113409/http://www.aisf.or.jp/sgra/info/MongolSympo2009Abstracts.pdf
―共同研究の経緯―
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/622/622PDF/narmanda.pdf
モンゴルの研究者たちは、ハルハ河戦争が、モンゴルとソ連における兵器や戦術の発展に大きな
影響を与えたと考えている。そして、すでに一定の研究成果を挙げている。研究によれば、ハルハ
河戦争での経験に基づき、モンゴルとソ連の軍隊は、1940 年代になり戦闘規約の改定を行い、戦闘
部隊の構成を変え、武器を刷新したのである。
ハルハ河戦争は、世界史的レベルでの戦術の発展に対しても影響を及ぼした。この戦争において、
はじめて戦車部隊が単独で敵の防衛陣地を襲撃して効果を発揮したのである。この戦法は第 2 次世
界大戦で活用された。またハルハ河戦争では、それまでに無かったような大規模な空中戦が行われ
た。そして、ソ連の伝説的英雄である G.K ジューコフ将軍が登場し、ハルハ河戦争での豊富な経験
と知識を、その後の祖国防衛戦争において有効に活用し、第 2 次世界大戦の勝利に大きく貢献した。
モンゴル国民は、ジューコフ将軍の業績をいまでも褒め称えている。
最近では、モンゴルや外国の研究者の中に、ハルハ河戦争を第 2 次世界大戦の歴史と結びつけて
研究すべきであると考える人々が現れている。すなわちハルハ河戦争は、第 2 次大戦の発端であっ
たというのである。これらの研究者たちは、ハルハ河戦争は、ソ連とドイツ間に「独ソ不可侵条約」
を成立させ、日本とソ連の間には「日ソ中立条約」を成立させ、これによりソ連を東西の 2 つの戦
場で同時に戦わなければならない危険から救いだし、また日本の戦略を変化させることにより、第
2 次大戦の開始とその結果に大きな影響を与えた、と考えている。将来において、ハルハ河戦争の歴
史を第 2 次世界大戦の範疇の中で考察する視点が、研究の中心に据えられるであろう。これもまた、
ハルハ河戦争の研究に出現した新しい傾向の一つである。
https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=6008&item_no=1&attribute_id=189&file_no=1
引用元:http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1534339687/
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