【明治維新】西郷隆盛は征韓論者ではなかった!!!その理由とは
西郷隆盛は征韓論者ではなかった
BestTimes2017年11月27日 08時00分
廃藩置県は西郷隆盛の存在なくしてはなし得なかった。当時明治新政府は、論功行賞に対する不満や政府のポスト争いなど、次々と困難な問題に直面していた。こうした問題を解決し、一大改革を断行するには人望や勇気、行動力がある人物が不可欠と西郷に白羽の矢が立ったのである(雑誌『一個人』2017年12月号「幕末・維新を巡る旅」より)。◆西郷の存在なくして廃藩置県は成しえなかった
国立国会図書館
明治元年(1868)11月、戊辰(ぼしん)戦争の大勢が決したところで、西郷は鹿児島へと帰った。
「後は大久保らに任せて、自分は一線から退こうと考えたのでしょう。流罪中に感染したと思われるフィラリアの後遺症に悩まされていた西郷は、日当山(ひなたやま)温泉に滞在します」と鹿児島大学名誉教授の原口泉さん。
だが、薩摩藩主の島津忠義がじきじきに依頼してきたため、参政に就任。そして給与制度や常備兵強化などの藩政改革に努めている。
この間、明治新政府は論功行賞に対する不満や政府のポスト争いなど、次々と困難な問題に直面していた。政府内の揉め事に加え、民衆や職を失った武士の不満も膨らんでいたのある。こうした問題を解決し、一大改革を断行するには西郷の人望や勇気、行動力が不可欠と大久保は考えた。
明治2年(1869)に土地や人民を朝廷に返還する版籍奉還は実施された。しかし実質は、藩主がそのまま知藩事としてその地を運営していた。それを完全な中央集権の統一国家とするため、大久保や岩倉は廃藩置県を行おうと考えたのである。そこで手始めに薩摩、長州、土佐で先行してそれを行い、その三藩から御親兵を出し、さらに陸軍の鎮台を置いて反乱に備えることにした。西郷は「暴動が起きたらおいが鎮圧する」と述べ、参議を引き受けた。
そして明治4年(1871)7月、廃藩置県が行われ、約300の藩と200万人の武士の特権が消滅した。この大事業は、西郷なしには成し得なかった。
◆遣韓論を唱えた西郷は征韓論者の代表と見られた
この明治4年は、新政府が大規模な節団を欧米に派遣した年でもあった。特命全権大使は岩具視で、副使に大久保利通、木戸孝允、伊藤博文。その間の留守を預かったのは三条実美(さねとみ)、西郷隆盛、大隈重信、板垣退助らだ。
この時、使節団組と留守政府は取り決めを交わしていた。新たな政策などは、使節団が帰国した後に審議する、という内容だ。
「しかし国内は、廃藩置県に伴うさまざまな混乱や、放置しておけない施策が目白押しでした。結局、使節団側は留守政府が必要な政策を進める権限を認めました。そこで西郷が中心となり行われたのが徴兵制の導入、地租改正、学制の制定という3大改革です」。
しかし、まず人事で使節団組と西郷の溝ができた。徴兵制に関して近衛(このえ)兵と対立していた山県有朋(やまがたありとも)に代わり、西郷は自らが「近衛都督(このえととく)・参兼陸軍元帥」に就任。後藤象二郎や江藤新平らを登用した。これに発した井上馨が官を辞したので、留守政府中枢を佐賀や土佐の出身者が占めたのである。
それに加え朝鮮との関係も両者の間に亀裂を生んだ。日本が維新を迎えると、朝鮮は「夷狄(いてき)と国交を結んだ」と日本を拒絶した。この朝鮮の態度に、板垣退助らは軍事行動を含む強硬政策を訴えた。それに対して西郷は「軍隊は使わず、しかるべき者が使者に立つべし」と反論。そして「使者には自分が立つ」と訴え、その案が閣議決定された。
「西郷は征韓論者だと誤解されがちですが、実際は遣韓(けんかん)論を唱えています。板垣へ送った手紙に“自分が○されたら攻めればいい”と記したことが誤解の原因でしょう。ロシアの脅威を意識していた西郷には、朝鮮や清国の関係を強化し、列強に対抗するという思惑があったと考えられます」。
ところが明治6年(1873)、使節団組が帰国すると揃ってこれに反対を唱えた。大久保は参議を辞任すると言い、岩倉具視は閣議決定を無視して朝鮮使節派遣の延期を上奏すると言う。怒った西郷は辞表を提出したのである。
〈『一個人』2017年12月号「幕末・維新を巡る旅」より構成〉
https://a.excite.co.jp/News/column_g/20171127/BestTimes_7543.html
常識だろ、これ。
普通に授業受けていたら、誰でも知っている。
そのネタ元わかる奴少なすぎるだろwww
西郷や大久保はその道具でしかない
西郷隆盛が勤王志士に知られたのは江戸に居た時に島津斉彬の命令で篤姫の婚姻に有力藩主の根回しの交渉に奔走して知られたから
西郷隆盛の性感論
くだらねー馬○野郎がこんなんで真夜中に吹いちまったじゃねーかw
性の喜びを知りやがって!許さんぞ!!
日本からの親書に皇と勅の文字が書かれたことを理由に
親書を突き返してきて西郷が朝鮮の非礼にブチ切れたんじゃないのか
支配なんかせずに
天皇も信用していない
「征韓論」とかいう受験単語で理解するからそういうバ○な認識になるんだよ
西郷自身は征韓とか遣韓とか一貫した考えは持ってないよ
人に感化されやすく
その時その時で格好のつくことを言っていただけで
征韓論は当時のトレンドだし
西郷も征韓の考えを示した場面があることに間違いはない
鹿児島県が発行している『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)のなかに、
広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」という文書が載っている。
これは高知県出身で板垣退助に近かった林有造の主張を記録したものである。
参議の西郷隆盛、副島種臣、板垣退助に加えて、
左院副議長伊地知正治が謀議に参加した征韓計画の謀議が載っている。
西郷は「先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀」を主張し、副島は賛成した。
しかし板垣は「先ツ其君主ヲ檎(とりこ)ニスルヲ主眼トスル」点では賛成しながらも、
北方からの包囲は難事とし、三分の一の兵を釜山に上陸させて、朝鮮軍の迎撃を待ち、
残り三分の二の兵力をもって江華湾方面に送って「突如京城ニ肉薄」し、その間に
釜山の兵力も海路平壌に送って敵の退路を断つという戦略を主張した。
伊地知正治は少し大規模の兵力派遣を主張したという。
西郷は板垣、伊地知を信頼して謀議を行なったようである。
「其進軍ノ戦略ニ就テハ板垣伊地知ノ二氏ニ委スヘシトノ事ニ門下中ノ領袖ニ漏洩シアリト云フ」
と記されていることも興味深い。
また当時司法省出仕だった有馬純雄(藤太)の回想『維新史の片鱗』によると、
有馬は西郷から朝鮮占領後の民政官任命を内示され、
当該地域の地図を探したという挿話を述べている。
西郷が征韓論を唱えた史実は、まったく揺るがないのである。
事前に、外交交渉が破断したときにすぐに行動に移せる様に朝鮮占領計画を緻密に立てておいたんだろ?
西郷は単にはなせばわかりあうだろうみたいな、現在のマスコミや外務省の一部みたいな
甘いお花畑の人ではなかったってこと。
軍事力の後ろ盾がないと、外交で自分たちの主張が通せないってことを
昔の人も皆知って立ってことの証明でしかない。
結局、後の明治政府も同じことをして朝鮮を開国させてるし。
西郷それでめっちゃ怒ったぞ。
西洋の顔色を伺い、西洋のゴーサインが出たら、自分たちが苦渋をなめた砲艦外交を、今度は朝鮮に対して自分たちが行うとは何事だと。
もともとそうだろ
何大発見みたいなこと言ってんだ?
Q : 西郷さんのおかげで明治政府は廃藩置県を断行し、旧体制からの決別を出来たんですよね?
A : 明治3年、新政府は廃藩置県に先立ち、
鹿児島の西郷隆盛と5千人の薩摩藩士を御親兵として東京に出仕させました。
廃藩置県に反発する武士層の反乱が予想されたため、
これを鎮圧するのに、薩摩兵とこれを束ねる西郷の力が必要であったのだが、
もっとも反乱を起こしそうなのが鹿児島住みの薩摩藩士と西郷であったために、
これを未然に懐柔しておくためでもあった。
ではなぜ西郷は懐柔されたのか。
西郷にとっての廃藩置県は、藩主に権力を返上させ、その下にいた士族が実権を持つ
という意味であったからだ。
西郷は、出仕の際に出した意見書(「西郷吉之助意見書」)で、
「新政府に必要なのは士族を中心とした軍備強化と農本主義的な国家経営であり、
近代工業や鉄道などの建設を推進する政府は「商人」のようである」と糾弾しており、
廃藩置県には同意しても、士族中心の国体を固守する考えに変わりはなかった。
旧弊にとらわれない中央集権国家を目指す新政府とは同床異夢であったといえる。
新政府からの同様の懐柔措置は長州と土佐に対しても行われており、
いずれも御親兵を東京に出仕させている。
超高給と高地位を保証されたうえでの上京であった
つまり西郷隆盛はあくまで、廃藩置県に協力した一人である、
という話なのです。
よく言われる、岩倉使節団が洋行しているあいだに、
西郷がその声望と求心力で、廃藩置県を断行した、という類の話しも
まったくのデタラメです。
新政府が廃藩置県を断行した後に、岩倉使節団は出発しています。
懐柔されようが何しようが、西郷の決断が封建社会を終わらせたのは事実。
誰がどんなにすばらしい絵を描こうと、実権をもってるものの決断がないと
なにもできない。
西郷には、島津か毛利を立てて、新しい幕府をたてるという選択もありえたし、
権力欲があるなら、そっちのほうがよっぽどお得。
自身が征夷大将軍にもなれたかもしれん。
それに下級武士が実権を握るってのも、西郷がいようがいまいが、大正に原敬が
でてくるまでは、ずっと薩長を中心としたの下級武士が実権をにぎってたのであり、
西郷がいたら、もっとはやく藩閥政治がなくなっていた可能性もある。
というか高いだろ。
農法主義っていうのなら、アメリカの初期の大統領だって皆農本主義だ。
初代財務長官のハミルトン以外はね。
だからといってアメリカの工業が発展しなかったわけでなく、
単に、工業とかの振興に政府が力を入れるべきではなく、そういったのは民間の
努力でやれや。という小さな政府志向だ。
特にジェファーソンはそういった思想だった。
なんの中身も無い、ご都合主義の西郷美化でワラッタ
薩摩や土佐がタヒんだ人物にあること無いこと着けて利権を得ようとする韓国人みたいな事をするなよ
あれこれ推測してやる必要もないと思うが
なんでこうなった
切れ者なのは弟とか従弟だった説
維新後転んで頭ぶっけた説
負け組おじさんや地方在住おじさんたちは西郷どんが大好きだからね
倒幕の立役者であったのに新政府から事実上リストラされて賊徒としてタヒんだ西郷どんと
人生の負け組たる自分自身とを重ね合わせてるんでしょ
地方人としてタヒんだ西郷どんと
地方在住の自分自身とを重ね合わせてるんでしょ
しかし中央で華々しく時代を動かした西郷どんからすれば
ワンチャンスも無かったルーザーたちから共感されるのは迷惑な話だろうな
それだけではなく中国まで遠征してヨーロッパ列強を
追い出せという意見が圧倒的だった
西郷の朝鮮説得が成功したら自分たちは完全に失脚すると思い、
無理やり西郷の邪魔をしたというのが真相。
西郷は幕末維新の石原慎太郎かな
バーンとカッコよく問題提起はするが、西郷自身に問題解決能力があるわけでもなく
現場で何とかしろ的な悪しきブラック精神主義の走りがこいつ
薩摩藩の資金と配下の藩士の自己犠牲精神のおかげで、ある時期までは上手くいっていただけ
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1511798252/
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