■ 西郷隆盛 伝説一覧
伝説 : 「おいの体をあげもそ」と西南戦争を決起
史実 : 玉砕の数日前に自分だけ政府軍に助命嘆願 → 断られる
伝説 : 「晋ドン、もうここらでよか」と潔く自決
史実 : 玉砕当日城山から逃亡 → 桐野利秋に見つかり射○された
伝説 : 西郷南洲翁遺訓 西郷の教え41条
史実 : 東北庄内人による創作
伝説 : 清貧、高潔、質素な食事
史実 : 政府からの月給が現在価値で2千万円 年俸2億4千万円
豚の霜降り肉の食べ過ぎで超肥満に
伝説 : 自宅は雨漏りするボロ屋
史実 : 千百坪の超大豪邸に暮らす。使用人20人、飼い犬20匹(食用か?)
伝説 : 「子孫の為に美田を買わず」西郷家家訓
史実 : 西郷一族で東京ドーム117個分の土地を買い漁った
判らないけど、この人は「鹿児島県民を虐○しろ」
と、方々に書いてるから…
伝説 : 「小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」坂本龍馬による西郷評
史実 : 勝海舟の創作
伝説 : 江戸総攻撃を中止させ江戸百万人を救う
史実 : そもそも総攻撃を主張していたのが西郷本人だった
外人のパークスに脅され断念
伝説 : 敬天愛人思想で道義を貫きとおした巨星
史実 : 浪士を雇い、江戸で放火、強○、卑劣の限りを尽くし幕府を挑発
伝説 : 征韓論「この西郷が一人朝鮮に渡り、○されれば出兵の大義がたちもうそう」
史実 : 勝手に行けばいいのに、口だけで終わる
伝説 : 大久保利通の西郷暗○指令
史実 : 政府の密偵を凄惨な拷問にかけ自白強要させており、信憑性無し
伝説 : 奄美人を大切にした西郷さん
史実 : 子供を二人産ませた奄美の現地妻を捨て、
旧知の奄美人たちを西南の役に強制従軍 → タヒ亡
伝説 : 鹿児島の民百姓にも慕われた西郷どん
史実 : 西郷さんがタヒんだ日、百姓たちは木の上から見物、
全滅後西郷軍団の身ぐるみを剥ぎ、売る
敬天愛人シリーズ
《西郷隆盛の人となり》
西郷さんが財政家の井上馨を「三井の番頭さん」と批判したことは有名ですね。
では清貧の義人西郷さんはどんな生活をしていたのでしょうか?
政府から西郷さんに支払われていた給料ですが、
月給千五百円、現在価値で月給2千万円です!
政府と喧嘩して鹿児島に帰ってからも、どんな特権か知りませんが
月給だけはしっかり鹿児島に送られていたそうです。
敬天愛人シリーズ
《西郷隆盛の人となり》
西郷家の詳細が分かりましたのでさらに解説します。
鹿児島の自宅は千百坪の超大邸宅で20人以上の使用人がおり、
犬も20匹も飼っていたそうです。
西郷さんのモットーは
「ケチと呼ばれては世上の聞こえも悪いから、毎月少なくとも百円(現在の130万円)は使え」でした。
(出典:西郷従道夫人清子談話)
敬天愛人シリーズ
《 西郷隆盛の人となり》
「子孫のために美田を買わず」で有名な西郷さん。
鹿児島武岡山麓に1100坪の大邸宅を買っていたことはすでに述べた。
それ以外にも東京日本橋の大名屋敷500坪。
一族の従道は東京目黒に14万坪。
従道とこれまた一族の大山巌が共同で栃木県に150万坪。
しめて西郷一族が買い漁った土地の広さなんと東京ドーム117個分。
しかもこれらは政府から格安で払い下げられていたそうです。
なんともうらやましい話しですね。
敬天愛人シリーズ
《西郷隆盛の人となり》
西郷はかつて大島・徳之島・沖永良部島に流されたが、
薩摩へあてた手紙では道之島の人々のことを
「毛唐人」「エビス共」「ハブ性の人」などと書き散らしている。
そして島妻アイカナとの間にもうけた菊次郎・菊子を
薩摩で教育する際、奄美出身者ということを他言するなと厳しく禁じた。
島に残された母アイカナは非業のタヒをとげる
敬天愛人シリーズ
《 西郷隆盛 その人となり 》
西郷は1872(明治5)年の「大島商社」設立の際に、
商社ガ砂糖ヲ全国ニ売リヒロメテハ、必ズ大蔵省カラ利益ヲ占メラレルデアロウカラ、
ヨクヨク注意シテ、官ノ専売トミナサレナイヨウニシナケレバイケナイ。
という手紙を桂久武に出して、奄美の砂糖利益を旧藩時代そのままに、
鹿児島で独占しようとしている。
西郷は誰よりも奄美の悲惨な生活を見聞し、砂糖の自由販売こそ奄美の解放策と
分かっていたはずだ。しかも、明治政府の要職にある身分であった西郷が
「大蔵省に知れないようにやれ」とは何たる卑劣さだろうか。
敬天愛人シリーズ
《西郷隆盛の人となり》
奄美のアンゴ(島妻)愛加那は、1898年(明治31年)西郷流刑の地奄美に
記念碑が建立される際、まだ地面に横たわっていた記念碑を踏みにじり、
何度も唾を吐きかけた。
記念碑写真
敬天愛人シリーズ
《 西郷隆盛 その人となり 》
明治10年9月24日、7か月あまり続いた西南の役は幕を閉じました。
被弾した西郷が「晋どん、もうここらでよか」と別府晋介に首を刎ねさせたとされる日です。
一般には、西郷は潔く自決した。薩摩士族を道連れに自らサムライの世に幕を引いた、
などと美談のごとく語られています。
しかしその数日前の西郷の行動についてはほとんど知られていません。
・・・・なんとこの人、命乞いしてたんです。
政府軍側に使者を遣わし、西郷本人の助命嘆願をしている。
従軍をしぶる者をタタキ斬り、強制徴募や軍資金強奪を行ったあげく、
1万数千人にのぼる戦タヒ者を出した総大将が命乞い、などというのは、
薩摩戦史上はもちろん日本戦史上も例を見ません。
しかも政府軍の山県有朋に助命を断られ、武士であるなら潔く自決するよう諭されるという情けなさでした。
西南の役の最後の日、西郷は足を撃たれたあと自決したことになっているが、
その西郷の足を撃ったのは実は桐野利秋だったらしいな
西郷さん、玉砕することにどうにも納得いかなかったらしく、投降派の将兵を連れ山を降りようとした
しかし玉砕派の桐野がこれを発見、激怒して後ろから銃で処刑したというのが真相
目撃者の証言もある
鹿児島県人は西郷を祭り上げるためならどんな捏造をも厭わないが、
西郷に不都合な記録、証言はすべて黙○だ
ネットが普及する前はそれでも通用してたんだから、歴史とか史観というものは本当にいい加減なものだな
1877年4月1日付『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』は、西南の役をこう報じている。
「薩摩の人々は、1868年の革命以来、日本の甘やかされた子供であった。
しかし、彼らは明らかに日本の帝国内の薩摩帝国を保つことを望んでいるのだが、
それは許されざる事柄である。帝国政府はいま、彼らに対して大きな陸軍を
送り込みつつある。西郷将軍がこの反乱・西南戦争に何らかの形で加わっていることを
日本の公式文書は否定している。しかし、この文章が書かれている言葉遣いや
反乱が進行している地方に西郷将軍が下野している事実に照らして、こうした
否定をすること自体がどちらかと言うと、彼がこの反乱を促進しつつあるとの
報道を確認するのに役立つのだ」
と報じている。
金井圓編訳 ~THE Illustrated London News~邦訳「描かれた幕末明治」 雄松堂書店
クソワロタ
ツボった
イタイょ…、じゃねー!www
例えば西南戦争を起こした経緯とか都合よく脚色されすぎ。
単に政争に破れて中央にいられなくなり、不平士族を自分の再起の為に利用しようとしただけなのに。
有能な奴は付いていかなかったもんな
征韓論も遣韓論とか言い換えてるけど韓国がこちらの提案を受けない場合は軍を出す案に同意してる。
城山でも投降しようとして桐野に○された実話は識者の間では有名。
慕う者数万に命を以って応えた義理の人。
不穏な情勢となると自分一人がタヒぬのは良いが若い者は生きなければならないと諭したが
血気盛んな者らが政府に接収されていた旧薩摩藩の武器弾薬庫を襲撃して取り戻すに及んで
もはや討伐軍が差し向けられるのは避けられないと覚悟を決めた。
まさに完全無欠、史上稀に見る大英雄ですな
世界中の古今の英雄と較べても遜色なし
西郷が一番誤解されてるのは桐野に射○されたとか何とか言うより
・度量の広い人物だった → 信者も多いが敵も多く作るタイプだった
・天真爛漫だった → 非常に猜疑心が強く悲観的になりやすくストレスをため込むタイプだった
・策略家で冴えていた → 猜疑心が強い性格から相手もそうするに違いないと思い込み策を弄するが結構失敗した
とかだろうな
大久保が自分を暗○すると思い込んだとか言うのがそれ
大久保のほうは西郷が反乱軍に参加するということを全く想定してなかったのだが
大久保が恨みもなんもかんも全部背負ってくれたんだよ
それで鹿児島は安心して、英雄を崇めて大久保を恨むことで
鹿児島は正義を続けてるのさ今でも
むしろ、そのことで上記3人が浮かばれる。
2015.9. 2
“上野の西郷さん”はなぜ犬を連れている? 一見散歩中に見えるけど実は……
http://dailybreak.jp/article/000073.html
明治維新の最大の功労者、西郷隆盛。勝海舟とともに江戸城を無血開城に導いたことでも知られ、生前の功績をたたえるために上野公園に作られた西郷隆盛像は“上野の西郷さん”として人気を集めています。
ところで、犬を連れた姿がおなじみの西郷像ですが、一体なぜ、西郷さんが犬を連れているのかご存知ですか?
薩摩絣(さつまがすり)の着物を着流しして草履という、かなりカジュアルな和服姿から、てっきり「愛犬と散歩している」のどかな姿だと思い込んでしまう方も多いかもしれません。
たとえば、『翔ぶが如く』などの歴史小説で西郷さんの生涯を描いた司馬遼太郎氏は、西郷さんがいつも犬をそばから離さず、室内にまであげていたのは「暗○者対策だったのではないか?」という自説を述べています。
また、征韓論に敗れて新政府を去り、郷里の鹿児島に帰った西郷さんは、いつも数匹の犬を連れてウサギ狩りを楽しんでいました。この姿をモデルに制作した像こそが、上野の西郷像だと言われています。
つまり“上野の西郷さん”は、散歩中でも暗○者対策でもなく、ウサギ狩りに向かう姿だった、というわけです。西南戦争で非業のタヒを遂げる西郷さんですが、戦地でも犬を連れてウサギ狩りを楽しんでいたことが記録に残っています。
とはいえ、西郷さんが大の犬好きだったことには間違いなく、『犬たちの明治維新 ポチの誕生』(仁科邦男著/草思社)には、
「狩りの獲物は真っ先に犬に与えたので、犬が太り過ぎて猟犬として使い物にならなくなった」「鰻の蒲焼を犬の分まで注文して食べさせた」など、度が過ぎるほどの愛犬家エピソードも紹介されています。
もし西郷像の隣に、ほのぼのとした1匹の犬の姿がなかったら“上野の西郷さん”は人間味に乏しいものとなり、今のような市民に愛される観光名所には、ならなかったかもしれません。

社会的大反響をモタラシタ名著『日本人とユダヤ人』も
義人西郷隆盛を軸に老ユダヤ賢者と比喩してたが思い出す
辛い
田原坂で海か陸か!って会議でやってたから
■西郷隆盛まとめ■
・千百坪の超大豪邸に暮らす。使用人20人、飼い犬20匹
・政府からの給金が現在価値で月2千万円 年収2億4千万円の超高給公務員。ブタの霜降り肉の食べ過ぎで超肥満に
・実際に会った人たちの証言「偏狭であった」「人の悪口が多い」「人望を得ようと計算している」
・低姿勢で西郷に協力を要請してきた島津久光を「ジゴロウ(田舎モン)」と罵倒
・自分は政府から年間2億4千万も貰っていながら、井上馨を「三井の番頭さん」と罵倒
・自分は薩摩人を政府に大量コネ採用させていながら、大隈重信を「俗吏」と罵倒
・大隈重信「西郷には実に困った。彼は一般の政務には関心なきが如く、太政官に出頭しても、ただ板垣退助と相対しつまらぬ話に打興じ、やがて家に帰っていった」
・大山巌 「西郷さんは人望を集めようといつも必タヒでした」
・木戸孝允 「たいがいにせい」
・藩命により、親友月照を海に突き落として○害(月照が海に立小便してるところを後ろからタックル)
・子供を二人産ませた奄美の妻アイカナを捨てる。奄美の老人「西郷さんの記念碑が奄美に建てられたとき、アイカナさんは碑を踏みつけ唾を吐きかけとった」
・江戸の町でレ○プ、強盗、放火と卑劣の限りをつくして幕府を挑発。しかも自分では手を下さず、雇った浪士にやらす
・西郷自身が江戸総攻撃を主張していながら、計画が頓挫すると、西郷が総攻撃を止めさせ江戸百万人を救ったことに、いつのまにかなっていた
・盟友だった大久保利通と袂を分かち鹿児島に帰郷すると、会う人会う人に大久保の悪口を吹聴しまくる
・鹿児島で西郷が外出するときは、地上での土下座では恐れ多いと、百姓たちを道のわき溝に飛びこませ水から首だけ出して出迎えさせていた
・西南戦争では前線で毎日若者が戦タヒしているさなか、自分は後方の安全地帯で趣味のウサギ狩り
・軍議の最中に一人だけ専用室で昼寝
・「おいの体をあげもそ」と西南戦争を決起したが、玉砕の5日前に“自分だけ”政府軍に助命嘆願
・しかも助命の使者を満面の笑みで送り出す
・助命を断られると玉砕当日城山の洞窟から逃走 → 部下の桐野利秋に見つかり銃撃された
明治5年くらいまで生きてるから残ってるだろ
普通に世間に出回ってるのが西郷の顔
夫人が上野の銅像を見てうちの人はこげな人じゃなか、って言ったのは
うちの人はこんな着流しいっちょで人前にでるような礼儀知らずではない、っていう意味
あるのは肖像画のみ
こいつはなにがしたかったんだ。
飯盛りを 夜っぴいて 寝かせぬ くつわ虫
(※商売女に一晩中しつこくセックルをねだる煩い虫)
そのくせに 花は紅 もののふはなし
(※武士を気取るくせに 花代はくれない シミったれ)
こりゃ銅像も立つはずだわ
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1364048992/
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