■北部九州説に影響した吉野ヶ里遺跡
近代の邪馬台国論争の中心となっていたテーマは、位置の問題であった。史科の少なさなどのためか、専門家のみならず古代史ファンも論争に関わり、邪馬台国が存在した可能性が日本中にみられるといってもよい状態になった。
しかし、位置論争はその後限界に達してしまう。そのため、その後の邪馬台国論争は、「魏志」倭人伝の解釈、分析を通した邪馬台国の社会や政治体制などの考察に移っていった。
そうした中で、昭和61年(1986)から発掘調査が始まった吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡)は、再び私達を邪馬台国の位置論争へとよびもどした。
弥生時代の大規模環境集落である吉野ヶ里遺跡は、高殿や墳丘墓を含み、邪馬台国の中心地にふさわしい遺跡として注目をあびた。
現在では、遺跡や遺物の年代などから邪馬台国と関連づけることに疑問をもたれるようにもなったが、邪馬台国が北部九州に存在したという説に大きなインパクトを支えた遺跡であることに相違はないだろう。
一方で、近年の纏向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の発見は、邪馬台国近畿説をあと押しする大きなインパクトになっている。とくに、考古学的な立場からは、邪馬台国の中心地は纏向遺跡と考えてよいであろうという見解が、主流になっているようにも思われる。
纏向遺跡は、現在の桜井市の北部、三輪山の北西麓一帯を占める巨大遺跡であり、3世紀前半の弥生時代末期から古墳時代前期にかけて存続していたと考えられる。まだ調査の途中であり、全体像が明確になっていないが、東西2km、南北1・5kmという広い面積に及んでおり、住民の居住区とされるエリアからは、平屋や高屋などの建物群が検出されている。また、3世紀前半とされる居館城とされるエリアからは、当時では最大規模の掘立柱建物もみつかっている。
さらに、大河の建設など都市計画の跡もうかがわれる。九州から関東にかけての地域から搬入されたと考えられる土器も多数出土していて、纏向遺跡のスケールの大きさを感じることができる。
変わった出土物では、2000個にもおよぶ桃の種があげられる。これらは西暦13年から230年にかけてのものとされている。
桃は道教において不老不タヒの植物とされており、みつかった桃の種は祭祀に用いられたともいわれている。「魏志倭人伝によると、車弥際は「鬼道を事とし能く楽をまどわす」と記述があり、こうした呪術や宗教儀礼とあるいは結びつく可能性もあるだろう。
■纏向遺跡への注目度を高める周辺古墳
これらのことから、近年では纏向遺跡を邪馬台国の中心地と考える見解が有力になってきている。これに加えて、纏向遺跡の周辺にみられる古墳も注目されている。たとえば、箸墓古墳であるが、この古墳は以前から卑弥呼の菜といわれてきた。墳丘長280mの前方後円墳で、出現期古墳としては最大の規模をもっている。
『日本書紀』では、三輪山伝承にゆかりをもつヤマトトトヒモモンヒメの墓とされており、昼は人が造り夜は神が造ったと記されている。
箸墓古墳以外でも、纏向石塚古墳、ホケノ山古墳、纏向勝山古墳、東田大塚古墳、纏向矢塚古墳などの前方後円墳が見られる。これらはいずれも出現期の古墳であり、このことから前方後円墳の発祥地などとよばれている。
これらのことを総合的に判断して、纏向遺跡を中心としたエリアを邪馬台国の中心ととらえる説が強まっている。
たしかに、纏向遺跡が特別の遺跡であることは間違いない事実であろう。(以下ソース)
1/30(木) 16:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/3a9ea72675580fad4ad70ac239e182e2607f379a
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20250130-00041481-rekishin-000-1-view.jpg
神武天皇の神武東征で大分の宇佐から出発して畿内制圧してから大和王権建てたので北九州に決まってるだろw
今や近畿なんて阿波説より胡散臭いやん
未だに邪馬台国を近畿とか言ってる連中は詐欺グループと何ら変わらん
福岡の奴国王とかめっちゃ叱られたんかな?w
大和朝廷は関西だけど神話の舞台は九州しか考えられない。
九州のどこよ
福岡と佐賀、神話は宮崎のあたりだろ。
地名と地形考えたら他にない。
やっぱ名前的に八女かねえ
八女はないと思うけど。
日本書紀の天孫降臨神話だと
なかつ(大分県に中津がある)を収めるため日向(宮崎)の高千穂の嶺に降り立ったのが始まり。
その後壱岐対馬経由で外交していたのだから地理的に北西へ勢力伸ばした感じ。
最終的に地続きの西に勢力拡大していくのが日本史よ(´・ω・`)
ただヤマトと呼ばれる場所は、ミナトと呼ばれる場所同様に各地にあった
最初から存在してない
仮にもいま中国が日本のことを書けと言われたら
反日のオンパレードで何書かれるか分からんだろうがw
大和朝廷に攻められるくらい勢力あったし
吉備津彦は孝霊天皇の息子で百襲姫の弟 岡山県の金光町占見には元々占い師が集まっていて安倍晴明も若い頃、浅口郡占見の里に住んでいて、備中国下道郡の賀茂忠行のもとに通い、陰陽道の開祖、岡山の偉人奈良の魔法使いと呼ばれる吉備真備公が唐から持ち帰った書物で陰陽道を学んでいた
「邪馬台国」ってのがそもそもなんて読むのか不明
「やまと」を中国風当て字表記したのが「邪馬台」ってのが定説だそうだけど
ヤマト国だろうな
ヤマタイって呼んじゃってるけど誤読のひとつ
無理矢理な当て字や転写した結果元の発音がわからなくなるって事は世界的にもよくあるみたいだしね
ヤマタイと言っておけば、スキタイとか〇〇タイのモンゴル~テュルクに通じそうな雰囲気でロマンあるw
盆地ではないわな
焼いて亀裂を見て占うんだっけ?
これで皆ハッピー
中国人が日本語の音を転写しただけと知っていれば
jamadə(現代でいうヤマト)なんだから、大和国とおんなじに決まってんだろ。
九州にも古くから筑後山門(やまと)があるからなぁ
当時文字は無い
発音に合わせて中国人が漢字を当てたんだから漢字の有無は関係ないだろw
違うというのは分かるな
纏向遺跡は全容がわからないんだけど2世紀末に造られた都市遺跡だな
倭国が女王国という連合国家になって新たに作られた都が纏向でその場所が邪馬台だと思う
奈良の遺跡は測定法が今疑われてる
年輪年代データの一部開示命じる
奈良文化財研究所保有、東京地裁
2025/1/23 16:30(更新2025/1/23 19:43)
昔は荒唐無稽みたいに思われてた出雲神話も銅鐸銅剣や出雲大社の巨大柱が出土してから一気に信憑性が増した
文系学者は議論してもらわないと商売あがったりなんだよね
でも今は「あなたの個人的主張はいらないからエビデンス頂戴」と言われる
何らかの関係がないとおかしいが、奈良には3世紀の痕跡が希薄
なんでそんな国家にとって大事なものが志賀島の田んぼの中から出てきたのか
しかもその周辺には他の遺物や遺跡の痕跡が全く見つからなかったという
タイの田舎から漢字の書かれた金の小判が出て来たり、カンボジアの何もないところからローマ金貨
が出て来たりするのと同じでは、交易の途中で海賊や山賊に襲われたりして急いで隠したとか
昔は海中で船が難破して海底に在ったのが土地の隆起で今は田んぼになってるとか
貿易港の倉庫があって保管中に台風で流されたとか
それと何百年と土中にあったのに、傷が少なすぎるんだよな。
よくこんなの本物だと思うよなっていう。
いやアンティークって意外とボロボロにならないもんなんだよ
素人が骨董品に見せかけて偽物を作ると必ずボロボロにしようとする
これなんて金属だから、誰も触らないで土とか海底にあればほとんどそのままで残る
川の底で発見された金印はボロボロ
江口に沈んだ伝説の財宝発掘、「蜀王太子の金印」発見 中国・四川省
2020年5月3日
https://www.afpbb.com/articles/-/3281465
https://i.imgur.com/8774QRm.jpeg
そらそうだろ…
むしろ川なんて常に流れがある場所でもこの程度の損傷で済むんだな
東シナ海側日本海側の漁港に昔の遺跡とか実はあったかも知れんのに
昔の柱や石など戦国時代などにとっくにうち壊して民家建ってるの沢山ある筈
新発見があったらその時点で考えればいい話で、現状の遺跡から研究するだけだよ
現状は断定できる根拠は無い
1cm立方ぐらい。本物でもあんなものありがたみのかけらもないw
ありゃ偽物だよ。
むかしからずっとそう言われていたし。
金印の使い方すら知らないのバレてるよ
郵便物開封されてないかチェックするためのもんやでー
と同じくらい馬鹿げた論争なんだろう?
どっちも日本国じゃん。
政治の中心地を造る土地は、どの時代でも同じだから
邪馬台国の遺構なんぞ上から被されて消えてるよ
しかし天下に号する程の国の都が、田圃の下から出たしょぼい環状集落なはずが無いだろ
もっと気合いを入れて地面を掘り返せ
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1738450246/
コメント