【逃げ上手の若君】足利尊氏が丹波国の武士・久下時重が参陣したことを吉例として喜んだ訳
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/cf163d93ac44431855e73f744e4dc0bef9dba63a
熊本の菊池勢だけだと500騎がせいぜい
清和源氏の名門足利氏なら田舎武士10万ぐらいすぐ集まる
世界中の林さんが集まる会があるらしいぞ
ニューヨークに1万人を超える「ライアン」さんが集まったぞ
寄付が目的で、定期的に開催される訳じゃ無いっぽいけど
1対1の剣道の試合を12回連続する、というのですら勝ち残れる気がしないわ
ガッツ石松はチンピラ13人と喧嘩してあっさり全員のしたという伝説はあるが
まあ、世の中にはそういう人も居るには居るだろうが、500人全員がそういう人で、
対する相手の大軍にはそういう人は一人もいないというのはあまりに都合のいい話だわな
誰も突っ込んてないけど、1人で120人な。
世界中的に初のゲリラ戦の説もあるくらいだし
存分に参考にしたんだろ
勝ったなら凄いけど負けたやろ
スパルタ王レオニダス300
テーベ、ディスピア他ギリシャ連合軍歩兵6700
ギリシャ勢7000の兵力で撃退してたが裏切り者が背後の裏道をペルシア軍に案内して挟撃されてテーベ兵以外全滅
一方、アテネ海軍を主力としたギリシャ連合艦隊がサラミスの海戦でペルシア海軍を追い出してペルシア軍本体の上陸を阻止できた
それサラミスの海戦でギリシャが勝っただけ
テルモピュライの戦いではスパルタ負け
レオニダスも戦タヒ
ただし勝ったペルシャ軍もその勇猛を讃え石碑を残した
圧倒的兵力差でいずれは負けただろうけど
あの負けた要因は裏切り者のせいだからな
水飲み百姓がわずかな金とタヒ体剥ぎが目的の人数合わせで参加してることが大半
身長は150cm以下で痩せっぽちで、武具もなしで武術の心得もない
こういう人たちが60000人集まっても、恐怖で一旦逃げだしたら止めることはできない
火の鳥 でそんなんあったな
おぶうを探してたデカイヤツだったがいいヤツだったな
大抵盛ってる
桶狭間も今川2万に織田数千とかやが実際織田も1万人以上動員してたらしいし
文献何て後から書きで幾らでも盛れる
数千が1万以上なら盛って無いじゃん
話を盛るって意味だろ
1万対2万で勝ったって言うより、3千で2万に勝ったって言った方が武勇伝になるという意味で「盛ってる」なんだよ
信長は戦は始まる前に決しているを
地で行く人だから
実は更に六角氏や伊勢の一向衆などと連携し
もしも時の後詰め依頼していたのが
最近の史料で分かったり
承久の乱でも幕府軍20万とか盛りすぎで笑っちゃうレベルだし
上杉謙信の小田原攻め11万ですら誇張入ってそうだからな
太平記なんて千早城攻め100万だしw
作者、三国志の読みすぎ
マジ受けるんだけど、超承久の乱~
パねえ、パねえ建武の新政マジパねえww
モンゴル兵は少ない
ほとんどは強者に付き一方的に蹂躙できると思い込んで尻馬に乗っかった朝鮮や中国の弱い兵だ
船漕ぎは南宋や朝鮮の降兵だらけだけど最強モンゴル馬が船酔いでタヒんだし泳げないモンゴル兵が圧倒的に不利だったから
そもそも上陸出来る港が殆どなかったからな
情報収集能力がなかった
長い間戦国時代で相当人口擦り減ってんのに20万以上も戦える兵が集まるかてーの
非戦闘員や見てるだけのギャラリー入れてようやく10万くらいだろ
戦国時代は各国で切磋琢磨が行われて生産力が上がって人口は増えていってたらしい
広域を支配した大名によって検地も進められて石高による動員兵力も定められたりし始めてたから比較的史料があれば兵数の算定はしやすくなってるらしい
なのでまあ、戦国の最後で関ヶ原ぐらいの動員なんだから鎌倉から室町初期に何十万も動員は出来ないだろうって話
戦国時代というより
安土桃山時代から江戸時代の話だな
そこまでの人口統計は怪しいから
石高の検地したときの統計とその後の宗門人別改帳での人口に然程ズレは無かったから統計としては信用できるデータだよ
日本最古の学校(大学)は足利学校ぞ
まずは弓矢の撃ち合いだから剣術が役立つ場面は限定的だぞ
それに示現流なんてリーチ長い武器からしてみたら飛んで火に入る夏の虫だろ
弓矢を撃てるのは訓練を続けた専門兵のみで実際には少ない
ほとんどの兵は数を揃えるための素人の水飲み百姓で石を投げるのがせいぜいだ
そんなところに武具で固めた騎馬が乗り込んでいけば農民兵は逃げることしかできない
尊氏って
聞こえが良いように盛りまくりよ
応援が来る前に始末をつければいい訳で
島津関連は特に勝った時に相手の数字を盛る
龍造寺6万説とかあるからなw
現代で換算したら、兵士の食事だけでも
1食500円を1日3食用意するだけで6万人分なら
1日1000万円近い維持費がかかる
安土桃山時代以前は数十人からでも大勢力になれることが多々あったから不思議だ
頼朝の時は頼朝一切関係なく関東は武士団の根拠地で最大規模の武士勢力がいた
事変起こる前から常備で5000-10000の兵力がいて(警察が主な仕事)この戦力は平ら一族直轄兵力より大きかった
全国で戦力は京都の清盛と関東の坂東武士の2つが中心であとは小規模豪族
これが背後事態であり武士の蜂起もあくまで武士団+天皇の号令で発生した蜂起であり
連絡役でしかない頼朝はあまり重要ではない
ここで頼朝の激というのはカバーストーリーで彼らを糾合するのは状況証拠で無理
坂東武士の独立性と巨大軍事力はパワーポルテクスを担う実体であり
この勢力は清盛で不利益を被ったから反乱号令かけるのに適していた
というか彼らしか反乱できなかった
ここで天皇家はパイプが頼朝しかないから頼朝を使った
その後坂東武士が集結しその前後で反乱の発生と最大有力者の千葉上総氏の孫(後継者)が地元の清盛代官を○した都合で軍事反乱が確定した
ここで個人が反乱を決めたあと頼朝がパイプ役として残っただけ
頼朝権力は頼朝が上総○して確立したもので後転型権力
勝利条件はその状況次第で変わってくるけど、極端な話敵兵を一人も○さなくても
潰走させて自軍の戦略目標を達成すればそれで「勝ち」なんだよ
まあそんな人外足利を陸奥国府から異常な速度で行軍して疲労ありまくりの状態で撃ち破ってる北畠顕家(19歳)の方が凄いけどさw
多賀城から出発し追撃してくる当時足利No.2の斯波家長を振り切り関東の足利残留軍を蹴散らし鎌倉を落として足利支配地の東海道をぶち破ってとか
行軍速度でいえば後の秀吉の備中大返しよりも遥かに速い行軍速度で10倍以上の距離を軍を率いて踏破してる若冠19歳とか化け物だわなそりゃあ尊氏も九州に落ちるわ
ぺんぺん草も生えないぐらい略奪しまくって上洛したとかなんとか
当時の兵站じゃ奥州から畿内まで軍を進めたらそうなっちゃうよね
なぜだか歴史の授業で取り上げられない
残念ながら我が国では終戦後くらい迄ネジ曲がった歴史の解釈がされていて足利氏と言えば逆賊の代名詞だった
高師直と義直を○したのすら周りに流されたように見える
そう見るのは解釈をする側の洞察力が不足しているだけだろう
そして侘び寂びの極みみたいな家建てた義政も銀色ちゃうやんってことで小中学生からは舐められてるっていう
実質まとめたのが孫の金ピカハゲで
南朝のいざこざだけでなく
鎌倉公方とか大内とか六分の一殿とか土岐氏とか
地方豪族で収拾つかねえよ状態だったのを
権謀術数と武力で何とか調略し
一旦の平和を実現した
息子の先代第六天魔王は
そいつらを武力で抑え込もうと頑張ったが
味方に裏切られ敢え無く瓦解
上記の末裔は西軍と古河公方という形で
銀はれない侘び寂び将軍の代で暴発した
そこから2世代ぐらい後の承久の乱で幕府軍云十万、さらに150年ぐらいした鎌倉末期で100万の幕府軍
事実なら日本人の繁殖力おかしいだろって話になる
反対に総大将が留まってたら烏合の衆相手でも10倍の兵力差だと一飲みにされてしまう。
河越夜戦で北条綱成が古河公方に突撃したのは絶妙の戦術。
あれがなければ北条はじわじわと侵食されるしかなかった。
引用元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1730585107/

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