古墳時代に北部九州一帯を影響下に置いた大豪族「筑紫君」一族の歴史に焦点を当てた特別展が、九州歴史資料館(福岡県小郡市)で開かれている。
中央集権を図るヤマト王権と激しく争った一族の長・磐井の盛衰を中心に、考古遺物と文献の両面から実像を検証している。(北村真)
律令国家が編さんした日本書紀(720年)によると、磐井は新羅など朝鮮半島の国々と独自に通じて勢力を強めたが、外交の一元化を図るヤマト王権と衝突。
527年に始まり、1年半にも及んだ「磐井の乱」で敗タヒしたとされる。
会場で特に注目されるのは、国内で初めて確認された、よろいを着けた「馬形埴輪」だ。
磐井の墓とされる岩戸山古墳(同県八女市)の出土品の精査で昨年分かった。
実際の馬用のよろい(馬甲)は、かつての新羅地域の遺跡で多く出土しており、同館の小嶋篤学芸員(考古学)は、
「文献では磐井と新羅のつながりは知られていたが、物証は見つかっていなかった。この埴輪が考古学的に検証できる資料になりうるのではないか」と指摘する。
古墳に並べられた埴輪は、被葬者の軍備を反映していたとも考えられる。
小嶋学芸員は「磐井は輸入した馬甲を使った重装騎兵の部隊を備えていたのかもしれない」とみる。
このほか、有明海沿岸地域で特有の、人や馬をかたどった石製表飾も展示。
筑紫君や肥後の「火君」といった有力者たちの間で意匠や技術が伝達されたことを示し、文化を共有した首長連合の姿を浮かび上がらせている。
磐井を反逆者ではなく、地域首長連合の盟主として捉える研究も進んでいる。
成城大の篠川賢名誉教授(日本古代史)は「王権に従属しながらも支配地域を持った独立性の高い存在だった」と強調する。
乱が起きた要因として、ヤマト王権側が各地の首長を「国造」に任命し、兵士の提供などを義務づける中央集権的な支配制度を導入しようとしたことを挙げる。
書紀によると、王権側は反乱の鎮圧後、境界を定めた。
これは、王権側が乱の前から、磐井の勢力範囲を限定しようとしていたことをうかがわせる記述だと篠川名誉教授はみている。
特別展は、歴史から消えた後の筑紫君一族の「その後」の動向についても焦点を当てている。
書紀は磐井の敗タヒ後、子の葛子が博多湾沿岸にあった支配地「糟屋屯倉」を献上し、タヒ罪を免れたことを伝える。
篠川名誉教授は「筑紫君は外交権を失ったものの、一族は滅亡しなかったことを示している。
葛子は筑紫国造に任じられ、一定の勢力を保ったまま、ヤマト王権の一端を担ったのではないか」と分析する。
実際に岩戸山古墳では6世紀前半~7世紀前半頃の土器が出土しており、会場でも確認できる。
八女地域で作られ、筑後平野を流れる筑後川や熊本県北部の菊池川の流域に流通したもので、磐井のタヒ後も地域独自の文化が維持されたことがうかがえる。
岩戸山古墳は一族の墓として約100年間使われ続けた。
同古墳を含む八女古墳群や、菊池川流域の古墳では、6世紀後半以降の石製表飾も確認されている。
歴史書から名が消えても、地域独自の文化や風習は根付き、受け継がれたようだ。
そのことを考古遺物から解き明かした意欲的な特別展と言えるだろう。12月8日まで。
そういや漫画になってたのを読んだわ。奥さんは向こうの人だっけ?
日本書紀って西暦720年に書かれたものなのか
日本って言うほど歴史長いわけじゃないんだな
九州から東海あたりまでの緩い統一国家ができたのが五世紀くらいかな
何で「筑紫君」なんていうふうになってんの?
(´・ω・`)
中国の文献から拝借してる
普通に船山の鉄剣、稲荷山の鉄剣があるやろ。
奈良時代の歴史書に載ってるから
俺の同期にもいたわ
両親が九州出身、九州弁を喋る大阪生まれの大阪人で毎日ラーメンを食べていた
こんなんをベースに学問もどきをやってるから日本の考古学は土人のままなんだよ
地方や奈良、大阪の豪族の伝承を集めて創作して弄り回してできたのが
記紀ですね。
ちなみに考古学的には記紀はあくまで傍証程度にすぎないと思われます。
何処か判明していますか?やっぱ九州ですかね
個人的には倭国大乱って言っても九州北部の小競り合いだったと
思いますよ。
どこだろうねぇ。
鉄の矢じりの出土数ならこちら
https://pds.exblog.jp/pds/1/201707/23/45/a0237545_12273741.jpg
山幸彦と海幸彦は両方とも
奈良の大和のアマテラスの孫の邇邇芸の子
そ、そ、そうなん
そうよ
天孫ニニギは高千穂に降臨したんだけど
どこから降臨したかと言うと出雲から
なのね
大陸に近い九州の方が強そうなのに
「筑紫君」が白村江で惨敗して、弱体化した九州に大和が攻め込んだんだろう。
百済救援のために斉明(皇極 中大兄皇子の母)天皇、中大兄皇子(後の天智天智)らは
筑紫の方に行ってて斉明天皇は朝倉橘広庭宮で崩御して
白村江の戦いは負けて中大兄皇子は畿内に帰って
飛鳥岡本宮から近国(畿内から近い国)の近江大津宮にみやこを遷した
3世紀後半になると九州は大倭王が不在になる
大倭王が不在になってgdgdしてるところに東から侵攻してきたらどうなるか?
日本の神話には九州勢力が裏切り密告仲間割れで畿内勢力にボロボロに負ける様子が描かれている
どんなに早くても3世紀半ばまで大和王権は存在しないよ
多分実際には4世紀の神武天皇が初代
「前原」も「まえはら」とか「まえばら」じゃなくて「まえばる」と発音するんだ
お友達には内緒だぜ!?
じゃあまたね!
残党というより正当な後継国だろう。
倭の五王の流れでもあるぞ
讃・珍・済・興・武の最後の武=雄略天皇以降は
倭内の豪族の対立が深まって
その頃に大和の南朝鮮への支配力が弱まってしまったのではないか
雄略はたぶん東北と南九州を除く日本列島全域を配下に収めた最初の天皇だったと思われるが
いろいろな逸話からかなり強引な武力平定だったと思われる
それでタヒ後は倭国内が乱れた
ちくし
井上陽水「ほぉ!ほぉ!ほぉ~」
同一人物だろ、それ
しかし白村江の戦いで倭国は敗北して国力を失った。
それ以降が日本の時代だ。
「日本は倭の別種なり、元小国、(後に)倭を併合す」
もちろん邪馬台国も倭国、倭の五王も倭国だ。
弥生時代ならいざ知らず、古墳時代なんてもう征服されてるよ
471年には熊本県から埼玉県までは、ワカタケルの支配下だったと物証が出てる
ワカタケルが奈良の磯城に都を構えていたことも書いてある
実際には、その5代前から仕えていたとあるので
300年代にはヤマトの支配は広がっていた
ここまでのことは物証が出てるので、妄想では否定できない
雄略が住んでるところと当時の日本人の苗字まで書いてある
欠史八代を主張した津田左右吉が日本が文字で物事を記録する術を覚えたのは
早くても5世紀あたりからだと推測したのもあながちではなかったな
最近発見された蛇行剣には文字なかったもんな
蛇行剣も金錯銘鉄剣も400年代の作とされる物
どちらも儀礼用の剣とされるが、文字を書くかは
その剣の目的に寄るんだろう
ワカタケルの配下の間で、文字を刻むのが流行ったのかもしれない
文字を刻んでおけば、埋葬者のルーツなんかを記録として残せる
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1731833415/

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