正成に全権委任すれば余裕で南朝勝っていたよ
誰がやっても無理
陸でいくら強くても瀬戸内の水軍を味方にした足利方には対抗出来ない
>>28
問題は何故 「大軍」が集まらなかっただよな
後醍醐様、あなたの所為ですよ
尊氏って一旦九州まで落ち延びて、そこで再起を果たすんだよな。
優柔不断な面があるし、戦国の世を長引かせたコトもあるけど、何か人を引きつけるものがあったんじゃないの?
戦国の世を終わらせる人は信長にせよ家康にせよ、冷徹な面が強いけど、たまーにこういう人がいても良いかも。
当時の南朝軍総大将、山名軍に京を占領されてるくせに
まともな武力行使では勝てないと判断してたんでしょう。
ば勝てていたものを、坊門清忠が反対してせっかくのチャンスを潰した。
正成は自軍が劣勢な時は勝つことよりも、負けないことを優先するという点で終始一貫してる。
亀レスだが
湊川だよ・・・
なりに率いていた。足利や新田は直のこと。
河内の悪党というのはもう古い認識だよ。御内人の被官、兵衛尉の官職、荘園の下司職を持つなど
アウトサイダーの要素を薄い。天王寺で六波羅の正規軍と正面から戦っているように
大軍の司令官を務めてもいる。ただこの時の指揮はあまり振るっているとは言えなかったが。
楠木正成は卑劣と言うイメージしか無いわ
ヤンキーで言えば、「タイマン勝負」を公言し、正々堂々と一人で喧嘩をしにきた
奴を集団で襲うとか、敵対集団にウ○コを投げてるとかそんな感じしか無いわ
まさに朝○人みたいじゃん
なのは。
何となく気持ちは分かる
ウ○コ投げたってところで少なからぬ人が引っかかるんだよねw
やっぱりウ○コ投げるってイメージ悪いんだよ
>>17
>ウ○コ投げたってところで少なからぬ人が引っかかるんだよねw
ここ本当に歴史板か
糞尿を浴びせるなんぞ戦国時代では当たり前
わざわざ城の壁に沿って便器を作ったりしてるのに
腹を切ったら糞が吹き出すし、恐怖で脱糞はするしな
モンゴルでも西洋でも戦場で糞尿は大活躍
だいたい糞尿ごときを恐れて戦争なんぞできるか
>>24
おいおい…
現代日本でも自衛隊は無人島行って
水が手に入らない非常事態を想定して
自分の小便を飲む訓練やってるんだぞ
糞尿なんて兵器でもなんでもないよ
むしろ人の体内にあるものだから
毒だと考えられてなかったし
>>24
自分で試してみれば分かるけどうんこ掴むって掴む方が大ダメージ
うんこ掴んで投げたと言われてる例って、捨て場がなくなってザーッと捨てたら不運な寄せ手に命中したという類のことではないかと思われる
いずれせよ楠木って天王寺で大将務めてる割に建武新政では義貞や顕家に比較すべきもない功績しかない
やっぱり新政への不満で河内の衆が離反したんだろうな
卑怯、せこい、ずるいというのを重ねて戦法は発展してきた。
柔道の返し技、格ゲーのはめ技、みんなそうだ。
ダビテもゴリアテに飛び道具で勝ったし、ヤマトタケルは女装して暗○だ。
ウ○コ投げるくらいかわいいもんだ。
糞便は豊臣秀吉も使ってるしな。
だから大役は鎌倉を落とした実績のある新田や京で足利軍を蹴散らした北畠に任せるしかない
そうなった時にもともとの規模が小さいと、自分の意のままに動いてくれる人材が限られていて
大軍を手足のように動かすことができなくなる
大軍では運用できない戦法だ
楠木正成にやたら大軍を与えてしまうと
楠木正成の足を引っ張ってしまう
葛木はクズのキ。濁音を取ったらクスノキ。
楠は木肌が蛇の鱗に似ている事から葛木族(出雲族)が信奉する龍蛇神を重ね合わせて神木とした(葛も龍蛇神をイメージするモノ)
盤踞した河内国、千早赤阪は葛木氏の本拠、葛木山金剛山(高天山)系
①全体の人数とか勢いでは南朝は北朝に負けてる
②そこで少数の正成が尊氏に勝った
③もしかして尊氏には任せたらあかんのちゃう?
or やっぱり南朝には天の助けがあるのちゃう?
④やっぱろ南朝の味方しよう
この流れじゃないと個々の戦には勝てても最終的には南朝が勝つのは無理
やったんじゃない?
足利じゃ無いぞ
北条だぞ
合戦では難しいだろう。
幕府も有力武士連合でグダグダだが、南朝も公家がニワカ政治将校みたいな事を始めて
武士の足を引っ張るし・・・
正平の統一の時に和平推進派が楠木正儀だけどね。
北畠親房が足利の内輪もめにつけこもうとして和平をチャラにしたから、
楠木正儀は激怒して南朝を見限り北朝についた。
まず、南朝だろうと北朝だろうと分裂状態で妥協する方が双方のイデオロギー的におかしいんだよなぁ・・・
多分、鞍替えする為の言い訳にすぎないと思うよ。
負け組と運命を共にするなんて冗談じゃないしね。
武蔵七党説(海津一朗ら)、駿河国入江荘説(筧雅博、新井孝重ら)等、東国説が有力
もともと幕府側の将にしてみれば、なんでずっと忠誠誓ってたオレらより、
昨日まで敵対してた奴の方が優遇されるんだっていう気持ちだっただろう。
大楠公、楠木正成公は自念仏、守護神として八幡大菩薩(八幡皇大神/厨子に入った神像(御神体))を常に身近に携行なさっていました
(岩清水八幡宮に参拝しお籠もりなさっていますのでこの際に拝受なさったか?)。
又、お上(後醍醐天皇)から拝領した菊一文字の小太刀(後鳥羽上皇の命で打ち出された逸物。旧国宝。国指定重要文化財)を帯びていました。
(征討将軍に仮託される摂刀か?摂刀なら復命の際には返却すべき性質の重要な物)
湊川の合戦で四面楚歌となり自尽の砌、家臣某らにそれらをどこか安全な処に 、、、と託されました。
(夜中に陣内より念仏が聞こえて来たと伝わりますが、
対象はこの八幡大菩薩様かと推察します)
楠木って建武以降何の戦功も立ててないのに豊島河原で勲功を挙げた新田ディスるとか根性腐ってるという印象しかない。7
たぶん最後も新田ディスったら新田シンパの公卿たちにオメー何言ってんのと言い返され、
引くに引けなくなって新田と協議もせずに適当な布陣引いてふてくされ自爆したんだろう
てか新田が総大将権限の行使を遠慮してたのが悪い。
基本、大軍を率いた勝ち戦しか出来無い奴だよ。新田義貞は。
ゲリラ戦も出来んし作戦勝ちにも持ち込めない。
ゴリ押ししか出来ん猪武者だよ。
それでも大事な南朝方の武将ではあったがな。
うむ。では新田よりも大軍の足利相手に戦いぬいた実績をどう説明するんだ?
あれは戦い抜いたというより、正成が何らかの事情で新田の指揮下に入るのを拒み、
双方が独立して戦った結果ああなったと考えるのが妥当かと。
湊川は下手したら新田義貞まで討タヒしかねないとんでもない戦況だった。
新田だってやっと京まで逃したんだよ。太平記でも新田さんは大将なのに前線出たがって困るわ的な批判のほうが多いし。
>>53
楠木さんの場合、新田と不成績の質が違うのは、建武親政後に「一回も」勝ててないことなんだよ。
文字通り戦功ゼロ。要するに河内のお仲間がついてこなかった。最後もごく少数の身内だけで戦って戦タヒ。
やっかみがあったんじゃないの?
何だかんだ言って新田は宮方では最大の軍事力なんだし、義貞の個人的武勇については敵味方とも認める所だし。
楠木も一応、鎌倉幕府軍との戦いの最後のほうでは平野部の決戦に出てるけど、
幕府軍に対して有利とはとても言えないような戦況だったしな。
総大将の資質は大軍の統率者になれるかどうかという要素から見たら、
足利尊氏がずば抜けてるのは言うまでもないが、それにしても新田と比べたら力量は劣ると言わざるを得ない。
新田は少数の手勢を率いての強襲を何度もやってる戦闘レベルでは高い能力を持った将軍だからな。
腐っても東国御家人はレベルが違うよ。
個人の武勇や戦術能力というのは、前線の指揮官がやる事だよ。
新田は前線の指揮官では無い、という事は武将じゃないんだ。
事実上の征夷大将軍なんだ。
将軍は前線に出張るんじゃなく戦略を決めないとアカン。
それが前線に出張って猪武者だなんて迷惑だろう。
公家も足引っ張ったが、義貞も大分足引っ張ったと思うぞ。
それに、味方との連携をしたがらないという最大の欠点もあるし。
>>60
それは太平記の作者に批判されてる所だけど、
楠木の場合はそれ以前に、河内の仲間が楠木についてかなかったから兵数が集まってない。問題外。
平地での大軍の指揮経験もない。宮方が尊氏を九州に追い落とした後で新田を褒賞したのは妥当だよ
他に大将軍たりうる人物もいないし、新田は大軍の指揮経験や幕僚も揃えている
新田の敗因っておおかた宮方の不人気や劣勢に起因する所が大きいから、
楠木と大差ないのに、その新田を讒言したら公卿から顰蹙を買うのは当然。
あと北畠顕家との合流の遅れについては、故意のサボタージュじゃないでしょ。
単純に戦線を拡大してた越前と美濃の合流がそれほど簡単ではないだけで。
楠木はそもそも単なる地侍だろう。
あくまでゲリラの指揮官みたいなものだ。
しかし、だからと言って新田義貞も会戦は得意か?と言ったら必ずしもそうではないというのが問題なんだ。
基本的にチャンスを逃すから。
北畠と合流できるチャンスもあったのに悉く逃すしね。
もうここまで行くと南朝方の期待とは裏腹に、腹に一物があったのでは無いかなって位にね。
>>64
千早赤坂と、その包囲が解けたあとの平野部への進出の時は大将も一応やってる。
ただ、大軍の統率の経験は乏しいし、野戦での幕府軍との戦果もはかばかしくない。
楠木は得宗被官だったし、有力な豪族だったから動員力はそれなりにあったと思う。
その楠木がなぜ建武親政以降に戦果を全くと言っていいほど残せてないかと言えば、
要するに兵力が集まらなかったから。
新田義貞は箱根竹の下や尊氏との京の攻防戦で負けてるけど、
箱根竹の下については尊氏出馬で官軍に佐々木道誉らの寝返りが発生したこと(義貞は佐々木の参戦に消極的だった)
京の攻防戦については早期奪回のためにかなり無理を強いられたという宮方の事情が大きい。
これは正成にも言えることだけどね。
そして北畠顕家との合流ができなかったのは、新田勢は当時越前で戦線を拡大中で、
合流要請に簡単に応じられるほど余裕がなかったというのが最大原因でしょ。
もしかしたら、顕家諌奏に見られるような超保守的で武士を敵視するような顕家と関係が良くなかったかも知れないし、
奥州勢に参加してる北条時行との遺恨を意識したかも知れないけど、それが直接的な原因ではないと思う。
手元に義貞や正成の研究書がないので申し訳ないけど、確か今それで纏まってる気がする。
敦賀越前でもしぶとく戦っているんだよな。
ただ、湊川で楠木勢と新田勢がほとんどバラバラに行動してるのが不思議というか…
義貞が前線で粘りまくってた新田勢でも何とか最後は退路を開けたのに、
それよりさらに西に孤立しやすい所に布陣する所から見て、
楠木勢が名誉挽回のために無謀な布陣をした可能性はあると思ってる。
最後まで残った少数の手勢は足利軍に対して自爆的な突撃を何度も敢行してるし。
つまり神戸の西の玄関口だ。平家が義経を防ごうとしたように要害でもある。
ここを守らないと神戸が足利の手に落ちてしまう以上、陸路の玄関を抑えるのは当然では。
>>65
新田スレか、足利新田スレで前に議論してたけど、
正成が布陣した会下山は戦場の西に位置する小山、総大将義貞の布陣したのが和田岬
つまり正成の布陣した場所は水軍を持ってる足利が正面衝突を避けて回り込むと、新田勢は東に向くから、
簡単に分断されてしまう。
もちろん新田勢はそれを阻止すべく脇屋・大館が備えてたけど、定禅は上陸地点を変えてあっさり陽動に成功。
足利軍は最初から新田勢を東に引っ張りだし、会下山の楠木勢をまず孤立させ殲滅、その勢いを駆って新田勢を殲滅という分断撃破を考えてて、
迎撃は最初から水軍力を持ってる足利勢のほうが有利。だから、基本的には退路を確保し、兵力を温存して引き上げるしかない。
正成が新田勢の援護で分断を防げると信じてたとしたら甘いし、新田義貞自身が遅くまで戦ってたことを考えたら、
相当なバクチ作戦になるのは事前に覚悟してたんじゃなかろうかね。
正成が会下山に布陣した時に手勢がしつこく強襲を繰り返してるのはそのためじゃない?
新田もそれは理解してるから、あえて総大将権限を行使して布陣を変えさせることをしなかった。
本当に梅松論にあるように、正成が義貞を合戦直前に讒言したのかって結構疑問が多い(他の史料では確認されてない)が、
両将が無理を承知で戦わざるを得ない状況だったとは言える。
新田軍は西宮まで後退したあと、生田まで戻ってきてるから、
会下山を包囲した上陸軍の背後を攻めようとはしてるんだが、その頃には楠木勢は兵が逃亡して壊滅。
生田の森を防壁的に使った新田軍は楠木勢の残兵を収容しつつ、一連の合戦中最大の戦闘が勃発してるから、
楠木の布陣って陸路の足利軍の足止めどころか、早期殲滅で兵力の無駄な損耗になってしまうのだよね。
おそらく新田勢としても生田あたりで退路を確保しつつ戦う気で、兵力差を補うため楠木の兵力も欲しかったんじゃなかろうか。
このあたりは、出陣直前に、何らかの問題で公卿たちと対立した正成自身のメンツの問題も絡んでる気がする。
義貞でさえなかなか引き揚げなかったくらいだから。
太平記を読んでると、正成は義貞の性格をよく把握してて、責任を感じすぎるほうを懸念してるのだよな。
新田を切り捨てて和睦なんて官軍を自壊させる提案するとも思えないんだが。。。
出陣前に激論に及んで、自分の意見が容れられないならこうしたほうがマシだ!とか失言しちゃったのでは
赤松が回り込んで阻んだのでは、と推察したな。
湊川における楠木正成の自決は、戦後の清水澄博士の自決に似たイメージがある
小生微力ニシテ之ガ對策ナシ依テ自決シ幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ
祈願セント欲ス
実際はどうだったのか
太平記では楠木は讒言を行わず叡山遷幸を提言して却下され、
現地で新田を励ましつつ布陣し執拗な突撃を繰り返してる
だけど陸路の足利軍を足止めしつつ生田まで兵を収容しつつ引いて合流するつもりが
(主力の新田勢は最初から生田を想定戦場にしてた節があるから)、重囲に陥って失敗したんじゃないかね
千早赤坂でも正成は緒戦段階で幕府軍に押し込まれた経験をフィードバックして長期戦戦ってるが、
今回はその暇もなかったというあたりじゃないのか
大軍の指揮には向いていないのだろう。
大軍の指揮はどうして良いか解らない。
赤坂城や千早城の戦いも当時としては非常識な戦法だし、大軍の統率ができるか考えると怪しい。
しかも上司は後醍醐天皇だし、まともな采配がふるえるとも考えづらい。
楠木の作戦は、要は戦わずに京都を放棄して足利軍を京都市街へ引き入れる
後醍醐天皇を比叡山へ移し、京都近郊を後醍醐軍が展開して、京都市街を包囲封鎖する
こんな作戦、うまくいくわけがない
泥縄式に包囲網作っても、足利軍の兵力は後醍醐軍と比べても圧倒的に多い
しかも近江の佐々木、播磨の赤松が足利の強固な味方だし、丹波には足利の直轄領
あっという間に京都包囲網は突破されて終わり 逆に比叡山こそ包囲されるのがオチ
南朝も赤松を重用していたらと思う。
後に足利は南朝や反乱大名に京都を攻め込まれると、
京都をいったん放棄して近江か美濃へ退却し、味方の大軍を集めて京都を奪還するという作戦を成功させた
ある意味楠木の作戦を足利が実行して成功するとは皮肉だが、
足利が成功したのは京都を捨てても敵を上回る大軍を集められるとわかってるから
建武政権の場合は敵の足利と比べても兵が集まらんし、京都を放棄したら、
もっと兵の集まりが悪くなる
引用元: http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1407732998/

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