【武将】比叡山焼き討ちから450年、織田信長と明智光秀の子孫が対談
天台宗総本山比叡山延暦寺(大津市)は12日、信長と光秀の子孫を招いて犠牲者の慰霊法要を営む。
オンライン形式によるシンポジウムで、両者らが特別対談をする。
焼き打ちは元亀2(1571)年9月12日で、延暦寺は「元亀の法難」と呼んでいる。
法要は境内に鎮魂塚を建立した1992年以降、同日に毎年実施。
敵も味方もなく施すべきだという「怨親平等」の精神で、犠牲者だけでなく信長自身も殉難者として供養してきた。
光秀は焼き打ちで重要な役割を果たしたとして、領地を与えられた。
2021/9/10 17:15
https://nordot.app/808970143411732480
去年の大河の時にやれよw
俺が明智側の子孫ならなんか申し訳なさそうな顔していくわぁ
仕えてる時に恥かかせてばかりだったお互い様でしょ
今の皇族は信長の血も光秀の血も両方引いてるだろ。
豊臣がいないんじゃ再現できないな
光秀の子孫なら普通に残ってる
以下、ウィキからの引用
子孫
山崎の戦いで明智家は滅んだとされるため、確証のある光秀の子孫は他家へ嫁いだ光秀の娘たちの女系子孫たちである。
細川忠興へ嫁いだ珠(細川ガラシャ)の子孫は細川家の他、令和の皇室にもつながる。
織田家信勝系昌澄流
光秀の娘と津田信澄の間に昌澄などが生まれる。昌澄は大坂の陣で豊臣方に加わるが助命され、のちに旗本となり家を残す。
家の菩提寺の石碑だと1740年までしかわからん
墓石も風化するから読めるのは300年くらいまでだでだろう
お寺に記録があるんじゃないか
数百年なんてそんなすごくないよ?
10代もいないでしょ?
名家ほど家系図を重視しきちんと残そうとするのは当然だし
日本人が皆一緒くただと思う最近の思想の方がおかしい
某スケーターやら、某歴史作家やらは、自称だからな。
光秀の子孫なら、細川元首相、信長なら、旧・織田子爵家の御当主じゃないかな?
織田明智子孫 対 朝倉浅井坊主子孫 じゃね
延暦寺の時はそうだね
光秀はこの時に悪逆非道のかなり酷い事をやったらしいけど
通説では光秀は焼き討ちに反対してたってずっと言われてきたけど、
昭和の終わりに行われた大津市史の編纂過程で、下記の光秀の書状が発見されて
光秀が焼き討ちに積極的に関与していたことが判明した
焼き討ちの10日前に光秀が和田秀純(現地の味方の国人)に宛てた書状
「仰木之事ハ是非共なてきりニ可仕候、頓而可為本意候」
仰木(比叡山の麓の町)は必ず撫で切りにしてくれよう。これはすぐにでも本望を遂げられるだろう。
知り合いで一番古い家は室町時代前期からだけど、子供が居なくて養子が継いだ代が何代かあるらしい
そういう家は墓が凄い
墓石が50基以上並んでる
小早川は昭和に広島のスター選手に書き換えられました
明智憲三郎とか
架空だけど明智小五郎とか
小早川は元野球選手がいる
うん
クラスつうか跡を継げない親王や将軍子息の食い扶持
まあ天下り先って事だな
世界中どこでも宗教施設ったら王侯貴族の余った子供の捨て場でしたよ
別に捨て場とは限らない
聖界で出世すれば一族も取り立てられるからメリットは大きい。ボルジア家とかリシュリュー、マゼランとかそうだわな。
代々の寛永寺の座主も親王さんでしたぬ
延暦寺は、焼き討ちされた回数よりも、他の寺社を焼き討ちした回数の方が何倍も多いようだけど。
信長は将軍足利義教の比叡山焼き討ちを真似て行ったとも言われてるらしいね
川中島で対談してくれよ
武田のほうは旗本武田(次男・竜芳の系統)の当主・武田邦信(ただし養子により信玄の血筋でない)だが
上杉のほうは惑星探査機「はやぶさ」の上杉邦憲博士ではなく
分家の上杉知彦が出てオセロ対局をした
日蓮宗本能寺は移転したんだよ
当時は四条にあったらしい
何で有難がる人が居るんだろう
それは本人に中身も実績もないからよ
生温かく見守るのもいいさ
金も地位も能力もあっても手に入れられないのが血筋とか家系歴史なんだよ
昔から権力者もこぞって高貴な血筋の家との繋がりが欲しがった訳
家系図作成は、お公家はんのサイドビジネスやでw
家康は吉田家に島津家や津軽家は近衛家にカネを積んで家系図を造ってもらった
必ずしもそうってわけでもないけどな
日本の話じゃないけど、宋の太祖朱元璋なんかどうなるんだと
漢の劉勝だって平民の生まれの上、本人はヤクザ者だし
しかも出生時に母親がヤクザ者にって話もあるみたいだしさ
ただし、藩主家の方は血筋が途絶えて養子を迎えているので元首相は直系子孫ではない
確実に残っているのは忠興に勘当された長男のほう
今どうしてるんだろう
どうなん?
https://i.imgur.com/UPocWTe.jpg
>信雄の子孫は続いてるんだっけ
天童織田家は信長の子孫(織田宗家)
柏原織田家(コラムニスト)は江戸時代に
何度か養子が入り既に信長の子孫ではない
徳川宗家(ベトナム人と結婚された作家)は家康の子孫
家は会津で血は水戸
信長も息子の信雄から天皇に血が入ってる
当時の仏教勢力と言えば武装独立政体みたいなものでしょう
どんなに古くても爺さん婆さんの代のごたごたでぎくしゃくするくらいかな
奥州仕置から平成まで400年以上も絶縁だった
浅野家と伊達家が多分不仲の最長か
『歴史を遺し文化を継承し美を伝えて行く・・』400号記念スペシャル記念座談会
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/015/977/62/N000/000/000/125974242538016106595_zadankai.jpg
右奥 第19代徳川宗家時期当主 徳川家広氏
左奥 第34代島津宗家時期当主 島津忠裕氏
左前 第33代毛利宗家時期当主 毛利元栄氏
右前 江戸期薩摩藩家老 第7代目調所家 調所一郎氏(司会役)
なお徳川家広氏と島津忠裕氏は縁戚関係
島津忠裕氏と毛利元栄氏は慶應大学の先輩後輩関係で親も含めて家族で交流する間柄
なんか腹立つ
こんな人ならいいんじゃね
郡上藩主の子孫、今も「居城」 八幡城で窓口業務、廃藩置県150年
https://www.gifu-np.co.jp/news/20210704/20210704-84325.html
徳川と島津は近衛家繋がり?
細川家と島津家も近衛家繋がりで親戚だよな
東京大学史料編纂所教授陣の一人かと見間違える島津忠裕氏w
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400106625.jpghttps://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/articles/z0206_00006.html
怪しげな家系図だけだと間違いなく偽物
それそれ
代々受け継いで、後の世代にも伝える事は凄く大変な事
自宅が国の重要文化財に指定されてる家がある
由緒物もたくさん
そこ見てたらほんと大変だし何百年も受け継いで今に伝わるのは凄い事だと思う
戦後の混乱期に他人に家系図を売ってしまった
屋号はなく家紋も表紋裏紋女紋と3種あるから
それなりの家だったんだろうけど残念
嫁は平安まで遡れる地方の名家出身
5年前に300回忌とか訳わからん法要したし
名字をwikiで調べると紹介されてるレベル
誰もが知る武将の子孫ってちょい裏山
それなりの家だったとしても「で、お前は?」と問われるだけよ
墓守で一生終えるなんてすごい話だ
有名武将は色々やってきてるから表沙汰にならないだけで家系的に引きずるものはあると聞く。
門前町の坂本に下りては女を買い、酒を飲み、延暦寺の中でさんまを焼いていて
しかも女と子供を儲けて、僧侶達の家族が寺の中で住んでいるというカオス状態だよ
あんな生臭焼き討ちされて当然だろ?っていうのが当時の評価らしいが
焼失したのは根本中堂くらいなもんで、人骨も余り見つからなかったって昭和の発掘調査で判明してるよね
一次史料の多聞院日記にも僧侶はほとんど下山して坂本などの麓の町にいたと記載があるし、
今は全山の焼き討ちはなく見せしめのための小規模な焼き討ちだったと見る研究者の方が多い
人骨なんて出ないのが道理ではないの?
いくら戦国時代でも焼け落ちた建物に遺体を放置って、お寺がそれは無いでしょうに。
普通に出るさね
宿場ですら大火があった所はご遺体ご遺骨がゴロゴロ
鎮火を待って崩して埋めて、よほど偉い人でもなきゃ埋葬なんかされねえよ
病気に飢えに暴力にタヒと隣り合わせのハイパー自力救済社会だぜ
むしろ、比叡山に仏罰を当てるために御仏が信長を現世に送り込んだと解釈した僧侶も居る。
信長は子沢山だったから、現代まで血が繋がってる人もいるんだろうけれど、
光秀の子孫って、ガラシャさんラインか?
ガラシャさんラインなら明智光秀博士ちゃんこと片平凌悟くん。
母親が細川家の末裔・細川珠生。
もちろん、名前の由来はご先祖様の細川ガラシャこと明智珠。
ただ、先祖は代々そう信じていて、明治政府もそれを認めたという事実はある」という言い方をしてるね
去年、たまーにテレビで光秀関係の史料が紹介される時とか出演されてたりしたけど、光秀の子孫云々
という紹介の仕方は、一切されてなかったのは意外
テレビってそういうネタ、飛び付きそうなのに
テレビ局の方も、ちょっとうさんくさい、みたいに思ってたんだろうか
それよりも大物の徳川家康の子孫なんて女系を跨ぐものも含めたら何万何十万人も居るからね。
幕末維新の頃には大名旗本殆どが徳川家康の子孫、諸侯300家、旗本8万だからね。
織田信長の「楽座」とは座の廃止どころか座を認めた上で税を軽減するという座の優遇政策だった
実際の座の廃止にあたる「破座」は後年の豊臣政権下で行われた
関所についても信長は他の大名と同じく支配拡大で不要になった軍事関は廃止しても
関税を徴収する商業関は多くが存続していた
例えば信長支配後の京では関税徴収の先駆けである京の七口が引き続き存在していて
琵琶湖においては堅田衆の関税を織田に上納までさせていた
こうした信長時代に存続した商業関は豊臣政権の時代に廃止が進んだ
誤りだらけの「楽市楽座」通説は皇国史観で知られる戦前の歴史学の権威・平泉澄が造りだした
明治以降に定着した「織田信長=既得権益と戦い新たな時代を築いた英傑・天才」という史観は近年の歴史研究の世界ではもはや時代遅れ
むしろ「最初の天下人」こと三好氏凋落後の畿内における既得権益との癒着や支配地への過酷な課役、京の地子銭の復活など前時代的な方針こそが織田氏の権力拡大に多いに寄与したとされる
90年代に大ヒットした井沢元彦の歴史ファンタジー小説「逆説の日本史」によって
「戦国時代、信長以前の大名の主兵力は農民で合戦は農閑期しか行えなかった。それを信長は「兵農分離」を行い常備軍を有して一年中合戦を行えるようにした」という俗説が広まったが…
この「信長の兵農分離」概説、現在多くの歴史研究者に多方面から否定されている。
そもそも信長が兵農分離政策を行った証拠とされてきた史料とは、実は
古くは朝倉氏が分国法で定めるなど既に各地の大名が行っていた城下集住すら織田氏は遅れていた、信長の革新性どころか後進性を示すだけのものであった。
兵農分離を行った証拠は実はない(真田丸の時代考証・丸島和洋氏の解説)
https://togetter.com/li/327812
ちなみにその史料の記述を要約すると「信長は安土に移転後も未だに城下に妻子を移住させない家臣達に怒り、失火事件を機に彼らの実家を焼き討ちした」というもの。
今川義元が勢力を伸ばす時期、既に有力大名は寄親寄子制や直属の牢人衆などで季節に関わらず兵を動員する体制を構築しており
今川軍が桶狭間の戦いで6月に大軍を動員できたのもこの理由。川中島の戦役でも両軍が夏期の農繁期に対峙している。
豊臣政権の小田原征伐に対する北条氏の百姓動員令のような事例は緊急事態に限られ、その状況においても百姓の主な仕事は普請等で直接戦闘に参加する事は少なかった。
織田信長の肖像は従来緑色の服装の肖像画(長興寺蔵)がポピュラーで教科書にも載ってきたが
近年の歴史研究の書籍ではこちらの肖像画(大徳寺蔵)が採用されてきている
http://www.shouzou.com/mag/p/daitokuji700px.jpg
https://star.ap.teacup.com/tensi/timg/middle_1308435680.gif
この肖像画は生前の信長に面会した絵師の狩野永徳本人が制作したもので緑のものより写実性に優れ、
信長は丸顔ではなく痩せた面長な顔であったことが伺える。
有名な緑色の肖像画は永徳が安土に赴く間実家の留守を預かった弟・元秀が(大徳寺蔵)を模写して描いたものと考えられ、
他に残る複数の肖像画もやはり(大徳寺蔵)やその模写を基に描かれたとされる。
●織田信長の配下として戦功を上げていき
尾張下層民出自の木下藤吉郎の氏名の捨て去り
https://dotup.org/uploda/dotup.org2587889.jpg
https://dotup.org/uploda/dotup.org2587873.jpg
羽柴秀吉と改名していた42才豊臣秀吉のリアル肖像画
竹中直人じゃん
ってことは、20年くらい前にNHKでやってたドラマ『秀吉』って、あれ、結構リアル志向だったの?
写真みたいで想像すると実際にいる人の顔がイメージできる絵だな
そういう顔だったのかって感じだな
>>231
最近の大河って本人と顔が似た俳優を起用するケース多いよな
日本仏教の母山みたいなもん
ローマバチカンみたいな感じ
タリバンみたいな事をやってたのは日蓮系だけだよ
武装して僧兵がいるのと、自分達の教え以外は認めないと言って攻撃繰り返してるのとをごっちゃにしてないか?
延暦寺って確か酒女博打所帯持つだけでなく、金貸しみたいな事もやってたはず
お金を稼いで溜め込んで、その事を楽しみにしてるみたいな商人的な性格もあった
そんなことやってるから最後は自分が焼き討ちにされるんだ
因果応報だね
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1631263841/
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