もし戦国時代の日本がヨーロッパの近くあったら歴史は変わっていた?
瞬く間に、全ヨーロッパが征服されていただろう。
はっきり言って狙う価値ゼロだろ
日本が征服欲の権化ならとっくに北海道制圧してる
しかも日本人の体格の方が騎兵に適している。
十字軍編成して、連合国で日本討伐しに来るんじゃね?
日本の人口に圧倒されてたんじゃね?
1600年当時、日本が1200万人。ドイツと同程度ですね。
フランスが1850万人で、ウラル以西の総人口1億の中では最大です。
イングランドが600万人。
兵力でいえば、フランスと争っていたスペインが総勢15万人で最大。
17世紀前半中には各国・地域も15万人を揃え、17世紀末にはフランス
の兵力が40万に達しています。
スペインの兵力が15万人に達したのは16世紀中ごろで、15世紀末には
2万人足らずであったものが急増したものです。
>>24
その時代だとまだドイツとかフランスとか統一されてないんじゃ?
その点では諸大名に分かれてる日本も同じだが。
そう考えると、外国勢力と結ぶ大名なんかも出てくるのかなぁ。
>>25
ドイツはともかく、フランスは未統一とは言いがたいのでは。
>>26
一まとまりにはならないでしょうね。どう考えても。
特にフランスとスペイン・オーストリアの協力は考えにくい。
カウニッツでもいれば別ですが。
>海軍だって、既に船の横舷に大砲並べてるレベルだし。
当時はまだ命中率が低く、命中してもなかなか沈まなかったようです。
日本でいう戦国期までは、まだ切り込み志向が強かった。
1588年というから統一の2年前になりますが、その年に行われたアルマ
ダ海戦では、大砲で撃ち合っているものの、巨大な火船の使用、潮の流れで
漂流した後、浅瀬に座礁して動けなくなった船への攻撃、帰路の大嵐が主な
(スペイン側の)被害の原因だったようです。
嘘か真か一粒の麦が5~6倍にしかならなかったとか
日本から見れば毎年が大凶作レベルだな
638 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2007/05/07(月) 20:32:13 0
荒唐無稽な妄想にマジレスも大人気ないが、そもそも日本がヨーロッパの横にあったらって前提が曖昧でよく分からない。
ヨーロッパの横ってどこ?考えられるのは大西洋のスペイン沖か北海辺りか?日本が収まりそうなのは。
そしてどういう経緯で日本がヨーロッパ沖へ移動するのか?
はるか昔から日本がヨーロッパの横に存在していたのか、それとも戦国時代の日本が突如
同年代のヨーロッパへ丸ごと瞬間移動でもしたのだろうか?
前者の場合日本とは似ても似つかない国が出来てただろうから論外だが、
仮にスペイン沖か北海に瞬間移動したとしたら?
まず日本の自然が風土の変化についていけず、様々な面で破綻するだろう。
降雨量も減るし日照時間も変わる、空気も乾燥する…
冷涼な北欧の気候か、それともスペインの地中海性気候か?どっちにしろ駄目っぽい。
こんな状況では農業も思うに任せず、水田なんか維持できるわけもない。
主要作物を米から小麦へ切り替えるにしてもそんな土地も無い。ノウハウも無い。
かくして日本の動員力を支える米は全滅、征服どころか飢饉に陥るのであった
>>14
658 名前:世界@名無史さん 投稿日:2007/05/07(月) 21:51:40 0
ある宣教師が日本は相当強いく、仮にスペインの隣に日本があっても
スペインは勝てないと報告してたらしい。多分これが元ネタ。
粟や稗なら寒くても全然OK
粟や稗じゃ兵士の給料にすらならない。という訳で終了
ヨーロッパに分裂の芽がある限り付け入る隙はある
無理だろ。 長篠の60年前に、既にああいう鉄砲戦術が確立されてるんだぞ。
海軍だって、既に船の横舷に大砲並べてるレベルだし。
すぐ錆びて使えない鉄甲船じゃね
かれていないのでは。『日葡辞書』にも、「テッセン(鉄船)」は出て来ま
すが、仮に信長の用意させた船が鉄で覆われていたとしても、そう珍しいも
のではなかったのでしょう。
いずれにせよ、外洋を航海できないと思いますが。
「唐入り」の際にも、東シナ海を渡れず、朝鮮経由しか道がなかった。
また、攻撃力も足りませんね。大砲が一隻あたり三門では。
スペインのように切り込みを挑んでくる相手ならともかく、イングランドの
ように逃げながら仕掛けてこられると、不味くありませんか。
でも秀吉・家康は、あんま制海権の意識ない武将だったから、どうにもならんかっただろうな。
イ・スンシンあたりを取り込んで亀甲船を基本装備できれば、キャプテンドレイク並に
暴れられたかもね。まあ鉄砲の量はずば抜けてたみたいだからアジア最強ではあったかもな。
ああ日本軍が火炎瓶投げ込んで乗員蒸し焼きにした船か
当時の日本は銃を使用する場面以外では殆ど単なる乱戦しかしていない
日本の武士団はカラコールやられたら易く瓦解するだろう
カラコールを防ぐには
陣前に砲列並べ一斉射撃するか
グスタフ・アドルフが行ったように騎兵隊の騎銃で敵より早く一線一斉射撃し
敵の戦列がそれにより乱れたところを抜刀突撃で奇襲し敵を潰滅させるしかない
しかし戦国時代に至っても日本の武士団には独立した騎兵部隊は存在しないし、その部隊戦術もない
そもそもそれ以前に去勢技術も馬蹄技術、ギャロップを可能とさせる馬具も全く存在しない
しかも異常に重装備で重い騎馬武者が体高120~140cmのポニーサイズの馬に乗るため
欧州やムスリムの騎兵やユーラシアの遊牧民と騎馬武者が互角に戦えるとは到底考えられない
おそらく通常の歩兵主体の戦いでも画一化された銃撃後、乱戦に持ち込むしか能のない武士ではテルシオ陣形は破れない
カラコール戦術なんて全く役に立たないよ。
ただでさえ有効射程が槍よりも短く(5m以内)命中率も粗悪な当時の銃を、
安定しない馬上で特に狙いもつけず一斉射して後退。
所詮は傭兵中心でタヒ者が極端に少ない(というか落馬による1名のみなんて例もある)、お遊戯時代の産物。
それを駆逐したのがグスタフ・アドルフの騎兵による切り込み戦術。
何のひねりも無い古風な戦術だが、騎兵の機動力と衝撃力を生かすのはこれが一番だった。
当時の日本は銃を使用する場面以外では殆ど単なる乱戦しかしていない
>日本の武士団はカラコールやられたら易く瓦解するだろう
カラコールを防ぐには
陣前に砲列並べ一斉射撃するか
グスタフ・アドルフが行ったように騎兵隊の騎銃で敵より早く一線一斉射撃し
敵の戦列がそれにより乱れたところを抜刀突撃で奇襲し敵を潰滅させるしかない
瓦解する前に塹壕に引っこんで様子見てるよ。また真田なんて実際地雷原作って
秀忠軍を誘導してるから騎兵は逆にカモでしょ
関ヶ原のころにはすでに野戦陣地を構築しての長期滞陣型の塹壕戦が現れてるよ。
当時の日本の軍事ドクトリンとしては信長の長篠の戦い以来の
敵の突撃を防いでからのカウンター攻撃が主体。
突撃してこなかったら小牧長久手みたいに延々睨み合いになる
(関ヶ原は家康も三成もその他大名もいきなり遭遇戦から始まって一日で
決着がつくなんて予想していなかった。考えてたモデルケースは長期滞陣型
の小牧長久手タイプの戦場、だから当初の計画の作戦と違う経過になってしまってグチャグチャ
家康がギャンブルで秀秋に鉄砲打ったら秀秋がグワ~~って秀家に突っ込んで
西軍大混乱ってのが真相だろ)
で乱戦になるのは攻撃側が防衛線突破に成功してからの陣地の奪い合いか、
防御側が攻撃を凌いでからの混乱状態になった敵への切り込みでしょ
カウンター攻撃がうまいこと機能したのは真田昌幸と徳川秀忠との間で行われた
上田合戦だよな
>しかし戦国時代に至っても日本の武士団には独立した騎兵部隊は存在しないし、その部隊戦術もない
そもそもそれ以前に去勢技術も馬蹄技術、ギャロップを可能とさせる馬具も全く存在しない
しかも異常に重装備で重い騎馬武者が体高120~140cmのポニーサイズの馬に乗るため
欧州やムスリムの騎兵やユーラシアの遊牧民と騎馬武者が互角に戦えるとは到底考えられない
そもそも日本の武者の大勢で騎馬戦っていうのはほとんどが時代劇の中だけ
戦場までの移動手段にすぎないのよwだからギャロップとかなんたらって
発展しませんてww必要無いんだから
だって基本的には高地に陣地を構築してからの奪い合い、賤ヶ岳の戦いなんかもそう
日本の侍は戦場まで騎馬で行って降りて戦うのが基本。
騎馬隊中心の攻撃は義経か信長の桶狭間くらいしかないよ
でもその今川義元の時も敵陣までは馬で突入はしているけれども、
義元切った人は降りて戦ってるから。
との戦いでのノウハウを持っていて実際に勝ったこともあるし戦術も取り入れて
いるが。朝鮮の役では日本軍はその明と互角以上に戦っているので
必ずしもムスリムの騎兵やユーラシアの遊牧民と日本の武者が互角に戦え
ないとはいえないだろう
馬上打ち物が廃れたのは戦国時代、応仁の乱より以前は騎馬戦中心だよ
そもそも当時世界中の馬がちいさいのにポーニーサイズもくそもない
また在来馬は性格がおとなしく
もともとハミもいらずに制御できるほど
軍馬にするにはその中で性格が荒っぽいものを選抜する必要があった
去勢なんぞいらん。
臆病で神経質ですぐ暴れる西洋馬と一緒にしちゃいかんな
また悪食で消化器官と骨格が頑丈
土地の柔らかさも手伝って蹄鉄も必要なし。
そもそも馬具が未発達だったローマ時代でも騎兵はちゃんとあった
さらに鎌倉時代以降の日本の馬具は十分機能的。馬具がないとは言えない。
ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙
「コーチシナ、ここは1000人で征服できます。
カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の生活の面倒をみてくれています。
シャム、ここは1500人で征服できます。
いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・
日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。」
パステルス「日本スペイン交渉史」
ルイス・フロイス
武士階級の食生活は、どの階級よりも質素である。
多くは菜食主義で、下は雑兵といわれる足軽から大名に至る迄、少食・粗食であった。
また着ている物も、普段は木綿の粗衣であったがヨーロッパ人に比べ暑さや寒さに強かった。
武士は戦いにおいて強靱振りを示した。
徒歩の下級武士は、全身に重い甲冑を着け、恐るべき早さで野山を駆け走りあるいは駆け登った。
騎馬侍という一ランク上の階級も馬術に長けているばかりでなく、体躯そのものが強靱であり、
脆弱な我々ヨーロッパ人と違い落馬してもそれで滅多にタヒぬことはなかった。
また、敵に、一旦は馬から引き摺り落されても、掠り傷もせず再び騎乗し直すことができた。
刀で斬られても、あるいは槍で突かれても、傷が致命的な深手でない場合、その傷は直ぐに治り、それは不思議なくらいであった。
「すべてのサムライは、幼少の頃から、槍や刀による肉弾戦闘を教わっている。
我々が通った一つの区だけでも、乗馬や剣術を教えるために作られた二箇所の馬場と数箇所の建物が存在していた」
「日本の貴婦人に対してさえ、武術の教習所が存在している。
彼女らの武器は、ポーランドの鎌にちょっと似たところのある湾曲した槍(薙刀)である。
彼女らは、それを刃の方を下にして持ち、一定の法則に従って扱うのだが、
身振りと調子を合わせた動きは、立派なバレエの主題になりそうである。
半開きになった門の隙間からこっそりと覗いていたが、
この均整のとれた見物を長く観賞することはできなかった。
同行の役人たちがその門を閉め、婦人の武術の稽古を第三者が見物することは
この国では許されないと、説明したからである」
「LE JAPON ILLUSTRE」 エメェ・アンベール
徳川家光品川御殿に遊行し、近侍の者等が剣術の仕合を為すを見て興がり、
御馬方諏訪部文九郎を召し、仕合を命ぜられた、
時に文九郎、
「馬上にての仕合ならば負けまじきを」
と云った。
家光がこれを聞き、馬上の仕合をとなり、近侍の面々馬を乗り出し、
文九郎と仕合をしたが、悉く打たれたので、家光大いに感じ、
「文九郎は馬上達者なる故、近侍中一人も勝つ者なし、この上は柳生但馬出て仕合うべし」
とのことである、但馬守、
「畏り候」
とて馬上にて立合い、南方より乗り出しその間合い三間程になった時、
馬を駐めて文九郎が乗り来る馬の面を一打ち打ち
馬の驚いて起った所を乗寄せて文九郎をはたと打った。
家光、これを見て、
「真に名人の所作、時に臨んでの働き尤も妙」
と感心したとの事である。
「常山紀談」
日本人はよく刀槍を用ふ、我に堅甲なきがゆえに、敵するあたわず。
さればよろしく厚鉄を用ひ、満身の甲を作り、
兵士をしてこれをつらぬき、敵中に入らしむべしと。
これに於いて取り敢えず、これが見本を製造して、
これを試用したが、とてもその重きに堪えずして、これを廃した。
シナ人は自国のおびただしい人口に自信を持っているものの、
スペインのわずかな鉄砲隊で、
何百万人ものシナ人を滅ぼせるという事が理解できていない。
先年僅か13人の日本人の搭乗した小舟が一艘渡来し、
3000人以上のシナ人に包囲され、洞窟に閉じ込められたが、
彼らはそこから脱出するや、
直ちに多数のシナ人を○してしまった。
シナ人は彼らを一昼夜に渡り包囲しながらも攻撃を加えることができず、
脱出した日本人は近くの海岸に行って舟を奪い、
それに乗って逃げてしまった。
シナの征服は日本人の軍事力を利用してすべきである。
日本国民は勇敢で絶えず軍事訓練をしている。
したがって日本を征服しても益はないが、スペインがシナに進出するときのよい足場になるので、日本を重視する必要がある。
私が、ここで陛下に断言できることは、迅速に遠征するならば、シナを簡単に征服できるということである。
そして、このことを一層容易に運ぶには、シナの近くにいる日本人が、すすんでこれに加わると思えるのである。
日本人は、シナ人に対して非常に効果的である。
スペインの宣教師バリニャーノ
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1177662640/
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