【歴史】「砂漠の狐」ロンメルが上官から指摘された“病的な功名心”その背景にある事情は複雑なドイツ陸軍の「将校採用システム」
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■歩兵連隊への入隊が、ロンメルのキャリアに影を落とした
1909年、兵役年齢の18歳に達したロンメルに、父親は軍隊に志願すべしと言い渡した。ヴィルヘルム期(ドイツ第二帝制の時代)にあっては、家長の権威は絶対であったから、父親がそう決めた以上、ロンメルに選択肢はなかった。
ロンメルは最初、父親同様に砲兵連隊に入ろうとした。ところが、地元の第49砲兵連隊には、士官候補生の空きはないと断られてしまった。
ついで工兵隊に打診してみたものの、事情は同様、というよりも、もっと悪かった。ヴュルテンベルク王国軍には、将校の定員が36名の第13工兵大隊一個しかなく、士官候補生の入隊待ちリストは、砲兵隊よりも長くなっていたのだ。
「将校適性階級」(中級・高級官僚、大学教授、貴族、現役、もしくは退役した将校の家庭に生まれた男子)以外の者が軍隊で地位を得ようとした場合のルートは、おもに砲兵と工兵だったから、おのずから狭き門になっていたのである。結局、ロンメルとしては、歩兵の道を選ぶしかなかった(騎兵科は、「将校適性階級」が優先されるから、採用は望み薄だった)。
1910年7月19日、ロンメルは士官候補生として、ヴァインガルテンに駐屯する第124/第6ヴュルテンベルク歩兵連隊(連隊番号が二つあるのは、ドイツ帝国の歩兵連隊としては第124、ヴュルテンベルク王国の歩兵連隊としては第6であることを示す)に入隊した。
この時点で、ロンメルに、軍人を職業とする自覚があったかどうかは判然としない。だが、結果的には、そうした選択をすることになったのは間違いない。
しかし、その決断によって、職業将校としてのロンメルは、キャリア上の不利を負うことになった。
第一に、砲兵、あるいは工兵に士官候補生定員の空きがなかったという偶然が働いたとはいえ、「将校適性階級」の登竜門たる兵科に進めなかったことである。
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■複雑なドイツ陸軍の「将校採用システム」
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19世紀のドイツにあっては、将校志望の少年は、早ければ10歳で、陸軍幼年学校(Kadettenschule:カデツテンシューレ)に入学する。
このように称する施設があったのはプロイセンだけだが、バイエルンなど、他の諸邦においても、同様の学校が置かれていた。
ついで、ベルリンのリヒターフェルデにあった陸軍士官学校(Hauptkadettenanstalt:ハウプトカデツテンアンシュタルト、直訳すれば、「陸軍中央幼年学校」ぐらいになるが、機能に則して、「陸軍士官学校」の訳語を当てた)に入る。
陸軍士官学校は、14歳以上の志願者を受け入れ、陸軍幼年学校卒業生のみならず、一般の学校を出た者も採用する。
わかりにくくなるのは、このあとである。他の軍隊一般とは異なり、ドイツ帝国においては、陸軍士官学校卒業イコール将校任官とはならないのだ。
陸軍士官学校生徒は、第11学年修了時(おおむね18歳)に、少尉候補生試験を受ける。それに好成績で合格すると、「帯剣待遇少尉候補生」と認められ、どこかの連隊に入隊する。
階級としては軍曹の上であり、少尉候補生の軍服を着用することが許された。しかし、そののち、入隊した連隊の長が、剣の佩用を認め、「有権少尉候補生」とするまでは、指揮権は与えられない。
ただし、「帯剣待遇少尉候補生」になれない者が多数派であり、彼らは、連隊で任官する前に、軍事学校(Kriegsschule:クリークスシューレ)に送られ、8か月から1年半、「少尉候補生」として過ごす。
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■「病的な功名心」は出世コースを外れていたから?
繰り返すが、彼は、ドイツ軍の主流となる邦国の出身でもなく、偶然の結果ではあるものの、「将校適性階級」以外の者が軍で出世するルートである砲兵・工兵への任官もならなかった。
しかも、陸軍幼年学校から陸軍士官学校へというエリートコースもたどれなかったのだ。ちなみに、第一次世界大戦開戦の年である1914年には、ドイツ陸軍の将官のうち、およそ半分が陸軍幼年学校卒業者だった。
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後年、ロンメルはたびたび功名心過剰であると指摘されている。
たとえば、第二次世界大戦前半に陸軍参謀総長を務めたフランツ・ハルダー上級大将は(ドイツ軍には、元帥と大将のあいだに、上級大将という階級がある)、その戦時日記に(1941年7月6日の条)、ロンメルは「病的な功名心」を持っており、「性格的な欠陥」があると書き込んだのである。
>>1
ロンメル=牟田口
有名な話だよ
違うだろ。ロンメル指揮下だったアフリカ軍団の将兵が
餓タヒしたという話はあまり聞かないけど?
軍人家庭出身でもないからね
そういうやつは出世主義になりやすいから軍人だと特に危険
日本でも薩長閥に反発した東北出身の陸海軍人が暴走して日米戦まで行っちゃたという経緯がある
ロンメルのどこが危険なんだよ
ヒトラー暗○計画に関与した疑いからか?
独走しやすいって話だよ
別にロンメルだけを指して言ったことではなくね
そして軍人の独走は戦争の勃発や大量のタヒ者に繋がるから危険ってこと
>>10
軍事上でのロンメルへの批判でよく言われているのが
戦線を拡大させすぎちゃったこと。
ドイツ軍は北アフリカに大兵力送り込む余裕はなかったので
戦線崩壊させず維持だけしていればよかったんだけど
ロンメルは功名心からどんどん戦線拡大させてしまい
連合軍は対抗のため戦力を投入。
最終的に戦線を崩壊させてしまった。
石原莞爾もそうだし
東條も父ちゃんが賊軍出身だもんなぁ…
その通り。ナチス政権にしろ国防軍の中でナチに積極的に加担した連中にしろ、
日本の陸軍統制派にしろ、そういう屈折した中で出現し、国を破滅に導いたね。
山縣-田中-宇垣あたりまでは、まだ英米協調で日本の国力を弁えていた。
薩長閥の連中は確かに汚職とかもあったが
政策はまともだったからね(特に外交)
宇垣以降の長州閥が皇道派と統制派に粛清された結果
頭でっかちで世間知らずな出世主義者が主導権を握ってしまった
出世主義の奴が出世しただけだろ
今すぐオーストラリアの猫200万匹大量○戮反対運動に参加して
それに、ロンメルは第一次大戦中のイタリア戦線でドイツ最高位勲章の「ブルー・マックス/プール・ラ・メリット勲章」を受賞
して、共和国軍に残った数少ないエリート将校で、歩兵の教本を書いてるぐらいの歩兵のエキスパートだし
フランツ・ハルダー上級大将はバイエルン人で、ドイツ軍主流のプロイセン将校出身じゃないにも関わらず参謀総長に昇進してるんだが
プロイセン陸軍の伝統で軍の中核がユンカー出身、
代々職業軍人家系で占められてたのよ
反発も強かったし、結局下層階級がSSを目指すことにもなる
ポーランド戦か、フランス戦の頃には、機甲師団長だったはず。
家柄が幅利かせやすい欧州で無能の謗りを免れなかったやつがまず居ないという時点で優秀人事なんだが
(旧日本軍ですらおまえア○かこんなの将官にすんなやボケ、な奴は一定以上いるしな
ヒトラーへの忠誠とヒトラーからの承認のみで出世した連中だから、
ドイツ本国の破滅まで突っ込んでいく。
逆に、第一次世界大戦のドイツ軍将校はユンカー層出身なので、
ある意味皇帝からも自立してて、さっさと皇帝に休戦を強いることもできた。
頑張れば結果が必ずしもついてくるなんて甘いもんじゃ絶対ないけど、たまたま巡ってきたチャンスを掴みとるには日々の努力が必須なのは間違いない。
それまで戦線を支えていた有能な指揮官は更迭されてしまったけどね
薩長は、薩英戦争や下関でガチで欧米とやりあったから
精神論や、感情的な攘夷なんか意味ないと実感してる
後の日本が妥協できなくなったのは、軍の上層部を占めるようになった
東北人の頑固さが原因という説も
精神論は無意味!と煽った戦後日本が国力が十分の一だった韓国にすきなように被害受けてヘラヘラしてたのみるに精神もやはり必要だがな
ロンメルは戦果は出してるだろ!w
花谷は辻と牟田口の悪い部分を足して2で割らないような奴だからな…
ヒトラー暗○グループとの関係を
疑われて自○を強要されたのも
あるしね
デタラメなドイツ軍の中で国際法遵守してたからじゃね
鈴木貫太郎のルーズベルト追悼声明が日本人からすれば当然の礼儀で書かれていたのに、トーマス・マンに激賞されたようなもの
だから港湾施設の能力を開戦前に上げておけば勝利への道は開かれたかもしれない。
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1556627308/
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