呉の歴代都督で周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜、このなかで違和感があるのって魯粛だよな?
魯粛は劉曄とも文通して曹操に仕えるよう誘われたり優秀だろ。
とりあえず、大都督はみんな途中でタヒにすぎ
どんだけストレス溜まる地位なんだよ
演義の周瑜とか描かれ方酷くない?
司馬懿、周瑜、曹真あたりは孔明を引き立て役が役割だかんね
後から演義や正史の呂蒙を知ってもだ
あとカントの戦いとか青州兵についても描かれていないから曹操が描かれる戦は割と負けていて
有能感がない
横山三國志、横山三國志というが日本のマンガ三國志のなかで三國志演義に一番忠実(言い方悪ければ独自脚色が薄い)なのは横山
ただ最終巻はめちゃくちゃはしょってるけどね
マンガしか読んだことなければ横山でいい
赤壁は本来孫権周瑜の唯一というていい見せ場やから
一介の親衛隊長とは格が違う
>>15
周瑜は、孫策が国家拡大した頃も重要な役果たしてたはず
あまり記録は残ってないけど
ケイ道栄「曹操軍を破ったのは呉の周瑜とその戦力だ、誰がお前(孔明)など恐れるか!」
何故その事を邢道栄なんかが言うのだ
「この孔明が策を用いたら曹操軍は赤壁で壊滅した、勝てるわけないからさっさと降伏しろ田舎者」と挑発されたのさ
三国時代最強の関羽を屠り荊州を制圧した功績は夷陵の戦いで呉を救った陸遜よりも上
周瑜が生きていれば多分三国志にならなかったよ
>>25
北方謙三が、そういう史観の三国志書いてるね
周瑜が生きてたら、劉備・孔明は何もできず
魏と呉の南北朝になってたって感じの
当然ながら史実通り、周瑜は早タヒにするから実現しないけど
顔も優しいだけのおっさんふうで周瑜と孔明の間を小間使いしては顔色変えてるだけw
周瑜も孔明のかませ犬状態だけど一番史実との乖離が大きいのは魯粛じゃないかと思う
天下三分の計だって魯粛だぞ発案者
時には君主の孫権でさえも頭が上がらなかったんだぞ
ナムコの三国志から言わせると
リョモウが一番ショボい、というか特徴がない
シュウユ 体力65 知力90 武力86 人徳82 忠誠93
ロシュク 体力40 知力87 武力05 人徳92 忠誠90
リョモウ 体力75 知力75 武力68 人徳72 忠誠68
リクソン 体力65 知力97 武力63 人徳55 忠誠83
他のパラはともかく、なんで呂蒙はこんなに忠誠が低いんだw
関羽を騙したことを、ここに表現されたのか?
NAMCO三国志はわりと体力勝負なところあるから、逆に優秀かもよ
体力以外は上がるから
史実通り育てろってことよな
魯粛が生きてるうちは関羽は呉に対して見下す真似が出来なかった
魯粛いなかったら蜀より先に滅亡してる
相手を油断させてスキを作る。
魯粛は孔明には弱いが関羽には強い。
曹仁は名将なんだが横山だと大したことないからな
>>45
赤壁の戦い(実際はよくわからない)はさておき
あの魏から荊州奪ったことだけみてもすごいんだけどね
その後は、合肥とかで何度も戦ったけど魏の領土を奪うことはなかった
周瑜 豪胆な人物、ただ何をしたかはよくわかってない
魯粛 孫劉同盟の堅持、外交面で多大な活躍
呂蒙 関羽を排除する
陸遜 夷稜で蜀をボコる、後も沢山活躍
ある意味、周瑜は使いやすいのかもしれない
よくわからんなら適当なこと言っても誰も文句付けられないし
まぁ、演技の周瑜は明らかに正史とは違うが
俺もそう思う
まともに戦わず早々と撤退したのが真相だしなぁ
ちなみに赤壁近くで劉備が駐屯していた江夏は今の武漢市
だからって、そのあとで江陵まで落とされるのはおかしいでしょ
疫病の影響があったと言っても、曹仁も結構持ちこたえてるから
激戦だったと思う
中国ドラマ、スリーキングダムの魯粛はメチャクチャカッコよく描かれてるけどなぁ。
国を案じる孫権に付き添って、周瑜を毅然とした態度で諌めたりしてたし。あと、全体バランスをみながら劉備陣営と外交したりとか。
横山での描かれ方がひどかったからな。
周瑜「お前は他のことはできるが、外交官としての才能はゼロだのう」
演技では、劉備が主役だから仕方ないけど
(多分)魏の主力相手に奮戦して北荊州奪った周瑜を必要以上に貶めて
南荊州で、文字通り雑魚狩り(というか残敵掃討w)した劉備を持ち上げてる感じはある
そして、周瑜がタヒんだ頃から国家としての体裁が本格的に整い
記録もしっかり残るようになったので、その後の呉がやったことはわかっている
正史もほとんどが作り話だしね
200年とかの出来事の真相とか分かる訳ないからな
>>73
戦勝の勝敗、各勢力の領土の変遷に関しては
ある程度正しいんじゃないかと思う
そういう意味では、赤壁~周瑜没くらいまでは
劉備って呉の配下に近い扱いだったんじゃないか?
曹操、袁紹、(劉表)、孫権というメンツに客将として優遇されてるのは凄いが
全部が正確でなくても中国の史書はそれなりに質が高いね
ましてや三國時代は比較的短いので
直後に書かれているからね
確かに言われてみれば正史もわけわからんし
まあ当たり前だけど>>70のいう通り当時の正史編纂の人たちですらわからなかっただろうし
いわんや俺らをやってやつだな
魯粛と陸遜は文官
太史慈、甘寧は武官
実際正史はよくわからんよ
夏侯惇伝なんかひでえよ
先生バ○にされたから斬った
夏侯惇が捕まって助けられた
治水工事手伝った
曹操軍の総司令官になった←なんで?
周瑜魯粛呂蒙は同じ頃のイメージあるし
根本的には魯粛がナンバーワン
三國志のストーリー(歴史的にも同じ)の根幹とは圧倒的に優勢な曹操の天下統一を阻止して、自立をしていくためには曹操を妥当するというより国を三分割することで均衡を作りだすということにある
これは孔明の思想であり魯粛の思想である
演義の中で魯粛は言葉としてこのことを語っていないが赤壁前後の描写では周瑜が孔明の対立者と描かれる一方で魯粛は常に孔明の同盟者であり三國鼎立の立役者であることにかわりない
魯粛がいかに三國志に大きな役割があるかおしてしるべし
>>87
そのあたりの細かいことはよくわからないけど
呉が荊州も益州も確保できたら、本格的に魏との決戦ができた
なんで、劉備ごとき(とあえて言うが)に天下3分の一つを与えたのか?
そういう意味では魯粛は失敗してる可能性がある
配下と思ってたのが裏切られたって意味で
なので、次に引き継いだの呂蒙が本格的に敵対してると考えると辻褄は合う
>>93
もちろん孔明側には有利な策であるが、孫権側も南部を単独で制圧できる力がないとも言える
敵を一方に集中させない意図もあるでしょ
天下三分割は韓信にカイトウが示したことは有名で400年前にすでに存在した計略
まあとにかく良し悪し以上に三國でなければ三國志にならないわけで孔明より先にいいだした魯粛は三國志をつくったようなもんよ
>>96
それって、あくまで第3者の理屈であって
当時項羽と鎬を削ってた(というか負け続けてたがw)劉邦からしたら
配下に頑張って勢力拡大してほしいって話でしかない
そして、最後に韓信は○される
もし韓信が独立して、項羽・劉邦に次ぐ第3勢力になってたら
劉邦の戦略としては、破綻したといっていいでしょ?
最善の策がなんだったかは俺もわからん
ただ三國志だからね
三國志演義の古いバージョンの三國志平和はこのカイトウらの生まれ変わりの話しから始まるのは有名
三國志というストーリーのひとつのモチーフなんだよ
益州と荊州合わせてですら魏と決戦したら負けると少なくとも魯粛は考えた
それにおそらく実際そうだったと思うよ
二国になったらお互いしか相手がいないわけだし中原を支配している勢力がガチり始めたら勝てない
当時の中国なんてほとんどが中原を意味していたわけだし
土地の広さを見て言っているのかもしれないけど人口は段違い
そして劉備ごときというが劉備ほど魏からの圧力を受けてもそれをある程度いなしてくれる適任者はいなかっ
だったら、なぜその直後に劉備(関羽)から荊州奪おうとする?
呂蒙がよっぽど馬○で、魯粛の考えを何も理解してなかったとするのは
さすがに酷すぎる
そら魯粛と呂蒙は同一人物じゃないから考え方が違っただけでは?
そんなこと言ったらそもそも周瑜から引き継いだけど魯粛は周瑜のいう天下二分の計を破棄しているわけで
担当者が変わったら方針だって変わる
別におかしなことじゃないと思うけど?
国として基本路線は踏襲しろよwって言いたいのかもしれないがそれを俺に言われてもね
>>108
最終的には、劉備(というか孔明や麋竺か?)の策がはまって
2国の同盟で魏に対抗するって形になった
でも最初は、呉(とその配下である劉備軍)で曹操に対抗する戦略だったはずだと思うんだよね
ただでさえ国力が足りないのに、それをさらに2つに割る理由は何もない
そしてこれは、劉備陣営の動きが素晴らしかったって話でもある
ただ、この説が正しいとすると、劉備は物語での英雄にはなれんねw
そうでなくても、益州侵攻戦で酷いこと一杯やってるのに
>>114
まあ確かにそれが周瑜=即ち始祖wの責任者の方針だったわけだしね
言いたいことはわかるし確かにそっちでの歴史もみてみたかったw
もちろん無理だけど
劉備の方がよっぽど乱世の奸雄だと思うわw
いや演義で主人公にされてよかったでしょこの人w
善人的扱いになってよかったね劉備はw
>>121
いや演義のストーリー制が面白かっただけで劉備が善人なんて歴史家はおもってないよ
それが顕著なのは劉備の蜀漢が蜀漢であって後漢でないこと
もし血統が繋がっていれば中国の歴史観ではそれ相当の扱いを受ける
前漢、後漢でなく後漢が中漢、蜀漢を後漢と評価する可能性もある
なぜ劉備が後漢でなく蜀漢かというと同族の荊州、益州を吸収して勢力をひろげ皇帝をなのったなら本来は皇帝を簒奪した魏に侵攻すべきなのに呉に侵攻したからなんだよ
後漢復興なんて立場はまやかしと評価されたから
三国演義の存在全否定でワロタw
>>129
三國志の説話語り(日本でいうなら講談かな)は古くて唐の時代には存在が認められる
この当時から劉備が主人公であったかどうかは怪しいのだが観客は劉備が勝ち曹操が負けると喜んだそうだ
判官びいきのような価値観もあったのかもしれないがこれが時代が下ると顕著になる
一般論だが遼、金、元、清といった異民族制服王朝が中国で続いた結果、国土復興をストーリーにした劉備を中心とストーリーの人気に拍車がかかったとされる
劉備人気はあとの時代のもの
中国人以上に日本人は三國志が好きなのはやっぱり判官びいきでないかね
その内魏での内紛や騎馬民族もいたんだから
ちょっと気になって調べてみたら
蜀が滅亡した時、呉が滅亡した時、魏が蜀を滅ぼした時だからちょっと時間が過ぎているけど
人口とそこから考えられる兵士数が載ってるサイトがあった
それによると
蜀:人口は約28万戸の94万人。そのうち軍人は10万2千人
呉:人口は約52万戸の230万人。そのうち軍人は23万人
魏:人口は664万戸の443万人。正確な記述はないが蜀と呉と同じ割合とするなら約45万
うーむ蜀と呉合わせて対抗できないわけではないが本格的な決戦になったら負ける可能性の方が高かったかな?って感じ
まあ今ではもちろん3分の計が失敗だったのかどうだったかなんてわからんけど
考えるのは楽しいね
最近興味持ち始めた八王の乱から五胡十六国時代辺りの易しい入門書とかある?
フィクション多めの小説でも可
小説十八史略が一番面白くて読みやすい
小説十八史略(陳舜臣)の4巻辺りがよろしいかと
後漢末期から隋の統一までなんでちょうどその時代と三国時代もすっぽり入る
頭いい連中だの文化人だのを
否定しまくって底辺をかき集めた毛沢が
当時のエリートを簒奪凌辱していいってゴーだしたら
ヒャッハーが勝ってしまったのが今の中国やから
>>134
それは中共を誤解してる
むしろ中共は演劇を徹底的に政治プラガンダにしてきたし、政権幹部が失脚したり復権する前後にそれを象徴する舞台を京劇を盛んに演出した
中華人民共和国演義なんてつまらんもつくった
中華民国と中華人民共和国の区別ついてない馬○なの?
なるほど、カンボジアのポル・ポトと同じなのか
ポル・ポトは中共に支援されていたし文革の影響を受けていたからね
ただ文革=中共では単純化しすきだな
やっぱり中共の文化政策を語るなら天才女形のメイランファンを調べると良いね
いやマジレスすると魯粛は荊州までは自分のものだと思ってなかったか
荊州と呉が呉の領域 蜀は本当に蜀のみ
それが魯粛の考える天下三分の計
だから演義ではいなされていたけど実際は堂々と関羽相手に舌戦して黙らせている
魯粛も荊州は奪い返すつもりだったぞ
呂蒙はそう言った意味で魯粛の遺志をしっかりついでいるよ
でも呂蒙は別に蜀そのものを滅ぼす意図はなかったろ
だってそこまでしたら3分じゃなくなるからな
担当者が変わったから方針変えたわけでもないし別に荊州攻めがおかしいわけでもない
当たり前だけど天下三分といえど
仲良く3人でやっていきましょーやーって計じゃないぞ
荊州が自分のものなら、益州も自分のもので何か問題あるか?
どちらにしても、劉備陣営に対して自国の勢力が圧倒してる状態は維持したかったはず
(配下と思ってる)劉備と戦いたくないのは当たり前
荊州と比べて益州は突出しすぎていて経営難しいでしょ
三峡の先なんて島国みたいなもんだよ
文武両道やし
演義的には呂蒙の違和感は簡単に呪いタヒんだあたりだろう
呪いありなら簡単すぎるだろ
ゲームのコマンドに入れろ
そもそもとして呉が蜀をせめているということはすでに劉備は無力になっているわけで
そしたらもう実質魏と呉のみだよね
呉が蜀を攻めテイルぞーって魏がただじっとしているかね
それ以上に蜀は離島なみに隔絶された盆地にあって簡単に勢力圏をかえれる位置にない
相当な合理性がある
劉備からすれば漢中は劉邦が中原に侵攻した一時の拠点でそれをなぞらえるのにちょうどよい
彼の全盛期は先代孫策の時代だから描写がイマイチなのはしかたない
真に有能だったのは周瑜が推挙した魯粛だろう
脳筋の呂蒙を軍師まで仕上げ、彼に陸遜を見つけさせた
軍資金で始め貢献したただのいい人が実は孫呉の大黒柱だったのだ
戦闘にあまり参加してない印象ながら軍略家を生み出したあたりは確かに違和感かもね
>>130
周瑜は、全盛期を迎える前にタヒんだと言えなくもない
魯粛や呂蒙とそんなに年齢差があるわけじゃなく
ただ早くタヒんでしまった
周瑜の時代にも魯粛はいた(周瑜が推挙してるのは指摘の通りで、優秀さを認めてる)
そして、周瑜が健在のころ魯粛が何してたかも記録にはない
(国家として未熟なため、あらゆる記録がないってだけ)
ここは堅実にやってた様だけど結局赤壁以降天下統一となるとノーチャンで何よりも見所無しだったって感想
国土で割り振ったら北と南で同じような広さだけど
実際はそうじゃないからね
北のほうが圧倒的に有利
人の数にしろ
もちろん南は南でそれこそ水軍が得意です(呉)とか大軍では攻めにくいほどの難しさです(蜀)とか守りはいいんだが
如何せん結局地の利があろうと人海戦術にはいつか負けるからね
赤壁のころって、後の世からみるとまさに曹操の全盛期
最大の敵とされた袁家を滅ぼし、人口の多い荊州もほぼ戦わず手中にし
圧倒的な戦力で江南殲滅にかかった
その後何が起こったかよくわからんけど(負けた側の魏の記述があいまいなので)
魏が負けて、あろうことか荊州まで失ってしまった
その勝者である孫家は少し前までは袁術の配下レベルの弱小
勢力を拡大した背景には、周瑜の力が大きかったと思われる
その根拠は、孫堅時代からの宿老たちが、20代の若造に過ぎない周瑜の下で動くことを是としてる事
(程普だけは折り合いが良くなかったらしいけど、そりゃ面白くないわな)
そして、周瑜タヒ後の主導権を握る魯粛にしても、周瑜が望んで呉に仕官させた男
そして孫策タヒ後も、呉の拡大の勢いは止まらなかった
それが急停止した転機は周瑜のタヒとしか思えない
魯粛や呂蒙、陸遜も優秀な武将だったことは間違いないけど
彼らの時代に呉ができたのは、言ってしまうと自国領土の確保と火事場泥棒だけなので
最終的に>>139のような評価になる
一応三国で最後まで残ったのは呉だったってのもなんかいい
劉備とは融和政策をしようとした。
他3人は劉備とは相入れないよな。
呉は孫策と周瑜のコンビが好きだった。
2人とも短命なのが悔やまれる。
周瑜と呂蒙はどちらかと言うと武官タイプで、魯粛と陸遜は文官タイプと言うイメージ
陸遜も呂蒙亡き後は戦に駆り出された感はあるけど、魯粛は基本的に >>145 で述べている通り
劉備とは融和政策で乗り切るつもりだったので、それが違和感に感じられるのかも
魯粛がもう少し長生きしてくれれば、蜀はもう少し変わった形で生き残れたと思う
とは言え、最終的に魏には敵わなかったとは思うけど
周瑜が自分を警戒していると知った劉備が
逆に孫権との仲をさくために
「あんな有能な奴が配下で満足しますかねー」と言ったとか
曹操が赤壁後に
「あちゃー負けたかーあの周瑜に負けたかー
まあでもあの周瑜だもんなー
うん、仕方ないよな周瑜だもんなー
なんせ周瑜だからなー」
(孫権?誰だそいつ?今回の戦いでなんもしてなくね?w)
って書いてワンチャン孫権が嫉妬して仲悪くならんかなーってやったエピソード好き
(実際はここまで極端には書いていませんがねwww)
>>152
普通に曹操が周瑜のことを知らないわけないだろ
というか攻め込むところの主要な人物について知らないとか
曹操がそんな人物だったら魏なんて成立してないよ
そして確かに調べてみたらすでに散逸したとは書かれているけど三国志江表伝には蒋幹について記載があって
曹操からの命令を受けて周瑜を引き抜きに行くもすでに見抜かれていて
自分がどれだけ孫呉に忠誠を尽くしているか話されて蒋幹もまたそれを受け入れて帰りました
って記載があるね
なんで曹操は周瑜なんて知らなかったって言ったの?
だったら>>161のいう通りだったんじゃない
別に周瑜に深い意味を持ったんじゃなくて
ただ相手の軍師と君主と仲違いしたら面白いなーとでも思ったんじゃない
そんな意固地になって曹操が周瑜と面識ないって言い張ることか?
サイボウを引き抜いた曹操は
九鬼義隆を引き抜いた信長にも通じるなど
もっとも九鬼は手甲船で一度は活躍したが、サイボウは
まあ水軍構築にその知識を遺憾なく発揮はしただろうが
まあ荊州軍の水軍と一緒に降伏したから、大半はそいつらだが
周瑜については知っていたしなんなら部下にしたいって思ってたぞ
蒋幹を使わせて周瑜を引き抜こうとしたのは史実まで一応記載あるぞ
もちろんその後文章見つけて逆に利用されたのは演義だけどな
苦しすぎるだろお前
そういう意味での面識って意味でお前ははじめに使ったのか?
お前の文脈を読むに
曹操は周瑜の価値なんて知らなかったんだからそんなこというはずないだろ
って意味にしか取れないだろうが
逆にじゃあ答えてやるわ
別に知り合いじゃなくても面識なくても有能ってことは知っていたんだろ
だから負けた腹いせに有能な人間と君主とをワンチャン離間できないかなとでも思ったんじゃねーの
>>154
記録が正しいなら
魯粛は周瑜より3歳年上、呂蒙は周瑜の3歳年下
こいつらは、ほとんど同世代と言っていい
なぜか若い周瑜が、年上をこき使ってるから世代が上に見えるけどw
単純な血縁関係だけで説明はつかない
孫策時代含め、孫一族でも粛清された奴は一杯いるんだし
政治の駆け引きのやり方がかなり格好良かった
それ以上に法正がとんでもない力持ってたとか、いろいろ説がある
周瑜は、存命時に演技の諸葛亮級の評価を受けてた人物だと思う
当然、それは積み重ねた実績を受けてのもの
弱小で大した戦力もない孫策担ぐ意味がないって話まで言い出すと
当時の江南一帯の真の支配者は周瑜だったってこと
で、その周瑜が無能ならそのまま踏みつぶせばいいじゃない
逆に跳ね返されてることの説明がつかないわw
そのわりには、本人がタヒんだあとその一族がさっぱりな感じが・・・
まあ、結局よくわからんのだが
三国志演義をベースとした横山三国志では
周瑜は水戦のみ、櫓粛は陸戦のみとかレッテル貼られてたな
まあ一応、周瑜はしばらく水軍の都督やってて、ブランクがあるから役に立たない
という表現で言いたかったのかもしれんが
呉だと孫策レベルの功績
歴史としての三国志を語りたいなら北京大学の研究成果くらい目を通した方がいい
中国内は文革で資料が残ってないから
他国持ち出しで助かったもんを再チェックしてるんやで
だから中国の研究は海外のマニアよりかなり甘い
文革で三国志関係の原本失われた例なんてないぞ
資料? 具体的に文革でどの資料が毀損された?
文化大革命で毀損されたのはむしろ史跡で三国志の資料なんて別に破棄されたりしてないぞ
誰が起原か知らんけどめっちゃ広まったデマだね
文革で歴史史料が全部失われた、というのと
中国では王朝が変わる度に全部の史書を焼くというの
何の知識もないネトウヨがよく言ってる
もうちょっというと反曹操の勢力を構成するにあたって
劉備の存在は無視できないのよね
大都督の任期とタヒ去
周瑜:約2年(病タヒ)
魯粛:約6年(病タヒ)
呂蒙:約2年(病タヒ)
陸遜:約25年(孫権のパワハラで憤タヒ)
朱然:約3年(病タヒ)
陸遜の後って朱然だったのか、陸抗にはできないわな
大都督って位は朱然で止まった
そこから先は陸抗が大司馬の位で頑張ったよ
呉の重鎮だから孫権が信頼を置きたかったんだろうけど、なにぶん老いぼれのタヒにかけだったから形骸化の大都督だったんだろ
その点については関羽は劉備の命令に従っただけだし、現代においても同様だが領土を安易に譲り渡すのは絶対にNG
関羽の不味かったところは呉を見下して必要以上に敵対したこと
おかげで最悪のタイミングで裏切られて蜀の荊州領土を失陥する羽目になった
関羽の娘と孫権の息子の結婚だって劉備にお伺いを立てた上で成立させとけば孫家との血縁関係が出来て簡単に裏切られることはなかったのに「虎の子を犬の子にやれるか」なんて喧嘩売ってんだから話にならない
荊州方面の軍司令官としては張飛の方がまだマシだったと思われる
小規模の戦闘ならしてたと思うが
しかし正史の魯粛は演義と違ってかっこいい
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/keiba/1588332160/
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